国際関係論の理論 -第6章 批判理論-

Japanese translation of “International Relations Theory”

Better Late Than Never
19 min readJun 23, 2018

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations Theory”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第6章 批判理論
マルコス・ファリアス・フェレイラ(MARCOS FARIAS FERREIRA )

批判理論は、現代国家と経済システムから人々を自由にするという考え方、すなわち解放という概念として批判的理論家に知られているものに焦点を当てた広範なアプローチを取り入れています。この考え方は、イマヌエル・カント(Immanuel Kant)やカール・マルクス(Karl Marx)などの著作から生まれました。彼らは、18世紀と19世紀に、世界がどのように並べ替えられ、変容しえるかについて、まったく異なる革命的な思想を提示しました。カントとマルクスはどちらも、普遍主義という啓蒙思想のテーマに強い愛着を持っていました。それは、あらゆる場所のすべての人々に明らかな社会的、政治的原則が存在するという見方です。近代ではこの2人は、永遠の平和のうちに住む自由な国家の連邦(カント)や、不平等な資本主義秩序を置き換えるグローバルな社会・経済システムとしての共産主義(マルクス)のような、より公正でグローバルな政治的取り決めを促進することにより、近代国家制度を置き換えることを模索する理論家たちの基礎をなす人物となりました。批判理論は、今日の世界における抑圧的な社会慣行と制度を批判し、普遍主義的な正義の原則に合致する考え方や実践を支援することによって、解放を進めます。この種の批判は、歴史的プロセスの背景に取り残された代替的な考え方や慣行から出発して、国家社会、国際関係、そして新たに出現したグローバルな社会を変えることを目指すという意味において、変革を起こすような次元を持っています。

批判理論の基礎

批判的理論は再考され、ある意味ではカント的な主題やマルクス的な主題を退けていますが、これらの著者は依然としてこの理論の系統の根底にとどまっています。批判哲学を通じて、カントは私たちが世界についての主張を行う際の条件について議論し、彼の時代のますます増加する相互接続が、よりコスモポリタンな(つまり超国家的な)政治共同体への扉を開いたと主張しました。マルクスの批判的な探求方法は、崩壊へとつながる資本主義に内在する矛盾、労働搾取の抑制、地球規模の社会関係についてのより公正なシステムの構築などを含む、工業化社会の社会発展を理解しようとする意志に基づいていました。このように、カントとマルクスの著作は、国際関係のレベルで起きていることが、人間の解放とグローバルな自由の達成に不可欠であることを実証するように収斂しています。その結果、具体的な社会的・政治的可能性や変化(既存の慣習や制度の中から生じるもの)を追跡することは、批判的思想を掲げる集団の明確な特徴となり、20世紀にマルクス的主題やカント的主題を再考する著者たちを介してIRへと取り入れられました。

もちろん、マルクスもカントも現代的な意味でのIR理論家ではありませんでした。どちらも哲学者でした。したがって、現代のIRの学問分野の中で批判理論がどのように発展したかについて、最近の2つの源泉を特定する必要があります。最初はアントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)、そしてロバート・コックス(Robert Cox)に対するグラムシの影響と生産のパラダイム(商品の生産とそれに伴う社会的・政治的関係に関わる経済パターン)です。第2は、フランクフルト学派、特にユルゲン・ハーバーマス(Jürgen Habermas)、そしてアンドリュー・リンクレイター(Andrew Linklater)に対するハーバーマスの影響とコミュニケーションのパラダイム(人間のコミュニケーションとそれに伴う倫理的原則に関わる合理性のパターン)です。批判理論家のファミリーの中で接着剤となるような、これらのアプローチを結合する2つのテーマがあります。第1に、それらは共に、社会やグローバルな政治秩序を批判し、評価する原則として解放を用います。第2に、それらは共に、歴史的な過程の中で発展する解放の可能性を探りますが、それは不可避的ではないと考えています。再分配と認識のパラダイムは、ナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)が現代の政治闘争の2つの主軸と呼んできたものに関連しています(Fraser 1995)。再分配の闘争は、階級闘争と社会的解放というマルクス主義のテーマを直接参照する一方、認識の闘争は、ジェンダー、セクシュアリティ、人種、国家の認識に結びつく自由と正義に対する願望とともに進めなければなりません。したがって、コックスは現代の再分配の闘争に焦点を絞っていますが、リンクレイターは、今日の解放のための探求の中で、経済関係よりもアイデンティティーと共同体の問題を重視しています。

コックスは、リアリズムの前提、すなわち他の社会的な力から孤立した国家間関係の研究に挑戦することを目指しています。彼は、グローバル政治を、経済、文化、イデオロギーの分野における国家、準国家、超国家の間の複雑な相互作用を通じて進化していく集団的構造と見なす必要性を強調しています。彼の目的は、現代のグローバル政治において変化が必要とされるあらゆる分野に注目することです。例えば、リアリズムが超大国と戦略的安定のみに焦点を当てるならば、それは権力と強制から生じる一連の不公正なグローバルな関係を補強してしまう結果となります。この理由からコックスは、国際関係への時代を超越する論理があるというリアリズムの主張や、グローバル資本主義の追求は有益であるというリベラリズムの主張のような「真実」は絶対的であるという考えに挑戦します。代わりに彼は、「理論とは、常に誰かのためのものであり、何らかの目的のためのものである」と主張します(Cox 1981, 128)。コックスはグラムシを参考にして、経済の領域で作り上げられた権力のヘゲモニーと階層構造によってもたらされた世界の政治システムの図を描き出しています。したがって権力は、国民国家の変容を要求する一連のグローバル化された生産関係の文脈で理解され、正当性を獲得するための物質的な要素と考え方の組み合わせに依存しています(Cox and Jacobsen 1977)。コックスは、たとえ解放が不可避ではないと認めたとしても、権力関係の変化と、より公正な世界秩序への移行を促すような経済的な矛盾を探求しています。

ハッチングスが指摘しているように(Hutchings 2001)、リンクレイターとコックスを結ぶ批判的プロジェクトは、排除と不平等のグローバルなシステムを克服するための第一歩として、世界秩序を支えているあらゆる種類のヘゲモニー的利益を明らかにします。リンクレイターの批判的プロジェクトは、何らかの抽象的あるいはユートピア的な道徳原則からではなく、ハーバーマスが開発した非道具的行為や理想的な発話(開かれた非強制的なコミュニケーション)の前提から、コスモポリタニズムを再構築することを目指しています。理想的な発話とは、開かれた対話と非強制的なコミュニケーションを通じた政治的共同体の再構築(地方から世界レベルへの)に使われる批判的な道具です。この開かれた対話と非強制的なコミュニケーションとは、それによって政治的決定による影響を受けるすべての人々が主張を提出し、合理的かつ普遍的に受け入れられている妥当性の原則という根拠に基づいてそれを正当化する過程です。この方法は、「良き生」(社会はどのようなものであるべきか)という問題と、正義の問題(社会のメンバーが、彼らの社会はどのようなものであるべきかを選ぶ方法における公正さ)に疑問を投げかけます。

したがって、解放は、抽象的で普遍的な考え方を参照して思い描かれるものではなく、特定の政治的取り決めから正当に除外され得る人はだれかと、どのような特殊性(ジェンダー、人種、言語)が特別な権利のセットを人に与えるかということについての開かれた議論のプロセスに基づいています。リンクレイターにとって、市民権の歴史的発展は、国家システムという文脈の中でだれが何の権利を持っているのかという、権利についての開かれた議論のようなプロセスの可能性と限界の両方を証明しています。市民権は、共同体内の普遍的な権利(良心の自由、移動の自由、結社の自由)を享受することを認めるような批判的な概念と一連の慣行であるとともに、脆弱な少数派に対する差別の影響を緩和し、防ぐための特定の権利を彼らに与えることにより、彼らの保護にもなります。しかしながら、他方では市民権は、人類を国家別に分類しており、したがって人間の自由の普遍的な達成に対する障壁となっています。

リンクレイターによると解放は、共同体をつなぐ結びつきについての開かれた、包摂的で、非強制的な対話によって導かれるグローバルな相互作用を求めています。これはまた、私たちの見知らぬ人に対する義務と、内部者に与えられた権利の享受から外部者をしめだすことがどれくらい公正であるかにも及びます。リンクレイターにとって答えは、世界を変えているグローバルなプロセスの影響を受けている人々の間の開かれた対話を通じて再構築された、市民権のより普遍的な概念の可能性にあります。これらのプロセスとは、非国家的な暴力(性暴力やテロリズムなど)、強制された移住、気候変動、資源枯渇などの問題です。したがって、批判理論は、より平等な形のグローバルな関係を進めるための、無力な者たちの道具として見ることができます。私たちにとってより重要なのは、IR理論の中で批判理論は、リベラリズムとリアリズムを中心とした伝統的なアプローチに対抗し、それらの根源的な主張に疑問を投げかけたり(あるいは批判したり)することによって、それらがいかにして不公正な世界秩序の不均衡を増大させているかについて光を投げかけています。リンクレイターの仕事は、近代とはばらばらな国家の競争システムをグローバルな共同体へと変えることを通じて人類の自由を達成するような潜在力を秘めた未完成のプロジェクトである、という認識によって特徴づけられます。

リンクレイターは、即時の安全保障の必要性が、限定された共同体を設立し、国家への忠誠心に基づいて行動するように人間を駆り立てることを認め、コスモポリタン的な政治の限界を認識しています。しかしながらそれと同時に、彼は、共同体の自身を定義する仕方や他の共同体と並んで生きていくやり方に対して、グローバルな相互接続性と脆弱性がその帰結を押し付けているという認識が高まっていることを強調しています。例えば、見知らぬ人との接近は、有限の惑星と有限の資源を分かち合う感覚を促し、個人が自分の国の共同体に属していない人たちに対するコスモポリタン的な責任をある程度まで好ましく思うことで国家への独占的な義務に疑問を投げかけるよう導きます。

したがって、リンクレイターは、より包括的な共同体を創造するための実用的な可能性を考案し、国際関係の行動に対して文明的な影響を与えるために、人類と市民権(「人間」と「市民」)の間に現れる道徳的緊張を探求します。リンクレイターは、限定された道徳的共同体(国民国家)の創造に向けた歴史的運動を過小評価していませんが、国家を越えた権利と義務の拡大を強化するための歴史的プロセスの可能性も見いだしています。現代の国際制度の中の国家が、人権の保護と人間の過ちを回避するための政治的な妥当性に合意することが可能であったという事実は、これらの考え方の妥当性のしるしです。

コックス、リンクレイターや他の人たちのような批判理論家を結びつけるものは、明らかに解放的な目的を持った政治的な探求です。それは、人権を拡大し、見知らぬ人に害を及ぼすことを防ぐ既存の原則、慣行、共同体から生ずる、より公平なグローバルな関係の可能性を明らかにすることを目指しています。

批判理論とヨーロッパの移民「危機」

私がハマン(Haman)のうつろな視線に割り込んだとき、私たちはギリシャのピレウスの港へと向かうブルースターフェリーのデッキにおり、彼は自分の後ろの長い夜を見つめていた。ロードスから出発して、このフェリーは最初の停泊地、コス島に到着した。そこでは、シリア戦争から逃れてきた何十人もの難民が何時間も辛抱強く列を成し、ついには船へと乗り込んだ。ハマンはその中の1人だった。戦争と彼の未来への期待とについて何時間も話した後においては、このエーゲ海のフェリーは、人間の自由への障害に悩まされてはいるものの、その実現のための資源を保持しているグローバルな共同体の隠喩であることは明らかだった。しかし、コスを後にすると、私には、誰が観光客であるのか、誰が難民であるのか、誰がギリシア人やアテネ人であるのか、あるいはそのどちらでもないのかについて、本当に何も分からなかった。そして、なぜこれらのカテゴリーがそんなにも重要であるのかに気が付いた。フェリーに乗っている人たちに共通の人間的な条件は夜にはそのまま維持されるだろうが、翌朝には、観光客は家路に向けた静かな旅を続ける一方、難民はヨーロッパをあてもなく行き来し、受け入れ場所を求めなければならないだろう。ピレウス港で、2015年8月の早朝、私はハマンに別れを告げ、彼の旅に幸運を祈った。その日は金曜日であり、彼は火曜日前にハンガリー国境に到着しなければならないこと、さもなければ、セルビア側で移民を阻止するために数日前に急いで建てられたフェンスに閉じ込められる危険性があることを知っている。彼はヨーロッパで避難所を探している彼のような人たちを何が待ち受けているかの予感の中で、「きっと、冷たいものだろう」と話す。それが私がハマンから聞いた最後の言葉だ。私は難民と違法移民の危機として欧州全域に広がっていく群衆に彼が溶け込んでいくのを見ながら、しばらくそこにたたずんでいた。

ハマンと彼の物語とのこの短い遭遇は、近年、迫害、戦争、飢饉を免れたますます多くの人々がヨーロッパのような安全な避難場所に到達しようとしているかということを思い起こさせる引き金になります。これはヨーロッパとそれを構成する国内の共同体に影響を及ぼす「危機」として主に取り組まれてきましたが、ある人たちは、人類の歴史とは平和なものであろうとそうでなかろうと、いつも移民の歴史であったことや、現在は第二次世界大戦以降いかなる時よりも多くの人々が家から追い出されていることを強調しています。批判的な視点は、戦争で崩壊した国から逃れてきた難民の安全保障上の主張は、人類全体にとっての、とりわけそれらに対処するための資源を持つ者たちにとってのコスモポリタン的な責任を構成するものと想定しています。それは、限定された共同体に対する排他的な忠誠心に訴えかけ、難民の多くのコスモポリタン的な権利(受け入れ場所と難民)を拒否するような安全保障措置のことを批判しています。重要な点は、世界がどのように国民と異邦人とが反目する道徳的緊張によって構成されているのかを単に理解することではなく、最も脆弱な人々と彼らの正当な安全保障上の懸念とを交渉テーブルにのせることにより、現在の難民「危機」に対するより公平な政治的解決策に寄与することです。より伝統的な理論とは対照的に、批判理論は、難民を生み出す暴力と不平等から離れて難民を見ることはありません。実際、批判理論は、グローバル化している世界の中のより深い経済的および地政学的構造が危害や排除を生み出すという文脈において、強制的な移住の現在の波を見ようとしています。コックス/リンクレイターの軸に沿うと、現在の移民は、個人に強制されたものであり、現在の世界秩序の副産物であるとして見られなければなりません。これらの関係の状態は、生産の有害なグローバル化と、国家建設、戦争、環境悪化の接続されたダイナミクスとを介して起こっているため、人間の理解と相互認識の可能性を排除しています。したがって、批判的視点は、世界の経済勢力とそれに関連する権力の階層構造が、いかにして世界のさまざまな地域で人々が家を離れるように強制する混乱と不安定を作り出すために共謀するようになったかを深く調べます。これは特に、グローバルな資本主義のダイナミクスが、意図しない不幸としてではなく、力そのものの働きの一環として、アフリカと中東全域でどのように失敗国家を作り出しているかを見ることを必要とします。

批判理論の主な課題は、理論を実践に結びつけることであり、実際の世界に変革という結果をもたらすことができるように理論的なレンズを設定することです。世界の危害と強制移動の起源を理解して追跡するだけでは不十分です。難民の基本的権利に対する主張を無視しない、より公平な安全保障の取り決めに達するためには、その理解を利用することが重要です。難民の「危機」についての批判的な調査を追求したいと思っている人は、グローバル・サウスの非常に多くの人々の現在の窮状の鏡像として、ハマンとシリアからヨーロッパへの彼の旅から始めたいと思うかもしれません。今日の批判理論にとって、政治、知識、グローバルな秩序は、ハマンのような人々のためのものであり、不必要な危害や不公平で均衡の取れていないグローバル化された相互作用から解放するという目的に役立つべきです。国家のような機関は、内部の者と外部の者に対するさまざまなタイプの排除をどのようにして克服するかに関して評価されなければなりません。批判理論は、難民がなぜ家を離れなければならないのか​​を他のアプローチよりも深く理解することを約束します。これは直接的な理由(シリアやその他の場所の戦争)についての知識だけでなく、権力や危害の世界的構造やそれに加担する主体(より広い地政学的利益、グローバル経済の機能、気候変動、そして共同体の人々の生活に対するそれらの影響)についての知識も作り出すことを必然的に伴います。さらに、批判理論は、ハマンの旅の道徳的帰結(何が行われなければならないか)と、ハマンの窮状に対して他人がどのような責任を負うかを検討します。

批判理論はコスモポリタン的な特徴があり、国家のことをその本質として限定された道徳的共同体として見ることを拒絶し、その代わりに国家の中に、助けを必要としている異国人を保護し、それらを国益のより広い概念に含める可能性を見出します。現在の難民「危機」の中で、批判は、やってくる難民に対する国によって承認されたさまざまな規範と実践に向けられています。1つの基本的な動きは、国際法に既に盛り込まれ、異なる社会の多くの人々や組織によって支持されているコスモポリタンな義務に対して、何が適合しており、何が適合していないかを区別することです。第2の動きは、危害から避難しようとする人々と危害からの保護を保証する立場にある人々との間で、より公平でバランスの取れた関係(「危機」への解決策)を統合することができる市民的な取り組みを促進することです。解決策は、すべての人の懸念と関心を考慮にいれた合理的な議論によって、開かれた対話の中で探さなければなりません。解決策を国の政府だけに残すことは、国益に対する政府の厳しい立場のために選択肢とはなりません。反対に、市民社会、地方自治体、欧州当局、難民自身の積極的な関与の結果として、よりバランスの取れた立場が現れるでしょう。結局のところ、欧州は欧州連合(EU)の本拠地であるため、ここでは適切なケースです。EUは、大部分の欧州国家を、比較的開放された国境を持つ超国家的な同盟へと集結させ、その中ではすべての市民がEU内の望む場所で法的に自由に働き、暮らすことができるようなプロジェクトです。移民の「危機」に対して、国境を閉鎖した国々によって進められたものよりも、より公正な解決策へと達するための既存の枠組みが欧州政治内に存在するのは明らかです。それゆえ、批判的な探求に従う人たちにとっての恩恵とは、理論は常に実践に関係しており、私たちが難民の「危機」を想起する方法は、私たちがそれに対して想定するような解決策を形作るということを理解することです。批判的な視点からすれば、政治主体が全範囲の利益をバランスさせ、関係するすべての人の権利を尊重するコスモポリタン的な基準を採用する場合、この「危機」に対するたった1つの真の解決策が存在します。

結論

批判理論の中でも非常に異なる思考が存在することを認識した上で、この章ではアプローチを狭めて、批判理論のことをグローバルな事柄の行為における解放や人間の自由を促進する特定の探求方法として紹介しています。関連する批判は、再分配と認知をめぐる闘争との両方を扇動する排除の形態を明らかにし、内在的な考え方、規範、および慣習に触発された漸進的変化の可能性を特定することを目指しています。批判的な視点から見ると、グローバルなものであろうと他のものであろうと政治の中心には、国家ではなく人々が置かれなければなりません。さらに、政治的取り決めは、解放を進める能力と道徳的境界の拡大に応じて、判断されるべきか、または批判されるべきです。批判理論は、近代に内在する自由の可能性と、グローバル化した社会とそれをもたらした歴史的プロセスにおいて手にした政治的選択肢の特定に基づいて、人間の事柄の改善に積極的な役割を果たすと想定しています。

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