芸術への入門 — 第8章 芸術とアイデンティティー —

Japanese translation of “Introduction to Art: Design, Context, and Meaning”

Better Late Than Never
62 min readOct 27, 2018

ノース・ジョージア大学出版部のサイトで公開されている教科書“Introduction to Art: Design, Context, and Meaning”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

第8章 芸術とアイデンティティー

ペギー・ブラッド(Peggy Blood)、パメラ・J・サチャント(Pamela J. Sachant)

8.1 学習成果

この章を終えたとき、あなたは次のことができるようになっているでしょう:

•芸術家がアイデンティティーの概念を探求する方法に名前をつけて分類する。
•芸術が社会についての注釈としてどのように役立つかを理解する。
•政治と社会的関心がどのように芸術に影響するかを分析する。
•芸術がどのように個人とグループのアイデンティティーを表現するかを理解する。
•芸術がどのように国の文化と個人のアイデンティティーを保つかを理解する。

8.2 はじめに

ここ1世紀の間に出現したさらに重要なテーマの1つは、個人によるアイデンティティーの探求です。たとえば、家系についてのウェブサイトが急増しており、特別なテレビ番組がこの主題に充てられています。2012年にPBSで最初に放映されて以来、ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア(Henry Louis Gates Jr.)の「ファインディング・ユア・ルーツ(Finding Your Roots)」は人気のある番組となっています。英国版の「ザ・ガーディアン(The Guardian)」も2006年以来、成功しています。

人類学者の中には、アイデンティティーや祖先に対する深く根付いた関心が、拡大家族集団でお互いを支えていた初期の人間の頃にまでさかのぼる進化的な力によって部分的に形成されていることを示唆する者もいます。人類学者のドワイト・リード(Dwight Read)は、新石器時代の人々が家系の概念と家族単位の中や社会の中における自己の認識を最初に理解したことを理論付けています。[1]血を介してつながっている場合、人々はよりお互いに気遣おうとする傾向があります。一族や集団内では共通の関心と支援システムが容易に実現されます。

[1] Ghose, Tia (Oct. 26, 2012). Why we care about our ancestry, Live Science. http://www.livescience.com/24313-why-ancestry.html

初期の人類は、彼らの集団の他のメンバーとの関係において、彼らが何者であるかを理解するのに役立つように、自分の環境に二次元または三次元の自分自身の似姿を作り出しました。現代人も同じことをします。彼らは、家族といる自分自身の記録、最も一般的には写真や自撮りをインスタグラム上で作成します。それは、私たちが社会の中で何者であるか、たとえば、社会的な集まり、組織、宗教的な環境などの中で何者であるかを集合的に特定するような環境におけるものと同じ基本的な概念と配置です。これは、アイデンティティーを得るためには、何よりもまず私たちは自分自身を世界の中に置かなければならないということです。子供たちは、両親や家族を観察して認知することによって、非常に幼い時期にアイデンティティーを探します。自分と家族の単純な絵 — 初期の人類のものと似た — の中の彼らのしるしは、彼らが何者であり、どのように家族の集団によって知覚されているかを立証し、確認するのに役立ちます。

子供たちと同じように、芸術家は時に、祖先や文化に関連するような芸術作品の中で象徴的に、あるいは自己の肖像画を通して、自分のアイデンティティーを探ることがあります。そうすることで、彼らは自分の核の内部を見て、彼らが現代の文化の中にどのように収まるかを見ることができます。この自己の探索は、芸術家がどのようにして環境と世界を理解するかにおいて重要な役割を果たします。

フィンセント・ファン・ゴッホは、人生の多くの時を孤独に過ごした人として知られています。彼は1886年から1889年の間に30以上の自分の肖像画を描き、すべての時代の中で最も多作な肖像画家となりました。実際に、彼の最も尊敬されている作品のいくつかは、彼の人生の最後の年月を通して彼のイメージをたどる自画像であり、彼の経歴にとって最も重要なものです。(図8.1、図8.2、および図8.3)ファン・ゴッホは自身のイメージの習作を芸術家としての技能を養うのに役立てるために用いましたが、これらの自画像はまた、この芸術家の生活や幸福、社会にどのように適合しているか、彼が関わっていた集団の中の彼の場所などについての洞察を私たちに与えてくれます。

図8.1 | 麦わら帽の自画像(Self-Portrait with Straw Hat), Artist: フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh), Author: Met Museum, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図8.2 | 画家としての自画像(Selt-portrait as a painter), Artist: フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh), Author: Web Museum, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図8.3 | 耳に包帯をした自画像(Self-portrait with a bandaged ear), Artist: フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh), Author: The Courtland Institute of Art, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

ファン・ゴッホのように、パブロ・ピカソは数々の自画像を描きました。彼のキャリアを通して、ピカソは、自身の変化、彼の様式、彼の芸術的発展、そして彼のライフスタイルと信念を反映した様々な似顔絵を描きました。そのすべてが彼の絵画の内容から注意深く見てとることができます。(図8.4、図8.5)最初の自画像は、1901年にフランスのパリで芸術家としての名声を確立しつつあるものの、まだスペインのバルセロナで活動していた時に描かれたものであり、青の時代(1901–1904年)の陰鬱な様相と調子を反映しています。2枚目のものは、1906年というばら色の時代(1904–1906年)のまさに最後のものであり、ピカソは自分自身のことを、その時までに芸術界にやってきて、尊敬を集め、後援者を獲得している芸術家として描いています。

図8.4 | 自画像(Self-portrait), Artist: パブロ・ピカソ(Pablo Picasso), Source: WikiArt, License: Public Domain
図8.5 | 自画像(Self-portrait), Artist: パブロ・ピカソ(Pablo Picasso), Source: WikiArt, License: Public Domain

フリーダ・カーロ(Frida Kahlo、1907–1954年、メキシコ)は、彼女自身と、18歳の時のバス事故で数多くの怪我を負い、その後の彼女の人生の不可欠な部分になった痛みとを描くために、メキシコの伝統についての絵を用いました。彼女は、メキシコの文化と祖先を持つ彼女の国の集団のメンバーとして、そして女性のジェンダーに属するものとして自己を特定しました。カーロの自画像は劇的で、血まみれで、荒々しく、時には明らかに政治的です。(自画像、フリーダ・カーロ: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/1/1e/Frida_Kahlo_%28self_portrait%29.jpg)彼女はルーツを求める中で、独立した文化的アイデンティティーのためにもがいている自分の国に対する懸念を声に出しました。彼女は、自身の芸術を通して彼女の国と人々に話しかけました。カーロの芸術は、彼女の公的な信念や個人的な苦しみに触発されていました。彼女は、自身の芸術が彼女の意識から話し出すことを望んでいました。

今日の自画像は、過去数十年間のものとは若干異なるかもしれませんが、それでもやはり、私たちが何者であるかを伝えるような、社会や集団を通じた自己探求とアイデンティティーを描いています。蔡國強(Cai Guo-Qiang、1958年生まれ、中国、米国在住)は、少量の火薬を爆発させて自分のイメージを作り出しました。(自画像:隷属させられた魂(Self-Portrait: A Subjugated Soul)、蔡國強(Cai Guo-Qiang): http://www.caiguoqiang.com/sites/default/files/styles/medium/public/1989_SelfPortrait_0389_001ltr-web.jpg)ファン・ゴッホ、ピカソ、カーロとは異なる蔡の自画像は、彼の個人的な特徴に似たり類したりはしていませんが、しかし、この自画像もまた、私たちの社会についてや蔡がどのように私たちの社会と関係しているかについてのメッセージを送っています。たとえば、彼は、彼を匿名にするような識別情報の欠如と現代社会とを関連付けるとともに、火のついた火薬と混乱や変容とを関連付けています。

初期の人類と現代の人間とを隔てる時間的な距離にもかかわらず、社会の中の彼らの場所や彼らが何者であるかの探求は、歴史の中のどの時間にいるかに関係なくすべての人間にとって魅惑的で、謎のまま残っています。

8.3 個人 VS 文化集団

芸術家のことを考えるとき、しばしばそのイメージはアトリエで孤独に仕事をしている人です。18世紀後半のロマン主義時代から1850年代後半までは、芸術家、作家、作曲家は個人主義や単独での仕事と結び付けられていました。この傾向は近年まで発展し続けました。ロマン主義の時代は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)、フレデリック・ショパン(Frédéric Chopin)、ロベルト・シューマン(Robert Schumann)、ジョン・キーツ(John Keats)、エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)、メアリー・シェリー(Mary Shelley)など、音楽や文学の天才たちの個性的な独創性を評価し、称賛しました。視覚芸術は、フランシスコ・ゴヤ、ウジェーヌ・ドラクロワ、ウィリアム・ブレイク(William Blake、1757–1827年、イングランド)、アントワーヌ-ジャン・グロ(Antoine-Jean Gros、1771–1835年、フランス)などの天才を誇っていました。(図8.6と図8.7)この期間の芸術家たちは、伝統や大衆に人気のある意見を受け入れるのではなく、芸術家の感情や個人的な想像力、独創的な実験を表現するというロマン主義的な価値観を実証しました。当時の芸術家は従来のルールを破りました。実際には彼らは、規則を破り、伝統を打倒することが望ましいと考えていました。

図8.6 | オーベロン、ティターニア、パックと踊る妖精たち(Oberon, Titania and Puck with Fairies Dancing), Artist: ウィリアム・ブレイク(William Blake), Author: Tate Britain, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図8.7 | アブキールの戦い、1799年7月25日(The Battle of Abukir, 25 July 1799), Artist: アントワーヌ-ジャン・グロ(Antoine-Jean Gros), Author: User “DcoetzeeBot”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

しかしながら、中世からバロック時代にかけては、芸術家たちは工房やギルドで一緒に働いており、厳密かつ体系的な芸術的訓練を通して遺産と歴史を保存することの重要性を強調した学校が形成されていました。大規模な委託はしばしば、作品を完了するために数多くの手を必要とし、共同作業を強調していました。それにもかかわらず、芸術作品は一貫した様式と職人技の性質を持つことが期待されていました。これらのさまざまな必要性を満たすために、芸術家はしばしば特定の種類の主題に特化しました。たとえば、ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens、1577–1640年、ドイツ、フランダース在住)と、ヤン・ブリューゲル(父)(Jan Brueghel the Elder、1568–1625年、フランダース)は、25年以上にわたって20以上の絵画を共同制作しています。(図8.8)「バラの花飾りの聖母(Madonna in a Garland of Roses)」では、寓意的な画家として褒め称えられていたルーベンスの技術が、聖母マリアの穏やかに輝く顔と元気にはしゃぎまわる天使たちの中に見られ、それらを囲う花の円形のアレンジメントは、活気にあふれた自然の風景のために知られていたブリューゲルによって、精巧さと繊細さをもって描かれました。

図8.8 | 花飾りの聖母(Madonna in a Garland of Flowers), Artist: ピーテル・パウル・ルーベンスとヤン・ブリューゲル(父)(Peter Paul Rubens and Jan Brueghel the Elder), Author: The Bridgeman Art Library, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

イェール大学の研究者による最近の研究では、今日における高品質の芸術に対する認識とは、それが単一の個人によって生産されることであることが見出されました。壁画や公衆による作品プロジェクトのように2~3人で作った場合、芸術の価値は低下します。したがって、創造的な作品にとって、品質に対する認識は、努力の総量ではなく、個人性の認識に基づいているように見えます。それにもかかわらず、世界全体での一般的な新しい傾向は、ルネサンス期に西洋で最初に起こったこの伝統が世界中で規範であるわけではないことを示唆しています。つまり、個人的にかつ単独で芸術を制作する単一の芸術家に依拠する芸術の価値は、より具体的には特定の文化に基づいているのかもしれません。21世紀の芸術家は、ソーシャルメディアや直接の出会いを通じて、他の人と協力しています。「芸術」という言葉が、「結合」する、あるいは組み合わせることを意味する語源から派生しているということを思い出してみるのも興味深いことです。何世紀も前の工房の伝統と同様に、芸術の慣習的な方法や高度な技術を学ぶために、芸術家がグループで居住したり見習い制度に参加したりすることにより、非常に多様な考え方や実践がネットワークとコラボレーションを通じて実現できます。

8.3.1 国家

現代のナイジェリアの南部地域にあり、エド人が住むベニン王国は、オーバ、すなわち神聖なる王たちの継承によって支配されていました。その国は、オーバのエウアレ大王(Oba Ewuare the Great、在位1440–1473年)の治世中に都市国家から帝国へと成長しました。オーバたちは、1440年から、イギリスに占領される1897年まで王国を統治しました。特筆すべきことに、オーバとベニンの人々は、外国に支配される以前は、19世紀の後半になるまで、彼らが取引していた国々の支配者からの干渉を受けることなしにヨーロッパ人との取引関係を管理し続けていました。ベニンの街は繁栄し、ポルトガル、オランダ、イギリスとの貿易によって成長しました。

海を旅する商人-船乗りと取引する利点の1つは、彼らがもたらす品物の多様性であり、彼らはエドの人々によって栽培され、加工された食料品と交換することに熱心でした。特に、エド人は真鍮や珊瑚を、象の狩りを通して得た象牙とともに宝物としています。それらの材料は、オーバと彼の宮廷へと振り向けられ、それぞれの支配者の下で作られたさまざまな儀式と聖なる物に豊富に使用されていました。王権は父親から最初に生まれた息子に渡され、新しいオーバは王位に上がると、父のための真鍮製の祭壇と、もし母が王母の地位を与えられていたときには母のための(一般的には象牙の)祭壇を作ることが期待されました。新しいオーバはまた、先代を敬うために真鍮の頭像を作りました。(図8.9)時間とともに、飾り板、鈴、仮面、収納箱などの物体や、真鍮や象牙で作られ、珊瑚で飾られた追加の祭壇が加えられました。重大な出来事を記念して英雄を称えるために使われたものもありましたが、大半の王室の物品は、オーバ、彼の祖先と臣民、そして王権そのものを儀式的かつ象徴的に支持するために使われました。

図8.9 | オーバの頭像(Head of an Oba), Source: Met Museum, License: OASC

たとえば、この19世紀のオーバの真鍮の頭像は、王個人の肖像であることを意図するものではなく、むしろ王であることの神聖な性質と力を表しています。オーバは超自然的な力との相互作用や、それを支配することから彼の力を引き出します。彼は儀式、捧げ物、および犠牲を通して彼が尊敬する神聖な祖先と同盟を結び、助力を得ます。途切れることのない鎖という点において王権と彼の正当な場所との連続性を強調することにより、オーバは彼自身の力と国民や国の力を強めます。

王国の福利は、オーバの頭の上にのしかかっている重い負担であり、それは彼の上にある重みを帯びた大量の物体を利用した表現において強調されています。(オーバのエレディアウワ(Oba Erediauwa): https://olivernwokedi.files.wordpress.com/2015/02/10993492_326911840841133_1374574355846860660_n.jpg)しかし、彼は単独で支配の重荷を負うことはありません。彼は、彼を支える顧問と臣民と共に働き、彼らを頼ります。オーバが完全な儀式の盛装をまとったときに、そのような支えが文字通り示されます。現在のオーバのエレディアウワのこの写真では、王は珊瑚のビーズで飾り立てられ、象牙でできたブレスレットと腰の飾り板をつけた王家の服装で登場しています。彼の右腕を支える従者は、オーバのエレディアウワがエド人の国家を代表して王権の重荷を負うのを助けています。

チャールストン市議会は1791年5月、ジョージ・ワシントン(George Washington)のサウスカロライナ州チャールストンへの来訪を記念し、「平和と自由と独立の恩恵のために多くを負っているこの人物の思い出を後世に引き継ぐ」ことを目的として、ジョン・トランブル(John Trumbull、1756–1843年、米国)に、大統領でありアメリカ革命戦争(1775–1783年)の英雄の等身大の肖像画を描かせることにより、この国家的な英雄を祝賀することを投票で決めました。[2]独立戦争中にワシントンの副官であったトランブルは、いくつかの直近の敗北の余波の中で落胆した植民地軍にとって重要な戦闘であったトレントンの戦いの開始時の、揺るぎない威厳のある将軍の姿としてワシントンを描写することに決めました。(図8.10)この絵画は、暗闇の中で空に広がった雲が昇ってくる太陽によってピンク色に変わる様子と、それと並置された、進行中の戦闘におびえて補佐官によって手綱を引っ張られている将軍の馬が描かれています。ワシントンは自信を持って立ち、手袋が外された右手には望遠鏡を握っており、まるで遠く離れた勝利の報に耳を傾けているかのように遠くを見つめます。

[2] George and Martha Washington: Portraits from the Presidential Years, exhibition, National Portrait Gallery, Washington, DC, 1999, accessed July 6, 2015, http://www.npg.si.edu/exh/gw/trenton.htm

図8.10 | トレントンのジョージ・ワシントン(General George Washington at Trenton), Artist: ジョン・トランブル(John Trumbull), Source: Art Gallery at Yale, License: Public Domain

トランブルは、「トレントンの戦いを前にしたジョージ・ワシントン(George Washington before the Battle of Trenton)」で彼がとらえた「彼の生き生きとした表情の気高い表現、勝利するか滅びるかという強い決意」に満足していました。[3]しかし、サウスカロライナ州の後援者たちはそうではなく、1792年に彼がその肖像画を提示したときにそれを受け取ることを拒否しました。チャールストン市民を代表する形で、サウスカロライナ州選出の下院議員ウィリアム・ラフトン・スミス(William Loughton Smith)は、「近年の彼にみられる静かで、穏やかで、平穏なもののような、より実際に即した肖像であれば、この市はより満足したであろうと思う」と述べました。[4]

[3] Ibid.
[4] Ibid.

これは孤立した出来事ではありませんでした。政治家や軍の英雄をどのように表現すべきかという問題は、18世紀のアメリカ合衆国創設前後の頃には、芸術家や後援者が満足するようには解決されていませんでした。代表制民主主義として、この国の指導者は、最高司令官であり、また人民のひとりとして描かれるべきだと多くの人が主張しました。しかし残念なことに、アメリカの芸術家は、例として使用するヨーロッパ王室や国家元首の肖像画の中には「実際に即した肖像」の明確なモデルを持っていませんでした。イングランド王の宮廷画家であったアンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck、1599–1641年、フランダース)は、1635年頃に「狩りをするチャールズ1世(Charles I at the Hunt)」を描きました。(図8.11)ダイクが君主の画像のために採用した、自然の中に出かけた紳士の堅苦しくないがしかし堂々とした姿勢は、非儀式的な肖像画の中で貴族や他の要人たちが好んでとる姿になりました。トランブルが「トレントンの戦いを前にしたジョージ・ワシントン」を描いた時にもこの姿勢はまだ規範として残っていましたが、その絵画の受け止められ方に示されているように、民主国家の指導者の表現としては適切ではないと考えられました。さらに、その肖像画はワシントンのチャールストン訪問を記念して描かれたので、町の人は戦闘の場面をその町の眺めに置き換えるべきだと考えました。

図8.11 | 狩りをするチャールズ1世(Charles I at the Hunt), Artist: アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck), Author: User “Tetraktys”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

トランブルは彼の後援者の望みに注意を払い、別のバージョンを描きました。(トレントンのジョージ・ワシントン将軍(General George Washington at Trenton)、ジョン・トランブル(John Trumbull): https://www.flickr.com/photos/35801169@N00/6612343749)ワシントンの姿勢はほとんど変わらないままですが、トランブルは空を明るくし、この町がかなたの海岸に見えるチャールストン湾の景色を挿入しました。チャールストンの指導者たちは満足し、トランブルは若干の追加の後に絵を届けることを約束しました。その追加とは元の絵画とは反転した将軍の馬であることが判明し、ワシントンの鮮黄色のズボンや彼の歩行杖と、馬の足の隙間に見える遠い町との間に、その後四半部が目立つように描かれていました。この絵画はまだチャールストン市庁舎の歴史評議会室の壁にかけられています。

8.3.2 文化遺産と民族的アイデンティティー

文化的および民族的アイデンティティーの重要な側面の1つは、共有された歴史や共通の記憶です。そのような歴史は私たちの遺産です。しかしながら、遺産は完全な歴史ではありません。それは、社会や個人としての私たちが何者であるかや、私たちが何者になってきたのかについての完全な物語を伝えるために、文化や民族へとつながります。自己や国家のアイデンティティーはその基盤の上に構築されます。用語を定義することは、個人や国家としての私たちが何者であるかを識別するにあたり、それぞれがどのように相互作用するのかを理解するために役立つでしょう。

文化に関する現代の作家として人気のあるクリスチャン・エラース(Christian Ellers)は、アイデンティティーのことを、特定の国、民族、宗教、組織、またはその他の立場のいずれであるかを問わず、ある人が彼ら自身を区別するような何らかのものとして定義します。アイデンティティーは、自分自身を定義するための多くの方法の1つです。エラースは、民族のことを、共通の言語、共通の遺産、または文化的な類似性など、なんらかのつながりまたは共通の特性を通常は有する集団として定義します。アメリカン・ディクショナリー(The American Dictionary)では、文化のことを、特定の人々の生活様式として、特にお互いに対する通常の行動、習慣、態度や、あるいは道徳的・宗教的信念の中に示されるようなものとして、定義しています(「文化」の項)。私たちは、これらの用語を、社会の視覚的なドキュメンタリー作家である芸術家に関連させて見ていきます。

多様な領域にわたる概念芸術家のキムスージャ(Kimsooja、1957年生まれ、韓国)は、彼女の韓国文化のルーツを探究することによって、集団のアイデンティティーを反映しています。彼女はメッセージを伝えるために、布地などのよく知られた日常的なアイテムを選択することによって、伝統と歴史を描きだします。「ボタリ」として知られる束状に包まれた布地は、韓国の文化において日常の物を輸送したり、運んだり、または保管するために一般的に使用されています。異なっている点は、キムスージャの芸術形態としての布地の使用です。1991年以来、キムスージャは、進行中のシリーズ「演繹的物体(Deductive Objects)」において、時にはボタリの形態で布地を使用してきており、彼女の人生と経験に関連させて、韓国の民俗習慣、日常の一般的な活動、そして彼女の文化的背景と遺産を探求しています。(ボタリ、トラック移住者「私は戻ってくるでしょう」(Bottari Truck-Migrateurs, “Je Reviendrai”), ティエリー・デパーニュ、ジェホ・チョン(Thierry Depagne and Jaeho Chong): http://farm8.staticflickr.com/7368/12236788126_2d99de3e56_z.jpg) この例で彼女は、民族、文化、およびアイデンティティーを隠すように韓国のプリント布をまとった人物たちを撮影しました。彼らのアイデンティティーは鑑賞者の想像力に任されており、彼らの文化は布地のプリントを手がかりとして鑑賞者が考察する余地が残されています。

キムスージャのような多くの芸術家たちは、自分たちの文化や民族に関連して自分たちが何者であるかについて、彼らの芸術を通してコミュニケーションをとることを選択しました。彼らの芸術は、自分たちの自己のアイデンティティーを検証する手段になります。彼女の韓国の遺産は、彼らが共通の芸術的感性を持つ人々であり、独特の文化であるということを記念する象徴の宝庫を表しています。彼らの国家的な自己像は、あるレベルでは、領土的、民族的、文化的アイデンティティーの収束によって明確に定義されています。朝鮮半島の地理的条件は、創造的で革新的であるための豊富な資源を備えた自己完結型の航海および大陸の環境を提供します。これらの条件は、先史時代から、いろいろなものを引き出せるような、そして人類に対して貢献するような豊かで独特な文化を人々に与えてきました。韓国人はその同質的な文化、そしてその遺産に大きな誇りを持っています。

同様に自己完結しているロシアもまた、何世紀にもわたって文化的特徴と民族的アイデンティティーを独自に発達させました。鮮やかな民族衣装から精巧な宗教的象徴や教会に至るまで、ロシアの豊かな文化遺産は視覚的に驚くべきものです。(図8.12)ほとんどのロシア人は東方正教会(キリスト教)の宗教であると認識していますが、ユダヤ教、イスラム教、仏教もまたロシアで実践されており、多様な民族集団や文化のための肥沃な土地になっています。モスクワのクレムリンの敷地にある聖ワシリイ大聖堂と、他の数百の正教の教会がロシアの遺産を象徴しています。実際に、市民は誇らしげに彼らの家やオフィスに大聖堂の絵を置いています。ロシアの教会は驚嘆するほど美しく、正真正銘のロシアの遺産の一部です。

図8.12 | 聖ワシリイ大聖堂、モスクワ(St. Basil Cathedral, Moscow), Author: User “Ludvig14”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

皮肉なことに、そのような豊かな内部の歴史を踏まえると、なぜロシアの支配者たちは、18世紀に新しい芸術的アイデンティティーを発展させるために、西欧の芸術家や芸術的伝統のほうを向いたのでしょうか?

1716年にロシアのサンクトペテルブルクに移住したイタリアの彫刻家カルロ・バルトロメオ・ラストレッリ(Carlo Bartolomeo Rastrelli、1675–1744年、イタリア、ロシアに居住)は、ロシアの「新しい」文化の形成に関連付けられています。若手の芸術家であったラストレッリは、経済の落ち込みの中、出身地のフィレンツェからパリに移り、より大きな機会を求めました。彼がパリで制作した後期バロック様式の豪華で荘厳な作品は、彼が求めた成功を彼に与えることはありませんでしたが、ツァーリ(そして後の皇帝)ピョートル大帝(Peter the Great、在位1682–1725年)の注意を引き、ピョートル大帝は彼と彼の息子のフランチェスコ・バルトロメオ・ラストレッリ(Francesco Bartolomeo Rastrelli、1700–1771年、フランス、ロシアに居住)をロシアの宮廷へと誘いました。

ピョートル大帝は、彼が24歳になる1696年まで、兄イヴァン5世(Ivan V)、および他の家族と共同統治していました。当時、ロシアはまだ内部の宗教的、政治的、社会的、文化的な伝統に強く結びついていました。ピョートル大帝は、軍隊の構造から貴族の子弟のための教育まで、彼の国のすべての側面を近代化し始めました。ツァーリは西欧を広く旅し、政府の改革を実施し、そこで目にした文化的規範を採用しました。彼が宮廷の生活、ファッション、文学、音楽、芸術、建築、さらには言語にさえも行った徹底的な変化のモデルはフランスであり、フランス語は18世紀の間、宮廷で話される言語になりました。

カルロ・バルトロメオ・ラストレッリと息子フランチェスコ・バルトロメオ・ラストレッリは、ロシアの文化遺産やアイデンティティーに取って代わる新しい慣習と様式をロシアに紹介する助けとなる画家、彫刻家、建築家たちの一員でした。たとえば、カルロ・ラストレッリによるピョートル大帝の肖像の胸像は、彫刻家であり建築家のジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini、1598–1680年、イタリア)によるフランス王ルイ14世(French King Louis XIV、在位1643–1715年)の肖像の胸像に、様式的に酷似しています。(図8.13と図8.14)ベルニーニが1665年にパリを訪れた際に作成した胸像は、ルイ14世を洞察力がある堂々とした指導者で、彼の衣服のひだを波打たせる風のような人間存在の予測のつかなさよりも文字通り上を行っているものとして示しています。カルロ・ラストレッリのピョートル大帝の肖像は、ピョートル大帝の死後の1729年に完成し、アウグストゥスのようなローマ皇帝たちの像(図3.23参照)へとさかのぼるような、頭の持ち上げ方や遠くを見渡すような目、軍服の着用といった意匠を通して絶対的な権威を示す同様の伝統を引き継いでいます。

図8.13 | ピョートル1世(Peter I), Author: User “shakko”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0
図8.14 | フランス王ルイ14世の胸像(Bust of Louis XIV of France), Artist: ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini), Author: User “Coyau”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

彼の息子のフランチェスコ・バルトロメオ・ラストレッリは、バロック様式の建築家でもありました。1721年に、彼は21歳で最初の皇帝の委託を受けましたが、彼は主として、1725年のピョートル大帝の死去後に設計した贅沢で印象的な建物によって知られています。サンクトペテルブルクの近代化と変革を続ける中で、フランチェスコ・ラストレッリの構造物は、バロック様式の豪華な盛り上がりや、18世紀のロシアのロマノフ家の統治者たちと関連しています。フランチェスコ・ラストレッリの最も有名な建物の1つは冬の宮殿で、これもまたあるフランスの宮殿に様式的に酷似しています。その宮殿とはヴェルサイユ宮殿であり、これは建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau、1612–1670年、フランス)とジュール・アルドゥアン-マンサール(Jules Hardouin-Mansart、1646–1708年、フランス)によって、ルイ14世のために建設されたものでした。(図8.15および図8.16)

図8.15 | 冬の宮殿、サンクトペテルブルク(Winter Palace, St. Petersburg), Author: User “Florstein”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 4.0
図8.16 | ヴェルサイユ宮殿(Versailles), Author: Marc Vassal, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

8.3.3 性別/ジェンダーのアイデンティティー

ケヒンデ・ウィレイ(Kehinde Wiley、1977年生まれ、米国)は現代の肖像画家です。彼は彼の作品の中で、トランブルがジョージ・ワシントンの肖像画で行ったのとほとんど同じようなやり方で、以前の巨匠たちによって使用されていたポーズやその他の構成要素を参照しています。ウィレイは、彼が自分の絵を描く際に借りた以前の作品を認識するよう鑑賞者に知らせ、両者を比較し、以前の作品の意味を彼自身のものに重ね合わせるよう促しています。しかしながら、ウィレイの絵画の登場人物と以前の肖像画家たちのためにポーズをとっていた人たちとの間には強いコントラストがあるため、この比較はしばしば複雑な意味の織り交ぜを作ります。

ウィレイの2008年の絵画作品「蛇に咬まれた女(Femme piquée par un serpent)」(蛇に咬まれた女(Femme Piquée par un Serpent), ケヒンデ・ウィレイ(Kehinde Wiley): http://hyperallergic.com/wp-content/uploads/2015/03/Wiley-NewRepublic.jpg)は、フランスの彫刻家オーギュスト・クレサンジェ(Auguste Clésinger、1814–1883年、フランス)による同名の1847年の大理石の作品に基づいています。(図8.17)クレサンジェの甚だしく官能的なヌードが展示されたとき、公衆も評論家も憤慨し、そして魅了されました。19世紀のヨーロッパとアメリカの芸術では、女性のヌードを描写するための正当化として作品の主題を使用することは珍しくありませんでした。たとえば、もし主題が道徳的な物語や古典的な神話の場面であった場合、それはヌードの人物を示すための受け入れ可能な理由でした。クレサンジェの彫刻では、女性がみだらに身もだえしていることの口実は、女性を取り巻くバラと結びついた蛇の咬合であり、それはただ単に好色な裸の描写ではなく、愛や美がその絶頂において失われたという寓意を示唆することを意図したものでした。不運なことに、このモデルは、実際の人物アポロニー・サバティエ(Apollonie Sabatier)であると容易に認識されました。彼女は、作家シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire)の愛人であり、当時の芸術家や作家の間でよく知られていた高級売春婦でした。クレサンジェは人間の形態の技巧的な研究として自分の彫刻を擁護しましたが、同時代の女性の特徴と体を使用したことで、彼の彫刻の鑑賞者たちはこのイメージがあまりにもリアルであるとして異議を唱えました。ウィレイの絵画は反対です。それは明らかに1人の人物の肖像画であることが意図されていますが、彼は服を着ており、どういうわけか背中を鑑賞者に向けて寝転んでいる一方、肩からこちらを見るように振り向いています。ウィレイは彼の絵画で、クレサンジェの人物像の伸ばした腕や捻った脚と胴体を保持していますが、彫刻の女性の後ろに投げ出された頭や閉じられた目は、男性の振り向いた頭や幾分いぶかしげな視線で置き換えられています。

図8.17 | 蛇に咬まれた女(Femme Piquée par un Serpent), Artist: オーギュスト・クレサンジェ(Auguste Clésinger), Author: User “Arnaud 25”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

ウィレイはその姿勢とその意味(みだらさ、露出、脆弱性、無力感)を取り上げ、主題が完全に服を着た黒人男性の場合には一見すると意味がないような文脈の中でそれらを使用しています。それとも意味はあるのでしょうか?女性のヌードを描写するための慣行を使用することによって、ウィレイは私たちに対して次のことを検討するよう求めています:垣間見える褐色の肌と、ずり下がったジーンズの上の白いブリーフでエロティシズムは示唆されているものの、人物が服を着ているときには何が起こるのか?若い男がオープンな好奇心の無防備な表現をもって鑑賞者を見ているときには何が起こるのか?黒人男性がその身体を柔弱な、潜在的に攻撃される可能性がある姿勢で提示しているときには何が起こるのか?この芸術家は、これらの意味の並置を用いて、アイデンティティーと男性性という私たちの概念に挑戦します。ウィレイは、何百年も前の肖像技法の伝統を取り入れるように彼の視覚的な語彙を拡大することにより、(男性の)身体的性格とセクシュアリティーについての現代的な慣習と対立する若い黒人男性を描いています。

ジェンダーアイデンティティーについての考え方、すなわち人が生物学的性に関係なく識別するジェンダーは、科学的かつ社会的に発展しており、近年、多くの文化においてより複雑でより流動的になってきました。しかしながら、他の文化の中では、男性または女性に加えて、伝統的に第3のジェンダーがあり、ジェンダーの流動性は何千年もの間、社会の構造の一部となっています。たとえば、古代ギリシャ人の間では、男性と女性の両方の性別特性を持つ個体である両性具有者は、「第3の超越的ジェンダー」を生み出す「より崇高で、より強力な形態」と考えられていました。[5]サモアでは、アイガ、つまり拡大家族の中での人の役割がとても強調されます。伝統的に、アイガの中で家庭を適切に運営するだけの十分な女性がいない場合、または特に家庭生活に惹きつけられている男の子がいる場合、彼はファーファフィーネ(fa’afafine)あるいは「女性のやり方」で育てられます。ファーファフィーネは、出生時には男性ですが、男性的および女性的な行動特性を呈する第3のジェンダーとして育てられます。

[5] Aileen Ajootian, “The Only Happy Couple: Hermaphrodites and Gender” in Naked Truth: Women, Sexuality and Gender in Classical Art and Architecture, ed. Ann Olga Koloski-Ostrow and Claire L. Lyons (New York: Routledge, 1997), 228.

インドでは、第3のジェンダーの人はヒジュラー(hijra)として知られています。そこには、宦官(去勢された男性)、両性具有者、トランスジェンダー(ジェンダーアイデンティティーと割り当てられた性別とが一致しない場合)を含みます。ヒジュラーの役割は伝統的に霊性に関係しており、彼らはしばしば神々または女神たちの信奉者です。たとえば、ヒンドゥー教の女神バフカラ・マーヤのヒジュラーたちや信者は、しばしば宦官であり、自らの男性性を神に捧げるために自主的に去勢しました。他のヒジュラーは主流の共同体の一員として暮らし、彼らが参加し祝福を授けるために招かれる、出産や結婚式などの宗教的な祝賀行事でのみ女性を演ずるための服を身に着けます。

ヒジュラーは東南アジアの多くで数千年にわたり尊敬されていた第3のジェンダーでしたが、英国の支配下にある間に19世紀後半のインドで彼らの地位が変わりました。20世紀の間、多くのヒジュラーたちは、彼らが受けていた嫌がらせや差別から逃れ、財政的な安全性を確保するために、グル、つまり指導者の保護のもと、自分たちの共同体を結成しました。2014年、インド最高裁は、ヒジュラーが第3のジェンダーとして公式に認定されるべきだと裁定し、50万~200万人と推定されるこの人たちの教育および職業上の機会を劇的に良い方向に変えました。[6]

[6] http://www.npr.org/sections/parallels/2014/04/18/304548675/a-journey-of-pain-and-beauty-on-becoming-transgender-in-india

テジャル・シャー(Tejal Shah、1979年生まれ、インド)は、写真、ビデオ、インスタレーション作品でよく活動しているマルチメディアアーティストです。彼女は2006年に「ヒジュラー・ファンタジー・シリーズ(Hijra Fantasy Series)」を始めました。(ヒジュラー・ファンタジー・シリーズより南のサイレン — マヘシュワリ(Southern Siren — Maheshwari from Hijra Fantasy Series), テジャル・シャー(Tejal Shah): http://tejalshah.in/wp-content/themes/tejalshah/lib/timthumb.php?src=http://tejalshah.in/wp-content/uploads/2011/10/Image-03.jpg&w=0&h=197&zc=1)ここでは「(3人のヒジュラーが)自分自身の個人的な幻想を上演しているタブロー」を作り出しています。[7]シャーは、それぞれの女性たち — 彼女たちはみな、男性から女性へと移行しました — が、他の人の認識や予測とは別に、どのようにして自分自身のセクシュアリティーを思い描くのかに興味を持っていました。シャーが述べるように、「『南のサイレン — マヘシュワリ(Southern Siren — Maheshwari)』では、主人公は、典型的な男性ヒーローとの情熱的でロマンチックな出会いの真っ只中で、南インドの映画の古典的なヒロインとして自分自身を思い描いています。」[8]

[7] Tejal Shah, Artist Statement, Hijra Fantasy Series, accessed July 7, 2015, http://tejalshah.in/project/what-are-you/hijra-fantasy-series/
[8] Ibid.

このタブロー、つまり演出された光景では、マヘシュワリはインドの伝統的なひだのあるガウンである青いサリー、すなわち称賛と欲望の対象によって華麗に着飾っているものとして自分のことを見ています。シャーは、この写真とこのシリーズの他の作品において、創造的なプロセスに完全に参加しているそれぞれのヒジュラーが、主流の起源からの視覚的手がかりとタイプ(この例ではインドの大衆文化など)を使用することによって、彼女自身の気持ちを表現していることが注目に値すると思いました。それぞれのヒジュラーがどのようにして彼女自身を表現するかは、性別やジェンダーアイデンティティーにかかわらず、普遍的な人間の幻想なのだとシャーは考えました:「美しく、華やかで、強くあること、家族を持つこと、愛を与え、そのお返しに愛を与えられること。」[9]

[9] Ibid.

8.3.4 階級

マリア・ルイサ・デ・パルマ(Maria Luisa of Parma)は、ヨーロッパの王族の中でも最も上流の社会のメンバーでした。彼女は、イタリアのパルマ公フェリペ(Phillip, Duke of Parma)と、彼の妻でありフランス王ルイ15世の長女でもあるフランスのルイーズ・エリザベート妃(Princess Louise-Élisabeth of France)との間の最年少の娘として、1751年に生まれました。1765年に、彼女は後にカルロス4世となるアストゥリアス公(Prince of Asturias)と結婚しました。彼女は夫が王に即位した1788年から、カルロス4世がナポレオンからの圧力で退位した1808年まで、スペイン王妃でした。

王族の結婚は、忠誠心を育み、同盟を強固にすることを意図していました。花嫁と花婿は一般的に、長い交渉が完了し、結婚式の日が近づくまで、お互いに会うことはありませんでした。将来の夫婦の肖像画を交換することは珍しいことではありません。交渉者やその他の人たちの説明に加えて、芸術家の表現は、旅行が容易あるいは迅速に行うことができなかった時代に、配偶者がどのように見えるかを知る唯一の方法でした。彼らの婚約に際して、1765年にローラン・ピショー(Laurent Pécheux、1729–1821年、フランス)は、マリア・ルイサ妃の婚約者の家族のために、このマリア・ルイサの肖像画(図8.18)を描きました。

図8.18 | マリア・ルイサ・デ・パルマ(Maria Luisa of Parma), Artist: ローラン・ピショー(Laurent Pécheux), Source: Met Museum, License: OASC

「マリア・ルイサ・デ・パルマ(Maria Luisa of Parma)」には、蓋の中に将来の夫の小さな肖像画を収めた嗅ぎたばこの箱を右手に持った、14歳の花嫁となるべき人が描かれています。この詳細は、正式な婚約の肖像画の定式でした。描かれる人は、相手の婚約者に対する生まれつつある愛情を表現するために、この精巧に作られた高価な小物のような贈り物を手にしています。さらに、彼女の豊かで教養のある家族的な背景を示すために、マリア・ルイサは、繊細で手作りのレースの丈で飾られた絹のブロケードのガウン、ダイヤモンドがちりばめられた胸ぐらから下げられた星十字勲章のメダル、彼女の髪粉の振りかけられた髪の上のダイヤモンドの星、といった室内の装飾の中でポーズをとっています。これは確かに王女の似姿ではありますが、この肖像画は彼女の目の色や鼻の形よりはるかに多くを伝えることを意図したものです。この肖像画は、彼女が結婚相手にもたらす威信と力、そして彼らが得る相互に有益な資産の美しさと価値に関する花婿の家族への祝辞についての表明なのです。

マリア・ルイサのドレスは、その視覚的な表明における感嘆すべき点です。彼女は、マントゥアまたはア・ラ・フランセーズ(フランス様式)のローブとして知られる、正式な宮廷の行事のためのドレスの様式を着用しています。このドレスは、絹のブロケードで、金の帯とピンクの花があしらわれたクリーム色の部分のバンドとが交互に並んで織り込まれています。おそらくフランスで作られたこの非常に高価な布は、パニエ、つまり左右に伸びた棒、金属または鯨の骨で作られた扇形のフープの上に広がっています。パニエは、水平的であるものの平坦なシルエットを作成し、膨大な量の壮麗な布地を完全に見せつけることを可能にしました。そのようなガウンを着用することは、自分の富と地位の宣言であり、自分の振る舞い、つまり自分の態度と行動のしるしでした。そして、そのような厄介で、制限的で重い衣服を身に着けつつ、18世紀の社会で高貴な生まれの女性に期待される優雅さをもって立ったり動いたりするのは、本当に難しいことでした。しかしながら、マリア・ルイサは、王にとって完璧な配偶者であるように、落ち着き払って魅力的な人として描かれています。

フランシスコ・ゴヤがこの肖像画「パニエを身に着けたマリア・ルイサ(Maria Luisa Wearing Panniers)」を制作したのは、ピショーによる肖像画の24年後、マリア・ルイサが38歳となり、10人の子供を出産し、そのうち5人がまだ生きてい時です。(図8.19)1789年、フランシスコ・ゴヤはカルロス4世とマリア・ルイサの宮廷画家に任命され、カルロス4世の王位への即位を祝賀するための王の肖像画とともに、この王妃の肖像画も作りました。年月もゴヤもマリア・ルイサに優しくはありませんでした。(1771年から1799年の間に、彼女は14回出産をして、そのうち6人は成人に成長し、また10回の流産がありました。)

図8.19 | パニエを身に着けたマリア・ルイサ・デ・パルマ(Maria Luisa of Parma Wearing Panniers), Artist: フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes), Author: Prado Museum, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

ゴヤの描写では、彼女は以前の肖像画よりもさらに服装が豪華になっていますが、彼女の凝った贅沢な衣装は、女王の外見とは不釣り合いな対照を与える役目を果たすだけです。ゴヤはマリア・ルイサを、堅い箱型のトンティーリョ(スペインにおけるパニエの変型)に対応するために腕を両側で不自然にこわばらせた形で描いています。彼女の簡素で無表情な顔の上には、レース、シルク、そして宝石で複雑に構成された帽子が、ほとんど滑稽な様で乗せられています。この帽子は、1780年代の女性のファッションのけばけばしい流行を表しており、ゴヤは質感や表面の広がりを素晴らしい技能と感度で描きましたが、女王の帽子と彼女の特徴のコントラストは、彼女の富と階級にもかかわらず、彼女が粗野で洗練されていないように見せかけます。

宮廷画家がスペイン王妃マリア・ルイサをありのままの表現で描いたことは、どのように説明できるのでしょうか?彼女は、嫁ぎ先の国に住んでいた年月の間、宮廷のメンバーや臣下たちに慕われたわけではありませんでした。王が狩りを好んでいたことを考えると、国の運営はうぬぼれが強く短気なマリア・ルイサの肩に大きくのしかかりました。実際に、ゴヤの表現は、この見立てに反するものではありません。彼女の贅沢で優雅な服装と、マリア・ルイサの右にあるローブと王冠 — 王妃としての彼女の地位の合図 — に重点を置くことは、彼女が文字通り最高位の儀式服に触れる人であることを表しています。この作品と約25年前の彼女の婚約の肖像画は、彼女を1人の人物として描写するというよりも、むしろそれらは、彼女の地位とその役割の力や威信を伝える手段だったと言えます。

1864年、オノレ・ドーミエ(Honoré Daumier、1808–1879年、フランス)は、「三等客車(The Third-Class Carriage)」において、威信の別のしるし、あるいはその欠如を描きました。それはウィリアム・トーマス・ウォルターズ(William Thomas Walters)によって委託されたシリーズの3つの絵画の1つでした。(図8.20)他の2つの絵画は「一等客車(The First-Class Carriage)」と「二等客車(The Second-Class Carriage)」であり、後者はこのシリーズの中で唯一の完成品と考えられていました。(図8.21と図8.22)米国の実業家で芸術収集家であるウォルターズはこの後、この3つの絵画を含む彼のコレクションの作品に基づいて、メリーランド州ボルティモアにウォルターズ美術館を設立することになります。

図8.20 | 三等客車(The Third Class Carriage), Artist: オノレ・ドーミエ(Honoré Daumier), Source: Met Museum, License: OASC
図8.21 | 一等客車(The First Class Carriage), Artist: オノレ・ドーミエ(Honoré Daumier), Author: Walters Art Museum, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図8.22 | 二等客車(The Second Class Carriage), Artist: オノレ・ドーミエ(Honoré Daumier), Author: Walters Art Museum, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

ドーミエがこの作品群を制作したときまでに、彼は40年にわたって画家、版画家、彫刻家として多産な活動をしてきていました。彼は生涯のうちに約5000点の版画、500点の絵画、100点の彫刻を作成することになります。彼のキャリアの初めから、彼は近代都市生活への工業化の影響、貧困層の窮状、社会的平等の探求、そして正義のための闘争に興味を持ちました。彼は、政治や政治家への強烈な風刺と、現在の社会や出来事に関するもう少し辛辣さを抑えた皮肉な注釈で特に知られていました。彼が選んだ主題 — 日常の人々、現代の生活 — と、そして彼がそれらを描く際の、直接的で、裏表のない、誠実な方法のために、ドーミエは写実主義の運動や様式の一部とみなされています。

「三等客車」では、この芸術家は、4人の人物を前景に並べ光を当てるとともに、多数の個性のない人物たちが背景にひしめいている様を提示しています。赤ちゃんをあやしている若い母親、手を組んで座っている老女、そしてポケットに手を入れて眠っている少年は、4つの世代だけでなく、人生のさまざまな段階を包含しています。乗客はお互いにすぐ近くに座っていますが、それぞれは孤立しているように見えます。少年を含む彼らは、おそらく都市内の仕事に行くか帰ってくる途中で、身体の姿勢と顔の表情の両方が長時間の重労働の疲労を伝えています。ドーミエは、単調な仕事の繰り返し以外に何もない生活を送るこれらの労働者に対して、同情を示しています。

産業革命は、18世紀後半より以前にヨーロッパや米国の多くに存在していた農業主体の社会を永遠に変えるものであり、田舎から都市の生活へ、農場から工場へと人々の移行をもたらす機械化と製造業の始まりです。産業的な、金銭を基盤とする社会への移行は多くの人の生活を改善し、私たちが今日知るような中流階級を創造しましたが、ドーミエは、他の人たちが後ろに取り残され、少ない教育、未熟練労働、低賃金のサイクルの中に本質的に閉じ込められていることによく気づいていました。

この芸術家は、3つの絵画のそれぞれにおける窓を塗る方法と光の使用を通して、階級に基づいたさまざまな人生の期待を表しています。「三等客車」では、前景の人物たちは、画面の外側の左側にある窓から彼らに向かう光を浴びています。背景にも窓がありますが、窓の外側には何も見えません。ドーミエは、見られるべきものは何もないこと、特に文字通り窓が存在しない場合にはそうであることを暗示しています。「二等客車」では、景色が窓から見え、人物の1人が熱心に眺めています。他の3人は、外の世界には何の注意も払わず、冬の衣服に身をくるんで、暖房のない車両の中で寒さをしのごうとしています。しかし、流れゆく景色を見ようとして体を前に傾けている男性は、より若年に見え、おそらくビジネスの世界をより熱心に受け入れて、上へ登っていくことができます。これは、彼が身に着けている、この時代の公務員と事務員の都市生活に結び付けられる山高帽によって示唆されています。「一等客車」では、乗客はすべてきびきびとしており、みなそれぞれの事柄に従事しています。1人の若い女性は緑の風景を見ています。彼女の軽量な上着を考えると、これは春頃の光景だと思われます。これはまた、2人の女性のおしゃれな帽子のカラフルなリボンによっても示唆されています。リラックスした姿勢と落ち着きのある表情で、一等客車のこれらの乗客は自信を持っている印象を与えます。彼らは、二等客車または三等客車の乗客よりも、彼ら自身と世界の中における彼らの場所について安心しています。

8.3.5 集団への所属

歴史は、人間が集団として機能し、集団的な支援と相互作用を可能とするときに、人間の生存の質が最も良くなることを示唆しています。社会心理学の研究によれば、集団に所属する人々は、心理的および肉体的により強く、ストレスの多い状況に直面したときによりうまく対処できることが示されています。集団の相互作用を研究する社会心理学者グレゴリー・ウォルトン(Gregory Walton)は、個人が受ける利益の1つに、(集団、文化、国家、あるいは)何らかの共通の関心と願望を共有する大きな共同体へ属することの満足感があると結論づけています。集団の団結は、メンバーの類似点や、彼らを結びつけた歴史に基づく経験をすることを通して達成されます。

歴史を通して芸術家は、彼らの利益を保護し、その理念を推進し、彼らを集団として、または個人として宣伝するような、集団、運動、および組織に関連付けられています。たとえば、イタリアにおけるルネサンス時代に最もよく知られた集団は、カトリック教会やその他の宗教団体、裕福な商人の家族、市民や政府の団体、芸術家のギルドを含むギルドに属する人々でした。(図8.23および図8.24)

図8.23 | 「サンプリング・オフィシャルズ」として知られるアムステルダム織物商組合の幹部たち(The Syndics of the Amsterdam Drapers’ Guild, known as the “Sampling Officials”), Artist: レンブラント(Rembrandt), Author: Google Cultural Institute, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図8.24 | ハールレムの聖ゲオルギウス市民隊幹部(Officers of the St. George Civic Guard, Haarlem), Artist: フランス・ハルス(Frans Hals), Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

8.3.6 個人的なアイデンティティー

現代のシリアにあたるパルミラの都市は、地中海と極東の間のシルクロードを旅する貿易業者のためのキャラバンの停留地だったため、長く西洋と東洋の政治、宗教、文化の影響の岐路にありました。紀元1世紀には、この都市はローマの支配下になり、ローマ人のもとで街は繁栄し、芸術は栄えました。紀元273年にパルミラのゼノビア女王(Queen Zenobia)が反乱を起こした後、ローマ皇帝アウレリアヌス(Roman Emperor Aurelian)はこの都市を破壊し、ローマの支配の期間を終わらせました。

パルミラ人、あるいはパルミラの人々は、死者のために、永遠の家と呼ばれる3種類の精巧で大規模な記念碑を建てました。1つ目は塔墓で、高いものは4階建てにもなりました。2つ目は地下埋葬室または地下に埋める墓で、3つ目は神殿または家の形で建てられた墓でした。これらすべてが同一の拡大家族の多くの世代によって使用され、死者の町ネクロポリスに設けられました。私たちは今日、これを墓地と呼びます。墓の中には、、すなわち小さく分けられて、それぞれが個々の石棺、つまり石の棺桶を形作るような空間がありました。墓の開口部の中で、最初の石棺は一族の創始者の遺骨を納めました。それはしばしば、彼のことを宴会に出席し他の人を招いているかのように描いた石の浮き彫りの彫刻に面していました。室の創始者を囲む、それぞれの家族のメンバーの石棺には、そこに葬られた人のそれぞれの浮き彫りの肖像が向かい合わされています。(室(Loculi): http://romeartlover.tripod.com/Palmyra5.html)

この碑は、父親、息子、そして2人の娘の肖像であり、ローマ支配の時代の紀元100~300年のどこかにまで遡ります。(図8.25)男性は円とひし形の中に花のモチーフが飾られたソファーにもたれかかっています。彼は右手にブドウの房を、左手にはソファーの上のものと似た花で飾られたワインの杯を持っています。背景では、彼の2人の娘が息子の両脇に立っており、この息子はブドウと一羽の鳥を手にしています。息子と娘はみな首飾りを着用しています。さらに、娘たちは服のひだを保つように左肩にブローチをつけ、イヤリングをさげています。それぞれの娘が身に着けているキトン(つまりチュニック)と、ヒマティオン(つまり外套)は、グレコ・ローマン風の服と類似性がありますが、彼女たちの頭を覆う装飾されたベールの様式は、パルティア人、つまりペルシャ人の様式に基づく地元のタイプの覆いです。また、2人の男性も地元の衣服を身に着けており、それぞれに装飾的なへりが付いた、緩やかなフィット感のチュニックとズボンを着用しています。男性用と女性用の両方の衣服に見える装飾されたへりによって示唆されている上質な布地は、このパルミラ人たちが身につける様々な宝飾品の中の貴金属と宝石の豊富な使用と同様に、貿易から得られる財貨と富を示しています。したがって、この碑は、グレコ・ローマン様式とパルミラ(そしてより広くはパルティア)様式と文化的な影響の混合物です。

図8.25 | 葬儀の浮き彫り(Funerary Relief), Source: Met Museum, License: OASC

多くのパルミラ人の墓碑には、アラム語とラテン語の両方で文章が刻まれていて、その人の名前と系図、個人的および家族的特徴に特有のしるしを与えてくれます。パルミラ人の芸術の特徴である、正面を向いて目を大きく開いた人物の描写の多くは、特徴の個人化をほとんど示していませんが、そのような碑文との結合は、それぞれの碑がその中に葬られた人の特徴を表示することを意図した明白なしるしとなっています。その人物たちは鑑賞者と積極的に関わり、個人のアイデンティティーは、個人的、社会-文化的、霊的、歴史的な影響の融合であることを思い起こさせてくれます。

2015年7月、パルミラ市、その住民、そしてその芸術はふたたび危険にさらされました。2015年4月、イスラミック・ステート(ISIS)勢力は、3000年におよぶアッシリアの都市ニムルドを奪取し、その建物と芸術を破壊しました。2015年5月21日、ISISはパルミラ市を奪取し、ニムルドで行ったように建物と芸術を破壊する恐れを生じさせました。2015年7月2日、ISISが、ここで議論したものと同様の墓碑を破壊したと報道されました。(墓碑の浮き彫り(Grave Marker Reliefs), http://www.timesofisrael.com/is-destroys-iconic-lion-statue-at-syrias-palmyra-museum/)彼らは、パルミラに約2000年前に住んでいた人々の胸の高さまである浮き彫りを6つ並べ、そしてそれらを打ち砕き、それぞれの人物の視覚的および文字的な記録を抹消しました。多くの人々は、困難を乗り越えて生き続けることを望みながら、後世のために肖像を作ってきました。そして、それこそが私たちが芸術を必要とする理由です。芸術は私たちに、自分自身と自分たちの行い、自分たちが何者であるかや、どのように他人を特定するのかについての記憶を与えてくれます。

8.4 先へ進む前に

重要な概念

国家と個人のアイデンティティーは魔法のように生じることはありません。それらは直近のあるいは過去の出来事、環境、伝統、文化遺産に基づいて構築され、影響を受けています。芸術家は、ある社会の物理的条件だけでなく、感情的および精神的条件をもとらえて、記録します。彼らは、私たちが何者であったのか、私たちが人として、そして国家として何者であるのかの感覚を構築します。社会のアイデンティティーは常に流動的です。私たちがアイデンティティーを静的なものであると考えるときには、私たちは人々をステレオタイプで記録し、彼らが何者であるかを見ることはありません。芸術とは、鑑賞者によく知られておらず、彼らを教育し、彼らが以前に保持していた概念に挑戦するような視覚的な物語に鑑賞者を関与させることにより、アイデンティティーの静的な概念に挑戦する1つの方法です。

1970年代以降、ポストモダン理論は、アイデンティティーを多面的、流動的、社会的に構成されたものと見なすモデルを開発することによって、民族的および文化的アイデンティティーの歴史的・伝統的概念に挑戦してきました。一部の学者は、私たちはポスト・アイデンティティーとポスト・エスニシティーの時代にいると主張して、アイデンティティーに関する古い本質論的な見解を否定しています。人、インターネット、旅行のグローバル化はすべて、流動的な文化をもたらしました。これは、人々のアイデンティティーに対するより流動化した感覚と、彼らの遺産、文化、民族的アイデンティティーの研究への関心に貢献しました。遺産は、個人、国家、国民にとって宝であり誇りの象徴です。多くの芸術作品は、市民が過去を理解するのを助けるため、国家遺産の一部とみなされています。芸術は、見て、触れて、中を歩き回り、遺産と文化の一部として識別することで、過去に生命を与えます。

自分で答えてみよう

1.表面上では、キムスージャの芸術は単純に見えますが、その下では隠喩的な表明を作り出す伝統についての謎があります。たとえば、彼女の芸術形態としての布地の使用は、彼女の文化と歴史に対する親密さと尊重を喚起します。作品が個人的かつ歴史的な表明を構成する芸術家を、少なくとも2人識別し、論じてください。あなたのエッセイに関連するそれぞれの画像を参照する際には、具体的に行ってください。(最低500単語)。

2.歴史を通じて多くの状況で、芸術家は社会問題の文脈に直面するよう強いられてきました。ある出来事や話題を最もよく描写する芸術作品を、少なくとも2つ選択してください。その話題に関連する問題と、その出来事と芸術がどのように国家や国民の遺産やアイデンティティーを形作ったかについて論じてください。その作品が伝える力を説明し、その作品の意義と、その作品がどのようにしてメッセージ、そしてその期間における人々のアイデンティティーを伝えるかについて論じてください。エッセイの終わりで、あなたがなぜその芸術作品を選択したのかと、あなたがその芸術作品をどのように考えるかを解説してください。(選択した作品にキャプションを付けてください。)この質問への答えはこの章全体にあります。

3.歴史を通じて、権力、精神性、不健全さを象徴するような形で建造物が建設されました。構造物は、社会の道徳、価値観、政治、宗教、社会的条件を導き、影響を及ぼし、形成する機関を収容します。社会のアイデンティティーや文化を最も象徴する4つの構造物を選択してください。国家への影響、国家への意義、どのようにしてその構造物が国家的または個人的なアイデンティティーに寄与するかについて、その影響を説明してください。エッセイの終わりで、なぜその構造物を選んだのかとその建物の美学を論じてください。(選択した構造物にキャプションを付けてください。)

4.個人または国家のアイデンティティーを最もよく表す4つの芸術作品を比較して、対照させてください。芸術家がその人物や国家の特徴をどのように捉えることができるのかを具体的に論じてください。エッセイの終わりで、なぜその作品を選んだのかと、その作品の意義を付け加えてください。(選択した作品にキャプションを付けてください。)

8.5 重要語句

バロック様式:17世紀初期にイタリアで生まれた建築と芸術の様式。

ボタリ:運搬のために衣服、布地、および/または物品の周りを包み、結ぶ布。

墓碑:石または木製の厚板で、一般に横幅よりも高さのほうが高く、通常はギリシャの墓地に葬儀や記念の目的の記念碑として建てられたものです。

地下埋葬室:先史時代の地下の埋葬地。

印象派:画家、彫刻家の匿名協会と名乗る芸術家の集団により、19世紀後半にフランスで発展した19世紀の芸術運動。

印象派の画家:絵画が印象派運動の特徴を持ち、変化する性質の光を正確に描写することを強調する画家で、小さくて薄いが目に見える筆のストロークと、開かれた構図を使用する人。

個人主義:は人間の可能性と自己発展の信念を強調します。個人主義はルネサンス時代のイタリアで顕著なテーマとなりました。

産業革命:蒸気動力エンジンの発明と工場の成長のために産業が急速に発展した西ヨーロッパと米国における18世紀後半と19世紀後半の期間。農業、繊維および金属製造、輸送、経済および政策において根本的な変化が生じ、人々の生活様式に大きな影響を与えました。

オーバ:「オーバ」、すなわち王の称号は、歴代のアフリカのベニンの王によって、死ぬ時に長男に対して渡されます。

ルネサンス時代:ヨーロッパの14世紀から17世紀までの期間。中世から現代までの時代を橋渡しする時代。

タブロー:人々の集団による偶発的な場面。

塔墓:1067年と1093年に建てられた霊廟。

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Better Late Than Never

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