芸術への入門 — 第6章 芸術を私たちの生活に結びつける —

Japanese translation of “Introduction to Art: Design, Context, and Meaning”

Better Late Than Never
41 min readOct 27, 2018

ノース・ジョージア大学出版部のサイトで公開されている教科書“Introduction to Art: Design, Context, and Meaning”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

第6章 芸術を私たちの生活に結びつける

ペギー・ブラッド(Peggy Blood)、リタ・テキッペ(Rita Tekippe)、パメラ・J・サチャント(Pamela J. Sachant)

6.1 学習成果

この章を終えたとき、あなたは次のことができるようになっているでしょう:

•芸術が社会で果たす目的を特定する。
•視覚芸術における美学の哲学を理解する。
•コミュニケーションの手段としての芸術の機能を理解する。
•建築形式がどのように宗教文化に貢献し、強化したかを理解する。

6.2 はじめに

芸術は人類の最も永続的な達成と言われています。初期の時代の洞窟生活から現代社会に至るまで、芸術は私たちの洞察を他者や自分自身を理解することへと翻訳する手段として役立ってきました。芸術の創造は、たとえば、何か美しいものを作ること、個人的な理由から(美しさとは関係なく)広く表現したり感情に訴えたりすること、創作者にとって非常に重要な概念や信念を説明すること、集団が統一されている方法を示すこと、または社会的または政治的な訴えかけをすることなどの異なる目的を持つかもしれません。これらのばらばらな目的は、共通した1つのものを有しています。それらはそれぞれ、何らかの方法で芸術を私たちの生活に結びつけようとしています。

6.3 美学

美学、すなわち美しさの原則と鑑賞についての研究は、芸術についての私たちの思考と芸術へのつながりに結びついてます。18世紀のヨーロッパにおいて、哲学者や他の思想家たちは、芸術、美しさ、喜びの相互関係に疑問を抱き始めました。ドイツの哲学者、イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は、美の鑑賞のことを「趣味の判断」として特徴づけました。この趣味の判断は、主観性と普遍性という2つの部分で構成されています。主観性とは、この言葉が示唆するように、個々の鑑賞者によって経験される喜びまたは不快の感情に基づいています。普遍性とは、共通に保持されている芸術についての見方、いわば「規範」を指します。カントは、芸術の美しさは、鑑賞者が「公平無私」であるときにのみ、すなわち鑑賞者が欲望に基づいていない喜び、または欲望を生み出す喜びを得ているときにのみ、鑑賞されることができると信じていました。もし鑑賞者の主観的判断が公平無私であれば、普遍的に妥当な趣味の尺度を与えることができます。鑑賞者が芸術の鑑賞をそれへの欲望から切り離し、その代わりに純粋な美しさや美学のために芸術に興味を持っている場合にのみ、鑑賞者は趣味の判断を達成したと言えるでしょう。

18世紀末にヨーロッパで登場したロマン主義運動の一部であった作家、作曲家、芸術家たちはすぐに、美学あるいは芸術における美の研究(彼が趣味の判断と名付けたもの)が公平無私で普遍的なものであるというカントの信念に疑問を呈しました。ロマン主義は、合理性に基づくカテゴリーと定義に背を向け、自発性、感情、個人、崇高さ、すなわち測定や説明に逆らう知的で想像力豊かな感覚を称賛しました。

ロマン主義の画家ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix、1798–1863年、フランス)は、歴史、文学、現在の出来事、そして彼自身の旅に基づいて、人間の感情と経験の極限を作品の中で表現するために彼の生涯を費やしました。ドラクロワは、厚く力強いブラシストロークで塗られた鮮やかな色彩の流れによって、キャンバスをすばやく通過する動きの波の中で、美、暴力、悲劇、そして恍惚を同じ情熱で描きました。この性質は「サルダナパールの死(The Death of Sardanapalus)」で見ることができます。ここでは、影のかかった姿のアッシリア王が、彼の前で起こっている虐殺の情景を冷淡に見渡しています。(図6.1)歴史的な証言は、サルダナパールが敵に降伏するのではなく、彼の愛妾や馬を含めて彼の所有物のすべてを破壊したことを示していますが、ドラクロワは、彼の熱狂的な解釈と、この場面の装飾とのために彼自身の想像力に大きく依存していました。

図6.1 | サルダナパールの死(Death of Sardanapalus), Artist: ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix), Author: User “Marianika”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

アメリカの哲学者、心理学者、教育改革者であったジョン・デューイ(John Dewey)は、1934年に「経験としての芸術(Art as Experience)」を著しました。ドラクロワが彼の絵画に用いたプロセスをある程度反映した方法でもって、デューイは美的経験を記述しました。しかしながらデューイは、芸術の経験は芸術の対象物から始まるものの、それはその1つの要素をはるかに超えて、「ある文明の生活の表明、記録、祝福」である経験へと結実するような、芸術家、鑑賞者、そして全体としての文化の間の継続的な交流を生み出すように広がるものであると述べています。[1]芸術や建築の作品と接したときにある人が感じる「突然の」喜びは、実際には成長と関与による長いプロセスの産物です。たとえば、盛期ゴシック様式のファサード、豪華な彫刻の装飾、極端な垂直性、広大な窓などを備えた、フランスのランス(ノートルダム)大聖堂(1211–1275年)のような壮大な建物の周りを歩き回ったり中に入ったりすることは、息をのむほど印象的なものです。なぜなら対象物(建物)と経験が融合するからです。(図6.2)さらに、私たちは、芸術や美を観察する経験から学び続けます。何が、なぜ、そしていつといった質問は、私たちが経験から、そして連続した出会いからどれだけのものを受け取るかに依存しています。

[1] John Dewey, Art as Experience (New York: Minton, Balch, and Co., 1934), p. 326.
[「経験としての芸術」、栗田修訳、晃洋書房、2010年]

図6.2 | ランス大聖堂(Cathedral of Reims), Author: User “bodoklechsel”, Source: Wikipedia, License: CC BY-SA 3.0

カントによる知性に基づいた普遍性を前提とした趣味の判断から、デューイによる芸術作品の美学はその瞬間やその後の時間の経過における鑑賞者の経験の中に見いだされるという主張への美学についての考え方の移動は、過去3世紀にわたる科学的思考と知的思考のすべての側面において起こった実質的な変化を映し出しています。彼らの理論からは、私たちは「美術」、「美」、「美学」についての考え方を検討できるし、喜び、一時的な啓発、そして人間の経験についての考え方を伝える同様の定義を考え出すこともできそうである、ということを学ぶことができるのですが、恐らくそうはいきません。

たとえば、マイアミに拠点を置く芸術家ジョナ・サーウィンスキ(Jona Cerwinske、米国)は、グラフィティアートやストリートの壁画から彼のキャリアを始め、あらゆる表面を芸術のための土台とみなしています。2007年に、彼はランボルギーニの車を有機的な形と幾何学的な線の絡み合った網状の模様で埋め尽くしました。(ランボルギーニ・アート(Lamborghini Art)、ジョナ・サーウィンスキ(Jona Cerwinske): http://www.dubmagazine.com/home/cars/item/8746-jona-cerwinske-exotic-art)この芸術作品は、公平無私な観照の一例として説明することができます。あなたは、ランボルギーニを見て、その車とそのデザインの美しさや優雅さを観照します。この場合では、車の審美的な魅力は、対象物への感嘆とそれが与える喜びから生じます。それは趣味の判断です。逆に、それは審美的な体験として説明することもできます。ランボルギーニを見ることは、おそらくその美しさ、洗練された自動車の歴史におけるその位置、またはそのような有名かつ高速な車両を所有し、運転するという考えといった喜びの応答を生み出します。この場合、美の鑑賞は、広く知的なものであり、個人の感情的な反応でもあります。

6.4 表現(哲学的、政治的、宗教的、個人的)

芸術は様々なタイプの人間の表現を促進する重要な機能を持っています。芸術の創造と鑑賞の両方は、私たちの個人的かつ集団的な感情、思考、理想、態度を述べたり肯定する手段を提供することができます。私たちはしばしば、芸術的手段によって価値観や哲学的な考え方やテーマを学びます。

19世紀後半の多くの哲学にもとづいた芸術運動の中には、自分たちのことをナビ派、つまり預言者たち、と呼ぶフランスの集団がいました。彼らが信じるところでは、芸術家としての彼らの仕事は、絵画の理想を復活させること、現代の流儀を予言すること、人生における自然の役割を想起し、新しい象徴性を創造することにより霊的な目標を支持することでした。この運動の指導者の中には、モーリス・ドニ(Maurice Denis、1870–1943年、フランス)がおり、彼はしばしば聖書や神話のテーマに彩られた風景を描いていました。(図6.3)彼の絵画は、彼の信仰の哲学と芸術における誠実さの必要性の哲学についての抽象的な表明です。空間の中で叙情的に平坦にされたしなやかな人物の姿をもって、彼は絵画の平面の二次元性を主張しており、深さの幻想を避けるようにするとともに、作品の表面と色彩の美しさを強調しています。

図6.3 | 波(Wave), Artist: モーリス・ドニ(Maurice Denis), Author: User “Dcoetzee”, Source: Wikipedia, License: Public Domain

政治的表明は、しばしば芸術的表現を与えられる形で哲学的原則に結びつけられます。アルバート・ビアスタット(Albert Bierstadt、1830–1902年、ドイツ、米国に居住)による「大平原を渡る移民(Emigrants Crossing the Plains)」のような壮大なアメリカの風景画は、そのような事例でした。(図6.4)この絵画は、19世紀の明白な運命(Manifest Destiny)の哲学と関連していました。明白な運命は、米国西部の土地の同化と天然資源の使用はそこに定住した人たちに神が与えた権利と義務であるという考え方を促進しました。本質的には、入植者(主にヨーロッパ人の子孫であった)は、一方の海岸から他方の海岸までの土地を占領し、文明化するよう運命づけられていました。この哲学は、ネイティブアメリカンの権利を奪い、メキシコ・アメリカ戦争(1846-1848年)につながった政治的行動を正当化しました。

図6.4 | 大平原あるいはオレゴン街道を渡る移民(Emigrants Crossing the Plains or The Oregon Trail), Artist: アルバート・ビアスタット(Albert Bierstadt), Author: BOCA Museum of Art, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

私たちが見てきたように、芸術の歴史は政治的表明や政治宣伝の事例でいっぱいです。古代ローマでは、皇帝アウグストゥスは非常に若く、健康な姿で肖像画に表されていただけでなく(図4.20参照)、「アラ・パキス(Ara Pacis)」のような公的な記念碑を通じて政治的議題を推進しました。(図6.5)平和の女神に捧げられたこの祭壇は、彼の多くの美徳と達成を通して市民にもたらした平和と繁栄についてのメッセージで飾られています。そこには、外国の土地の征服、ローマの神々とのつながり、最高位の祭司としての役割、帝国の礎石としての家族の推進、皇帝/元老院の統治の知恵、ロームルスとレムスによるローマの伝説的建国につながると主張される祖先などが含まれています。これらすべての絵で表現されたメッセージは、アウグストゥスと人々との関係について、彼が把握されたいと望んでいた方法を特徴づけるのに役立ちました。「アラ・パキス」はその囲い込まれた祭壇によって、アウグストゥスが最高位の祭司として行った異教の神々に犠牲を捧げる習慣についての宗教的なメッセージも伝えました。

図6.5 | イタリア、ローマにあるアラ・パキス(Ara Pacis in Rome, Italy), Author: User “Manfred Heyde”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

このような公共の芸術的表現は、時代を通じて共通していますが、個人的な信念、感傷、感情についても多くの表明があります。個人的な表明はまた、人の地位や職業を反映することもできます。画家のアデライド・ラビーユ-ギアール(Adélaïde Labille-Guiard、1749–1803年、フランス)は、肖像画における彼女自身の技能と教師としての役割によって、自分自身を社会の中で高い地位にいるものとして表現しています。(図6.6)ジョン・シングルトン・コプリー(John Singleton Copley、1738–1815年、米国、イングランドに居住)は、衣服と場面を通じて彼女の富と地位を伝えるような「エゼキエル・ゴールドスウェイト夫人(Mrs. Ezekiel Goldthwait)」の肖像画を作成しました。(図6.7)同時に彼は、テーブル上の果物に彼女の手を伸ばすことにより、13人の子供の母、才能のある庭師、植民地時代のボストンで果樹園を持つ裕福な土地所有者などの、彼女の他の業績を暗示します。

図6.6 | 2人の弟子といる自画像(Self-Portrait with Two Pupils), Artist: アデライド・ラビーユ-ギアール(Adélaïde Labille-Guiard), Source: Met Museum, License: OASC
図6.7 | エゼキエル・ゴールドスウェイト夫人(Mrs. Ezekiel Goldthwait), Artist: ジョン・シングルトン・コプリー(John Singleton Copley), Source: Museum of Fine Arts Boston, License: Public Domain

6.5 統一/排除

芸術と建築は、同じような信念や見解を持った人々の集団をひとつにまとめ、彼らが共通して持っているものを強調する手段として使用することができます。彼らがどのように似ているかを明示するにあたり、そのような物体や場所は、他者はどのように自分たちと異なるのかを示すことができ、これは異なる信念や見解を持つ人々の排除につながります。岩のドームはそのような場所です。

エルサレムの岩のドーム、あるいはクッバ・アッサフラ(Qubbat as-Kakhrah)を理解する上で、そこで起きたと同意されている出来事とその相対的な重要性が鍵となります。(図6.8)その場所、起源、過去と現在の様々な使用はすべて、そこを聖地とする異なる背景と信仰の人々にとっての神殿の意味と意義における要因です。岩のドームは、紀元691年にウマイヤ朝カリフ、すなわち政治的・宗教的指導者のアブド・アルマリク(Abd al-Malik)によってイスラム教徒の巡礼者のための神殿として完成しました。神殿が建てられた神聖な岩は、ムハンマド(Muhammad)が翼のついた馬に乗って天国に昇る場所を示しています。神殿の丘あるいはシオンの山の一部であるこの岩は、ムハンマド以前にも、ユダヤ人、ローマ人、キリスト教の信者にとって重要な意味を持つと言われています。そこは、アブラハムが彼の息子イサクを犠牲にするために準備した場所であり、ヘブライ語聖書によると、その後にソロモン神殿(第一神殿としても知られています)がそこに建てられ、次に、ペルシャ王ダレイオス1世(Darius I)の統治下で紀元前516年頃に完成したヘロデ神殿が建てられ、そして、それは紀元70年にローマ皇帝ティトゥス(Titus)のもとで破壊され、彼はその場所にユピテル神の神殿を建てました。

図6.8 | 岩のドーム(The Dome of the Rock), Author: User “Brian Jeffery Beggerly”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY 2.0

続く数世紀の間にキリスト教が拡大すると、ビザンチン帝国(330年頃-1453年)の一部であったエルサレム市街は、イエスが彼の生涯で住んだり旅をしたりしたと言われている場所を訪れる巡礼者たちの目的地になりました。しかし、この街は紀元637年にイスラム教徒の支配下に置かれ、カリフのアブド・アルマリクは、イスラム教信仰の永続的な力を誇示し、この地域でビザンチンのキリスト教の教会に対抗するために、聖地の上に岩のドームを建てたのだと考えられています。歴史の浅い信仰として、イスラム教はまだ建築形式の「語彙」を確立していませんでした。イスラム教徒の建築家や職人たちは、その代わりに、地中海と近東の既存の建築物(礼拝堂、宮殿、要塞)を借用しました。

岩のドームに与えられた霊感の1つは、同じエルサレムにある聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulcher)のドームです。これは、カルヴァリーつまりイエスが磔刑にされた場所であり、彼が埋葬されて復活した墓室つまり墓のあった場所と信じられている場所の上に、紀元325/326年に建てられました。(図6.9)2つの建物の全体的な計画は大きく異なりますが、ドームの形状と大きさはほぼ同じです。聖墳墓教会のドームは高さと直径が約69フィート(約21メートル)ですが、岩のドームの高さと直径は67フィート(約20メートル)です。岩のドームの8つの外壁のそれぞれも同様に67フィートであり、八角形の構造に相対的な比率のバランスを与えるとともに、多くのセントラルプラン式のキリスト教教会で見られるような形態のリズミカルな繰り返しを与えます。セントラルプラン式とは、主要な空間が中央に位置しているものです。(教会の内部図(Interior Diagram of the Church): https://classconnection.s3.amazonaws.com/815/flashcards/923815/jpg/picture101324161178159.jpg)

図6.9 | 聖墳墓教会の外観(Exterior view of the Church of the Holy Sepulchre), Author: User “Anton Croos”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 4.0

岩のドームは、それが建てられて以来、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ人の手の間を何度も経ています。今日、エルサレムはイスラエルの一部ですが、岩のドームはヨルダンのワクフ(宗教的信託)・イスラム問題・聖地省の中のイスラム評議会によって維持されています。2006年以来、非イスラム教徒は、セキュリティチェックポイントを通過した後、特定の時間内に神殿の丘に行くことをふたたび許可されましたが、イスラム教徒だけが岩のドームに入ることができます。正統派ユダヤ教徒一部の人はそもそも聖地を訪問することが彼らの信仰に反していると信じています。

岩のドームは、異なる宗教的信念に捧げられた建築物または一連の建物が建てられた聖地の一例です。そのような構造物はある1つの信仰に従うある1つの集団 — それ以前またはその後にその地の所有権を主張する集団とは異なる信仰に従う集団 — によって何百年も使われてきたかもしれませんし、その構造物は他の宗教制度からの礼拝堂と建築要素を共有するかもしれません。これらのことは、信者にとって必ずしも重要なものではありませんが、征服者による別の民とその宗教の打倒を象徴するために、新体制が崇拝する聖地に置き換える意図をもって神聖な建物を破壊することが、歴史の中では何度もあります。

しかしながら、重要なのは、その場所が神聖であるという確信です。その場所の神聖さは疑いもなく信じられています。それを念頭に置き、神殿の丘、岩のドーム、エルサレムの市街の長く多様で時には論争のある歴史とともに、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の信仰を持つ人々にとってそこで起こった出来事の意義を認識すると、注目に値するのは、この場所が排除の場所ではないということです。そこには緊張があり、よく言っても複数の宗教的イデオロギーが並行して存在していますが、多くの人にとっての巡礼と礼拝の場所としてのこの地の相違する意味と強い意義とを考えると、岩のドームは統一のモデルからはかけ離れているものの、それは拒絶の例ではありません。

より個人的なレベルでは、ウィンスロー・ホーマー(Winslow Homer、1836–1910年、米国)はマサチューセッツ州ボストンで生まれ、1859年にニューヨークに移住する前に版画家として彼のキャリアを開始しました。彼は自身のスタジオを開設し、フリーランスとしてハーパーズ・ウィークリー誌のために働きました。そこでは、彼と他の挿絵画家が描いたスケッチからこの雑誌のための木版画を制作していました。1861年に南北戦争が始まると、ホーマーは、この雑誌の芸術家-特派員になり、時には戦場や兵士のキャンプ、その他の報道価値のある場所の光景をとらえるために旅をしました。彼はしばしば軍隊と市民の両方の生活、戦線にいる人たちと銃後にいる人たちが経験した戦争についての非公式の物語を作り出しました。彼の画像とそれらが語った物語とは、民衆、彼らの努力、勇気、犠牲、そして国家を分裂させていた戦争の真っ只中でうわべだけは正常であることを維持しようとする試みについてでした。

素描と版画に加えて、ホーマーは1862年に南北戦争を主題とした絵を描き始めました。彼は1863年から1866年の間にニューヨークの国立デザインアカデミーで毎年行われている展覧会で、このような絵画を数多く発表し、評論家と大衆から称賛を得ました。彼が作成した南北戦争の最後の絵画の1つが、「新たな地の退役軍人(The Veteran in a New Field)」でした。(図6.10)彼は戦争が終わって、エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)大統領が暗殺された直後 — どちらの出来事も1865年4月に起こりました — にこれを描き始めました。ホーマーは農場に戻った兵士を描写しています。この兵士-農夫は、彼の北軍のジャケットを脇に投げ捨てて、鎌を手に取り、大きく水平に刈り取ることで豊富な作物を収穫しています。この静かな場面は、生、死、再生の終わりのないプロセスを思い出させるものです。ホーマーは、移行の時期に個人も国家も同様に経験していた、不安げな安堵、深い悲しみ、一時的な希望の感覚を捉えました。

図6.10 | 新たな地の退役軍人(The Veteran in a New Field), Artist: ウィンスロー・ホーマー(Winslow Homer), Source: Met Museum, License: OASC

ホーマーはこの北軍兵士の癒しを静かに求めており、ひどく分断されてはなはだしく傷ついた国の統一のための基盤を探し求めていました。彼はこの回復が、この土地で見いだされる意味の連続性と仕事の共通性とを通じて可能であると考えていました。

6.6 コミュニケーション

芸術が中心的な役割を果たした過去の社会では、人々は彼らの創造性を通じてコミュニケーションを取りました。多くの人々が読み書きができなかった社会では、彼らは言葉からよりも象徴性とイメージから理解し、学びました。このような例の1つは、1903年にクレタ島のクノッソス宮殿で考古学者アーサー・エヴァンズ(Arthur Evans)と彼のチームによって発見された「蛇の女神(Snake Goddess)」です。(図6.11)この女神は、ミノア文明(紀元前3650年頃-1450年頃)の一部で、多産の象徴であると信じられています。これは、「母なる女神」としても知られており、先史時代からローマ帝国時代まで現れる宗教的象徴です。この像の掲げた手のそれぞれに握られている蛇は、繁殖力と関連しており、定期的に脱皮するという事実のために、生の再生を象徴しています。この物体は、それが由来する文化のタイプについて私たちに教えてくれており、彼らの信念、伝統、習慣を明確に表現しています。ミノア人にとって、このイメージは彼らの共同体では容易に理解されているため、それを説明したり解釈したりする必要はありませんでした。

図6.11 | 蛇の女神(Snake Goddess), Author: User “C messier”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 4.0

中国の芸術にとって、歴史の異なる時期が、その像に帰される様々な意味に道を開きました。中国の数多くの織物、書道、陶器、絵画、彫刻、その他の物体や作品は数千年前のものですが、「中国の芸術」という記述の下にそれらをグループ化する考え方の歴史は短いです。この意味で中国での芸術は実際にはそこまで古いものではありません。これは、芸術を制作し、上流階級に対して芸術を収集し展示するという洗練された伝統が存在したにもかかわらず、中国の人々の大多数が、20世紀になるまで、つまり植民者ではなく中国人によって建設された最初の南通博物館が1905年に開館するまで、その国の芸術的遺産である加工品を理解することがなかったためです。

中国の芸術を分類することは、芸術と人々について表明することを可能にしました。この玉の圭(平板)には、異なる時期において、中国の芸術の中にさまざまな意味が読み込まれる種々の方法がよく表されています。(玉の平板(Jade Tablet): http://culture.teldap.tw/culture/images/collection/20120807_NPM/jade04.jpg)とは、階層と権力の象徴として祭式の時に支配者が保持する儀式用の笏です。研究者の蔡文雄(Tsai Wen Hsiung)によると、翡翠(玉)を使う歴史は7千年前まで遡ることができます。発掘された石器時代と新石器時代の翡翠の飾り板を見ると、装飾品のために玉を最初に彫ったのは中国人であることは明らかです。この翡翠の平板は、後期山東龍山文化(紀元前2650–2050年頃)のものです。それは山東省に位置し、資源が豊富な土地である長江渓谷地域における最後の新石器時代の翡翠文化です。この平板はその製造された時代に翡翠から作られた多数の加工品の1つであり、それらの多くは武器や道具を模していました。この翡翠の圭の平板が作られた時代には、翡翠は長江地域で入手可能なものの中で最も貴重な材料でした。

この平板は、山東龍山文化における優れた製造の職人技を表しています。石は黄色の色味を帯びており、経年変化による灰色と黄土色の自然な色合いがあります。平板の真ん中より少し下の浅浮き彫りには、典型的な平坦な見た目で示された神の定型化された顔があります。(玉の平板の詳細(Detail of Jade Tablet): http://culture.teldap.tw/culture/images/collection/20120807_NPM/jade05.jpg)そこには中国の皇帝が装飾の説明をしている18世紀の銘があります。美術史家の張麗端(Chang Li-tuan)によれば、その平板は元々平らでしたが、乾隆帝(Ch’ien–lung Emperor)の治世に、異なる年に2つの詩が刻まれました。1754年に最後の彫刻が乾隆帝によって行われました。象徴的な画像と彫刻の装飾が施された石は、中国の古代への愛を表しており、歴史を解釈することに誇りを持つ人々を描いています。それはまた、時間の経過とともにそれに言葉や画像を加えることによって作品の意味に貢献するという、中国の芸術における伝統を私たちに示しています。そうすることで、象徴性と対象物の地位の両方が増進されます。

芸術の中の象徴を通じたコミュニケーションについてのより現代的な使用法は、西アフリカ、ガーナのアシャンティの人々と、彼らやエウェ人を含むこの地域の人々によって織られるケンテの布地に見られます。この布は、絹と綿を使用して、特別に設計された織機で4インチの細長い切れを織り、それをひとつに縫い合わせています。(図6.12)ケンテの布は、伝統的に特別な儀式の際に王が着用していました。布に織り込まれた模様や記号は、他の個人のための織工では再現できない非常に個人的なメッセージを伝えました。色は、悲しみに関連した暗い色調と幸福に関連した明るい色調といったように、気分を伝えました。この布はもともと政治指導者のためのものでしたが、デザインは政治的メッセージを伝えることを意図したものではありませんでした。その布はこの文化の霊的信念を記号や色で表現したものだったのです。

図6.12 | ケンテの織物(Kente Weaving), Author: User “ZSM”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

メル・チン(Mel Chin、1951年生まれ、米国)は、彼の概念芸術の中で政治的な表明を行っています。たとえば、彼は黒い9×14フィートの蜘蛛で、帝国主義の心理的、社会的問題を探求します。巨大な、威嚇する蜘蛛の腹の中には、銀製の配膳用の盆に乗せられた1843年の磁器のティーポットを収めるガラスケースがあります。(熱望の戸棚(Cabinet of Craving): http://melchin.org/oeuvre/cabinet-of-craving)この彫像は帝国の破壊的な共依存を象徴しており、英国のビクトリア時代における茶と磁器への欲求と、アヘン戦争(1839-42年、1856-60年)へとつながる中国の銀に対する欲望を描写しています。チンは彼の政治的な表明を作成する際に間接的なアプローチを取っていますが、それにもかかわらず、それは強烈です。

6.7 抵抗と衝撃

芸術はまた、ジュアン・クイック-トゥ-シー・スミス(Jaune Quick-to-See Smith、1940年生まれ、米国)の作品に見られるように、抗議を表現する手段として私たちの生活につながることもあります。彼女はアメリカ先住民であり、しばしば皮肉を込めて、一般的なアメリカ人による彼女の同胞に対する扱い、そして特に米国政府による扱いの歴史に関して批評をしています。これらの2つの作品の原動力は、コロンブスが「新世界」を発見してから500年目を迎えた1992年の記念日でした。(交易(白人を相手に土地と交換した贈り物)(Trade (Gifts for Trading Land with White People))、ジュアン・クイック-トゥ-シー・スミス(Juane Quick-to-See Smith): http://www.chrysler.org/ajax/load-artwork/26; 米国政府の貢献によるアンサンブルを伴うコロンブス後の世界のための紙人形(Paper Dolls for a Post Columbian World with Ensembles Contributed by US Government)、ジュアン・クイック-トゥ-シー・スミス(Juane Quick-to-See Smith): http://sam.nmartmuseum.org/objects/15429/paper-dolls-for-a-post-columbian-world-with-ensembles-contri?ctx=218c5d6e-0cb0-4617-aa23-c4681bdef25b&idx=0)彼女の論評には、彼女の同胞の人々の商業化とステレオタイプ化、そして強制的な文化の変更を伴う居留地への追放や、それまで暴露されたことのなかった人々の間への致命的な天然痘の導入などの有害な影響が含まれます。彼女の素描や絵画の方法や様式はしばしば非常に単純で直接的ですが、洗練された芸術的な訓練を通して彼女が発展させてきた巧妙な技巧を示しています。

確かに、衝撃のカテゴリーは、ここで見たスミスの作品にも適用することができます。また、抗議の政治的な表明や、私たちの期待や参照の枠組みに関する批評を増強するために、現代美術において衝撃がますます使われています。ロン・ミュエク(Ron Mueck、1958年生まれ、オーストラリア)は、ハイパーリアリズムの彫刻の中で、人生と関係性とについての質問によって、繰り返し鑑賞者に挑戦しています。(マスク II(Mask II)、ロン・ミュエク(Ron Mueck): http://www.visualarts.qld.gov.au/mueck/images/MUECKron_MaskII_EXHI010912_RGB.jpg)彼はしばしば、異常に規模が大きく、予想外に脱衣しており、あるいは異常な姿勢をした人間の形態の作品を制作しており、これにより、ギャラリー訪問者、特にこれらの奇妙な作品に近づいていく人々の間に多くの驚きを作り出しています。

6.8 祝福と記念

普通の人々、支配者、およびあらゆる種類の役人の人生の特定の出来事の観察を記しておくための芸術の使用は、頻繁に見られるテーマであり、すべての時代および無数の様式で現れます。そのような出来事の提示は、芸術家が取る独特の新しいアプローチに対して、非常に効果的に注意を向けさせることができます。ほとんど独学の芸術家であったアンリ・ルソー(Henri Rousseau、1844–1910年、フランス)によって作成された、結婚式を祝う絵画が、そのような事例です。(図6.13)形式的な一点透視図法の欠如や人間の形態の単純化された扱いのような様式的特徴のために、ルソーは評論家によって素朴な画家として記述されました。しかしながら、彼の様式は、当時の芸術学校で教えられていた伝統的な方法や考え方から大胆に脱却しているとして、当時の多くのアヴァンギャルドの芸術家によって受け入れられていました。

図6.13 | 結婚式(The Wedding Party), Artist: アンリ・ルソー(Henri Rousseau), Source: Wikiart, License: Public Domain

生きている人々の悲しみを表現し、死者の思い出を保存し尊重するための芸術作品は、あらゆる時代や文化で見ることができます。葬儀の碑は、多くの時代に登場してきおり、その中のいくつかは大規模で精巧なものです。たとえば、古代ギリシャからは、高貴な女性の肖像が彫刻されている大理石の墓碑または墓標を取り上げることができます。彼女は、当時人気のあった湾曲した脚をもつギリシャのクリスモスの椅子に座っており、彼女の前に立っている若い召使いの女性から宝石を選んでいます。(図6.14)宝石は今や失われていますが、この個人、家族、そして社会全体の豊かさを表すとともに、1人の個人の死にもかかわらず、その集団にとって幸福な状態が続くであろうことを示しています。

図6.14 | ヘゲソの墓碑(Funerary Stele of Hegeso), Artist: カリマコス(Kallimachos), Author: User “Marsyas”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

6.9 崇拝

さまざまな時代を通じて、鑑賞者の生活につながる手段としての美術の最もよくある使用法とは、おそらく宗教上の目的のものです。それはしばしば崇拝の側面を伴い、それにより、鑑賞者が崇拝の機会に彼らの献身を表現するために、あるいはその意味を熟考するために神格、人物または物語を使用するように提示されます。最も形式化されたタイプの中には、ヒンドゥー教の神ヴィシュヌ(Vishnu)の化身(物理的な形態)である猪の頭をしたヴァラーハ(Varaha)などのような、礼拝される像 — 神々、聖人、尊敬される人物の画像 — があります。ここで、ヴァラーハは、女神ブーデヴィー(Bhudevi)を海に閉じ込めた悪魔を殺して、彼女を救出しています。(図6.15)彼女はヴァラーハの牙を握って空中にぶら下がっており、ヴァラーハはブーデヴィーを地上の彼女のいるべき場所に返しました。

図6.15 | ヴィシュヌを描く岩の彫刻(Rock Carving Depicting Vishnu), Author: User “Clt13”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.5

他の例としては、ヨーロッパの中世、ルネサンス、バロック(17世紀)時代の教会の中心的な焦点であったいくつもの巨大な祭壇、たとえばスペインのトレド大聖堂にある「エル・トランスパレンテ(El Transparente)」などの祭壇があります。その緻密な彫刻と金めっきは、壁と天井に戦略的に配置された開口部からさし込む自然な太陽光と相互作用します。(図6.16)そのような作品は畏敬の念を抱くように設計されており、鑑賞者/信者に信仰の秘儀の壮観な視覚的表現を提示しています。

図6.16 | スペインのトレド大聖堂にあるエル・トランスパレンテ祭壇(El Transparente Altarpiece at Cathedral of Toledo, Spain), Author: User “Tim giddings”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

6.10 情報、教育、霊感

芸術はしばしば情報提供、教育、ひらめきを与える手段として使われており、私たちが見てきた宗教作品は伝統的にこれらの目的に使用されてきました。それに加えて、私たちは、世俗的または非宗教的な目的の情報を提供するために長い間使用されてきたものや、最近登場したものなど、多くの形式を考慮する必要があります。

おそらく、その最初のものは巻物と本の形式の作成であり、その正確な日付は不確定ですが、どちらも非常に早い時期に起こりました。私たちは、エジプト人が柔軟なパピルスの茎から作られたある種の紙を作り出し、それを巻いて巻物にしたことや、ローマ人が現在使用している本の古写本の形式を開発したことを知っています。ただし、そのどちらの形式も、他の人々によって使用されてきていることも知られています。エジプト人は、紀元前3400年頃に単語や音を表現する抽象化された絵、つまり象形文字(ヒエログリフ)の書記体系を発展させました。エジプト人の間では、識字と書記の能力は高等教育を受けた書記官に限られていました。(図6.17)紀元前1世紀頃までには、ローマ人は年齢と技能の発達に基づいて等級が上がっていく段階的な教育システムを正式化しました。正式な学校教育は、一般に金銭的な余裕がある人たちに限られていましたが、教育は特定の階級や集団に限定されているわけではありませんでした。古代中国は紀元1世紀ほどの早い時期から紙や印刷法を使用していましたが、その後数世紀が経つまでそれらは西洋の世界に現れませんでした。1439年のドイツのヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gutenberg)による印刷機と可動式の活字の発明は、文字と図版の両方を複製して広く普及させることができたために、本当に重大なものでした。(図6.18と図6.19)

図6.17 | 王の書記官ホルエムヘブ(Haremhab as a Scribe of the King), Source: Met Museum, License: OASC
図6.18 | 金属の可動活字(Metal Movable Type), Author: Willi Heidelbach, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0
図6.19 | 16世紀の印刷業者の銅版画(Etching of 16th Century Printer), Artist: ヨースト・アンマン(Jost Amman), Author: User “Parhamr”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

1830年代に始まった写真撮影の登場は、情報の拡散の可能性を大幅に拡大しました。印刷物での写真の使用は、20世紀初頭に新聞や雑誌にもたらされたジャーナリズム的アプローチやドキュメンタリーの特徴を発展させ、それは現在に至るまで注目に値します。グラフィックアートは、芸術家のために、そしてまた情報の拡散のために新しい手段と新しい舞台を提示しました。もちろん、同時に、これらの手段が操作される可能性は、正確さと目的の疑わしい大量の資料の広がりをもたらしました。誤情報は情報と同じくらい容易に広がります。したがって、もしあなたが芸術から真実を求めるならば、あなたが収集する資料や考え方を批判的に評価する必要性がますます重要になります。

20世紀初頭と中頃には、私たちに映画とテレビがもたらされました。20世紀後半から現在に至るまで、視覚メディアの成長は、私たちが真実と価値に関して評価しなければならないデータに常にさらされているところまで、その可能性を大幅に拡大しました。情報を収集するとともに、情報を伝えるために芸術的な手段を使うという可能性は、今や幅広く深いものであり、私たちの視覚、思考、学習、芸術制作にとって、魅力的で強く誘惑するようなあらゆる種類の画像を提供します。

6.11 先へ進む前に

重要な概念

私たちはこの章で、芸術とは自己、個人、そして社会を反映し、伝え、解釈する鏡のようなものであることを見てきました。原始から現代までの歴史を通じて、人間はさまざまな考え方や感情を表現することができ、芸術的なしるしや構造物を作り上げることによって近隣の人々からの反応を引き出すことさえできました。それらの芸術的表現は、お互いや私たちが住んでいる世界を理解するための主要な源でありつづけています。それは、多くの異なる方法や様式で、ある人々の実践的なこと、抽象、文化的や美学的なことを伝えてきました。上で私たちが注目したように、イマヌエル・カントは、美しさや美学、そしてその実用性のことを、芸術の範囲を理解するための体系的な方法として特徴づけました。私たちは、芸術は道具的な分野であり、社会がその環境やその好みおよび/または信念を解釈、制御、修正、または適応させる強力な社会的または政治的な力となり得ることに気づきました。例としては、ジュアン・クイック-トゥ-シー・スミスの「500周年の非祝賀」の政治的・社会的表明やジョナ・サーウィンスキのグラフィティーや壁画、あるいはアルバート・ビアスタットとモーリス・ドニのロマン主義的で神聖な美的様式、アシャンティのケンテ布の中の文化的アイデンティティーの風俗表現と彫刻家ロン・ミュエクのハイパーリアリズムの作品、初期の時代では、イスラム教徒、ユダヤ教徒、カトリック教徒などに代表されるいくつかの多様な宗教集団によって聖地と特定され、認識されており、これらの集団のすべてが強力な芸術的メッセージを伝えるようなイスラム教の構造物である岩のドームのような聖地が含まれます。以下のもののそれぞれが、そしてすべてが、コミュニケーションのための芸術的な構造を通して、似たような信念や見解を持っている人々を1つにまとめあげます:創造性(独創的で、オリジナルで、想像力に富む考え方の実質)、傾向(特徴、気質、形式的な構造の質、配列)、様式(何らかの反応を送るような特定の資源と物理的な属性とを伝達し、届ける)。

自分で答えてみよう

1.種々の芸術において、写真の発展はどのようにして社会的意識と気づきに影響を与えましたか?例を挙げてください。変化と影響について論じ、示してください。

2.歴史的に、しるしは、異なる文化に宗教的メッセージを伝える手段でした。メッセージを伝達するために使用された少なくとも3つの異なる初期の宗教的な芸術形式を特定し、論じてください。そのメッセージについて説明するとともに、文字で書かれた形あるいは画像という芸術家の様式によってそれがどのように影響を受けているかを説明してください。

3.歴史を通じて人々はどのようにして彼らの生活の中での出来事を記念するために美術を使用しましたか?画像の例を示し、芸術家の様式や出来事の描写の提示について詳しく述べてください。

6.12 重要語句

美学:美しさの原則と鑑賞についての研究。

アラ・パキス:ローマの平和の女神パクスに捧げられた、ローマの囲い込まれた祭壇。

加工品:通常、歴史的な重要性を持つ、人間によって作成された道具、武器、装飾。

アヴァンギャルド:革新的で、実験的で、規範とは異なる、あるいは最先端の芸術作品。

化身:ヒンドゥー教の神ヴィシュヌの物理的な形態。

ブーデヴィー:ヒンドゥー教の地の女神で、ヴィシュヌの化身であるヴァラーハの聖なる妻。

セントラルプラン式の教会:これは、キリストの十字架を参照するために象徴的です。その円形、十字形または多角形のデザインは、4世紀より後に西方および東方で人気がありました。

圭:階層と権力の象徴として祭式の時に支配者が保持する儀式用の笏。

象形文字:単語や音を表現する抽象化された絵。

ケンテ布:特別な儀式の際にアシャンティの王が着用した絹と綿で織られた布。

クリスモスの椅子:古代ギリシャで人気のあった、湾曲した脚をもつ椅子の様式。

ナビ派:1890年代のフランスにおけるポスト印象派のグラフィック・アーティストと美術家の運動。

新石器時代:石器時代としても知られており、先史時代における人間の文化の進化の最後の段階です。それは、磨製の石の道具、建築物の広がり、巨石建築、動物の家畜化によって知られている時期です。

クノッソス宮殿:クノッソスにあるミノア人の最初の記念碑。それはミノス王朝の所在地であり、彼はそこから統治しました。

山東龍山文化:山東省竜山にちなんで名付けられた中国中部の新石器文化。この文化は黒い陶器の生産で知られています。

碑:墓標。

ヴァラーハ:サティヤ・ユガ(真理の時代)における猪の形態をしたヒンドゥー教の神。

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