視点:文化人類学への開かれた招待 第2版 —付録4:歴史の中の私たちの瞬間における人類学:フィリップ・ブルゴワへのインタビュー—

Japanese translation of “Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”

Better Late Than Never
22 min readJun 28, 2020

コミュニティーカレッジ人類学協会(SACC)のサイトで公開されている教科書“Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

付録4:歴史の中の私たちの瞬間における人類学:フィリップ・ブルゴワへのインタビュー

ロバート・ボロフスキー、ハワイ・パシフィック大学および公共人類学センター
borofsky[at]hpu.edu

あなたはどのようにして人類学者になりましたか?

私にとって人類学を発見することは、まるで恋に落ちるようなものでした。私は大学の新入生であり、この科目について何も知りませんでした。専攻はありませんでした。私は興味本位で、広い講堂での大きな入門クラスの1つを受講しましたが、人類学がどのようなものであるかについてはまったく分かっていませんでした。

最初の講義は私を驚かせました。それは、アマゾンでのフィールドワークについて話す古いスタイルの人類学者によるものでした。彼は私たちにヤノマミ族を紹介しました。当時、ヤノマミ族は、暴力の性質についての大きな人類学的な議論の中心にいた先住民族の人々です:人間の暴力はどの程度文化的なものであるか?それは人間本性の本質にどの程度存在するのか?それはより大きな歴史的および経済的な力によってどれだけ押し付けられるのか?その教師は、幻覚を引き起こす薬を嗅いで霊とコミュニケーションを取り、病気や近隣からの攻撃から村を守る「シャーマン」について私たちに説明しました。ヤノマミ族のシャーマンは、アマゾンの人々にとっては、私たちの哲学者、科学者、医師、宗教的または政治的公職者に相当するものです。私は、自分の聞いていることを信じることができませんでした。ここには、人間の存在の意味を探求するために、その実践者を世界中へと送り込み、まったく馴染みのない異質な文化に浸すような学問分野があります。

昔ながらの欠点があったとしても、私はこの授業のことが大好きでした — その授業は、結局のところ、先住民族のことを私たちの同時代人ではなく、グローバルな権力関係と植民地的征服の影響に気づかずに泡の中に住んでいるかのように「エキゾチック化」していました。しかしながら、その教師は、世界中の先住民族の生活様式を破壊していた(そして今も破壊しているような)、非先住民族の入植者、鉱山労働者、畜産業者による現代的な侵略についても、私たちに警告しました。私はすぐに人類学の専攻に登録しました。

あなたが人類学について特別だと思うことは何ですか?

私が人類学について魔法のようだと思うものがいくつかありますが、私が一番好きなのは、「参与観察の民族誌」の方法論、「文化相対主義」への洞察、および多分野性です。私たちの方法論は非常に強力ですが単純なものです。常識的に言えば、それはあなたが知りたい人や社会の目を通して世界を見ようと試みて環境の中に深く「入り浸る」技術です。あなたは友好的で共感的な方法で人々と関わり、彼らの日常生活の活動に参加することで、相互作用をゆがめたり自身に過度の注意を向けたりしないようにします。これにより、あなたはうわべの見た目を突破するとともに、同時にその環境の中で感情的に経験し、生活を合理的に記録することができます。私たちは、メモを取ること、テープに記録すること、そして最も重要なものとして、自己再帰的な懐疑主義という戦略を開発しました。あなたは、自分が見たいものだけを見ることのないように注意すること、そして、あなたが世界はこうであってほしいと望むあり方と実際の世界のあり方とを混同しないように注意することを学ばなければなりません。自分の偏見に気づくことによって、あなたは物事が実際にどのように機能するかを理解しようとします。

参与観察の方法論は、人々の生活を制限する地位の障壁(ほんのいくつかを挙げるならば経済階級、人種と民族、ジェンダー、社会的慣習など)を突破するようにあなたを強いてきます。人類学はあなたに告げます:「そこを出て、世界を探検せよ。あらゆる種類の異なる視点や環境に心を開くか、あるいは、自分自身の社会をじっくりと批判的に見つめよ。自分自身の文化とその常識を、あたかも異境の人々の奇妙な論理に初めて直面する部外者であるかのように扱え。あなたは自分の文化について、他の誰の文化よりも正常または正しいものなど何もないことを発見する。」

人類学は、私たちが「親密なアパルトヘイト」(Bourgois and Schonberg 2007)と呼ぶような、私たちが最も快適だと感じる狭い小さな分離された世界へと私たちを閉じ込めるものを突破するようにあなたに押し出します。これらの親密なアパルトヘイトは、しばしば私たちを自民族中心的、または人種差別的な個人へと変えます。そのような個人は、自身と自分たちのやり方を非常に高尚なものととらえ、自分たちとは異なる人を軽視し、不当に扱うことになります。

他者を尊重することは人類学の関連する中核的な価値観であり、文化相対主義という私たちの中核的な価値観に反映されています。文化相対主義は理論ではなく、私たちが偏見にとらわれることなく他者について学ぶことを可能にする単なるヒューリスティックな装置(手法)です。一言で言えば、文化相対主義は文化は良いものでも悪いものでもないと宣言します。それらはすべて論理を持っています。人類学者としての、そして実際のところ人間としての私たちの仕事は、正しい道徳的な線に沿って文化を判断することではなく、その内部論理が文化をどのように機能させているかを見つけることです。多くの場合、異なる何かに直面した人々の最初の反応は、「うわぁ、気持ち悪い!」です。それは単に、彼らが慣れているもの、彼らが普通で、道徳的で、または物事を行う正しい方法だと見なしているものとは異なるからです。

人類学は、私たちの思い込みや先入観を捨てて、自分自身の文化による洗脳を認識し、代わりに人々が物事を行う理由に気付くように命じてきます。なぜなら、物事を行うさまざまな方法には必然的にそれらにとっての意味と論理があるからです。私たちは、自分たちが道徳的であり、善良であり、そして大体において正常であると考えていますが、それと同じように、あらゆるところのすべての人々も自分たちが道徳的であり、善良であり、そして正常であると確信しています。ある文化的な実践が最初にどのように恐ろしく/狂っているように/かっこよく/素晴らしく/美しく見えるかにかかわらず、人類学者としての私たちの仕事は、その論理の中に飛び込んで、その実践に従事する人々にとってそれがどのように理にかなっているかを確認することです。参与観察の民族誌と文化相対主義のこの組み合わせのおかげで、人類学は力強く反人種差別主義的で、自己批判的で、権力の不平等と異なる人生のチャンス(世界中での、そして私たち自身の社会の中での、さらには私たち自身の家族の中での!)に注意を喚起することができるようになります。

最後に、人類学はさまざまな学問分野を分割する科学的境界にまたがっているため、珍しい研究分野でもあります。私たちは、文化人類学、考古学、言語学、生物人類学、医療人類学などといった、人文学、社会科学、自然科学の間の学術的な垣根を超える複数の下位分野を含んでいます。私は期せずして文化人類学者(社会人類学者と呼ばれることもあります)となり、医療人類学者ともなりました。私にとって重要な質問は、人文学と社会科学の両方からの理論と方法に頼るものです。さらに、私はHIV、依存症、暴力に関心を持つ医療人類学者として実験室の科学者や疫学者と対話しますが、彼らは事実についての非常に異なる(主として定量的な)定義でもって活動しており、しばしば定性的な人類学研究の価値に最初は不慣れであり、時には認識していません。

人類学は、学問分野が文化のようなものであることを実感させてくれます。それらはそれぞれ、その論理と洞察、そしてその盲点と偏見を持っています。人類学には、さまざまな認識論、つまり世界を理解するさまざまな手法を融合してきた長い歴史があります。私たちは哲学、文学、歴史、経済学、芸術、建築、詩、生物学、法律、その他ありとあらゆるものを広く読みます。これにより、世界がそのようにある理由を理解するための私たちの理論的アプローチは、特に革新的なものになります。

あなたが人類学について一番好きなものは何ですか?

フィールドワークを行うことは、人類学者であることの最良の部分です。私は参与観察の民族誌のフィールドワークプロジェクトの最中にいるときが一番幸せだと思います。時には、朝、目を覚ましたときに私は自分のことをつねってみなければなりません。非常に多くの異なる、興味深い(時には恐ろしい)環境で時間を過ごし、心をつかんで離さないような人々から彼らのことについて学ぶことでお金をもらえるとは、まるで夢のようです。

私の仕事の多くは、米国の中心市街地で行われました。そこは、社会的不平等、貧困、暴力、薬物乱用に悩まされている環境です。たとえば私は、フィールドワークの一環として、ニューヨークのイーストハーレムにある荒廃した貸しアパートに家族と一緒に5年近く住んでいました。その時期は、コカインとHIVの流行が起きた真っ最中でした。私は、友人や隣人の多くがコカインに心を奪われ、一部の人がエイズで亡くなったのを見ました。私は自分の街区で活動しているコカインの密売人のネットワークと仲良くなり、彼らは私のことを家に招待してくれました。私は、彼らとその家族がどのようにして彼らの世界を理解し、生き残るのに苦労しているかについての本を書きました(Bourgois 2003)。また、私は医療人類学者となり、公衆衛生とHIV予防の分野での政策と支援運動に有益に貢献しようと試みました。

私の隣人や友人は真の貧困に苦しんでいました。ほとんどは失業者であり、依存症に苦しみ、暴力に関与していました。多くの銃による暴力がありました。1980年代半ばから1990年代初期までは、米国の中心市街地の通りは危険でストレスの多い時代でした。しかし、別のレベルでは、その時代は、イーストハーレムにいることが歴史の中の刺激的で楽しい瞬間でもありました。それはヒップホップとラップの誕生でした。人々は、無一文から大金持ちへと向かう希望と幻想に満ちた話を熱望していました。私は彼らの苦しみ、奮闘、夢を、もっとよく見えるように、そして他のアメリカ人にとってより人間的に理解できるように試みました。

私は自分の本の読者に、中心市街地の貧困の歴史的な悲劇、脱工業化の影響、人種差別主義者による差別、仕事の喪失を理解してもらいたかったのです。工場労働が低賃金かつ労働組合と人権を抑圧するような国へと消失したために、経済はめちゃくちゃな状態にありました。グローバルな麻薬産業は、この壊滅的な経済的真空地帯に殺到し、私たち全員を圧倒しました。これらは、米国の政治家によって非常にまずく管理され、報道機関によって誤解されているような、「構造的な力」でした。私が友達になった若い男性たちと女性たちは、ひとりの個人を養うのにすら十分なお金を払う合法的な仕事を見つけることができませんでした(家族や愛する人は言うまでもなく)。学校は機能していませんでした。放棄された建物は炎上し、コカインは、危険な起業家精神を通じてあっという間に金持ちになるというアメリカンドリームへの突然の簡単なアクセスという魅惑的な約束を提供しました。

当時の薬物の密売所の設立は、今日のハイテク新興企業の設立とそれほど違いはありませんでした。ただし、その製品が違法であり、銀行からの融資や契約を履行するための法的な保護を受けられないことを除いては。あなたがビジネスを開始し、生き残り、麻薬を遠ざけておくためには、知恵やむき出しの暴力に頼らなければなりませんでした。歴史におけるそのような時に、政治家と報道機関はコカインの密売人を公共の敵として中傷しましたが、実際には彼らは、彼らを自分たちのコミュニティーとの破壊的で暴力的な関係性へと閉じ込めるような強力な社会的・政治的な力の論理的な産物でした。多くの場合、彼ら自身が被害者になり、中毒者となり、残りの人生を刑務所に出入りしながら過ごしました。なぜなら、この時代は大量収監がアメリカを席捲している瞬間だったからです。

その時以来、私は他の中心市街地の環境で同様のフィールドワークを行ってきました。私は、ホームレスのヘロイン注入者とコカイン吸入者に関する本「高潔な薬物中毒者(Righteous Dopefiend)」を、学生であり素晴らしい写真家でもあるジェフ・ショーンバーグとともに著しました(Bourgois and Schonberg 2009)。ジェフは現在、サンフランシスコ州立大学の人類学教授です。私たちは、写真のドキュメンタリー効果と美的/感情的効果を人類学の分析ツールと組み合わせて、ホームレス、社会的不平等、依存症といった人間の苦しみを伝えました。私たちはまた、麻薬に対する戦争の機能不全の影響を批判し、危害の軽減と「住宅第一」の介入や、鎮静剤処方を含む貧しい中毒者への多様な医療の選択肢などの実用的な解決策を提供しました。

学生としての最初のフィールドワークは何でしたか?

私の最初のフィールドワークは、中央アメリカのニカラグアのミスキート・インディアンの間でのものでした。彼らは、1980年代のひどい冷戦の紛争の中心にいた素晴らしい人々です。ニカラグアでは、ポピュリストの左翼革命が、40年にわたって権力を握っていた米国が支援する残忍な独裁政権を打倒しました。私は文字通りニカラグア行きのバスに飛び乗り、新農業改革局で「私は人類学者です。私はあなたたちの社会主義実験のために働きたいのです」と自己紹介しました。彼らは「ああ、あんたはグリンゴ[米国からの]人類学者か。あんたは先住民族の人々が好きに違いない」と答えました。これは人類学者のステレオタイプです。そして率直に言って、それはほとんど真実であり、文化相対主義は人類学者を先住民の文化の尊重へと導きます。革命家たちはニカラグアの大西洋岸に沿ったジャングルの中のミスキート地域に私を送り出し、私は大学院を休学しました。私が学校ではなく、1979年から1980年にかけての革命ニカラグアのミスキート・インディアンの間に自分がいるのに気付いたのは、こういう理由です。残念ながら、革命指導者たちは、彼らの前にいた右翼の独裁者と同じように、彼らの国の先住民族の少数派に対する人種差別主義者でした。ミスキートの人々は革命に興奮していましたが、彼らは自分たちの文化、言語、土地、天然資源の管理を維持したいと望んでおり、革命的な中央政府の人種差別に反抗しました。不幸なことに、CIAが冷戦時代の反共産主義的な強迫観念のためにこの紛争を操ろうと介入し、AK-47自動小銃をミスキート地域に大量に送り込みました。血みどろの内戦が勃発しました。

ニカラグアの革命指導者は、彼らが独裁政権と闘って打ち倒した理由である貧しいラティーノの非先住民集団の経済的要求が正当であるのと同じくらい、ミスキート族の文化的要求も正当であることを認識していませんでした。ほとんどのラティーノのニカラグア人は、インディアンを「より低い文化レベル」からのものとみなしていました。しかし、やはり、文化相対主義は、より低い文化レベルなどといったものはないことを私たちに教えてくれます。それらは単純に、社会を組織する異なった方法なのです。すべての文化の形態は、その社会的独自性において正当なものです。ミスキートの紛争は、世界をより良い方向に変える上で人類学が非常に重要な役割を果たすことができることを私に認識させてくれました。

私が農業改革省で一緒に働いていた数人の人類学者は、報告書を共同執筆し、ミスキート族の領土の非植民地化と先住民の地域自治のための自律的な地方政府の設立を求める本を出版しました(Philippe Bourgois and Jorge Grunberg 1981)。革命家は人類学的な視点を理解できていませんでした。代わりに、彼らはミスキート族に対して強硬路線をとり、文化的権利を要求するすべての人を抑圧しました。私は国外に投げ出され、大学院に戻りました。4年後、革命政府はその政策が裏目に出たことに気づき、ミスキート族の領土に地域的な政治的自治権を付与しました。彼らは、自治的な先住民族の領土的および政治的権利についての彼らの実験を評価するために、1985年に私がニカラグアに戻るように招きました。残念ながら、ニカラグア革命は3年後に潰えました。これは、ポピュリスト革命によく起こります。しかしながら、彼らが始めた地域の自治は、依然として世界中の先住民にとって興味深いモデルであり、大きな可能性を秘めています。

他の人はあなたの仕事から恩恵を受けていますか?

現代における緊急の社会的および政治的問題に取り組むという私のコミットメントは、私たちがすべての答えを持っている、真実を知っている、または正しい質問をしている、などと考えないようにすることが重要だと教えてくれました。私たちは、人類学者として自分たち自身を重大に考えすぎることに慎重でなければなりません。私がイーストハーレムで知り合ったコカインの密売人は、ケンブリッジ大学出版局が主催する「尊厳を求めて:エル・バリオでコカインを売る(In Search of Respect Selling Crack in El Barrio)」の発売記念パーティーに来てくれました。彼らは本の一部を受け取り、彼らの言葉が脱工業化、人種差別、およびジェンダーの力関係の複雑な理論的および政策的分析を行うような形で出版されたという事実を気に入りました。それにもかかわらず、本の中で最も暴力的な主人公のひとりが、洞察力を持って私をからかってきました、「おい、フェリペ、あんたは、俺たちをやたらに繊細なクラックディーラーのようにして見せたな」。もうひとりは、近隣と彼の生活に対して構造的な力の影響をまっすぐ結びつけるような私の議論に抵抗しました。「俺は自分がやってきた悪いことについて、俺、俺自身、自分以外は誰も責めない。」

私は今でも本の主人公の何人かと連絡を取り合っており、私がプリモと呼んでいるその地域での私の親友に対して、彼のヘロイン中毒についてのフォローアップ記事を公開してもよいかどうかを尋ねました(Bourgois 2000)。彼はヘロイン使用者であることを恥じていたので、私は彼を困らせたり、彼のプライバシーを侵害したくはありませんでした。彼は非常にためらい、つらそうな目で私を見ました。私は「しまった!彼はこれを出版するな、と言うぞ」と思いました。彼はその代わりに、「あんたを軽蔑するつもりじゃない…でも、あんたは自分が書きたいものは何でも書くことができる。誰もあんたが書いたクソを読まない — 少なくとも俺が知っている誰も」と言いました。

このことによって、私は学者として謙虚でなければならないことを実感しました。私たちの人類学の出版物は、大学教育を受けた人々のほんの一部にしか届きません。たとえば、中心市街地に関する私の本は、ほとんど大学生によって読まれています。それはある程度ではイライラするものです。しかし、大学生は彼らの人生の転換点にいます。彼らは新しい視点に心を開き、自分たちの人生や社会の未来の道筋を変えるようなやり方で自分たちの思考方法を変えることができます。

大学の授業で私の本を読んだ読者の中には、メールでフィードバックを送ってくれる人もいます。また、私は時折、ごみごみした資金不足の刑務所図書館を通じてどういうわけか私の本を手に取った囚人から手紙を受け取ります。時々、彼らは自分自身や両親が「尊厳を求めて」と「高潔な薬物中毒者」のページに反映されていると言います:「私はいつも[暴力的、または薬物中毒、または面倒を見ない]父(や母)にとても怒っていました。でも今は、何が起こっていたのかを理解し始めています…」

人類学者としてHIV予防に関する公衆衛生に取り組むことも、やりがいがありますが挑戦的なものです。特に政府は人々を収監するためにあまりにも多くのお金を浪費しており、これは、おわかりでしょうが、暴力、依存症、失業の問題を​​悪化させます。しかし、率直に言って、私たちはより広くより効果的により多くの人々に到達する方法を見つけ出す必要があります。これは、将来の世代がデジタルテクノロジーとソーシャルメディアの爆発的な増加から助けを得られるところです。新しい技術は、人類学の洞察を伝える新しい方法を提供します。あなたが人類学の分析を提示するのと同時に画像を表示し音声を再生することは非常に効果的です。それは、立ち入りが制限される場所や問題をより人間らしく見えるようにします。あるいはそれは、視聴者の個々の体験を歴史の中における私たちの瞬間のより大きな文脈の中に置くのに役立ちます。

人類学者はほとんど何でも研究することができることを忘れないでください。あなたは株式仲買人やコカインの密売人、医者やホームレスのヘロイン注入者、先住民族の狩猟採集民や郊外の通勤者の世界に足を踏み入れ、当然のことと思われているが、実際には問題があり、緊急であり、または複雑であるもの、あるいは、単に美しくて刺激的なものに光を当てることができます。オンライン技術への新しいアクセスにより、人類学は、歴史の中における現代の私たちの瞬間の緊急の問題に対処し、より多くの聴衆に到達するための大きな可能性を得ています。しかし、私たちはこれらのプラットフォームを効果的に使用する方法を見つけ出さなければなりません。私たちは、テレビのリアリティー番組のような不注意なポルノ製作者や真実を操作する者にならないように注意しなければなりません。私は、人類学がデジタル通信の潮流の最前線にあるべきであり、これらの新しい可能性を受け入れるのは新しい世代であると考えています。デジタル技術はすでに公衆衛生と政治を変えており、最も悪辣な大企業は私たちを奴隷化し、オンラインアクセスを独占しています。その可能性を取り戻すのは、新しい世代にかかっています。

最後に言っておきたいことはありますか?

私は、権力、支配、社会的不平等の目に見えない負の影響を私たちが理解するのには、民族誌のフィールドワークと理論的分析が役立つと言って終えたいと思います。不道徳なように見える、または恐ろしいように見える行動(病理学的であるように見える行動)は、私たちが民族誌的に研究する個人の人生を制約するようなより大きな構造的な力(厳しい経済状況、環境による攻撃、抑圧的な公共政策、差別的な社会階層)によってしばしば個人に課せられたものです。ある意味では、私たちは皆、私たちがしていることを行うように閉じ込められています。これは、薬物の流通と大規模な収監をめぐる中毒、HIV、暴力の場合に確かに当てはまります。人類学における民族誌学的な手法は、人々の日常生活への親密なアクセスを提供すると同時に、より大きな全体像を把握することを可能にします。課題は、人類学の重要な道具を使用して、歴史の中における私たちの瞬間の差し迫っている問題を認識し、世界に出てその一隅をより良いものに変えるか、少なくともそれが崩壊しないようにすることです。

書誌情報

Bourgois, Philippe., and Jeff Schonberg. “Intimate Apartheid: Ethnic Dimensions of Habitus among Homeless Heroin Injectors.” Ethnography 8 no. 1(2007): 7–31.
Bourgois, Philippe. “Disciplining Addictions: The Bio-Politics of Methadone and Heroin in the United States.” Culture, Medicine and Psychiatry 24 no. 2(2000): 165–195.
Bourgois, Philippe. In Search of Respect: Selling Crack in El Barrio. New York: Cambridge University Press, 2003.
Bourgois, Philippe, and Jeff Schonberg. Righteous Dopefiend. Berkeley: University of California Press, 2009.
Philippe Bourgois, and Jorge Grunberg. “Informe de Una Investigacion Rural En La Costa Atlantica Norte.” In La Mosquitia En La Revolucion. Jaime Wheelock Roman, ed. Pp. 89–149. Managua: Centro de investigacion y estudios de la reforma agraria [CIERA], Colección Blas Real Espinales, 1981.

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