視点:文化人類学への開かれた招待 第2版 —付録5:人類学は世界を救うことができるか?—

Japanese translation of “Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”

Better Late Than Never
21 min readJun 28, 2020

コミュニティーカレッジ人類学協会(SACC)のサイトで公開されている教科書“Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

付録5:人類学は世界を救うことができるか?[1]

ナンシー・シェパー-ヒューズ、カリフォルニア大学バークレー校

私たちは困難な時代に生きており、制御不能でエスカレートしている中東での戦争(部分的には私たちに責任があります)と、自国内での破壊的な政治戦争に直面しています。私たちは、グローバル化とそれによるとされる民主化の効果にもかかわらず、深刻に分断された世界の中の分裂した国家となっています。北と南、中東と中西部、持てる者と持たざる者との間の乖離は、深い裂け目となっており、私たち全員の自由と安全を低下させています。

2週間前、私はローマとプラハにおいて、ヨーロッパで生じている拘留および強制送還のための収容所での政治難民の窮状について講義をしていました。ポーランド、チェコ共和国、ハンガリー、デンマークを含む多くの国が壁を築き、シリア、イラク、アフガニスタン、パキスタンでの戦争や干ばつを逃れてきた、そしてソマリアでの壊滅的な貧困を逃れてきた難民の波を拒絶する動きをしていたため、それは厳しい訪問でした。それは、第二次世界大戦以来のヨーロッパにおける最大の人口の移動です。密入国業者が群れを成しており、彼らは脅えている難民を欺き、基本的な必需品と引き換えに彼らのお金や腎臓さえも騙し取ります。この後ろ暗いビジネスに関与する密入国業者の1人は、私がかつて偶然出会ったボリス・ウルフマンという名前の人身売買業者です。確かに、古い格言が述べるように、「人間は、人間にとっての狼」です。

プラハでは、新しいナショナリズムと、文化的、人種的、宗教的な同質性に対する権利を求める人々の声によって、愛ではなく憎悪が漂っていました。チェコ警察は難民を列車から降ろし始め、フェルトペンで彼らの腕に数字を書きました。それは、この国内でのすでに不気味な(忍び寄る不気味さではなく)外国人嫌悪、イスラム嫌悪、再出現した反ユダヤ主義でした。プラハの美しい歴史的中心地では、抗議者が特定のホテル、博物館、レストランの壁や窓に「憎悪から自由な場所」と告知するポスターを貼り始めました(まるでそれが例外であるかのように)。これは私たちに起こる可能性があります。私が講義を行った現代美術のためのDOXセンターでは、私は、人間の人身売買について話すのが、「お金の魂(The Soul of Money)」に関する美術展の際と同様に難しいと感じました。人間や動物には魂があるかもしれませんが、私はお金には魂はないと確信していました。

プラハへの旅は痛みを伴うものでした。なぜなら、私は1944年にチェコ人移民の家族に生まれ、ブルックリンのウィリアムズバーグで育ったからです。そこはまだスラム街であり、「ホロコーストの亡霊に取りつかれて」いました。東ヨーロッパのカトリック教徒とハシド派のユダヤ人は隣り合って住んでいましたが、私たちの歴史についてはほとんど黙っていました。私たちに何が言えたでしょうか?一方、公衆衛生局は定期的にイーストリバーのネズミとゴミについての教育映画を私たちの街路や住居で撮影しているように見えました。今日、生き残ったこれらの同じ建物は、一財産に値します。

兄と私は大きな拡大家族の中で大学に行った最初の人でした。私はうまくなじむことができず、クイーンズカレッジ(ニューヨーク市立大学)を2回中退しました。最初は1964~1966年にピース・コー(平和部隊)に加入するためでした。その後、クイーンズカレッジに中途半端に戻った後、1967~1968年にアラバマ州セルマの公民権運動に参加しようと南部に行くために中退しました。それは、部分的には、1964年にミシシッピ・サマー運動の最中に他の2人の人権活動家と一緒に殺された、私の同級生の1人であるアンドリュー・グッドマンを記念し、その跡を継ぐためでした。私は、ラウンズ郡ブラックパンサーとブラックパワー運動の後援の下での最後の2人の白人公民権労働者のうちの1人として、SNCC(学生非暴力調整委員会)に参加しました。

ニューヨーク市立大学クイーンズカレッジの学部生時代の指導者ホーテンス・パウダーメーカー(人類学の回顧録「よそ者と友人:ある人類学者の人生(Stranger and Friend: The Life of an Anthropologist)」の著者)のおかげで、私は1969年に彼女を追ってバークレーに行きました。パウダーメーカーはすでに引退しており、その地で彼女の最後の人類学的な研究プロジェクトである若者文化に取り組んでいました。私は彼女の研究助手として招かれ、その間にカリフォルニア大学バークレー校で学士号を取得し、その後、文化人類学および医療人類学の博士号を取ることになりました。

私は人類学者の人生を選びました。なぜなら、それは非常に開かれた、とても自由な分野だったので、同僚のローラ・ネーダーが言ったように、自由な思想家となること、既存の枠にとらわれず考えることができるからです。そこで、人類学者に身を捧げた者としての、そして強迫的なフィールドワーカーとしての私の人生に基づいて、心得となるいくつかのルールを提案させてください。私はこれらのルールを「新世代の人類学者のための行動指針」と呼んでいきます。

行動指針:心得となるルール

ルール1:人生のすべては実験です。勝者も敗者もいません。そこにはただ、生きていく貴重な時間があるだけです。

ルール2:仕事は不可欠なものですが、強迫観念であってはなりません。ニューヨーク市の周縁に住んでいたフランスの農民出身の哲学者であるピーター・モーリンは、彼の著書「イージー・エッセイ(Easy Essays)」で次のように書いています:「仕事は常にある、有給の仕事が常にあるとは限らないだけだ。」彼は付け加えています:「人々が良くなろうとするならば、世界は裕福になるだろう。そして、人々が裕福になろうとするのをやめれば、人々はより良くなるだろう。」

ルール3:脱落する — 休憩を取りましょう!大騒ぎに飛び込む前にギャップイヤーをとることは重要です。ピース・コー(平和部隊)に参加するか、長旅に出るか、自転車で国を横断してみてください(ハーレー・シャイケン教授が毎年夏に行っているように)。あなたが進むにしたがって仕事を見つけましょう。マーク・サンディーンの本「スエロは洞窟で暮らすことにした(The Man who Quit Money)」のペーパーバックを持って行ってください。

ルール4:規律を守る、つまり弟子になる。賢い人、あるいは頭の切れる人、あるいは創造的な人を見つけて、彼または彼女の後を追いかけてください。実行者であり思索家、芸術家であり職人、哲学者、革新者であり発明家、著者であり学者、政治指導者、外科医であり田舎医者であるような人々を探してください。私の人生には非常に多くの指導者がおり、もし私がここに明日の朝までいたとしても、リストの最後にまで到達することはできないでしょう。そのリストにはかつての教授、同僚、共同研究者だけでなく、私の人生や考え方を変えた文章を書いた人々も含まれます:イヴァン・イリイチ、オリバー・サックス、アイルランドの詩人シェイマス・ヒーニー、反アパルトヘイトの法律家アルビー・サックス、およびイタリアの急進的な精神科医フランコ・バザリア。法医学の病理学者であるクロード・スノーは、私に文化・医療・法医学人類学者として自分を作り変える勇気をくれました。私の学生は教え方と書き方を教えてくれており、この分野の私の仲間(数百人にも及びます)は私の生涯の教師です。この学部の創設者であるアルフレッド・クローバーは、常に「人類の学徒としての職業」という質問に答えてくれました。

ルール5:他者に触発されてください。誰もがリーダーでなければならないわけではありません。私は人生のほとんどにおいて知的異端者であり、私は先導しようとすることはあまりありません。私が先導しようとするとき、私はしばしば落ち着きません。私はむしろ、ある種のトリックスターとして横からこっそりコメントすることのほうが良いです。マリオ・サヴィオは、彼がクイーンズカレッジの不器用で非常に恥ずかしがり屋の学生だったとき、私に刺激を与えました。しかし、彼には燃えている魂がありました。1963年、私はマリオ(当時は自分のことをボブ・サヴィオと呼んでいました)と38人のクイーンズカレッジの学生について行き、ニューヨーク市からメキシコのゲレロまでバスで旅し、地元の活動家と一緒に学校を建設し、病院や公立診療所で働きました。ニューヨーク市の地元の新聞は、「クイーンズカレッジの学生が農民を助けるためにメキシコに侵攻」というあまりありがたくない言葉で私たちのプロジェクトを発表しました。私たちのバスのチケットは2フィートの長さになり、ゲレロに到着するのに1週間かかりました。国境を越えた後、私たちは大型バスによって荒涼とした砂漠地帯を旅しました。ボブ・サヴィオと数人がタスコで働くように割り当てられました。私たちのうち3人はチルパンシンゴに送られましたが、そこでは誰も私たちと何をするべきか全く分かっていませんでした。私は家への手紙の中で、先住民コミュニティーに対する人種差別が蔓延していると書きました。私は、なぜ私たちが来たのか、何を成し遂げることができるのかと思い始めました。

私は、ボブ・サヴィオが、植民地独立後の美しい街タスコで嵐を巻き起こし、私たちがやりたいと望んでいたことを行い、農村と先住民のコミュニティーの間で社会正義を主張しているという噂を聞きました。それで、マーシャ・スタインバーグと私はイグラとチルパンシンゴを去り、タスコで何が起こっているのか、そして私たちが手を貸すことができるかどうかを見にいきました。しかし、私たちが到着する頃には、ボブは米国に戻っていました。彼のグループで唯一残っていたケヴィン・ドナヴァンは、ボブと地元のカトリック司教がうまくいかず、ボブは国を去るように命じられたと教えてくれました。

ケヴィンはサヴィオに畏敬の念を抱いており、彼がさなぎのようなものから力強い演説家およびまとめ役へと頭角を現し、地主による非人道的な扱いに抗議する先住民の人々のデモに参加したというボブの変化について語りました。地元の司教はサヴィオにあまりにも当惑したため、ボブと彼のチームを送り返しました。私は、自分の知るところでは深刻なまでに言葉に詰まり、会話を続けることがほとんど不可能(スペイン語はいうまでもなく)であったような男性についてのこの話に驚きました。彼はどのようにして言語、階級、文化を超えて人々に到達することができたのでしょうか?私たちが知っていたサヴィオは、控えめな他の人と交わらない仲間でした。ボブがいかにしてそんなにも多くの騒動を巻き起こしたのか、そして彼が先住民のナフンタ語の話者に伝えることができたのは何だったのか、私たちは突き止めることができませんでした。彼は「インスピレーションを受けた」というのが、彼の仲間が私たちに伝えることができるすべてでした。

ボブはカリフォルニアに移り、カリフォルニア大学バークレー校に入学しました。そこで彼は自分の名前をマリオに変更し、1964年12月にマリオは演台の上に飛び乗り、自由を鳴り響かせました。彼はこれらの忘れられない言葉を語りました:「機械の動作があまりにも醜悪になり、あなたが心を痛め、もはや参加することができなくなるような時がある。あなたは受動的にすら参加することができない。そうなったならば、あなたはギアの上に、車輪の上に、レバーの上に、すべての装置の上に体を投げうち、それを止めなければならない。そして、あなたはそれを操作している人々、それを所有している人々に対して、あなたが自由でない限り機械はまったく動かなくなることを示さなければならない!」

ルール6:間違いを認め、それらを修正してください。私たちのバークレー校の人類学の創始者であるA・L・クローバーは、イシという名前で知られるヤヒ族インディアンが結核によって死んだ後、大きな間違いを犯しました。クローバーは、彼の脳を綿とホルムアルデヒドとともに瓶に入れ、スミソニアン協会で働いている人種差別主義者の自然人類学者に送りました。クローバーは二度とイシについて語りませんでした。彼は、イシが当時のローウィ博物館で守衛としての、そして見世物「最後の野生のインディアン」としての生活を送る前にあった大量虐殺を認め、それに耐えられなかった、と書きました。しかし、彼は自分では決して書けなかった本「2つの世界のイシ:最後の野生のアメリカンインディアン(Ishi in Two Worlds — The Last Wild American Indian)」を妻が書くのを手伝いました。1961年に最初に出版されたこの本は、ゴールドラッシュから始まるカリフォルニアで実際に起きたことを、いくつもの章の題名で挙げています:死にゆく人々、長い隠蔽、ヤヒ族の消失。

ルール7:あなたが最も意見の合わない人々と対話をしてください。それらを隔てるものを乗り越えてください。人身売買に関する私の仕事の間には、ズールー人のアシスタントに対して横柄に話すアフリカーナーの警官と仕事をしなければならず、イスラエルでは軍人の男性とシオニストの法医学病理学者と仕事をしました。どちらの場合も、私たちはお互いを変えただけでなく、良い仕事を成し遂げました。2015年4月、私は、かつて「神はホルヘ・ベルゴリオを許せるか?」というタイトルの記事の中で私が厳しく非難した1人の男性と間近で会うことになりました。この記事では、独善的なバチカンのロットワイラー犬、教皇ベネディクト16世に取って代わることになった人間が、教皇としてはお粗末な選択であると書きました。私は、ベルゴリオが、「汚い戦争」の間にアルゼンチンのイエズス会の主任長だったとき、アルゼンチンの人々、普通の人々、および司祭と修道女に弱い保護しか与えなかった、と主張しました。私は、アルゼンチンの軍事政権がマルクス主義者の反乱として標的にしていた解放の神学に身を捧げる左翼寄りの男性たちと女性たちのことを、彼が率いていたという多くの証拠を蓄積しました。私の記事は皮肉っぽく、神は結局のところ、どんなに重大なものであったとしても、いかなる罪も許すことができると示唆しましたが、そのためにはまず、悔い改める者は自分の過ちを認め、告白し、改悛し、新しい社会契約を結ぶ必要がある、としました。

人身売買に関する私の仕事をバチカンで紹介するという招待状を受け取ったとき、教皇フランシスコの手書きのメモのコピーがついていました。そこには、「臓器売買」がバチカン内部で開かれる全体会議の一部となり、わたしが「それ」である、すなわち、そのトピックについて話すように招待された唯一の参加者であると書かれていました。もちろん、私はそれが間違いであり、到着するとすぐに、サンタ・マルタ館(教皇フランシスコがシンプルな2部屋の居室を持っているのと同じ階で、私たちが会議の間に宿泊することになっていた場所)に入ることを禁止されるだろうと予想していました。私は昼食室に入って、教皇フランシスコが私の食卓からいくつか離れたテーブルに座っているのを見つけると、生きた心地がしませんでした。最初の3日間を教皇の特別な聴衆として過ごした後に教皇フランシスコに会うことになった際、私は自分の本「悲嘆なき死(Death Without Weeping)」のスペイン語訳を抱えてレセプションの列の最後尾に立ちました。私は、彼がブラジルのアルト・ド・クルゼイロの天使のような赤ちゃんの飢餓と死を、バチカンによる避妊と妊娠中絶の禁止に結び付けて読むことを望んで、長い書き込みと希望するページにペーパークリップをつけました。私は彼の教皇の指輪にキスをするためにぎこちなくひざまずいて、彼に懇願しました:「この女性たちを思い出してください!」教皇フランシスコは私を立ち上がらせました。もちろん、彼は教皇の指輪も教皇のピンクの履物も着用していませんでした。床からは、彼の靴が黒くみすぼらしいものであることが見えました。タキシードのボディーガードたちが急いで私が教皇に持ってきた本や記事をつかみ取りました。彼はボディーガードを押しのけ、うなずきました。「私のために祈ってください。」なんという謙虚さの教えでしょう。

ルール8:ユーモアは必須です。私たちの象徴的なユーモリストである故アラン・ダンデスは、もは​​や私たちとともにはいません。彼はしばしば政治的に正しくない冗談を言ったことで批判されました。しかし、ダンデス教授は、ユーモアの源にできないほど何かを神聖視しすぎたり、タブーにしすぎたり、嫌悪感を持ちすぎたりすることはありませんでした。彼は、神聖な牛は最高のハンバーガーとなるだろうと言いました。彼はジョークを精神のガイガーカウンターとして、つまり根深い社会不安や葛藤の表現として見ていました。私がブラジルにおける母の愛と子供の死に関する「悲嘆なき死」という本を書いていたとき、アランは「デッド・ベイビー」のジョークについての彼の分析のコピーを、いたずらでキャンパスの私の郵便箱に詰め込みました。私は最初はショックを受けましたが、座ってその記事を読むと、彼の分析が目の覚めるような洞察に満ちていることに気づきました。彼は、これらの不快なジョークは、アメリカ人が赤ちゃんに向ける両面的な感情の無意識な文化的表現であり、赤ちゃんを作ることなくセックスすることを望んだ新世代の大人を生み出した性的革命からの一種の副次的な影響であると主張しました。

アランは、「民間伝承」が悪のための力としても、善のための力としても働く能力があることを知っていました(血の中傷の伝説に関する彼の本における、何世紀にもわたる反ユダヤ主義の歴史と描写が力強く証明したように)。皮肉なことに、ユダヤ人だったダンデスは、ハーパーズ・マガジンに掲載されたアウシュヴィッツの設定でのドイツ人のジョークについて書いた記事の後、1988年に保守的なアメリカのユダヤ人によって反ユダヤ主義で告発され、解雇が求められました。その主題はアランに対する告発者を激怒させました。おそらく、彼らはアランの分析を読んでいませんでした。アランは、これらのジョークを(攻撃的ではあるものの)ドイツ人の集合意識の中でアウシュヴィッツの記憶を生かし続けるものと見なしました。喜劇と悲劇は同じコインの裏表であり、ブラックユーモア(アウシュヴィッツのジョークでさえ)は、文化的に無神経で不適切であるにもかかわらず、ドイツ人がドイツにおける死のキャンプで発生した想像を絶する恐怖に折り合いをつけることを可能にしました。そのジョークは、ホロコーストの悲劇的な歴史を否定するものなどではなく、それを認めるものでした。

ルール9:政治的な正しさに注意してください — 自己批判的であり、感受性を持ちつつも、正直で率直に表現してください。検閲や、さらにたちの悪い自己検閲に抵抗してください。

ルール10:必要に応じた柔軟性:すべてのルールは修正されることも、一時的に停止されることもあります。

今から2日のうちに、私はブラジル北東部のレシフェとティンバウバに飛んで、中学校教育を受けた120人のコミュニティーの保健担当者と一緒に仕事をします。これらの担当者は、ジカウイルスに感染した妊婦のニーズへの最初の、そしてしばしば唯一の対応者となります。ジカウイルスは深刻な出生異常の恐れがあり、未だに中絶を禁止しているブラジルの法律によって問題は複雑になっています。この公衆衛生の危機は、ブラジル経済が崩壊の瀬戸際にあり、労働者党の大統領ジルマ・ルセフに対するクーデターの現実的な脅威がある中で起こっています。ブラジル議会による大統領の弾劾は、自分たち自身に対する汚職の告発を回避しようとした試みでした。

米国では、私たちは別の種類のポピュリストのクーデターに直面しています。そして、あなたたち、親愛なる2016年の卒業生は、罠がいっぱいの地形に、あなたが作ったものではない世界に、人類学の学位しか持たず準備不足のまま(とあなたは思うかもしれません)、足を踏み入れています。しかし、その学位が、今ほど価値があり、必要とされたことはありませんでした。何よりもまず、私たちは外国人嫌悪(ゼノフォビア)、すなわち見知らぬ人に対する危険な恐怖と憎悪に対抗するような真の知的防壁を築く必要があります。

外国人愛好(ゼノフィリア)

私たちは人類学の中でちょっとした秘密を持っていると思います。外国人嫌悪(ゼノフォビア)の反対は、外国人愛好(ゼノフィリア)でしょう。ゼノフィリアという用語は、外来の植物との共存に適応しているように見える特定の植物種を指す場合を除いて、インターネット上にはほとんど存在しません。その植物学の例えをとると、外国人愛好は違いを愛することというよりも、違いについての恐怖から自由になることであって、見知らぬ人々(人類学者は常に彼らのことを人間の知識の貴重な貯蔵所と見ています)を理解しようとする健全な好奇心と欲求のことです。人類学者(文化人類学者、生物人類学者、医療人類学者、言語人類学者、そして考古学人類学者)は、憎悪、恐怖、外国人嫌悪の力に抵抗するために、人間の多様性と生物学的多様性への私たちの深いコミットメントを展開することができるでしょうか?

人類学者はじっとしておらず放浪している人々です。私たちは、人間の工芸品、人間の文化、生活様式、および人間の価値観を狩猟採集する部族です。人類学では、私たちが理解したいと望む人たちと親密になる必要があります — 彼らの身になって、彼らの立場になってみるようなものです。民族誌は、観察力のある目、注意深い耳、鋭い嗅覚、触覚、味覚といったあらゆる感覚を必要とする芸術形式、翻訳の作品です。それは、二重の値を帯びる「ガスト」(スペイン語で味) — 新しい食べ物や辛い調味料、強いお酒といった味だけでなく、ある「社会」が具現化されるような感覚的な生活といった味わいも含む — であり、その時間とタイミングの感覚、その動きとジェスチャー、その仕事、遊び、信仰のパターン、そのユーモアの感覚、その正義の感覚、その尊厳の感覚を掴むものです。

人類学には、強さ、勇敢さ、勇気も必要です。ピエール・ブルデューは、人類学のことを、格闘技、エクストリームスポーツであり、きつくて厳格な学問分野と呼びました。人類学者は社会科学のグリーンベレーです。考古学は、ジム・ディーツが歴史考古学について述べたように、過去と「忘れられた小さなもの」に対する深い感謝と敬意だけを教えているのではありません。それは生徒に対して、手を汚すことを厭わず、汚れの中にかがんで、自分自身、つまり身体と心を捧げることを教えてくれます。スーザン・ソンタグは、人類学を「英雄的な」職業 — 脳と力強さ、感受性と度胸を必要とするもの — と呼んでいました。それはただの仕事ではなく、単なる職業でもありませんでした。それは、非常に少数しかない希少な真の天職のひとつであると彼女は言いました。

あなたがた、次世代の人類学者は、あなたの教授たちが希望と信頼を注ぎ込んだ人たちです。私たちは、あなたの知性、あなたの自発性、あなたのリスクを負う態度、あなたのエネルギーを必要としています。私たちはあなたを次世代の「忠実な反逆者」として見ています — 人類学があなたに教えたことに忠実である者:多様性を尊重し、人間の違いを受け入れ、楽しみ(許容するだけでなく)、見知らぬ人の知恵に対して開かれており、世界の中での他の生き方や存在を侮辱するようないかなる提案をも断固として拒絶する者。あなたは人類学の偉大な伝統の継承者です。願わくは、人類学があなたに対して、すべての人類に奉仕するような形で働き、母なる地球を支えるすべての生き物や植物、生物多様性の保全的な保護者となる勇気を与えてくれますように。願わくは、あなたが、自分の受け継いだ世界よりもさらにより良い世界を構築するに際して、賢明で、力強く、揺るぎないものでありますように。

注記

[1] このテキストは卒業式のスピーチとして準備され、2016年5月19日にカリフォルニア大学バークレー校の人類学部の卒業式で述べられたものです。

この訳文は元の本のCreative Commons BY-NC 4.0ライセンスに従って同ライセンスにて公開します。 問題がありましたら、可能な限り早く対応いたしますので、ご連絡ください。また、誤訳・不適切な表現等ありましたらご指摘ください。

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