視点:文化人類学への開かれた招待 第2版 —第18章 人類学者のように見る:実地の人類学—

Japanese translation of “Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”

Better Late Than Never
41 min readJun 25, 2020

コミュニティーカレッジ人類学協会(SACC)のサイトで公開されている教科書“Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

第18章 人類学者のように見る:実地の人類学

ローガン・コクラン、カールトン大学バンティング・フェロー
logan.cochrane[at]gmail.com
http://www.logancochrane.com

学習目標

•「人類学者のように見ること」が、国際開発機関によって使用される地元の文化へのアプローチとどのように異なるかを特定する。
•なぜ「有害な伝統的実践」が開発機関によって変更の優先目標とされているのかを説明し、これらの実践に向ける否定的な態度がどのようにして「彼らにとっては悪いもの、私たちにとっては良いもの」の例になり得るかを記述する。
•なぜ人類学的な視点と技術が、国際開発プロジェクトの設計や目標に対して限定的な影響しか与えていない傾向があるのかを評価する。

他の人が見たり聞いたりしないものを見たり聞いたりすることは、何を意味するでしょうか?そして、その独特な情報を実地に適用するにはどうすればよいでしょうか?単純な答えが欠如していることは人類学に向いています。なぜなら、人類学者の研究は、単純化された説明はせいぜい人間文化の複雑な物語の一部に過ぎないことをしばしば実証するからです。この章では、私は、見たり聞いたりする能力がどのようにして実地に適用されるのか、そしてこれらの技能が国際開発に関連する社会-文化人類学の状況でどのように価値を加えるのかの例を提供します。特に、私は非政府組織内で人類学を実践する際の潜在的な課題に光を当てました。人類学における守秘義務の倫理を考慮して、私は国、組織、民族集団についての詳細は可能な限り省略し、その代わりに関連するプロセスに焦点を当てています。

人類学の教育は秘密保持の重要性と個人やコミュニティーに注意を引き付けることの潜在的に深刻な結果とを強調しますが、あなたが最初のフィールドワークを行い、「対象」が名前や、家族や、感情を持つ人間に変わるまで、それはおそらく本当に腑に落ちることはないでしょう。人類学者が個人やコミュニティーについて書き記す中で直面する最大の倫理的課題の1つは、人類学者の意図が特定の個人やコミュニティーを超える懸念を強調することであっても、彼らに余計な注意が向けられてしまい、そのために否定的な結果をもたらす可能性があるということです。たとえば、限られた数のコミュニティーで実施された国家のセーフティネットプログラムについて、私が行った評価のことを考えてみましょう。[1]もし参加している個人やコミュニティーが明示的に特定されていた場合、または特定することができるような場合には、彼らは政府が提供する社会サービスや仕事を失うなどの否定的な政治的影響を経験したかもしれません。その代わりに、個人とコミュニティーの匿名性は保護され、時間と考え方を研究プロセスに対して親切かつ寛大に提供した人々を保護するようなやり方で懸念と課題を特定することができました。完全な匿名性は、常に望ましい、必要である、または可能であるというわけではありませんが、人類学者にとって常に重要な考慮事項です。

私は、過去10年間にわたり(東アフリカで約5年、アジアおよび中東でそれより短い期間)非政府組織のために、ボランティア、雇用者、およびコンサルタントとして、共同体ベースの集団や国内および国際組織と一緒になって働いてきました。この章では、私はこれらの経験の1つを探り、非政府の国際開発機関による食品の禁忌をなくす取り組みを分析することによって、「人類学者のように見る」とは何を意味するのかについての感覚を伝えます。この章は、政治科学者および人類学者のジェームズ・C・スコットの研究、特に彼の「国家のように見る(Seeing Like a State)」(1998)に触発されました。私は、実践として、そしてものを見る方法として、人類学の内側へとその焦点を移動させます。[2]

人類学と開発

社会-文化人類学は、データ収集の主要なアプローチである参与観察によって最もよく理解されます。民族誌学的研究のこの重要な要素には、自分自身のものとは異なる文化的コミュニティーとの長期的な関わり、そこへの同居、そこからの学習が含まれます。人類学者は、他者の視点から世界を聞き、学び、見る際に、文化相対主義の考え方を利用します。これは、自民族中心主義(自分自身の文化、文化的価値観、社会組織が真実であり、正しく、適切であり、他の人々のものは何らかの程度において誤っているという信念)とは対照的です。文化相対主義は、文化的な実践と考え方はその文脈の中で理解されなければならないと主張しています。

過去には、一部の人類学者が植民地政府の「開発」活動に参加していました。そして、個々の人類学者およびこの学問分野全体が、結果として生じた不正における役割について正しく批判されました。私は、2013年にアフガニスタンで働いていたとき、「開発」と名のつけられた活動に従事している人類学者に出会いましたが、その活動は、文化的コミュニティーを弱体化させ、不平等で不公平な関係(文化的帝国主義)を助長する方法を見つけることを目標にして文化的コミュニティーを分析することにより、軍隊を支援するという点で新植民地主義と定義できるようなものでした。人類学的な関与は、常に善意のあるもの、または中立のものというわけではありません。その結果、人類学者は、自己省察に取り組むこと、すなわち、自分の役割、関与、実践、および目標を批判的に検証すること(これは再帰性として知られています)が勧められています。

国際開発の性質、目的、および組み込まれた仮定に対するさまざまな程度の批判が続いています。国際開発の実務者に対して活動を大幅に改革してより効果的にするよう求める者もいれば、援助の提供はより大きな貧困をもたらしているため、それらは終わらせるべきだという見解を含む、より過激な批判を表明する者もいます。[3]開発を脱構築する(概念として、および活動として)場合、その開発がなぜ、いつ、どのようにして、そして誰のために意図されているのか、そして誰が除外されているのかを問うことが不可欠です。また、関係する権力の動態と動機を特定する必要もあります。人類学的な道具と見方は、これらの質問に答えるための重要な手段です。[4]

「有害な伝統的実践」

この章で議論するプロジェクトと私のやり取りは期間が限られており、私はプログラムの査定と影響評価に関連する特定の仕事がありました。私は、国際本部と国内本部にいる管理スタッフとやり取りをし、彼らはプロジェクトの現場を訪問する前に、地域に関する背景情報と、明確にされた責務を提供してくれました。そのプロジェクト自体は、「有害な伝統的実践」を終わらせることを主たる目的とはしていませんでしたが、女性に悪影響を与えるジェンダーの不平等と実践に対処することに関連する要素を含んでいました。これらの議論を振り返ると、プロジェクトの地域から最も遠い場所にいるスタッフと資金提供者が、これらの「有害な伝統的実践」に最も大きな関心を持っていたようです。彼らの強調に基づくと、遠く離れた場所の風変わりな実践は訴求力を持っており、基本的で共通の必要性にはそのような訴求力がないことは明らかです。たとえば、プロジェクトが支援しようとする人々から遠く離れている人々は、「女性生殖器除去」、交換結婚、および一見不合理で奇妙な食品の禁忌に対して特に興味がありました。

一方、プロジェクトの地域のほぼすべてのコミュニティーでは、男性と女性の両方が、清潔な飲料水とヘルスケアの選択肢の不足を主に懸念していました。残念ながら、これらの懸念は部外者からはほとんど注目を集めませんでした。[5]実際、私が関与していたプロジェクトに対する政府の資金提供者を含め、国際開発に資金を提供している多くの政府機関は、水道インフラストラクチャーはプロジェクト費用として認められないというような形で、明示的に資金を制限していました。この理由が明確に述べられることはめったにありませんが、開発機関の担当者との非公式の議論では、高いコストと持続可能性が懸念事項として挙げられています。イスラム教徒の女性に対する西洋の認識、およびより広範な「他者」とその必要性の概念化に関するアブ-ルゴドの研究(Abu-Lughod 2013)は、どのようにして現実ではなく仮定に基づいた必要性の優先順位付けがしばしば行われているのかについての洞察を提供してくれます。

「有害な伝統的実践」とは、タトゥーや体に傷をつけることから、交換結婚、強制結婚、未亡人の女性が亡くなった夫の兄弟の妻となるような結婚に至るまでの一連の奇妙な実践のことです。「有害な伝統的実践」には、拉致や違法な監禁など、世界中の多くの地域では一般に犯罪行為と考えられている行為が含まれることもあります。たとえば、エチオピアの国の委員会は162の「有害な伝統的実践」を列挙しています。[6]これらの実践の多くは違法であり、一般的に人権の侵害であることが合意されていますが、同様の実践であって国際機関が本拠地を置いている国で合法とされているようなものもいくつかあります(タトゥーや体に傷をつけることなど)。「彼らにとっては悪いもの、私たちにとっては良いもの」とされている例が数多くあります。それぞれの実践、その文脈、法律、および言説は、この章の範囲を超えるような文脈化を必要とします。しかしながら、頻繁に議論されている1つの実践である女性生殖器除去の脱構築の有用な例は、ラッセル-ロビンソン(Russell-Robinson 1997)、ジェームズ(James 1998)、オーバーマイヤー(Obermeyer 1999)、アマドゥとシュウェーダー(Ahmadu and Shweder 2009)、ロンドノ(Londono 2009)によって行われています。

プロジェクトのスタッフは、彼らがやめるべきだと考えている「有害な伝統的実践」をいくつも特定しました。しかしながら私は、そのうちの1つだけを取り上げます:女性の栄養摂取に悪影響を及ぼすと考えられる一連の食品の禁忌についてです。特に、1つの特定の食品の禁忌に焦点が当てられました:女性が卵を食べるのを制限することです。これは、その組織が提供する報告のすべてにおいて言及されている唯一の食品の禁忌でした。

私は、プロジェクトの提案書から、女性が卵や牛乳を摂取することを禁じる「文化的な禁忌」があることを学びました。[7]これに対処するために、プロジェクトはアクセスを改善し、これらの製品の栄養価に関するトレーニングを提供しようとしました。最初の評価報告書は、この禁忌では卵の消費が禁止されているだけでなく、家禽の消費も禁止されていることについても述べていました。しかしながら、その禁忌では、女性の自宅や義理の家族の家で飼育された特定の種類の鶏の卵や肉を食べることのみが制限されていることが後に明らかになりました。その組織は、この実践が女性と幼児に悪影響を及ぼしていると主張しました。なぜなら、ただでさえ限られている栄養源(特にビタミンAの重要な供給源)が、さらに制限されるからです。ビタミンAの欠乏は、集団の間で一般的な微量栄養素欠乏症でした。卵が主な焦点でしたが、組織の他の内部報告は異なる情報を提供しました:女性と子供は、ヤギの肉、狩られた動物、またはいかなる乳製品も摂取することがありませんでした。

これらの生産物の消費は病気を引き起こし、義理の家族の死をもたらすと信じられていたために、禁止されていました。プロジェクトが開始されてから数年が経ち、子供の栄養摂取に大きな変化が生じたことが報告されました。報告書は、食品の禁忌を止めようとする訓練と教育プログラムがこの変化の理由であると示唆しました。プロジェクトの途中で実施されたジェンダーについての詳細な報告書は、女性と少女は依然として鶏肉と卵を食べることを一般に許可されてはいないことを示唆しましたが、肯定的な変化のいくつかの事例研究を提供しました。この特定の報告は、鶏肉と卵の禁止を定めた人物として義理の母を指摘しましたが、ほとんどの報告は、禁止がこの民族グループの間で「文化的」なものである、あるいはコミュニティーの誤解によるものであると単に述べているだけでした。5年間の作業の後、このプロジェクトは、卵を食べたり牛乳を飲んだりしないという「誤解」や「伝統的な実践」に対処することを目的とした活動に積極的に関与し続けました。

プロジェクトが開始されてから数年経って完成した報告書の1つでは、卵と鶏肉の消費を促進するプロジェクトの活動に対して大きな抵抗があると述べました。「有害な伝統的実践」は「深刻な禁忌」および「根強い信念」と記述されていました。この報告書は、「その禁忌が間違っていることを証明する」ために取り組んでおり、顕著な変化を促進していた別の組織に言及していました。私が国内本部の管理スタッフと会ったとき、同じような一般的な話を聞きました:そこには女性や少女がいくつかの食べ物、特に卵を食べることを禁じる文化的な禁忌がある、ということです。プロジェクトの地域に常駐するスタッフはこの情報を繰り返しました。

しかしながら、プロジェクトの年月を通じて、この特定の実践についてはほとんど何も理解されていませんでした。この食品の禁忌は特定され、いくつかの潜在的な、時には矛盾する理由が示されました。しかし、これらの食品の禁忌がなぜ存在するのかを理解するために時間をかけた人は誰もいなかったようです。私が後にこの質問を調査したとき、20年近くこの地域に住んで働いていた1人のスタッフは、「これについて知る機会がなかった」と述べました。これは、人類学者が非政府機関の中で活動する際に直面する課題の1つです:しばしば、コミュニティーが直面する困難は無知の結果であると想定されており、「解決策」は教育などの単純な(しばしば技術的な)活動として提示されます。私は、これらの実践に対する理解の欠如は、乗り越えることができない障壁によるものではなく、文化的な実践を理解可能にする「なぜ」、「どのように」、「いつ」などといった質問への探求の欠如によるものだと考えています。これらの種類の質問をする能力は、人類学的なものを見るやり方に組み込まれたスキルであると言えます。スコットが述べたように、「人間の状態を改善するためのスキーム」に精通している人にとっては、質問をすることに興味がないとしても驚くことではありません。組織は問題を特定し、解決策を提案し、証拠に基づいた活動を計画して目標を達成する傾向があります。国際開発部門の多くの人にとって、これらの禁忌が存在する理由を見つけることは特に重要ではありません。むしろ彼らは、(彼らによって)有害であるとみなされた実践を止めることが最も重要であると信じています。

私たちはそれについて尋ねることは決してなかった

歴史家のオイゲン・ウェーバーは、「人は異なるものを探すとき、異なるものを見る」と書きました。[8]彼は文章の中で「見ること」について言及していました。わたしは同じことが他の種類の観察にも当てはまると思います。人類学者は基本的に独特なレンズを通して世界を見ており、人類学的な方法論、アプローチ、考え方を通じて他者が見ていないものを見る能力を育てています。物理的な現実は同じものです。レンズが違うのです。同様に、非政府組織の専門家(管理スタッフ、経済学者、医療専門家、開発専門家)は、特定の訓練、つまり彼らのレンズを種々の問題に持ち込み、しばしば彼らがそれぞれ重要と見なすさまざまな種類の情報に焦点を当てます。言い換えれば、私たちの個々の視点が私たちの見るものを変えます。

国際開発に携わる人類学者にとっての倫理的課題は、しばしば資金提供者、組織、プロジェクトが詳細な社会文化的な情報なしで運営されることです。その結果、多くの人類学者は、部門が運営される方法に対して大幅な変更を提唱することになります。たとえば、プロジェクトの設計では、コミュニティーの必要性についての基本評価が行われる前に、活動案の概要が示されることがよくあります。プロジェクトが承認され、予算が設定されると、コミュニティーの必要性についての新しい知識に基づいて焦点と計画を完全に調整することは困難になります。これらのプロジェクトに取り組んでいる人類学者は、しばしば、資金提供者の優先順位ではなく必要性に基づいた資金調達構造にすることや、プログラム計画で概要が示された一連の活動を実行するのではなく計画に柔軟性を持たせることなどといった、新しいアプローチを提唱するという困難な立場に自分がいることに気づきます。

この開発プロジェクト内で特定された食品の禁忌の場合、さまざまな見方が報告書で明らかにされました。医療の視点は食品の栄養含有量の影響に焦点を当てており、ジェンダーの専門家は女性の権利の侵害に最も関心がありました。計画立案者は、証拠に基づいた方法を使用して、どのようにして行動の変化が生じ、プロジェクトに統合されるのかを特定し、経済学者は、家禽の生産と卵の販売によって女性が生み出す潜在的な収入に対して注意を払いました。数年が経過し、コミュニティーの人々による強い抵抗が確認されたにもかかわらず、食品の禁忌は、一貫して、最良の実践と証拠に基づく行動変更アプローチによって排除することができる文化的な問題または誤解として提示されていました。その計画は、「認識を高め」、「コミュニティーに基づく対話」を開き、そのような禁忌が実践されていないコミュニティーとの「交流訪問を促進し」、栄養教育を提供することでした。紙の上では、計画は良いもののように聞こえます。多様な活動は、それぞれが独自の洞察を提供することで行動の変化のメッセージを強化し、したがって、所望の目的を達成する際に複合的な効果をもたらすでしょう。その活動は、以前はさまざまな状況で成功してきたことが示されていました。プロジェクトのスタッフにとって、必要な情報はすべて収集されたように見えました。

私の仕事は、コミュニティーの人々と時間を過ごし、食品の禁忌について尋ねることから始まりました(それらは実際に何であり、なぜ存在したのか)。そして、コミュニティーのメンバーは詳細で洞察に満ちた情報を提供してくれました。私がそれについて現場スタッフと話したとき、彼らはコミュニティーの人々にそれらの質問をしたことがなかったと報告しました。それは不注意のように聞こえるかもしれませんが、私はそれが1つの見方の論理的な結果だと考えています。問題のある実践が特定され、組織がそのような行動を変えた活動の経験がある場合、なぜ詳細が重要になるのでしょうか?その視点からは、そのようなデータを収集する退屈な仕事は、貴重な資源、時間、および労力を浪費するものでしょう。現時点では、この種の技術的視点からの見方の体系的な性質に光を当てることが重要です。そのような視点は、国際開発プログラムとそのスタッフの組織文化に共通しています。それは国際開発で働く者に限られません。国や地方の組織もしばしば、「悪い」文化的な禁忌について、それは栄養についての教育を提供し、女性に力を与えることにより排除することができる、というような同じ物語を提示します。

人類学者のように見る

私がこのプログラムで仕事を始めたとき、私は食品の禁忌を実践していた民族グループとの以前の経験がなく、この地域に行ったこともありませんでした。私は、食品の禁忌とは無関係の評価の一環として多くのコミュニティーを訪れ、ジェンダーで分けられた小集団での議論と個別のインタビューを行うために派遣されました。私が最初に訪れたコミュニティーでは、大人の男性は食品の禁忌について何も言及しませんでしたが、女性は言及しました。そして彼女たちが言ったことはプロジェクト報告と矛盾していました。彼女たちは、制限は成人の既婚女性にのみ適用され、公式報告の1つが記述していたように、特定の世帯で飼育された特定の地元の鶏に限定されていると述べました。私はコメントを書き留めて、自分の仕事を続けました。第2のコミュニティーでは、私は2つのキリスト教宗派の宗教指導者にインタビューしましたが、彼らは食品の禁忌についても言及し、それらを魔術の一般的な実践の例として説明しました。3番目と4番目のコミュニティーでは、それまで誰も尋ねることのなかった文脈を探る長い議論を行いました:実際のところ、食品の禁忌とは何ですか?なぜ禁忌が存在したのですか?継続的な実践としてそれらを強化したものは何ですか?人々はその実践をどのように見ていましたか?それらに従わないときの帰結はなんでしたか?そのコミュニティーで働いていていたスタッフは、単に質問するだけで収集された貴重な情報に驚いていました。

コミュニティーのメンバーは多くの重要な説明を行いましたが、そのうちの一部は報告書で提示された内容と一致し、一部は一致しませんでした。これらの禁忌の詳細はすべてのコミュニティーで均一ではありませんでしたが、いくつかの傾向を共有していました。たとえば、女性が結婚すると、卵や鶏肉を食べることの禁止などを含む、いくつかの制限が開始されました(その対象は地元の鶏から生産されたものと彼女の家または義理の家族の家で育てられたもののみでしたが)。この制限は、子供や未婚の少女には適用されず、他の種類の鶏にも適用されませんでした。さらに、隣人の鶏の卵など、別の出所からのものである限り、女性は卵と鶏肉を食べることができました。一部のコミュニティーでは、これは狩猟動物の肉や牛乳にも当てはまります。禁止された食品を消費した女性は、むくみやかゆみなどの不調に苦しんだり、義理の家族の1人の死を引き起こすことさえあると信じられていました。あるプロジェクト活動では、女性たちに対して、食べることを禁じられている卵をプロジェクトのスタッフのところに持ってくるように指示しました。スタッフはそれらの卵を調理して、女性たちに食べるように言いました。一部の女性の反応は完全な拒否であり、一部の女性は食べましたが吐き出しました。他の女性は指示に従い、強い異議なしに食べました。これらのような反応は、禁止には単なる単純な誤解以上のものがあることを示唆しました。

私は死ぬまでそれを食べない

コミュニティーの長老たちは、食品の禁忌が、行動に対する相互に関連した一連の制限(そのうちの一部は、プロジェクトによって、有害で​​あるものの食品の禁忌には関連していないと特定されたもの)のうちの1つであると説明しました。食品の禁忌に加えて、それらの制限の中には、月経中の女性が触れることができるものと入ることができる場所の制限、夫が食べるまで季節の最初の収穫物を妻が食べることの禁止、および夫が飲むまで新しく準備されたアルコール飲料を妻が飲むことを妨げる規則が含まれていました。プロジェクトの作業者はこれらの実践の多くを特定していましたが、それらが別々の伝統として互いに隔絶しているものと理解していました。それらの実践をつながれたものとして見る長老の見解は、それらがより大きな何かの現れとして理解される必要があることを示唆しました。

私は、コミュニティーごとの物語は異なるものの、情報と特定のルールは一貫していることを見出しました。実際のところ、食品の禁忌は、日常生活の多くの要素に影響を与える詳細な信念体系のごく一部でした。過去に(おそらく二世代前に)、彼らの民族グループに尊敬されたリーダーがおり、彼は超自然的な特性を持っていました。彼の名前はグムザンジェラであり、彼はコミュニティーを導き、宗教的リーダーシップに似た役割を果たしました。グムザンジェラは亡くなりましたが、彼はコミュニティーに存在し続けました。彼の存在(彼の霊魂として記述されます)は、何が起こるかに影響を与え、病気を引き起こすことがあり、治療法を求めるときに呼び出されることがありました。ある人は、グムザンジェラは人間だと信じていました。他の人は、彼が常に超自然的な存在であると信じていました。とにかく、グムザンジェラへの信仰は深刻な問題でした。人々は彼を信じ、彼の規則が真実であると信じ、そしてそれに従わなかった時の影響を目撃してきました。グムザンジェラが、女性に対する食品の禁忌と制限を設けました。彼について語られた多くの物語のうちの1つは、彼の最初の子供が生まれたとき、その子は特定の植物の葉を握っており、その後その植物は霊的な病気の治療薬として使用されるようになったということでした。病気の治療は、グムザンジェラの回想の共通のテーマであり、人々が彼の助けを求め続けた主な理由でした。グムザンジェラに従わないと、ルールに違反した人や、食品の禁忌で引き合いに出される義理の家族のような親戚に対して、呪いがかかると言われていました。呪いは、激しいかゆみや腫れなどの比較的軽度の病気から、義理の家族の死にまで及びました。

女性に対して多くの行動を禁止することに加えて、グムザンジェラは、しばしば彼の教えに基づいて、人々が従うべき特定の指示を与えました。その指示は、グムザンジェラと通信するコミュニティーの霊的媒介者を介して伝えられました。たとえば、グムザンジェラは、鶏の爪を切り落とし、それを治療が必要な人のへそに入れるという治療法を処方していました。爪は1週間そこに残され、その期間はその人は入浴できませんでした。週の終わりに、爪が取り除かれ、その人は水浴びをしました。治療を受けている人だけが、爪を切られた鶏の肉を食べることができました。

それぞれのコミュニティーには、有名な霊的媒介の実践者(男性と女性の両方)がおり、人々はグムザンジェラとつながるために彼らを訪れます。人々はさまざまな形態の支援を求め、または誰かに呪いをかけるように求めました。何かを求める人には、あることを行うか、あることを控えるような特定の指示が与えられることがあります。支払いと捧げものが必要になることもあれば、グムザンジェラが長時間の霊的な催しを要求し、その夜の間に儀式が行われたり犠牲が与えられたりすることもありました。

プロジェクトの報告書の1つでは、食品の禁忌は根深いものであると言及されていましたが、文脈の中では、なぜそうなのかが容易に理解できます。特定の食品の禁忌は、はるかに大きな信念体系の構成要素でした。それらはコミュニティーの宗教的伝統によって必要とされる不可欠な活動であり、したがって非常に真剣に受け止められていました。コミュニティーのメンバーの1人が指摘したように、それらは「グムザンジェラの法」の一部でした。

簡単な例え話が、この点の重大さを示しています。このプロジェクトのコミュニティーの人々が、ユダヤ教またはイスラム教(豚肉を含む多くの食物の消費を禁止する宗教)の信奉者であったと想像してください。[9]国際開発の組織とその外部スタッフは、人々が豚肉を消費することによって解決することができるタンパク質欠乏症を特定し、それに対する禁忌のことを、栄養価についての教育を通じて排除されるべき有害な伝統的実践と見なすかもしれません。さらに、社会で不利な立場にいる人々は、収入を得るために豚を飼育し、販売するよう奨励されるかもしれません。イスラム教とユダヤ教は何百万人もの信奉者を持つ主要な広く認識された宗教であるため、栄養的および経済的根拠に基づいて豚肉を食べるように彼らを説得しようとするのは不合理に思えるかもしれません。しかし、グムザンジェラの法もまた信念体系であり、イスラム教とユダヤ教がその信者にとって重要であるのと同様に、それらはプロジェクトのコミュニティーにとって重要なものです。そのプロジェクトは、食品の禁忌が包括的な信念体系の一部であり、組織が文化的に重要な信念と価値観に直接対立する要求を行っていたことを認識していませんでした。その結果、プロジェクトの活動は、彼らの宗教的伝統に対する侮辱、そして法が由来するような尊敬される正義の人と彼の生きている霊魂に対する侮辱と見なされました。

私は男性のグループに対して、ある人がグムザンジェラを信じ続けるとともに、鶏肉と卵に関する食品の禁忌を実践するのをやめることができるかどうかを尋ねました。いや、それは不可能だ、と彼らは言いました。彼らは力強く付け加えました。「私はグムザンジェラを信じている。私は効果を見てきた。グムザンジェラのもの以外の治療法は効かない。」彼らは、「医療専門家による治療法などない。グムザンジェラだけがそれらの病気を治療することができる。」と説明しました。女性もこれらの信念を完全に受け入れていました。たとえば、プロジェクト開始から数年後、ある女性が「私は死ぬまでそれ[卵]を食べない」と述べました。彼女の反応は、プロジェクトの努力をよそにした、彼女の個人的な信念の強さを反映していました。インタビューをしたコミュニティーのメンバーの大多数は、グムザンジェラに対する信念が正しいこと、そして定められたシステムに従わなければならないことに同意していました。グムザンジェラは彼らの生活と家庭に存在し、彼らの日々の生活に影響を与えていました。彼らはそれを経験し、それが真実であることを知っていました。

コミュニティーの一部のメンバーは、「グムザンジェラを離れ」、異なる信仰(キリスト教またはイスラム教のいずれか)を実践していました。彼らがグムザンジェラを離れて、食品の禁忌を放棄した主な理由は、彼らの説明するところによれば、その新しい信仰の神学でした。女性は卵を食べ、月経に基づく規則を無視し、霊的な施術者による治療法ではなく、地元の診療所からの医療援助を求めました。禁忌を放棄することは、より大きな信念体系の放棄、すなわち新しい神学への宗教的回心、または信仰の拒絶への宗教的回心を必要としました(少なくとも理論的には。私は信仰を完全に拒絶したコミュニティーのメンバーに出会うことはありませんでした)。

孤立した事例?

この特定のプロジェクトは独特なものなのでしょうか?それとも、国際開発では実務家の狭い見方が一般的なのでしょうか?私が関わった別のプロジェクトは、収穫量を増やすことを目的とした植え付け方法の変更を促進する農業機関によって運営されていました。農家は、新しい植え付け方法が収穫量を増加させることを認識しましたが、それを採用しませんでした。その失敗の主な理由は、農業の生計において何が重要であるかについての異なる考え方です — その機関は短期的な利益を促進していましたが、農家は土壌の長期的な持続可能性を優先していました。別の国際機関とその資金提供者は、ある地域の子供の栄養失調は、微量栄養素欠乏症を減らすために多様な食品を摂取することの栄養価についての知識の不足によるものであると確信しており、彼らは問題に対処するための一連の教育プロジェクトを開発しました。しかし、コミュニティーのメンバーと時間を過ごした後、彼らは、食事の中での多様性の欠如は主として貧困のために選択肢がほとんどないこと、そして、栄養失調は季節的な食糧不足に関連しており、教育を通じては軽減できないことを認識しました。これらのプロジェクトの活動は有益なもののように見えますが、実際の問題には対処していませんでした。そうではなくて、それらは問題と解決策の両方についての仮定に基づいて設計されており、文脈化された民族誌学的な情報を重視していませんでした。

技術的アプローチは、それらが適用される社会-政治的な文脈をあまりにも頻繁に除外し、その結果、プロジェクトとその活動の政治化された性質を完全に見逃しています。たとえば、私が中東で働いた職業訓練の取り組みは失敗しました。それは、教育の必要性が誤解されたからではなく、それが行われた社会-政治的な文脈が無視されたからです。提供される教育の質の向上が目的ではなかったため、既存の教育システムの質の低さは対処されませんでした。同様に、冒頭で述べた社会的セーフティネットの評価では、プロジェクトの実施における政治的性質が国際的な資金提供機関によって適切に認識されていませんでした。[10]したがって、この章で検討した経験は珍しいことではありません。人類学的な見方により、幅広い問題を(文化的、社会的、政治的な)視野に入れ、プロジェクトの目標と活動に組み込むことができることは明らかです。これらは、技術的なアプローチと評価が比較的見落としがちな領域です。

省察

それでは、社会-文化人類学者は何をするのでしょうか?この質問に対する単一の答えはありません。しかしながら、人類学者が習得する技能は、多くの異なる状況に適用することのできるユニークな見方や聞き方を明らかにします。ある人類学者はこれらの技能を使用して、より包摂的で多文化的な政策の立案を促進し、別の人は十分に理解されていないサブカルチャーに関与し、そしてさらに別の人は消費財のマーケティングの効果を高めます。この章では、開発の活動、関係者、および「開発」が行われる人々を文脈化するために私が人類学的な見方をどのように使用したかを示し、国際開発部門や非政府組織で働く際に人類学者が直面する倫理的課題を探っています。

一般に、国際開発機関で働く人々の多くは、相手の人々に対してなぜ彼らが行っているようなことをやっているのかを尋ねる価値をまだ認識していないことを私は発見しました。人類学者の観点から見ると、なぜある実践が行われるのかを理解することは、単なる調査の行為ではありません。それは、人々と彼らの知識への敬意を示し、耳を傾け、学び、見るための時間をとる手段でもあります。開発の実務者の典型的なアプローチは、プロジェクトが支援しようとする人々の文化、価値観、考え方に対する敬意の欠如を黙示的かつ明示的に伝えてしまっています。

人類学者の見方に内在している敬意は文化的相対性に基づいており、それが調査プロセスを導いてくれます。問題となる実践の相対的な文脈を理解するために、判断は差し控えられます。開発組織のスタッフは、自身の仮定に基づいて判断する頻度が非常に高く、さらに調査することの価値を理解していません。その限られた視界は、彼らの成功への障壁となっています。人類学者のように見る上で、他の人々の視点を理解し、彼らの考え方を尊重することをいとわないことが不可欠です。人類学者として、私はグムザンジェラを信じる必要はありません。しかしながら、私の訓練と教育によって、私はその信念に基づいた視点から世界を理解し、見始める準備ができています。自分以外の視点から現実を見る能力と意欲は、不可欠な技能です — それは、一部の人々が見ないものを見て、一部の人々が聞かないものを聞く能力です。人類学は、国際的な開発の取り組みの活動を文化的な価値観に結び付けることができ、それらがお互いに対立するのではなく一緒に働くようにすることができます。たとえば、食品の禁忌が埋め込まれた包括的な信念体系を特定することは、女性と子供の栄養不足の問題に対する実用的で文化を尊重した解決策への新しい道を開きました。

開発組織の取り組みの物語は、意図的に未完成のままにされています。そのコミュニティーは抵抗したでしょうか?組織は活動を変更したでしょうか?異なる学習および質問ベースの文化は組織内で支持されたでしょうか?グムザンジェラへの信仰は続いたでしょうか?組織は特定の行動を変えることに成功したでしょうか?コミュニティーはどのように外部からの圧力を切り抜けたでしょうか?個人は主にプロジェクトの主張に屈したでしょうか、それとも外部の提唱者をかわし、方向をそらし、欺くような方法を見つけたでしょうか?この章が伝えたように(私はそう願っていますが)、人々を変えるようにする取り組みに対する人々の反応は複雑です。人類学者は、組織の視野を拡張することによって重要な役割を果たし、組織のプログラムと活動が、設計および実施の対象となる人々の現実とよりよく一致するようにします。

ディスカッションのための質問

1.この章で記述された国際開発の専門家は、「グムザンジェラの法」に関連する食品の禁忌を排除することを決意していましたが、コクランはこれらの規則がより大きな信念体系の一部であると指摘しています。健康、栄養摂取、または女性の権利における変化を促進するために、グループの文化的価値観を変えようとすることが許容される状況はあるでしょうか?また、あなたは部外者が変化を要求することは不適切だと思いますか?グループにその価値観や信念を変えるように圧力をかけることなく、栄養の改善などの目標を達成することは可能だと思いますか?
2.コクランは、人類学的な視点と方法が、開発の専門家が持っていないような地元のコミュニティーについての重要な情報の発見につながった状況の例をいくつか提示しています。しかしながら、多くの開発プロジェクトの特徴である地元の文化についての知識の不足は、単に人類学的な専門知識の不足によって引き起こされているわけではありません。この章で言及されている他のどのような要因が、地元の人々の必要性と国際開発プロジェクトの目標との不一致に寄与しているでしょうか?

用語集

文化的帝国主義:異なる社会のメンバー間に不平等で不公平な関係を課そうとする試み。

食品の禁忌:特定の食品の準備および/または消費に対する文化的な規則。

有害な伝統的実践:地元のコミュニティーのメンバーによっては平凡で受け入れられるものと見なされているが、部外者にとっては破壊的または犯罪でさえあるように見える行動。

著者について

ローガン・コクランはカールトン大学のバンティング・フェロー(グローバルおよび国際研究)であり、ハワッサ大学(政策および開発研究所)の非常勤講師です。過去12年間、彼はアフガニスタン、ベナン、ブルンジ、コンゴ民主共和国、エチオピア、タンザニア、ウガンダを含む海外で働いてきました。ローガンは、マネジメント・サイエンシズ・フォー・ヘルス、セーブ・ザ・チルドレン、リエゾン・オフィス、UNICEF、UNAIDSを含むクライアントとともにコンサルタントとして働いています。

書誌情報

Abu-Lughod, Lila. Do Muslim Women Need Saving? Cambridge, MA: Harvard University Press, 2013.
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注記

[1] 以下を参照。Logan Cochrane and Y. Tamiru, “Ethiopia’s Productive Safety Net Program: Power, Politics and Practice,” Journal of International Development 28 no. 5 (2016):649–665.
[2] 私は、自分が「人類学者のように見る」ことについて最初に書いたと主張することはできません。ロック(Lock 2013)を含め、他の人もそのことについて書いてきましたが、その目的はわずかに異なります。
[3] 国際開発の実務家に対して活動を改革するように呼びかけた人々には、ロバート・チェンバーズ(Chambers 2012)、ポール・ファーマー(Farmer 2001)、ダンカン・グリーン(Green 2012)が含まれます。援助の提供がより大きな貧困を引き起こすことを示唆する、より過激な批判は、アルトゥーロ・エスコバル(Escobar 1994)とイヴァン・イリイチ(Illich 1997)に見ることができます。ダンビサ・モヨ(Moyo 2009)は、国際開発プロジェクトの終了を呼びかけています。
[4] 他の開発の関係者の見方についての人類学的な視点に興味がある人は、コリアーの仕事に関するマクガヴァンの記事(McGovern 2011)を読むことができます。
[5] 私は、部外者という用語を使って、当該コミュニティーの外部の人々(メンバーでない人、あるいはその特定の場所内またはその近くに住んでいない人)のことを指しており、国際スタッフのみを指しているわけではありません。
[6] NCTPE, National Committee on Traditional Practices of Ethiopia, 2003
[7] この章で言及されているプロジェクトの提案書と報告書は、一般に公開されていない組織の内部報告書です。この報告書の目的はプログラムに情報を与えることであり、一般に公開されている(常にオープンアクセスとは限りませんが)学術研究記事とは異なります。これらの実践はかなり異なっているように見えますが、いくつかの類似点があります:組織は収集されたデータの全体に基づいて自分たちの仕事に関する一般に公開される報告書を発行しますが、これらの報告書には彼らが持っているすべての情報が含まれているわけではありません。同様に、学術研究者によって収集されたすべてのデータが一般に公開されるわけでも、出版されるわけでもありません。むしろ、そのデータのうちの選択されたものが学術論文や書籍で公開されています。
[8] Eugen Weber, 1976, Peasants into Frenchman: The Modernization of Rural France, 1870–1914. Stanford University Press: Stanford University Press, x.
[9] レビ記第11章:7–8:「豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。あなたがたは、これらのものの肉を食べてはならない。またその死体に触れてはならない。これらは、あなたがたには汚れたものである。」クルアーン第2章:173:「かれ[神]があなたがたに、禁じられるものは、死肉、血、豚肉、およびアッラー以外に供えられたものである。」
[10] Cochrane and Tamiru, “Ethiopia’s Productive Safety Net Program.”

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Figure 1: Image courtesy of Logan Cochrane

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