視点:文化人類学への開かれた招待 第2版 —第19章 公共人類学—

Japanese translation of “Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”

Better Late Than Never
128 min readJun 26, 2020

コミュニティーカレッジ人類学協会(SACC)のサイトで公開されている教科書“Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

第19章 公共人類学

ロバート・ボロフスキー、ハワイ・パシフィック大学および公共人類学センター
borofsky[at]hpu.edu
http://www.publicanthropology.org/

ボロフスキー博士は、公共人類学の例として(カーンアカデミーのモデルに沿って)、入門の学生向けに人類学の主要なトピックに関する10~15分の短いビデオを作成しました。28本のビデオはすべて、「視点:文化人類学への開かれた招待(Perspectives: An Open Introduction to Cultural Anthropology)」のウェブサイトから利用できます。

学習目標

•学術界でのキャリアの構造、トピックの専門化、および執筆スタイルが、どのようにして学術的な人類学からより広い公衆へと発見を伝えることの困難さの原因となっているかを説明する。
•公共善に寄与した人類学的研究の例を特定する。
•公共人類学を定義し、それを学術的な人類学および応用人類学と区別する。
•人類学の中における公への関与の欲求に貢献する要因と、この関与に対する障害を評価する。
•説明責任、透明性、協力、および他者に利益をもたらすという目標が、どのようにして人類学の再構築に貢献することができるかを評価する。
•社会の変化を促進するために人類学者がとることができる行動について議論する。

はじめに

ジュリー・アンドリュースが(「サウンド・オブ・ミュージック」の中で)ドレミの歌を「Let’s start at the very beginning, a very good place to start(最初から始めましょう。始めるのにとても良い場所だわ)」と歌った時、彼女は正しかったでしょうか?著者は、教科書の章を書く際に彼女のアドバイスに従って、まず最初に章の構成を説明して、読者に何が来るかを知らせ、章のテーマを明確に辿ることができるようにするべきでしょうか?私はドレミの歌をジュリー・アンドリュースの半分ほどもうまく歌うことはできません。しかし、私は彼女の提案に従うようにします。

この章は、その構成の概要から始まります。そこではいくつかのトピックが、他のいくつかのトピックとある1つの小さな「秘密」に続きます。この導入の後、この章は、(a)人類学と一般市民との相互作用に起因する2つの難問へと向かいます。次に、(b)異なる人々が異なる方法で公共人類学を解釈することを考慮したうえで、どのように公共人類学を最もよく定義できるかを議論します(特にこの分野と応用人類学の曖昧な重複に関連させた形で)。これらの点に基づいて、この章では続いて(c)幅広い公衆にとってのこの学問分野に対する信頼性を高めるための公共人類学の4つの主な戦略を取り上げます。この章の最後は、(d)変化の促進に関する節、つまり人々の生活をより良く変容させたいと望む人々のためのガイドで締めくくられます。ジュリー・アンドリュースの歌がなくとも、これらの音は興味深いものだと私は信じています。この章では、重要な質問を問いかけ、思慮に富んだ答えを提供します。私は、それらによって、あなたが公共人類学が直面する課題と、公共人類学がどのようにして人類学全般による共通善へのより良い奉仕を促しているのかについて考察するように引き付けられることを願っています。

しかしながら、始める前に、わたしは秘密を共有しておくべきでしょう。あなたはこの章を通じて(ほとんどの人類学の論文や本と同じように)、番号付きの脚注で多数の参照文献を目にするでしょう。あなたは、人類学者がなぜ同僚の仕事を広範囲に引用することに熱心なのか(特にそうすることで学生や一般大衆が当惑するようなときでも)、と尋ねるかもしれません。誰が参照されているのか、それらが何を意味しているのかということについて限られた感覚だけしか持たずにすべての参照文献を見るのは、おじけづくようなことです。人類学者はこれらの参照文献を使用して、同僚に対して「自分が何について話しているかを知っている」ことを示しています。これは、あるトピックに関する主要な文献に精通していることを示しています。引用は別の目的にも資するものです。それらはこの学問分野を強化します。人類学者がお互いを引用すればするほど、人類学は語るべき重要なことを持つ重要な分野であるということが伝えられます — 引用されているすべての人々と論文を見てください。しかし、興味深いことに、多くの人類学者は、彼らがそれらに精通していることを示すのにかろうじて足りる程度で(通常は1文か2文で)、参照文献について申し訳程度に議論するのみです。

結果として、これらの引用は話半分に受け取っておくべきです。それらは、知的な資質、すなわち学術界における力量をお互いに伝える人類学者に関わるものです。もしそれらが興味深くないと思われる場合には読み飛ばしてください。それらによっておじけづかないようにしてください。では、なぜ私はそれらを使うのでしょうか?簡単に言ってしまえば、私はあなた(この文章を読んでいる学生)のためだけでなく、この章をレビューする同僚のためにも書いています。彼らは私が言った挑発的なことのいくつかについてさらに探求することに興味があるかもしれないので、私は彼らに対して私の情報源を見せておく必要があります。

私が特定の文章を太字にしているのはなぜでしょうか?これには3つの理由があります。

1.それはそれぞれの節の要点を強調しており、この章をあなたにとって読みやすくします。太字の部分の前後には、太字の文章を膨らませる追加の内容があります。これにより、キーポイントと、その中心となる点を議論および/または説明するような追加の内容とを分離できます。
2.もしあなたが急いでいる場合は、太字の部分に注目することによって、この章の主要なテーマをざっと読むことができます。あなたは主要な考え方は得られるでしょうが、太字のポイントを明確にする詳細や説明は得られません。
3.あなたはこの章を読み終えたら、太字の文章を使用して振り返ることができます。太字のポイントに戻り、この章の主要なテーマを覚えているかどうかを確認してください。もしあなたが不明な点に出くわした場合は、単純に近くの文章を読んで、太字の部分が何についてであるのかを明確にしてください。

2つの難問

それではこの章の主要テーマに移り、2つの難問を探求することから始めましょう。最初の難問:あなたがこの章にたどり着くまでに、あなたは人類学がどれほどエキサイティングなものであるかを見てきたものと私は望んでいます。人類学は、人間の状態についてのあらゆる種類の興味深い質問を扱います — 人間とその社会が時間とともにどのように進化してきたか、よく知らない場所における生活はどのようなものなのか、人間の違いが私たちの共通性について示唆していることは何なのか、そしてそれらを理解することで人間の関係がどのようにより良く促進されるのか。それでも、人類学的な問題を扱う広く読まれている人気のある本のほとんど(著名な賞を受賞し、ベストセラーであるような本)は、人類学者でない人によって書かれている傾向があります。なぜなのでしょうか?

2番目の難問:人類学者は世界で多くの成果を上げています — 過去と現在における人間の理解を深めるのに役立っているだけでなく、人々の生活を改善する具体的な変化を促進しています。しかし、人類学の積極的な取り組みは、世界の新聞や他のメディアではあまり取り上げられていません。繰り返しますが、なぜなのでしょうか?

最初の難問(なぜ非人類学者がベストセラーの人類学指向の本を書く傾向があるのか)から始めますが​​、まず3つの例を挙げてみましょう。この教科書を読むと、あなたは、西洋(西ヨーロッパ、カナダ、米国を意味します)がどのようにして「残り」(すなわち、非西洋社会)よりも発展したかなどを含む、人間社会の進化に関する本が人類学の標準的な内容であることがわかるでしょう。多くの人類学者がこれらのトピックについて書いてきました。しかし、大人気となった本は、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄:1万3000年にわたる人類史の謎(Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies)」(1997)だけです。この本は1998年のピューリッツァー賞の一般ノンフィクション部門を受賞し、PBSナショナルジオグラフィックの特別番組の主題として好評を博し、ほぼ4年間にわたってニューヨークタイムズ紙のベストセラーリストに残りました。ダイアモンドは学部生として人類学を学びましたが、生理学の博士号を取得しました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で生理学の教授としてスタートし、現在は地理学の教授です。

キャサリン・ブーの「永遠の美しさの背後:ムンバイのアンダーシティでの生、死、そして希望(Behind the Beautiful Forevers: Life, Death, and Hope in a Mumbai Undercity)」(2012)は、インドのスラム街での生活についての洞察に満ちた民族誌です。それは、圧倒的な困難にもかかわらず、人々がどのように生き延びているかだけでなく、時にはどのようにより良い生活への希望で満たされているかという鮮やかな感覚を提供します。最高の民族誌の伝統の中で、この本は読者に対して、主人公たちがどのようにして驚くべき、おそらくは衝撃を与えるかもしれないような状況をくぐり抜けて彼らの人生を切り開いているかを理解し認識することを可能にしてくれます。「永遠の美しさの背後」は、2012年の全米図書賞のノンフィクション部門とロサンゼルスタイムズ図書賞を受賞し、ニューヨークタイムズ紙のベストセラーになりました。ブーは何年もアンナワディ(ムンバイの空港近くのスラム街)の人々を研究していましたが、彼女は人類学者ではありません。彼女は調査ジャーナリストであり、以前はワシントンポスト紙に所属し、現在はニューヨーカー誌のライターです。

アン・ファディマンの「霊があなたを捕まえ、あなたは倒れる(The Spirit Catches You and You Fall Down)」(1997)は、医療人類学の詳細な拡張された事例研究であり、ラオス難民のモン族の家族と、その家族の癲癇を持つ娘リアを治療しているカリフォルニア州マーセドの病院の医療スタッフとの間で生じた誤解を記録しています。それは、善意の人々が互いにかみ合わない話をしたときに直面する問題の微妙で繊細な民族誌学的説明を提供します。ニューヨーカー誌が評したように、「ファディマンは、西洋医学とモン族の文化の衝突する世界を並外れた技能で記述している。」[1]この本は、全米批評家協会賞の一般ノンフィクション部門や、ロサンゼルスタイムズ図書賞の時事部門など、数々の栄誉を受けており、ほぼ100万部が販売されています。(ほとんどの人類学の本の売り上げは約2000部です。)ファディマンは人類学者に言及しますが、彼女自身はそうではありません。彼女がこの本を書いたとき、彼女はジャーナリスト兼編集者でした。彼女は現在、イェール大学に籍を置く作家です。

人類学者がその学問分野を超えて読者に読まれて認識されるのを望んでいることは間違いありません。そのような成果は、単にたくさんの本が売れるというだけではありません。それは、大学を超えて広がる公共への影響力を持つことを意味します。

一部の人類学者は人気のある著者であり、最も顕著なのは、おそらくマーガレット・ミードです。サモアの少女の性的経験とアメリカの少女の性的経験を比較した彼女の1928年の本「サモアの思春期(Coming of Age in Samoa)」は、数十万部を売り上げました。しかし、今日では、そのような人類学者は比較的まれです。クリフォード・ギアツは1988年に全米批評家協会賞の批評部門を受賞し、ロバート・レヴィーは1974年に全米図書賞の最終選考に残りましたが、どちらの本も学術界を超えて特によく売れたわけではありません。最近、別の人類学者のデヴィッド・ケルツァーがピューリッツァー賞を受賞しました。しかし、彼の著書「教皇とムッソリーニ:ピウス11世の秘密の歴史とヨーロッパにおけるファシズムの台頭(The Pope and Mussolini: The Secret History of Pius XI and the Rise of Fascism in Europe)」は、その副題が示唆するように、ヨーロッパの歴史の詳細に焦点を当てており、それは人類学の主流から外れた話題です。

私のポイントはこれです:今日、人類学のテーマについて書いている人類学者で、この学問分野を超えて広く読まれている人はほとんどいません。ベストセラーであり、著名な賞を受賞した人類学指向の本は、非人類学者によって書かれている傾向があり、人類学者が賞を受賞するような本を書くとき、それはあまり人類学的ではない主題になりがちです。

いったいなぜ?明らかに、人類学者はより幅広い人々のために書く技能も関心も持っています。私はそれが、部分的には、優先順位の問題ではないかと考えています。多くの人類学者は大勢の一般の聴衆がいれば嬉しいでしょう(2016年のクロニクル・レビュー誌の調査では、サンプリングされたクロニクル誌の購読者の83%が、学術界は公の議論を形作るためにもっと多くのことをや​​るべきだと考えていることが示されました)。[2]しかしながら、ほとんどの若手教授にとって、より高い優先順位は昇進と終身在職権となっています。これらを達成するために、彼らは真剣で専門的な仕事ができることを教員審査委員会に証明しなければなりません。顕著な専門的な仕事についての1つの重要な標識とは(それが唯一の重要な標識ではないにしても)、学術界の同僚が彼らの出版物の中で自分の出版物を引用する程度です。それはしばしば、著者の知的インパクトと呼ばれます。

昇進と終身在職権の評価をするための基準は他にもありますが、委員会は、教員の業績を評価する際に引用された出版物に頼る傾向があります。なぜなら、ある人の研究を同僚が引用する程度についての明確な指標が存在するからです。委員会のメンバーは、たとえばGoogle Scholarにログオンし、引用符の中に個人の名前を入力するだけで十分です。(Google Scholarは同じ名前の2人の学者を区別しないため、著者の学問分野を含めることも役立ちます。)最近まで、公開の出版物での著者の引用を評価するための指標はありませんでした。その後、昇進を求めている人類学者は、ほぼデフォルトで、学術的な引用の指標を通じて自身の能力を証明することが必要になりました。

また、外観を維持するという問題もあります。昇進委員会は、人類学者が特定の専門領域の基準に準拠するのを奨励することがよくあります。有名なイギリスの人類学者のメアリー・ダグラスは、「汚穢と禁忌(Purity and Danger)」(1966)と題された本の中で、社会構造(人類学の学部を含みます)は「システムを保護する明確で意識的な力で武装している。明確ではない、構造化されていない領域は、他の領域を挑発し、曖昧さを減らすことを要求するようにさせる」と強調しています。[3]一部の人にとっては、非学術的な聴衆に向けて話をしようと試みることは、学問的な実践に挑戦するものです。それは、人類学者が誰のために、そして何の目的のために書くべきかに関して曖昧さを生み出します。人類学者は、この方法で安全に学術的な実践に対して挑戦するためには、通常は高い地位にいる必要があります。(ここで留意しておくことは、世界的に有名なマーガレット・ミードは、著名な大学で上級の学術的な地位に就いたことはありませんでしたが、興味深いことに、多くの大学が彼女に講演をするように依頼しました。)

さらに、人類学者はかなり専門に特化したトピックに焦点を合わせる傾向があります。1980年、エリック・ウルフはニューヨークタイムズ紙で有名な論説を書き、「彼らは、分割して、さらに細分化して、そしてそれのことを人類学と呼んでいる。」と述べました。[4]彼は、広範で全体論的な分析から、より限定された専門的な分析へと転換する人類学の傾向に反対しました。人類学者は、学術的な訓練の一環として、通常は狭い専門的な主題に集中することを学びます。狭いニッチな主題であれば、教員は関連する専門的な文献のほとんどに精通することができるため、それは彼らの地位を向上させます。幅広いトピックではそれはより困難になります。ダイアモンド、ブー、およびファディマンの本はすべて専門に特化したトピックを扱っていますが、これらの著者は、幅広い読者が興味を持つようなより広範な関心事に自分のトピックがどのように適合するかを示すのに優れています。残念ながら、多くの人類学者はこの方法で執筆した経験がありません。

私は、公共人類学カリフォルニア叢書シリーズの編集者としてこの問題に直面しています。このシリーズは、多くの学問分野の学者に対して、主要な社会的懸念について広く一般の人々が理解し対処するのに役立つ方法で書くことを奨励しています。2人の大統領(ミハイル・ゴルバチョフとビル・クリントン)と3人のノーベル賞受賞者(アマルティア・セン、ジョディ・ウィリアムズ、ミハイル・ゴルバチョフ)が本または前書きの著者としてこのシリーズに貢献しています。その名声のために、多くの人類学者はこのシリーズの執筆に意欲的ですが、エキサイティングな方法で幅広い聴衆に向けて執筆することは彼らにとってしばしば困難を伴います。彼らの昇進と終身在職権への願望を考えると、それは往々にして遠すぎる橋です。

この章の後半で詳しく説明しますが、ここで簡単に触れておきたい別のあまり語られない理由があります。それは、イタリア人のアントニオ・グラムシに関連する用語である文化的ヘゲモニーに関連しています。文化的ヘゲモニーとは、支配的なグループや視点がさまざまな信念、説明、価値観、世界観を秩序化することで、それらが規範(期待される行動方法)として見られるだけでなく、現状維持を自然で有益なものとして正当化し、それによって支配的なグループが主導権を握ったままにするような手段であると定義することができます。それのことを、あからさまな権力や暴力を振りかざすことなく支配するための手段として記述することもできるかもしれません。

これは、ロバート・レヴィンとサラ・レヴィンの「親は重要なのか?(Do Parents Matter?)」についてのニューヨークタイムズ紙の書評の中で見られます。この本のテーマ(アメ​​リカ人の親は子供を育てるのにそれほど緊張するべきではない)は、比較的幅広い読者を引き付けるはずであり、それがおそらくニューヨークタイムズ紙の書評欄(2016)でレビューされた理由です。[5]問題は、レヴィンたちが学術的な執筆スタイルから足を踏み出し、幅広い読者に彼らの考え方の妥当性を示すことができなかったことです。レビューの一部から引用してみましょう:

しかし、直接の経験やその他の研究のめまいがするような概説の中にあって、確実な結論は…まれである:トイレトレーニング、食事のパターン、かんしゃく…何らかの文化がそれに対して答えを見つけ出しているということではなく、それは「実践がいくつもの文化にわたってあまりにも広範に違うものであるため、アメリカの子供たちのメンタルヘルスが「思いやりのない」幼児ケアによって危険にさらされているという仮定を私たちが無批判に受け入れることができない」ということである。

…レヴィンたちは文化的な文脈を深く理解しており、ハウツースタイルのアドバイスをいくらか提供することができる:一緒に寝ることは親の生活を楽にし、子供の発達を阻害することはない、「肌と肌のふれあい型の乳児ケア」は、より素直な子供を育てることができる。しかし、際限なく複雑な文化的文脈と現場での研究の限界の組み合わせにより、これらの結論は西洋の読者にとってはあまり有用ではなくなっている。トイレトレーニングは、屋外または汚れた床で行うときには簡単である。約束を守らせることは、子供が6歳になったときに始めると、より達成しやすい。

何よりも最も失望するのはここだ:「私たちは、この本の中で記述されている親の実践が大人のメンタルヘルスに害を与えるかどうかという問題を解決するために必要な証拠をまったく持っていない。」誰かがその研究を行い、それについて本を書くべきである。私はそれが読みたい。

レヴィンたちは、終身在職権/昇進の審査委員会について心配する必要のない高い地位の人類学者です。彼らの本は重要なトピックを扱っています。彼らはより多くの聴衆のために執筆しようとしましたが、慣れ親しんだ快適な学術スタイルのプレゼンテーションの外へと踏み出すことができませんでした。代わりに、彼らは人類学と学術界の文化的ヘゲモニーの枠組みの中に留まりました。

同じパターンは、人類学に関連するインターネットサイトの台頭の中でも見られます。原則として、変わりゆくメディアの光景は読者の興味を広げ、彼らに豊富な情報を提示するはずです。しかし、多くの場合、読者は自分の既存の関心に合ったウェブサイトに集中し、しばしば自身の知的な「バブル」内に留まります。人類学的な洞察をより幅広い観衆に利用可能にすることを目指す SapiensAnthro{dendum} などのウェブサイトによって、より多くの公衆へと手を伸ばす人類学的な努力を見ることができます。しかし、それらが問題を枠づけ、カバーするトピックを選択し、情報を提示する方法は、読者を制限しています。

簡単に言えば、より多くの聴衆に届けたいにもかかわらず、高い地位にある人類学者でさえも彼らの学問分野と学術界のヘゲモニー的枠組みを逃れるのが難しいことがわかります。彼らは、自分たちの快適な領域からあまりにも離れて、学者として慣れ親しんできた枠組みからあまりにも離れて活動することに不安を感じています。

2番目の難問に目を向けましょう — なぜ人類学者は、他の人を助け、共通善を養うことに関して、あまり認識されていない傾向があるのでしょうか。再び、私たちは3つの例を検討していきます。1つ目は、気まぐれな官僚的要求に直面している個人に関するものです。1978年、アイダホ州のネイティブアメリカンのバノック族とショショーニ族の6人の高齢の女性が、地元の社会サービス機関によって詐欺罪で告発され、賠償金としてそれぞれ2000ドルを支払うことが求められました。この詐欺の告発は、これらの女性が収入について、そしてすなわち追加保障所得の支援を受ける資格について米国政府を欺いたという信念に基づいていました。人類学者のバーバラ・ジョアンズは、法廷で女性たちのための専門家証人として行動しました。彼女は、女性たちが英語を完全には把握しておらず、その結果として、政府の規制について限られた理解しか持っていないことを強調しました。ジョアンズは「社会サービスの担当者とインディアンの女性たちは、英語と文化的理解において異なるレベルで活動していたと結論付けた…[その結果]女性たちは、彼女たちに何が期待されているのかを理解することができていなかったであろう。」[6]裁判官はジョアンズの結論に同意し、今後、「社会サービスの担当者は、居留地に行きプログラムとその要件を説明するときには通訳を使わなければならない」と決定しました。[7]この女性たちは政府の給付金を失うことはありませんでした。

2番目の例は、政府プログラム(米国企業のイノベーションを促進するために米国商務省によって設立された実験的技術インセンティブプログラム(ETIP)[8])の研究に関係しています。人類学者のジェラルド・ブリテンは、このプログラムを観察するのに2年以上を費やし、その有効性について詳細な評価を行いました。ブリテンは、その良い目的にもかかわらず、このプログラムは構造的な拘束を受けていると示唆しました。企業はプログラムの提案に従うインセンティブがほとんどなく、独自の優先事項がありました。さらに、このプログラムはスタッフの入れ替わり率が高かったため、そのプロジェクトの監督はしばしば不規則でした。プログラムの無意味さが最終的に証明されたのは、割り当てられた資金のすべてを使用できなかったことです。約200万ドルの余剰により、このプログラムは上級の管理者の知るところとなり、簡単な調査の後、商務省はプログラムを打ち切りました。ブリテンはフィールドワークを通じて、その価値と良い目的にもかかわらず政府プログラムが失敗する理由を説明することができました。

3番目の例はヴィコスプロジェクトに関するもので、これは人類学者が第三世界の開発を支援する重要な取り組みとしてこの学問分野の中でしばしば称賛されています。1952年、アラン・ホルムバーグの指導のもと、コーネル大学は「ヴィコス」(約1800人のケチュア語を話す住民のいるペルーの高地アシエンダ(農場))を借り、農業実験を行いました。「1952年から1957年の間に、ホルムバーグは同僚や学生とともに、一連の社会的、経済的、農業的変化を開始した…1962年に2度目の貸借が終了するまでに、ヴィコスをそこの人々に売却することを強いるような…大きな政治的圧力がかけられた。」[9]この前向きな結果にもかかわらず、プロジェクトの全体的な成功に異議を申し立てている人もいます。プロジェクトに参加し、数年後にヴィコスを再訪したポール・ダウティによれば、「プロジェクトの終了[公式には1966年]から数十年で、このコミュニティーは独立したコミュニティーとして多くの成功と失敗を経験した。経済基盤を多様化しようとするその試みは、しばしば[他の人によって]妨害され、農業事業は植物の病気[と]ひどい市場価格の影響を受けた…1974~80年の数年間、利己的な政府の介入は、コミュニティーの人々を混乱させ、リーダーシップを破壊し、彼らの自信を失わせた。」[10]それでも、ダウティは、ヴィコスの人々が「彼らの社会を侮辱的な農奴制と従属から、ケチュアの高地住民の自治的なコミュニティーとしてペルーの複雑で不確実な環境の中の他の人々と同等に自分たち自身を養うことができるように変えた」と結論付けました。[11]

これらや他の多くの例は、人類学には人々に力を与え、善を促進する能力があることを示していますが、それらはしばしば大衆には気付かれていません。なぜなのでしょうか?私は、4つの理由を示唆します。ぜひあなたも他の理由を追加してみてください。

1つ目は、変化の複雑さです。米国の公民権運動を検討してみましょう。公民権運動は、1964年の公民権法と1965年の投票権法というアメリカ社会の変革に役立っている2つの主要な法律へとつながりました。それには長い時間がかかりました — 実際のところ、1865年の憲法修正第13条(奴隷制度の正式な終了)の成立から1世紀かかりました。これらの法律の制定につながった1つのイベントを特定するのは困難です。投票権法への推進力の一部は、セルマでのマーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士を含む黒人の行進者が直面した暴力に起因していました。キング博士と南部キリスト教指導者会議(SCLC)の組織化、全国有色人種地位向上協会(NAACP)および学生非暴力調整委員会(SNCC)の活動、何百万人もの人々がセルマでの暴力を目にすることを可能にしたテレビの普及、リンドン・ジョンソン大統領の政治的技能、そしてリベラルな民主党と共和党の議員の連合がなければ、法案は決して通過しなかったでしょう。非常に多くの人々が関与しているため、その法律の制定に至る転換点となった1つの出来事や1人の人物を特定することは困難です。

人類学者は公民権運動で役割を果たしました。第二次世界大戦前、フランツ・ボアズとマーガレット・ミードは、変わりゆく社会環境が重大な行動の変化につながる可能性があることを強調しました。1939年、ホーテンス・パウダーメーカーは、黒人の成功を制限する経済的および政治的障壁を扱ったミシシッピ州の黒人の生活に関する洞察に富んだ民族誌を執筆しました。ボアズ、ミード、およびパウダーメーカーは、1964年および1965年の法律のための知的枠組みの開発を支援しましたが、彼らは法案の可決につながった出来事に直接関与していないため、公民権運動に関連して言及されることはほとんどありません。

2番目の要因は、シャーリー・フィスケによって指摘されました。彼女は、人類学者のことを、頻繁にボトムアップで作業しているものとして記述しました。人類学者は、重要な変化の主体として強調されることはありません。なぜなら彼らは、政治的なスポットライトから離れて自分たちの仕事をしており、問題を少しずつ削り出しているからです。気候変動に関する人類学的研究について、フィスケは次のように書いています:

人類学者は、1990年代の省庁間委員会の設立から、全米科学アカデミーの研究への参加、社会的側面および権力の側面を「脆弱性評価」(法律で義務付けられている全米気候評価報告の基礎的要素である)などの概念に組み込む現代的な取り組みに至るまで、あらゆる段階に関与してきた。それはただ1人によるものではなく、「ボトムアップ」アプローチを継続的に組み込むことである。[12]

人類学者はしばしば「現場で」何が起こっているかに関する重要なデータを提供しますが、通常は実際に変化を起こした人が功績を認められます。1964年と1965年の法律について言えば、注目を集めたのは、関与していた主要な政治的人物マーティン・ルーサー・キングとリンドン・ジョンソン大統領です。

第3の要因は、西洋社会の周縁であまり力のない人々を研究する、「第三世界」の環境で働いている人類学者に関係しています。オバマ大統領の母親アン・ダナムは、インドネシアで価値あるフィールドワークを行った人類学者でしたが、一般大衆にとっては、彼女の仕事の主な価値は、息子を一緒に連れて行き、彼の国際的な視野を広げたことでした。バノック族とショショーニ族の6人の年配の女性を助けることは価値のあることです。土地の管理を得られたヴィコスの人々は、コーネル大学の取り組みを高く評価しました。しかし、そのような取り組みは通常、人類学の外ではあまり注目されません。

第4に、日々の情報の急増を考えると、ニュースメディアにおける人類学者への言及は、急速にスポットライトからはずれていきます。ケンタッキー大学の人類学者であるアン・キングソルヴァーは、2015年にアパラチア地方に関するエコノミスト誌の記事で引用されましたが、エコノミスト誌は読者に対して米国に関する他の多くの記事も提供していました。翌週には多くの新しい記事があり、彼女はその月の多くの人々の中の1つの声となりました。[13]

この状況を変えるためには、人類学者は彼らがなしている善を継続的に明らかにしていく必要があります。現在、彼らがもたらす利益はエピソード的なもののように見られています — ここであれこれ、そこであれこれ。大衆からのより大きな注目を集めるためには、少数の個人ではなくこの学問分野全体が、人類学がどのように共通善を養っているかを絶えず明らかにしていかなければなりません。悲しいことに、人類学はまだそれをしていません。

これまでの議論が2つの有名な難問(なぜ今日最も人気のある人類学的な作品が非人類学者によって書かれる傾向があるのか、そしてなぜ人類学の良いことをする取り組みがしばしば認識されてしかるべきほどには広い大衆に認識されていないのか)の解明に役立ったことを願っています。多くの人類学者は、この学問分野の外側で公に認められることを望んでいますが、公然の枠組みと秘密の枠組みの両方が現状維持を強化しています。変化を促進することには、この学問分野の焦点を、現在この分野を支配している専門に特化した関心と学問的優先事項から離れて、社会に直接的に広く利益をもたらす仕事、すなわち共通善に役立つ仕事へと向けて定め直すことが含まれるでしょう。

私が構造的制約とヘゲモニー的枠組みについてのこの点を、公共人類学を定義する前に指摘しているのは、ある1つの重要な理由からです。人類学者はしばしば広い公衆に対して自分の考え方や行動を押し出すことに熱心ですが、彼らは自分たちが直面している微妙であるものの重大な隠れた障害に対処する必要性を無視する傾向があります。

次の節では、あなたは、さまざまな人類学者が公共人類学をどのように認識しているか、また、公共への関与に対する関心が時間とともにどのように変化したかを見ることになるでしょう。一筋縄ではいかない部分(公共への関与を制限する構造的制約を人類学者がどのように克服するか)は、後に回します。

公共人類学を定義する

公共人類学の簡単な定義を提供しましょう:公共人類学は、学術的な分野としての人類学と、それを支援し、理想的にはその中に多くの価値を見いだすより広い公衆との間の接点に焦点を当てるものです。これは、あなたが他の人に対して復唱することのできる定義として機能します。それは、人類学を支援する上で公衆が果たす役割を強調するとともに、人類学はそれ自体が学術的な孤立した存在ではないことを強調しています。それでも、それは特定の微妙な点に対処するものではありません。

公共人類学は、1990年代に私が編集していたカリフォルニア叢書シリーズの名前として作成した用語から、今ではGoogle検索で10万を超えるリンクを持つ用語へと変わっています。私は、そのシリーズの目標を表すために、この用語を作り出しました:その目標とは、公共の問題を公共の方法で扱うことです。この意味での公共とは、学術的な発表のスタイルとは対照をなすものでした。シリーズの初期の本の前書きで述べられているように、「公共人類学カリフォルニア叢書シリーズは、関与する知識人としての人類学者の役割を強調している。それは、民族誌学の目撃者であり、多くの読者の経験の境界を越えてどのような人生が生きられているのかを人間の言葉で説明するという人類学のコミットメントを継続するものである。しかし、それはまた、民族誌を通じて公の議論の条件を再構築するというコミットメントを追加するものでもある — 社会問題についてのすでに受とめられ、受け入れられているような理解を、新しい洞察と新しい枠組みでもって変容させることである。」[14]

シリーズが始まって以来、公共人類学は重要性を増してきました。それはこの学問分野の制度化された一部となっています。カリフォルニア州立大学フレズノ校に公共人類学研究所が、ウォータールー大学に公共人類学講座が、フィールド博物館に博士号取得後の公共人類学フェローシップが、アメリカン大学に公共人類学の修士課程が、タフツ大学に公共人類学に集中した教授陣が、アメリカン・アンソロポロジスト誌に公共人類学のレビューセクションと公共人類学担当の編集者が、ゲルフ大学に公共問題の人類学の修士号が、スペインのマドリッド自治大学に東洋公共人類学の博士課程が、そしてSavage Mindsのウェブサイトの投稿のために公共人類学カテゴリーがあります。北米の多くの学校で、公共人類学を扱う講座が教えられています。

異なるグループは、この用語を多少異なる方法で使用しています。たとえば、アメリカン大学の公共人類学の修士課程では、学生は「日常生活における文化、権力、歴史の仕組みを探求し、批判的な調査、問題解決、および公のコミュニケーションのスキルを身につけます」と述べています。タフツ大学のウェブページには、「公共人類学には市民の関与と公的な知識の両方が含まれています…その中で私たちは学術界を超えて聴衆に向き合います。それは、理論と実践の、知的関心と倫理的関心の、グローバルとローカルの交差点で公的に関与する人類学です」と、記載されています。ゲルフ大学の公共問題の人類学プログラムは、「人類学的知識と、統治、公の言説、生活、[および]市民社会にとって重要な問題との接点」を探求します。アメリカン・アンソロポロジスト誌のレビューセクションは、「幅広い聴衆にとっての一般的な関心についての人類学」を強調しています(このセクションの目的の以前のバージョンは、その記事が非学術界の聴衆を対象としていることを示唆していました)。

ここ数十年で、同じ知的領域の一部をカバーする他の用語が登場しました。見本を提供してみます。トーマス・ヒルランド・エリクソンは、「参加人類学は、この学問分野がそれにふさわしい人気と尊敬を得ることができていない理由を徹底的に見て取る」と述べました。[15]ケイ・ウォーレンは、「関与人類学の危険性と明るい見通し」と題名のついた論文で、関与には、「社会正義…[や]グローバル化の影響といった問題の調査」が含まれる、と書きました。[16]実践人類学は、「世界中の人々を理解し、助けるように」機能します。それはさらに、「私たちは、農業、コンピューターサイエンス、法律の執行、法医学の分野を含め、あなたが私たちを見つけるとは予期していないような場所にも現れます」、と付け加えています。[17]テキサス大学人類学部によると、アクティビスト人類学とは、「私たちは一方での一流の学識と、他方での慎重に検討された政治的関与との間で選択をする必要はない、という考え方に基づくものです」。チャールズ・ヘイルは、「問題を解決するための積極的な政治的コミットメントとその問題に関する厳密な学術研究との間に必ずしも矛盾はない」と述べました。[18]

いくつもの用語が咲き誇っているにもかかわらず、公共人類学という用語が依然として好まれています。もし私たちがGoogle検索を大まかな基準として使用するならば、(前述のように)公共人類学では10万を超えるリンクが生成されます。実践人類学では約3万8000、参加人類学では1万、アクティビスト人類学では4000です。なぜこれらの他の用語が公共人類学に取って代わらないのでしょうか?私にはわかりません。しかし、他の用語は制度化されておらず、公共人類学のようにこの学問分野の社会構造に組み込まれていないという事実に由来するのではないかと私は考えています。それらの用語は、公共人類学ほどには、プログラム、講座のシリーズ、および本のシリーズに関連付けられてはいません。

現在の懸念を大局的な視点からとらえる

公共人類学の現在の人気を歴史的な視点からとらえておくことが重要です。読者は、人類学が、今日そう見えるような形で一般大衆から常に隔離されてきたわけではないことに注意すべきです。ジェームズ・フレイザーの「金枝篇(The Golden Bough)」、マーガレット・ミードの「サモアの思春期(Coming of Age in Samoa)」、およびルース・ベネディクトの「文化の型(Patterns of Culture)」は、20世紀前半に、刺激的かつ重要なやり方で学術界の外の幅広い読者を巻き込みました。1930年代、1940年代、1950年代初頭には、人類学者はしばしば公共の場で際立った役割を果たしました。たとえば、1936年5月、フランツ・ボアズはタイム誌の表紙に登場し、この雑誌はボアズの「未開人の心性(The Mind of Primitive Man)」を非西洋人にとっての「自尊心のマグナ・カルタ」と呼びました。マーガレット・ミードは文化的な偶像でした。1950年代、彼女は世界で最も広く知られ、尊敬されている人類学者でした。1978年に彼女が亡くなったとき、アメリカの大統領からだけでなく、国連の事務総長からも弔意が表されました。1979年に、彼女は、米国の文民に与えられる最高の名誉である大統領自由勲章を死後に授与されました。

なぜ人類学は公的なことに関与しなくなったのでしょうか?基本的には、1900年代初頭から構築されてきた学術的な潮流がこの学問分野を支配するようになりました。1960年代後半までに、人類学は学術界(すなわち大学)を非常に活用するようになり、学術界は人類学を非常に活用するようになりました。1800年代半ばから後半における人類学の創始者は、私的な学者(ルイス・ヘンリー・モーガンなど)として、または政府職員(ジェームズ・ムーニー、ジョン・ウェズリー・パウエルなど)として、大学の外に属していました。しかし、1800年代後半の学習の中心地としての大学の台頭により(人類学にとっては、1899年にコロンビア大学で人類学の教授になったフランツ・ボアズから始まります)、ますます多くの人類学者が学術的な環境に関連付けられるようになりました。

人類学の初期の時期において印象的なことは、人類学者が非常に少なかったことです。アメリカ人類学会には1910年に306人、1930年に666人のメンバーがいました。ジョージ・ストッキングは、「私たちの部族の一部の長老たちは、ほとんどの人類学者がお互いに個人的に知り合いであり、[会議は]適度な大きさの1つの会議室で…開催できた時代を思い出すことができる」と述べました。[19]これは、本を執筆する人類学者は、どこかに出版してもらいたければ、より広い聴衆のために書かなければならなかったことを意味します。人類学の市場は小さすぎて、主要な出版社を引き付けることができませんでした。レイモンド・ファースが、南太平洋のポリネシアの島であるティコピア島の民族誌に関連させてそれをどのように表現したかを以下に示します:

「われら、ティコピアの民(We, The Tikopia)」を書く際に…私は専門家ではない読者に届けなければなりませんでした…1930年代半ばには、ティコピアという名前は外部の世界にとって完全に無意味でした…その時も今も、私は…人類学が、まさにその性質上、小さな専門家の市場が示すよりも広い訴求力を持つべきだと考えています。この見解では、私は、公開講義と学校への放送講演への熱心な反応に支えられていました。そのため私は、その解説の科学的厳密さを犠牲にすることなく、その内容への興味を広げようとしました(ある友人が言うには、この本の初めは「小説のように読める」)。[20]

このプロセスの重要な転換点は、第二次世界大戦後のベビーブームに関連した1960年代のアメリカの大学への入学生の拡大でした。これは人類学部の数の増加につながり、その結果、人類学専攻の学生も増えました。これにより、講師は出版を希望する場合、主として一般の聴衆向けに書く必要がなくなりました。彼らは、人類学の講座を受講する学生のためだけに本を書くことができるようになりました。この傾向は、この学問分野がさらに拡大することに伴って、今日も続いています。アメリカ人類学会には現在1万人以上の会員がおり、学術志向の出版社は、人類学の本を教室での売上だけに集中したとしても利益が上げられると感じています。

1930年代のファースの研究と比べたときに、特に印象的なこととは、人類学者が今日どのようにして自分たちの研究を組み立てているかということです。現在の研究は、しばしば「内向き」の品質を備えています。より広い公衆を求めることは優先度が低いです。アンドリュー・アボットが述べたように、「専門家は[今日では]自分たちの自尊心を公の世界からではなく自分たちの世界から引き出しているため…彼らの基本的な仕事であり、正当性の基礎であるような最前線での貢献[すなわち、一般市民との関わり合い]は、地位の低い同僚と準専門家の管轄となっています。」[21]これは、たとえば、大規模な入門クラスがより低い地位の非常勤の教授によって教えられるという傾向の中に見て取れます。地位の高い正教授は、自身の専門分野で小規模の上級コースを教える傾向があります。

もう一度メアリー・ダグラスを引き合いに出すと、私たちは、純度と汚染の観点から、より広い公衆を寄せ付けない(ただし、その資金を受け入れながら)ための取り組みを枠づけることができるでしょう。学問的な境界を超えて踏み出すことは、教員を不純なものにする、すなわち彼らを「汚染」します(マーガレット・ミードが著名な大学の地位を獲得できなかったことが代表的な例です)。純粋な人は人類学の学部内に快適に留まり続け、この学問分野の外側の人にほとんど読まれることのない研究を生み出します。

応用人類学に対する公共人類学の関係

公共人類学について一般的に提起される質問とは、それは応用人類学とどのように異なるのか、というものです。これに答えるに際して、私はまず個人的な逸話から始めたいと思います。私が公共人類学という用語を作り出した後、私はそれが応用人類学とどのように異なるのかを明確にするよう圧力を受けましたが、それは驚きでした。私は、なぜさまざまな学者が、曖昧に定義された分野を明確に区別する必要性を感じたのか疑問に思いました(あたかもそれらが、車(例:フォードとホンダ)や野球チーム(例:ボストン・レッドソックスとニューヨーク・ヤンキース)のように、明確に区別できるもののように)。私は明快さへの欲求を理解していますが、個人的には分野間で正確に線引きすることに不安を感じています。以下は、それらの違いを示唆するような印象であって、それ以上のものではありません。

おそらく、公共人類学と応用人類学を区別する最良の方法は、それらが発展したさまざまな文脈を理解することです。応用人類学は、19世紀後半のアメリカとイギリスの植民地主義にルーツがあります。より効果的に統治するために、さまざまな先住民族の集団がどのように生活しているかを理解することに焦点が置かれました。たとえば、E・E・エヴァンス-プリチャードのヌエル族に関する有名な研究は、ヌエル族が植民地支配に反対している理由を理解するために、イギリス・エジプト領スーダンのイギリス政府によって資金提供されました。アメリカ民族学局にも同様の目的がありました。それは、特定の北米インディアン部族の動態とアメリカ支配下での彼らの変化を理解するために、クッシング、ドーシー、スティーヴンソン、ムーニーによる前例となるような研究を後援しました。

1941年、人類学者の1つのグループが、「人間の行動の原則の調査と、これらの原則の現代の問題と課題への適用を促進するために」応用人類学会を正式に設立しました。この学会のジャーナルの冒頭の声明は、「応用人類学は、科学者のためだけでなく、計画の実行に関わる人々、管理者、精神科医、ソーシャルワーカー、および責任の一環として人間の関係性の問題に対処しなければならないすべての人々のために設計されている」と、述べています。現在、この学会のウェブサイトはこの最初の文を繰り返し(「調査…を促進するために」)、その後に以下のように続けています:「この学会は、会員資格と目的において専門家の学会の中でも独特なものであり、学術界、ビジネス、法曹、健康と医療、政府などの幅広い状況の専門家の関心を表している。それらを統合する要因は、この世界における生活の質に影響を与えることへのコミットメントである。」この分野についての最近のレビューの中で、トロッター、シェンスル、およびコスティックは、応用人類学は2つの懸念によって動機付けられた実用的で実際的な方向性を持つ傾向があると書きました:「1つは、直接的な介入や政策変更の提言につながる可能性のある関連事項に使用することのできる明快な調査結果を持つ研究を生み出すことである…もう1つは、社会文化的な介入または政策変更の実験を考案することにより、人類学的理論をテストし改善することである。」[22]

公共人類学は異なる文脈から生まれてきました。私は、1990年代後半に展開していたカリフォルニア叢書シリーズに明るい、前向きな名前を与えるためにこの用語を作り出しました。なぜ私はこのシリーズのタイトルに応用人類学を採用しなかったのでしょうか?部分的には、それがすでに広く使用されていたからです。私は人々の注意を引くことができる何か新しいもの、何か違うものを欲していました。もう1つの理由は、応用人類学という用語にはもはや1940年代、1950年代、1960年代に持っていた革新的な「響き」がなくなっていたことです。それはすでに確立された秩序の一部になっていました。

アンソロポロジー・ニュース誌で公共人類学に関する記事を公開した直後に、応用人類学者メリル・シンガーが「なぜ私は公共人類学者ではないのか」(Singer 2000)というタイトルの記事を書いたときに、応用人類学と公共人類学との間の緊張は明らかになりました。彼は公共人類学に二方向から批判を加えました:(1)公共人類学は応用人類学者がこの分野でこれまでに行ってきた仕事を無視しており、(2)それは公共人類学者が地位の高い理論家になる一方で、応用人類学者が具体的で実際的な問題に対処する役割を担う地位の低い歩兵になるような二重構造のシステムにつながる可能性がある。[23]もしこの著者が自分の文章を公表する前に私が書いたものを読んでいたならば、彼は私が応用人類学を軽視するつもりはないことが分かったでしょう。なぜ私たち2人(私たちが自分たちを何と呼んでいたにせよ)の間に余地がないのだろうかと、私は不思議に思いました。確かに緊急の注意を必要としている多くの人々と多くの問題がありました。世界のすべての問題を考えると、私は一部の学者が定義と地位について議論したいだけなのではないかと当惑しました。

公共への関与の浮き沈み

私は、ジークムント・フロイトが「小さな違いのナルシシズム」(アイデンティティーを区別するために小さな違いめぐって議論するいくつかの関係グループ)と呼ぶものに引き込まれるのではなく、後ろに下がってより大きな絵を見るほうを好みます。少なくとも1879年にジョン・ウェズリー・パウエルの下で民族学局が設立されて以来、アメリカの人類学者はさまざまなグループの人々の問題に対処しようと努めてきました。その初期の時代の著名なものはジェームズ・ムーニーの仕事であり、彼は、ゴースト・ダンス(アメリカの支配に対応して1889年と1890年にアメリカ西部のインディアン部族を席巻した宗教)のことを記述しました。彼はまた、1890年12月29日にウンデット・ニーで騎兵隊が200人以上のスー族を虐殺したことについての鮮明な詳細を提供しました。社会的関与へのコミットメントは、人類学が大学内の学術的分野として制度化されるようになっても、20世紀まで続きました。フランツ・ボアズは非常に活発な活動家でした。彼は1930年代にアメリカとヨーロッパで人気であった人種差別的な理論に反対しました。さらに、人類学者は第二次世界大戦中に連合国の戦争の取り組みに積極的に関与していました。たとえば、評判の高い人類学者のコーラ・デュ・ボアは、戦略諜報局に勤めていました。彼女は陸軍の特別文民褒章とタイ国王冠勲章を授与されました。

マーガレット・ミードは、戦争の時代を切り抜けてきた人類学者たちは、「彼らの技能が、現代社会に影響を与える問題、および国家政府と国民国家の討議に実りをもたらす形で適用することができる」と気付いたと述べました。[24]第二次世界大戦後のこの時期のハイライトのひとつは「ミクロネシア人類学の共同調査(CIMA)」です。これは「アメリカ人類学史上最大の研究の取り組み」を表しており、アメリカ人類学の専門家のおよそ10%がミクロネシアの米海軍のためにフィールドワークを実施しました(ミクロネシアは海軍に統治が委任されていました)。[25]1960年代、マーヴィン・ハリスやマーシャル・サーリンズなどの人類学者は、ベトナム戦争に反対する最初の「ティーチ・イン」(大学で開催された活動家の公開討論)を確立する際に顕著な役割を果たしました。彼らは、ザ・ネイション誌やディセント誌のような広く読まれている出版物に優れた記事を書きました。

1980年代後半、この学問分野では再び公共への関与が人気になりました。1972年には、新しい博士号取得者の88%が学術的な環境で採用され、わずか12%が非学術的な環境で採用されていました。しかし、1988年には、54%が非学術的な環境で採用されました。[26]雇用市場でのこの変化は、この学問分野の外側の人々との関わりを象徴し、促進しました。

それでも、これらの取り組みはそのたびごとに衰退していきました。ボアズ、ハリス、およびサーリンズの努力は今でも記憶されていますが、彼らの取り組みは今日では頻繁に模倣されることはありません。CIMA海軍プロジェクトは遠い記憶であり、ほとんどがそれを記録した本を通じて知られています。1997年に、新しい博士号取得者の71%が学術に関連する職に雇われ、29%が非学術的な職に雇われました。[27]

現在地と目的地を把握する

前の節に関連する3つの要約ポイントを強調しておきましょう。第1に、公共への奉仕を制限するように制度化された構造とヘゲモニー的な枠組みにもかかわらず(最初の節で言及)、公共への関与は繰り返しこの学問分野を刺激するために戻ってきているように思われます。なぜでしょうか?ヴィクター・ターナーの反構造の概念が、答えを示唆しています。ターナーは、「人間の関係には2つの代替的な「モデル」がある。1つは、政治-法-経済的地位についての構造化され、差別化された、しばしば階層的なシステムとしての社会を含む」と強調しています。[28]もう1つは、反構造と名付けられ、社会の正式な構造に反対し、その代わりに、代替的な、より順応性の低い姿勢を強調します。彼は、「両方の様式に参加するような人間の「必要性」(そのような議論の余地のある用語を使用することができるならば)があるように見えるだろう」と書いています。[29]公共への関与は、ターナーの反構造とまったく同じというわけではありません。それでも、それは標準的な学術的実践とは異なる形の説明責任を強調しています。それはこの学問分野を超えて他の人に手を差し伸べます。それは異なるスタイルの散文を支持します。それは世界の問題に積極的に取り組むことに焦点を合わせています。

人類学者は学部の構造に安住しているため、多くの人類学者は定期的により大きな社会的関与と公衆の認識を切望するようになる、と示唆する人もいるかもしれません。彼らは、この学問分野に浸透している狭い内向きの学術的構造にうんざりしています。彼らは手を差し伸べ、公衆のやり方ではなく、自分たち自身のやり方で公衆にかかわろうとしています。しかし、通常、彼らの努力は長続きしません。彼らは、一時的な熱意のほとばしり以上のものになることを可能にするような構造的な支援を欠いています。この文脈の中では、人類学者の試みは、確立された秩序の一時的な変容、すなわちつかの間の反抗です。時間が経つにつれて、人類学者は大体が、説明責任についての学術的基準を中心とした専門的な仕事に戻り、それぞれの方法でそれぞれの利益を追求することになります。

第2に、応用人類学は主流の学術的な人類学と曖昧な関係を持っています。一方では、応用人類学者は、彼らがこの学問分野の学術的な構造に抵抗していること(おそらくこの学問分野の歴史の中で他のどのグループよりも)を誇りに思っているかもしれません。彼らは現在、独自の正式な学会(応用人類学会)、年次会議、および独自のジャーナル(ヒューマン・オーガニゼーション誌)を有しており、応用人類学は(文化人類学、考古学、生物人類学、および言語学とともに)この学問の主要な下位分野と見なされています。

他方では、応用人類学は、特定の学術構造を採用することによって成功しました。学術界の外側に関与する断固たる取り組みにもかかわらず、かなりの数の応用人類学者が大学での地位を保持しています。これには少なくとも2つの理由があります。1つ目は、認定された応用人類学者になるには、大学院の学位が必要です。もしかなりの数の応用人類学者が大学に残り、新世代の応用人類学者を養成するならば、この分野は知的に再生産するばかりです。2つ目は、応用人類学が今ではこの学問分野の大きな部分を占めていることを考えると、人類学部は給料の出る地位のための主要な源であるため、学会の年次総会に出席し、そのジャーナルに論文を掲載する応用人類学者の多くは学者となります。彼らは会議とジャーナルに学術的な雰囲気を与える一方で、同時に、主流の人類学とは異なることを重視しています。

第3に、公共人類学がそのような傾向の運命に陥らないためには、公共人類学は特定の学術的な構造をどのように枠付けしなおすことができるかについて熟考しなければなりません。これは私たちがジュリー・アンドリュースへと戻ることを示唆することになるのでしょうか?もし私たちが、公共人類学が人々の生活に変化をもたらすことを望むならば、私たちは最初から — 公共への関与を繰り返し制限するような、この学問分野の基礎となる構造から — 始める必要があります。公共の問題に効果的に対処するには、私たち自身のやり方ではなく、公衆のやり方で対処する必要があります。それは、他の人が注意を払い、従うべき一連の学術研究を単純に列挙する(学者に対してやるように)だけではだめだということを意味します。それは人類学が何をし、どのようにそれを行うかを再考することを意味します。読者が公共人類学の革新的な意図を知覚できるのは、この文脈の中でのことです。公共人類学は、主要な学術的な構造の修正を目指しています。それは、人類学がより学際的になり、より公共に関与し、他者を助けることにより集中することを妨げるような構造を変えようとしています。

文化的ヘゲモニーとは、イタリアの著名な共産主義者であるアントニオ・グラムシに関連する用語であることをあなたは覚えているでしょう。(彼はムッソリーニとファシズムに反対したために10年以上を獄中で過ごしました。)人類学との関連では、文化的ヘゲモニーとは以前に議論したテーマのことを指します — それは、職業上のキャリアを向上させるような学術志向の本を出版することへの焦点と、昇進を希望する人々が学術的な基準から逸脱することによって危険にさらされるような報酬システムです。この用語は、現状を維持することに役立つだけでなく、現状維持が合理的で適切な行動方法であるかのように見せることを意味します。私の論点はこれです:もし私たちがこの学問分野とそれを支持するより広範な学術的な構造を変更したいならば、私たちはこの学問分野の社会的関与を制限するヘゲモニー的制約のことを認識しなければなりません。

問題は、そのような変化をどのようにして促進するかです。次の節では、いくつかの示唆的な戦略を示します。最初の2つの戦略では、説明責任の基準を改善することにより、そして、特定の結果がどのように達成されるかについて透明性を高めることにより、人類学が公衆の目に対してより信頼できる学問分野として映ることが期待されます。3番目の戦略は、人類学が他の人とのコラボレーションを伴うときに最も効果的に機能するという考え方に基づいています。人類学者は、他のグループや他の組織と協力して、大きな変化を促進する必要があります。人類学者には、これらの組織が提供する力と資源が必要です。説明責任と透明性に関するより大きな社会の懸念に対処することは、他の人に訴えかけるための手段を提供します。なぜなら、学術界を超えた多くの人々が学術の内部でまさにこれらの変化を促進することに関心があるからです。

4番目の戦略は、人類学が主として他者に危害を及ぼさないように努力する(この学問分野の現在の倫理)のではなく、他者を助けることに焦点を当てることにより、その信頼性をさらに高めることができることを示唆しています。他者を助ける人類学者の努力は、前述のように、良い意図を持っていましたがエピソード的なものでした。それらは、この学問分野の広範な取り組みを表すのではなく、不規則に発生しています。人類学者は、できる限り最善を尽くして、研究を支援してくれた人々を助けるよう努力するべきです。

ここで、あなたともう1つの別の秘密を共有したいと思います。これらの戦略は、伝統的な学術的方法に固執して、現状に満足している一部の人類学者にとっては大胆すぎるかもしれません。彼らはより広い公衆に認知されることを切望しているかもしれませんが、必ずしも変化に対して熱心ではありません。もしあなたが入門レベルを超えて人類学を探求することに興味がある場合、これらの戦略は、この学問分野を変えることに参加し、より良い世界、そして(その変化を通じた)より広い世界へ向かうための方法をあなたに提供してくれます。

この学問分野を作り直すための枠組み

この節では、この学問分野を再構成するための4つの戦略について詳しく説明します。後の節では、あなたが社会の変化を促進する方法に取り組むよう誘いかけます。

(1)説明責任 — 出版した学術論文の数だけで教員を評価することから、彼らが書いたものが自身のキャリアだけでなく他の人に役立つかどうかによって評価することへと移行すること。人類学者は、同僚が生み出した出版物によって彼らの知的な質を評価する傾向があります。デボラ・ロードの「知識の追求:学者、地位、および学術文化(In Pursuit of Knowledge: Scholars, Status, and Academic Culture)」によると、「学術的な評判と報酬はますます出版物に依存するようになっているため、教員は、自分のキャリアを前進させるであろう重厚な学術書を、(それらが知識を進展させるかどうかに関係なく)大量生産するインセンティブを持っている。」[30]彼女は、カーネギー財団のある報告書に注目しています。そこでは、調査された教員の3分の1以上が、自分の出版された仕事のほとんどが質ではなく量の観点から評価されていると信じているとあります(博士課程のある学校では、教員の50%以上が、その見解を持っています)。[31]

1年ごとに特定の数の論文(または数年ごとに書籍)を出版するなど、説明責任の定量的計算に焦点を当てる代わりに、説明責任をより実用的な観点で評価するほうが良いだろうと、私は提案します:対処されている問題は、どの程度社会的に重要なものなのか?著者はどの程度までその問題にうまく取り組んでいるか?この問題についての著者の出版物は、学術界の外側にどのような影響を与えるか?

人類学の研究への資金提供の大半は、非学術機関と財団からのものです。資金提供の重要な基準は、その研究が少数の個人だけではなく、比較的広い公衆にとって価値のあるものでなければならないということです。たとえば、アメリカ国立科学財団(NSF)は、すべての提案と最終報告書が、その研究の「より広範な影響」を特定することを要求しています。NSFは、より広範な影響のことを、「社会に利益をもたらし、特定の、望ましい、社会的な成果の達成に貢献する可能性」を含んでおり、「可能な限り、科学的な…教養のある一般読者でも理解できるように」書かれていること、と定義しています。[32]アメリカ国立衛生研究所(NIH)行動科学・社会科学研究室は、「私たちの国の保健研究への投資の完全な可能性を実現するには、科学が実践と政策の両方に情報を与えることが必要である…私たちは、最終利用者(健康な個人、患者、開業医、地域社会のリーダー、または政策立案者であるかどうかにかかわらず)の必要性から情報を得た、関連性の高い有用な研究を促進することができる」と述べています。[33]これらの視点と同様に、イギリスの英国研究評議会(RCUK)は、「公衆と関わるように研究者を支援し、報いる」ことへのコミットメントを強調しています。[34]

資金提供者によるこれらの基準の断言にもかかわらず、多くの人類学者は、いまだに彼らの仕事を引用する学術的な同僚の数に焦点を当てた学術的な基準を選択しています。彼らはまた、誰が研究資金を得るかにも焦点を当てています。イギリスの人類学者アダム・クーパーは、「[助成金]の審査過程では、良い提案書を書くことができる人々に報酬を与えている(たとえ彼らが以前の助成金で期待に沿えなかったとしても)。自分たちが資金提供した研究を評価する財団はほとんどない…研究奨学金を得るための最も良い資格は、以前に研究奨学金を得ていることである。そして、通常は、助成金を獲得することのほうが、研究結果を出すよりも多くの賞賛を得る」と示唆しています。[35]言い換えれば、成功への道はしばしば、あなたが持っているものを明示することではなく、知識を進歩させると言い募って見せることにあります。

結果に焦点を当てることの主な価値は、結果をかなり直接的に評価できるということです。その結果は問題に効果的に対処していますか?それらは、現実の問題に対処するために学問分野を超えて使用することのできる、一貫した累積的な知識の構築に貢献していますか?それらは他の人々の生活を改善しますか?

例として、アビジット・バナジーとエスター・デュフロの「貧乏人の経済学(Poor Economics)」を取り上げてみましょう。著者たちは、特定の問題に最適なアプローチを体系的に特定しました。たとえば、彼らはマラリア予防プログラムを比較し、どのプログラムが村のグループで使用される可能性が高いかを尋ねました — 村人に無料で提供されるマラリア対策の蚊帳でしょうか、それとも村人が部分的に費用を支払わなければならないため適切に使用するインセンティブのあるマラリア対策の蚊帳でしょうか?彼らは答えを推測するのではなく、蚊帳を得るために提供されるさまざまなレベルの金銭的支援を使用して、いくつかの場所でランダム化されたグループを比較しました。その情報に基づいて、彼らはマラリアと効果的に闘うために、さまざまな地域に蚊帳を配布する最良の方法に関する結論を引き出すことができました。彼らは、(a)蚊帳が無料であればすべての村人は蚊帳を受け取るが、価格が上がるにつれて受け取る人が少なくなること、(b)蚊帳の使用については、村人が蚊帳にお金を支払ったかどうかに基づく差がなかったことを発見しました。[36]どうやら、人々はどうやって手に入れたかに関係なく蚊帳を評価したようです。なぜなら、それらはマラリアとの闘いに役立つからです。

ノーベル賞を受賞した著者ロバート・ソローは、「貧乏人の経済学」について次のように述べています:「アビジット・バナジーとエスター・デュフロは、経済開発の秘密についての壮大な一般化に対してアレルギーを持っている。代わりに、彼らは多くの地元の観察と実験に訴えかけて、貧しい国の貧しい人々が実際にどのようにして貧困に対処しているかを探っている。」[37]これは最高の人類学を表しています。異なるアプローチの有効性を比較することにより、人類学者はある特定の文脈の中の問題に対してどのように対処するかの包括的な理解を発展させることができます。

この説明責任の感覚を主張するときには、客観性に関する学術的なレトリックに巻き込まれないことが重要です。1800年代後半に社会科学が大学に移行するにつれ、社会科学における客観性は異なる意味を帯びました。その言葉は、大学に資金を提供し、運営するのをしばしば助けた政治的および財政的エリートを動揺させるかもしれない政治的に緊張したトピックを避けることを指すようになりました。メアリー・ファーナーは、「擁護と客観性:アメリカ社会科学の専門化の危機、1865年~1905年(Advocacy and Objectivity: A Crisis in the Professionalization of American Social Science, 1865–1905)」の中で、社会問題を研究することの意味が、専門化によってどのように変わったのかを説明しました。

専門化のプロセスは、[大学内の]社会科学の使命を変えた。[20世紀が進むにつれて]他に適任者がいないこと[そして彼らが数十年前にしていたこと]、すなわち専門家のスキルと知識を社会全体に関連する無数の問題に持ち込むことを行う専門の社会科学者はめったにいなくなった。その代わりに、研究や調査結果は内部的なものとなる傾向があり、推奨事項は修飾語句で言葉が濁されており、分析は平均的な市民には理解できない専門用語で表現されている…学術的な専門家は、技術的専門性の安全圏へと撤退し、社会科学の専門化を促進した当初の使命、つまり産業社会の包括的な評価を、ジャーナリストと政治家に任せた。[38]

客観性は、特定の政治的に緊張したトピックを避けることではありません。問題は、個人が「意見」を持っているかどうかではありません — 誰もが何らかの種類の偏見を持っていると言えるでしょう。「私利私欲のない専門家」であることは、研究室の外側の世界に無関心であることを意味するものではありません。それは、より大きな社会の利益を、自分自身の個人的な利益または働きかける人々の利益よりも優先することを意味します。客観性は、相異なる記述の開かれた公の分析から得られます。さまざまな個人(彼らの個人的な偏見が何であったとしても)が、なされた種々の主張を個別に確かめた後には、記述がより客観的(より信頼性が高く、より科学的)となることを私たちは知っています。反対は客観性と擁護の間にあるものではありません。それは客観性を主張することと客観性を実証することの間にあります。社会的擁護の兆しを見せずに公平無私な態度で行動すると主張する人類学者は、必ずしも客観的ではありません。客観性は、他の人が自分のデータを確認することから来ます。もしデータを確認できない場合、これがどのようにそしてなぜ主張を制限することになるのかを理解しておくことが重要です。

(2)透明性 — 注目を集める結論を強調することから、これらの結論に到達した方法を他の人が理解できるようにすることへと移行すること。世界有数の医学誌の1つであるランセット誌は、2014年に、全世界の研究支出の約85%を占める約200,000,000,000ドル(つまり2000億ドル)が、設計が不十分であり、報告が不十分であるような研究に無駄に費やされている可能性があると報告しました。これはかなり衝撃的な数字なので、ランセット誌からの実際の言葉を紹介しましょう。マクラウドらは次のように報告しています:

全世界での生物医学および公衆衛生の研究には、数十億ドルと数百万人が関与している…この巨大な事業は大幅な健康改善をもたらしているが、もし生物医学研究の選択、設計、実行、分析、規制、管理、普及、報告の方法における無駄と非効率に対処することができれば、さらに多くの利益が得られる。2009年、チャーマーズとグラスジオウは…累積的な効果では、研究投資の約85%(2010年には2000億ドル相当の投資額)が無駄になっていると推定した。[39]

関連記事の中で、グラスジオウはこう述べています。「研究出版物は、情報を伝えることもあれば誤解を招くこともある。研究が十分に報告されない限り、研究の実施に費やされた時間と資源は無駄になる[原文ママ]…研究の適切な報告書は、どの質問がなぜ対処されたのか、何が行われたのか、何が示されたのか、そして調査結果が意味するものは何かを明確に記述するべきである。しかしながら、これらの要素のそれぞれに重大な失敗が発生している。」[40]この点に関連して、エコノミスト誌は「臨床試験の半分は、その結果を公表していない…相対的には、最も悪い犯人は政府と学術界である」と報じました。[41]

ベネディクト・キャリーは、ニューヨークタイムズ紙の「多くの心理学の調査結果は主張されたほど頑健でない」と題する記事で次のように報告しました:

過去数年は、社会科学の信頼性を傷つけるような年月であった。ある花形の社会心理学者はデータを捏造していたことが発覚し、50件以上の論文を撤回した。ある最上級のジャーナル誌は、ESPの存在を支持する研究を出版して広く批判された。サイエンス誌[世界有数のジャーナルの1つ]は、偽のデータに対する懸念から、同性愛者による選挙運動のための戸別訪問が有権者の行動に及ぼす影響に関する政治科学の論文を取り下げた。今度は、3つの主要な心理学ジャーナル誌で出版された100件の研究を再現するための骨の折れる長い年月の努力により、それらの研究の半分以上が再テスト時に結果が支持されないことが判明した。[42]

他の人が重要な研究を適切にレビュー、評価、そして可能であれば確認できるようするためには、研究の透明性が本当に必要であることをこれらの研究は明らかにしています。2000億ドルは、疑わしい研究に費やすにしては大きなお金です。

人類学における透明性の向上の重要性についての2つの例を挙げましょう。まず1つ目は、ヤノマミ族(ブラジルとベネズエラの間のアマゾン地域に住んでいます)がかつて特に暴力的であり、頻繁な戦争の中で多くの敵対者を殺していたかどうかについて、激しい議論があります。一部の人はヤノマミ族のことを「初期の人間」の傾向を例示しているとみなしているため(私の見解では誤った仮定)、この問題は「初期の人間」がどのように暴力的であったかに関して世界的な注目を集めています。この問題はまた、ヤノマミ族に深刻な政治的影響をもたらしました。もし一部の人が描写したように彼らが実際に暴力的だった場合、ブラジル政府は、金鉱労働者がヤノマミ族の領土に入ることを防ぐのに役立つような大きな単一の保護地を許可するのではなく、いくつかの小さな保護地に分割するべきであると感じていました。(かなりの議論の末、1992年に大きな単一の保護地が設立されました。)

このトピックに関しては多くのことが書かれていますが、ヤノマミ族の暴力のレベルを正確に評価するためには信頼できるデータが必要です。私たちが持っているのは、あいまいな逸話的な評価と、有効であるかもしれないしそうでないかもしれない示唆的な統計だけです。この議論は、サイエンス誌(Chagnon 1988)の有名な記事においてシャグノンによって報告されたデータを中心に展開しています。[43]しかし、これらのデータは公開されていないため、確認することはできません。シャグノンは、「特に、誰が「殺人者」であるか、彼の名前、彼の村、彼の年齢、彼が持っていた妻の数、そして子孫の数を特定できるようなデータを決して公開しない。要するに、フライが[シャグノンの統計の妥当性を疑問視する]批判をするのに必要なデータは、私が公開したデータから収集することはできない」と表明しています。[44]もしシャグノンが他の人によって確認できるようなデータを公開しないのであれば、新しい研究が行われるのではないかと読者は疑問に思うかもしれません。問題は、それ以来ヤノマミ族が平和な状態になっていることです。その結果として、読者は、人類学者が議論を棚上げにして、シャグノンがデータを公開するまで解決できないことを認めるだろうと考えるかもしれません。しかし、それは起こっていません。人類学者は、このトピックをめぐって激しい議論を続けています。これについて南アメリカの低地を専門とするあなたの教師に尋ねて、彼女または彼がどのように反応するかを見てください。

2番目の例はハーンスタインとマレーによる広く議論された本「ベルカーブ(The Bell Curve)」(1994)です。これは、「人種」(彼らが定義するところのもの)間での知能の違いが、特定のIQテストで異なるように示されることを示唆しています。この議論の余地のある命題から、著者たちは、白人が黒人よりも経済的に成功しているように見えるのは、白人の方が知性が高いためであると結論しました。

言うまでもなく、この本はマスコミを騒がせました。著者が提供した統計分析に基づいた初期の書評は、一般的に肯定的でした。ニコラス・レマンは、肯定的な書評の鍵となる理由を指摘しました:「中立的な書評者が1か月や2か月をかけて慎重に本を調べるという通常のルーチンは起こらなかった…[初期の]討論は…この本を評価する独立した能力のない人々によってマスメディアで行われた。」初期の書評者は、ハーンスタインとマレーによって提供された統計に基づいて書評を行うしかありませんでした。「「ベルカーブ」にとって最も不利な批判は1995年後半になってようやく現れ始めた…「ベルカーブ」には、ずさんな推論から情報源の誤った引用、完全な数学的間違いに至るまでの誤りがいっぱいあることがわかった。」[45]

言い換えれば、著者の結論を裏付けるデータを注意深く分析し、他の人が著者の主張を確認できるようにする能力がなければ、社会科学や医学は、公衆が依拠することのできる信頼できる結果を生み出すことができません。透明性がなければ、大体において人は、暗示的であるものの立証されておらず不確実な可能性を提供してしまいます。

あなたは、なぜ公共人類学センターの名前がセンター・フォー・ア・パブリック・アンソロポロジー(Center for a Public Anthropology)であってセンター・フォー・パブリック・アンソロポロジー(Center for Public Anthropology)ではないのか戸惑っていますか?あなたは「ア・パブリック(公共)」という言葉が何を指すか知っていますか?それは、人類学の動態をより公的にすることを強調し、センターの名前の中に透明性への重点を埋め込んでいるのです。

(3)他者との協働(コラボレーション) — 単独で仕事をすることから、他の人と協力して大きな変化を促進することへと移行すること。人類学者が自分たちだけで仕事をしているならば、大きな社会的変化をもたらす力を持つことはめったにありません。効果的であるためには、彼らは通常、人々を動員し、時間をかけてプロジェクトを継続する能力を備えた大規模な組織によって生み出されるエネルギー、資源、および勢いを必要とします。簡潔に述べると、公共人類学は、他の人と協力するときに最も効果的に機能します。

人類学的な協働の例を提供する前に、戦略と例の両方を文脈の中に配置するための3つのポイントについて議論しておきましょう。第1に、ある人の書いたものに対して読者に注意を払ってもらうための鍵は、何が開示されているかよりも、情報が誰に開示されているかの中にあることのほうが多いです。人類学者は、情報に最も関心のある人をターゲットにするとともに、これらの関心を持つ人たちが容易に使用できる形式で情報を提示するべきです。ターゲットを絞った透明性(競合者の主張の信用性を崩すために、機関が必要とする信頼に足る公的な情報を機関に提供すること)の価値は、それを公表することに責任を持つ個人のグループがすでにあるということです。たとえば、対外援助がどこで機能するか(および機能しないか)を報告する場合、人類学者は、援助交付金を無駄に費やしている組織に対して財政的に競合しているような組織に情報を報告することに集中できます。

第2に、ターゲットを絞った透明性は、人類学者が情報を提示する際に政策立案者を超えて他の後援者に届ける必要がある理由を明らかにします。政策立案者のみに情報を提供する(その後、政策立案者が自由裁量で情報を使用する)ことは危険なタンゴになる可能性があります。文化人類学者が信頼性を持つためには(実際に権力者に真実を語るためには)、文化人類学者は有力な人たちの手駒になることはできません。学術的な役職と終身在職権のある地位により、人類学者は尊敬される、独立した批判者となることができます。確かに、人類学者は、公式および非公式の両面で、さまざまな社会的および政治的機関と協力すべきです。しかし、人類学者は、現状を維持しようとしている人たちによって情報や洞察が埋められてしまわないように、一定の独立性を維持する必要があります。研究に資金を提供してくれたり、給与を支払ってくれたりする人たちに情報を単に報告するだけでは、重要な情報が公開される可能性は低いです。人類学者は、自分の情報を活用し、それを基に変化を促進する他者に届ける必要があります。

第3に、もしあなたが文化的ヘゲモニー(この学問分野の公衆への関与を制限するような、構造的および文化的制約)についての私の意見を受け入れるならば、この学問分野の外側の人々と協力することは、そのような制約を克服するための1つの方法を提供してくれます。学術界の外の多くの人々は、高等教育の説明責任と透明性の限界を懸念しているため、外部のグループと協力することは、これらの問題に対処する手段を提供してくれます。

私の人類学的な協働の最初の例は、パートナーズ・イン・ヘルス(PIH)です。これは、コミュニティーの既存の構造に基づいて医療支援プログラムを構築し、コミュニティーの人々をスタッフとして用いる非営利組織です。この組織を設立した2人の医師、ポール・ファーマーとジム・ヨン・キムは、どちらも人類学の博士号を持っています。そのウェブサイトによると、PIHの使命は、「ヘルスケアにおいて、貧しい人々に特恵的な選択肢を提供することです。貧困の状況に基づいて姉妹組織と長期的な関係を確立することにより、パートナーズ・イン・ヘルスは2つの包括的な目標の達成に努めています:それは、現代医療科学の利益を最も必要としている人々にもたらすこと、そして、絶望の解毒剤としての役割を果たすことです。」

「カタログ・オブ・フィランソロピー(慈善活動のカタログ)」に載っているように、協働はPIHの組織の中心にあります:

健康プログラムには、事前評価、設計、実施、評価のすべてのレベルでコミュニティーのメンバーが参加するべきです。コミュニティーの医療従事者は、家族、友人、さらには患者でさえあるかもしれず、彼らは健康教育を提供したり、病気の人を診療所に紹介したり、自宅にいる患者に薬や社会的サポートを提供したりします。コミュニティーの医療従事者は、医師や看護師の仕事に取って代わるものではありません。むしろ、彼らは診療所とコミュニティーの間の重要な橋渡しです…奉仕しているコミュニティーに対して、彼らが何を必要としているのかをPIHが伝えることはありません。彼らが私たちに伝えるのです。[46]

PIHは、コミュニティーの医療従事者を患者のケアの重要なパートナーと考え​​ています:

PIHは、30年近くにわたって、コミュニティーの医療従事者を雇用し、課題に直面する…患者がケアを受けるのを助けるための訓練を行ってきました。世界中の1万2000人のコミュニティーの医療従事者が患者の自宅を訪問し、彼らの健康を評価し、診療所や病院と結び付けています。

PIHのコミュニティーの医療従事者プログラムの発祥地であるハイチでは、彼らはアコンパニエーター(同伴者)と呼ばれており、その名前は病気を乗り越えて健康を取り戻す旅において人々に同伴することの重要性を強調しています。

自分の働いている地域社会に住んでいるコミュニティーの医療従事者は、信頼され、患者の家で歓迎され、幅広い健康問題に対して高品質のサービスを提供しています。たとえば、結核の治療を開始する患者は医療従事者とペアになり、彼らは患者の家に毎日訪れて治療を監督し、患者が定期的かつ正確に薬を服用するようにします。HIVまたはその他の慢性疾患を患う人々にとって、この支援は彼らがより長く健康的な生活を送ることを可能にします。[47]

手短に言えば、PIHは、医療提供者としての有効性を拡大する上で、コミュニティーとの協働を強調しています。アコンパニエーターは、患者の治療における重要なパートナーです。

他の人たちとの共同作業のもう1つの例は、メトリクス・プロジェクトにおける公共人類学センターとAltmetric.comとのコラボレーションです。私たちは協力して、世界の主要な報道機関で強調された人類学の記事と本に関する指標を提供し、それによって教員の知的な仕事を評価するために使用される指標を拡大しています。私たちは、学部長と学科長の両方に対して公共への関与の明確な指標を提供することにより、人類学者がより公的に関与することを支援し、それによってこの章の冒頭で述べた最初の難問に対処することを望んでいます。

公共人類学センターがメトリクス・プロジェクトに必要なデータを収集することは不可能でしょう。データは、世界中のメディア内での参照を検索するために、記事や書籍のデジタルオブジェクト識別子(DOI)を使用して収集されます。Altmetricは、社会科学においてこれらのデータを収集することを得意としています。公共人類学センターはそうではありません。しかし、Altmetricは司書とともに仕事をする傾向があり、センターは社会科学の学科長や学部長と仕事をする傾向があります。メトリクス・プロジェクトにより、センターはAltmetricの仕事の範囲を広げます。

3番目の例は、米国議会のメンバーと公共人類学センターの取り組みです。最近まで、比較的少数の研究者(約11%)しか、研究の完了後に研究成果を報告するためのプロジェクト結果報告書を提出するというNSFの要件を満たしていませんでした。センターは学生ボランティアと協力して、この問題に対する議会のメンバーの注意を喚起し、議会のメンバーはNSFにこの問題を提起しました。4か月の間に、成果報告書の提出は約80%に達しました。明らかに、センターは単独ではプロジェクトの成果報告書の提出度を高めることはできなかったでしょう。センターと学生が問題を明らかにするまで、議会は問題を認識していませんでした。センターと議会のメンバーは協力して、NSFプロジェクトの成果報告書の割合を大幅に引き上げることができました。

(4)他者に利益をもたらす — 「危害を及ぼさない」ことから、人類学が実際に他者にどのようにして利益をもたらすかを実証することへと移行すること。現在、アメリカ人類学会の倫理規約(American Anthropological Association 2012)は「危害を及ぼさない」ことに焦点を当てています。しかしながら、多くのフィールドワークの現場で発生しているように、人類学者が研究している人々がさまざまな病気で苦しんでいる場合はどうなるでしょうか?人類学者は病気の原因ではないので人々を放っておくでしょうか、それとも彼らは自分たちの研究を助けてくれる人々を助けようとするでしょうか?

人類学の研究に資金を提供する機関は、助成金を受け取った人類学者が、彼らに与えられた数千ドルを費やす際に誰にも危害を及ぼさなかったことを確認することによって、資金提供機関に対して、より一般的には大きな社会に対して「返済」するだけで十分かどうかを尋ねる権利があります。あるいは、資金提供機関は、人類学者が何らかの有用な方法で人々のグループに利益をもたらすようにして問題に実際に対処しようとしたという、より積極的な対応を期待すべきでしょうか?

医学生が医師になる際に述べるヒポクラテスの誓いは、一般的な信念に反して、主に「危害を及ぼさない」ことに主たる焦点を当てるものではありません。エピデミクスI、IIにあるこの宣誓の元の言い回しでは、「病気に関しては、2つの習慣を持つことである — 助ける、あるいは少なくとも、危害を及ぼさないこと」と記されています。「まず、危害を及ぼしてはならない」というフレーズは、19世紀の病院の住み込み外科医であったトーマス・インマンに由来する可能性があります。なぜ人類学者が倫理規約の中で「危害を及ぼさない」ことに焦点を当てるべきか(他者を助けるのではなく)というのは興味深い質問です。

人類学の「危害を及ぼさない」という基準は時代遅れであるとともに、やや利己的です。それは、人類学者が、先住民族の社会を再構築しようとしていた宣教師や植民地行政官と自分たちとの差別化を図った1800年代後半から1900年代初頭の時代に引き出されたものです。人類学者はこれらの社会を作り直そうとはしませんでした。彼らは意識的に変更を避けようとしていました。しかし、この文脈はもはや成り立ちません。「危害を及ぼさない」という倫理は、人類学者が特定の道徳的ジレンマと義務を回避することを可能にするという点で、今では利己的なものとなっています。あなたが研究などで人々に助けを求めるとき、あなたは通常はいつか何らかの形で好意を返すことが期待されます。その互酬性は、社会関係の重要な原則です(1925年のマルセル・モースによる人類学の古典「贈与論(The Gift)」に明記されているように)。

少し振り返ってヤノマミ族に戻ると、彼らの暴力についての確証のない報告がヤノマミ族に危害を及ぼしたかどうかについて長年にわたって質問がされてきました。この質問に焦点を当てることによって、人類学者は重大な懸念を回避することができました:その懸念とは、ヤノマミ族には、数十年にわたって多くの人類学者の研究を支援したことで、どのような具体的な利益がもたらされたか、というものです。シャグノンは、彼のさまざまな本や映画から百万ドルを優に超える額を稼ぎました。他の人類学者はそれほど多くは得ていませんが、彼らの出版物は、彼らの生活水準を平均的なアメリカ人の水準をはるかに上回るようにする昇進と昇給を得ることを可能にしました。主として彼らはヤノマミ族に小物と銃を提供しました。ブルース・アルバートなどの少数の個人のみが、コペナワとアルバートの共著「落下する空(The Falling Sky)」(2013)で強調されているようなヤノマミ族を壊滅させる重大な健康問題に対処しようとしました。

人類学者は、他者に危害を及ぼさないことに焦点を当てるのではなく(それは異なる意図を持つ人々によってさまざまな方法で解釈される可能性があります)、彼らを助けてくれた人々を具体的な方法で助けることに焦点を当てることができます。それは確実に人類学者に対する先住民族のグループの認識を高めるでしょう。また、それは、人類学をキャリア形成における利己的な運動としてではなく、他者の理解と支援における相互に有益な取り組みとして提示することで、人類学の取り組みに対する公衆の認識も高めるでしょう。

社会的変化を促進する

前述の戦略は、特に人類学の信頼性と価値に関して、公衆が人類学をどのように認識するかを改善することを目的としています。この節では、私たちは、人類学者が変化を促進することのできる特定の方法に注目します。人類学者にとっての標準モデルは、コンサルタント、文化的な仲介者、または研究者の役割でもって、他者を支援することに関心のある企業または政府機関に雇われることです。ここに示されている提案は多少異なります。それらは人類学者が追求することのできる代替アプローチを提供します。それらは追加の可能性を提供することを目的としています。

(1)もしあなたが、文化的ヘゲモニー構造が変化に対する抵抗をどのように形成しているかについての私の意見を受け入れるならば、学術界を超えた人々と協力することが重要になります。必要なものは、大きな機関が提供する持続力と資源です。高等教育における説明責任と透明性についてのより広範な社会の懸念を考慮したうえで、人類学者はさまざまな公的グループに到達する手段を持っています。ターゲットを絞った透明性(競合者の主張の信用性を崩すために、機関が必要とする信頼に足る公的な情報を機関に提供すること)の価値は、人類学者が提供する情報を公表する準備ができているグループがあるということです。私たちはこれを、特に次の2つの戦略で見ていきます — 重要な問題を概念化することと、エクスポゼ(暴露)です。

(2)重要な問題を概念化すること:人類学は、その中核では、比較を具体化します。あるグループを別のグループと比較することにより、人類学は人々が彼らの偏狭な視点の外に出ることを可能にします。これは、有権者、政治家、役人、活動家が問題を概念化し、それに対処するのに効果的な行動を取るために使用することのできる枠組みを提供します。以下に例を示します。

ノルウェーの人類学者フレドリック・バースは、パキスタンとノルウェーでの比較研究に基づいて、「いまだに広く共有されている見解に反して、私は、民族グループが共有された文化に基づいて形成されたグループではなく、むしろ文化の違いに基づいたグループの形成であると主張し[てき]た…「私たち」と「他者」の間の対比は、民族性の構成の中に組み込まれているものである」と書きました。[48]彼は明確ではっきりと区別できるような文化的境界はほとんどないと断言しました。むしろ、地理的領域全体に渡って連続的な変化の範囲が存在します。敵対することは文化的な違いを活気づけます。バースは、アラブ人とキリスト教徒、ウクライナ人とロシア人、スンニ派とシーア派のアラブ人の間の激しい緊張など、多くの文化的対立の背後にいるのは「民族の請負人」であると示唆しています。

今日私たちが目にする対立は、主として文化的差異の政治を利用してリーダーシップへの自身の野望を推進している中位の政治家による仕事である。これは彼らにとって魅力的である。というのは、彼らは民族的アイデンティティーの中に、(いわば彼らを待ちうけている)潜在的な支持者を見ており、彼らが見つける必要があるものはプロセスを作動させるための鍵だけだからだ。指導者はこれらの支持者を求め、選択的で対照的な文化の違いをより際立たせることにより、そして…それらを怒りや不正に結びつけることにより、彼らを動員する…彼らは対立的​​な政治に従事している。[49]

民族的な対立を減らすために、バースはこれらの政治的な請負人たちがどのように働いているのかを公開することを提案しています。これらの請負人たちがグループの違いを強調するままにしておくのではなく、私たちは人々の共通の基盤に注目すべきです。

私たちは、特定の違い…の顕著さを減らすとともに、他のすべての交錯する違いと彼らが持っている共通の関心に対して[人々の]注意を引く必要がある。私たちは、特に交渉のために、共通の利益から働き、外側へと移行することができるような舞台を作ることを望んでいる…あなたは反対の支持者から始めて、それらを一緒にしようとすることはない。あなたは共通の基盤から始めるのである。あなたは当事者間で共有されている利益について尋ねる。そして次に、あなたはその共通の基盤を拡大するために交渉する。[50]

ある意味では、これはボアズが人種に関する彼の研究の中でやったことであり、タイム誌が彼を認めた理由でもあります。人類学者は、深刻な公共の問題を解決するための新しい方法を概念化することができます。彼らの明快さ、文書化、力を通じて、彼らは政治家、主要な意思決定者、広い公衆を真剣な検討へと引き寄せることができます。そこには、効果的な行動を促進するために問題を枠付けし直し、明確にするアイデアの力が含まれます。しかし、そうするためには、人類学者は他の人と協力し、彼らの洞察を効果的に使用することに最も意欲的な人たちへとそれらの洞察を届けなければなりません。彼らは、単に話をして、他の人が聞くこと(教室で起こっているように)を期待することはできません。人類学者は、自分たちの革新的な枠組みを活用できる個人と組織を特定し、それらの個人と組織がその枠組みを利用できるように努める必要があります。

あなたは、自分の大学での人種的および社会的緊張を軽減するために、バースの洞察を適用することができますか?もしそうなら、どのようにして?もしそうでないならば、それはなぜですか?

(3)エクスポゼ(暴露) — 権力に対して効果的に真実を語ること。権威に挑戦することには興奮があります(特にあなたが違法または不適切な活動を暴露できる場合には)。後にしばしば続くことにはさほど興奮がありません。あなたはしばしば無視されます。すべてのエクスポゼが見出しを飾るわけではありません。さらに、見出しを飾ったものであっても、その後のニュースの猛攻撃でしばしば忘れられます。エクスポゼを発表する際の問題は、あなたがどのようにして他の人にそれを認識させ、それに対処するための行動を取ることができるかです。2つのケーススタディを探求してみましょう。

カリフォルニア大学バークレー校の人類学者であるナンシー・シェパー-ヒューズは、民族誌学的な技能を使用して、臓器売買で有罪判決を受けた最初の人物の裁判を助けました。次の記事は、ブルームバーグビジネス誌に掲載されたものです。

あるニューヨークの男性が、闇市場での人間の腎臓の販売を3人のアメリカ人に仲介したことを認め、米国で臓器売買の有罪判決を受けた最初の人物となった。60歳のレヴィー・イザク・ローゼンバウムは、今日、ニュージャージー州トレントンの連邦裁判所で3件の臓器売買と1件の共謀の罪を認めた。彼は、健康なドナーからの腎臓の販売を手配するために、ニュージャージーの3人の病気の人物が彼に合計41万ドルを支払い、FBIの覆面捜査官が彼に1万ドルを支払ったと述べた。1984年の米国の法律は、人間の臓器の販売を禁止している。[51]

興味深いことに、ニュース報道のほとんどは、シェパー-ヒューズが果たした役割について言及していませんでした。しかしながら、ウィキペディアは、FBIの「おとり捜査」に基づくニュージャージー州の政治腐敗スキャンダル「ビッド・リグ作戦」の説明で、「人類学者および臓器売買の専門家であるナンシー・シェパー-ヒューズは、ローゼンバウムが国際的な臓器密輸の「主要人物」であるとFBIに伝えたと主張した」と記載していました。[52]シェパー-ヒューズを引用すると:

私はメディア、CBS、60ミニッツ、そして48アワーズへと出向きました。その番組は、イスラエルで私に会うために調査報道記者のアヴィ・コーハンを派遣しました。私たちはそこで、ニューヨーク市、フィラデルフィア、ベイエリア、ロサンゼルスの病院において「覆面」移植を受けた患者たちと話をしました。CBSはエクスポゼを行わないことに決定しました。私は困惑しました。外国で住むところを失った人から不法に調達された腎臓であったとしても、外科医を非難したり、苦しんでいる患者が移植を受けるのを妨げたりしたいと思う人はいませんでした。[53]

このため、2009年にニュージャージーのFBI事務所がはるかに大規模な組織犯罪に対するおとり捜査の一環としてローゼンバウムを逮捕するまでさらに数年かかりました。ローゼンバウムはFBIの観点からより重要な別の事件に関与していたため、捜査員はついにシェパー-ヒューズの情報を追跡することにしました。

2つ目のエクスポゼは、引き続き世界でニュースとなっています。エドワード・スノーデンは、米国国家安全保障局(NSA)の活動についての機密政府文書を漏洩しました。ウィキペディアはこの事件を以下のように要約しています:

2013年5月20日、スノーデンはハワイのNSA施設での仕事を辞めた後、香港へと飛び、6月初旬にジャーナリストのグレン・グリーンウォルドローラ・ポイトラスイーウェン・マカスキルに対して機密扱いされた数千のNSA文書を見せた。ガーディアン紙ワシントンポスト紙にその資料に基づいた記事が掲載された後、スノーデンは国際的な注目を集めた。さらなる開示は、デア・シュピーゲル誌ニューヨークタイムズ紙を含む他の新聞によってなされた。

NSAが何百万もの電子メールとインスタントメッセージングの連絡先リストを収集し、電子メールの内容を検索し、携帯電話の場所を追跡および地図上に表し、「Bullrun」を通じて暗号化の試みを弱体化していること、およびこの機関が、インターネット広告主が使用するのと同じツールに「相乗り」するためにクッキーを使用して「政府のハッキングの標的を特定し、監視を強化していた」ことが明らかになった。NSAは、「MUSCULAR」監視プログラムを使用して海底ケーブルを盗聴することにより、YahooおよびGoogleデータセンターを「密かに」盗聴して、世界中の「数億」のアカウント所有者から情報を収集していたことが示された。[54]

スノーデンの告発は、ほとんどの人がプライベートだと思っていた情報をNSAがどの程度収集しているのか関して衝撃的な文書を含んでいたため、広く世間の注目を集めたのは明白に思えるかもしれません。あまり知られていないのは、スノーデンの開示の前にワシントンポスト紙がダナ・プリーストとウィリアム・アーキンによる記事で関連情報を公開していたことです。彼らはこう伝えています:

2001年のテロ攻撃から9年が経った後、米国はFBI、地方警察、州の安全保障当局、および軍の犯罪捜査官を使用して、アメリカ人についての情報を収集するために巨大な国内諜報装置を構築している。このシステムは、米国史上、圧倒的に最大で、かつ最も技術的に洗練されたものであり、数千人の米国市民と居住者(その多くがいかなる不正行為でも告発されていない人)についての情報を収集、保存、分析している。[55]

「アメリカを監視する(Monitoring America)」というタイトルの記事は、PBSの番組フロントラインでのレポート「トップシークレット・アメリカ(Top Secret America)」へとなりました。著者は次のように述べています:国土安全保障省は、

地元の機関に情報の公報を毎日提供している。これらのレポートは、可能性のあるテロの脅威について機関に通知することを目的としている。しかし、一部の当局者はそれらについて、曖昧で、人騒がせで、しばしば役に立たない情報の終わりのない流れを届けていると言う。「それは、車が駐車できなくなるまで、家のガレージの中にごみを投げ入れているようなものだ」と、ロサンゼルス警察のテロ対策および特殊作戦の次長、マイケル・ダウニングは言う。[56]

スノーデンとプリースト/アーキンの開示は強調するものが異なります。プリースト/アーキンは米国で収集されたデータにのみ焦点を合わせている一方で、スノーデンはグローバルな監視プログラムに焦点を当てました。スノーデンの開示は国家安全保障の法律に違反していました。プリーストとアーキンは法律に違反してはいませんでしたが、おそらく彼らは多くのNSA職員を不快にさせました。彼らは、ほとんどが役に立たない膨大な量の秘密情報が収集されていることを示唆していました。スノーデンは、単に彼らの分析を拡大しただけだと言うことができるかもしれません。これらのエクスポゼの結果は興味深いものです。エドワード・スノーデンはそれ以来モスクワに住むことを余儀なくされています。なぜなら、もし彼が米国に戻ったら、彼は裁判にかけられ、おそらく投獄されるからです。ダナ・プリーストは、メリーランド大学で公共問題ジャーナリズムのナイト・チェアを務めています。

なぜこれら2つのエクスポゼには劇的な違いがあるのでしょうか?主な理由の1つは、プリーストとアーキンが、受け入れられたルールに従って行動し、いかなる法律にも違反していないジャーナリストであるということです。関係する機関は、彼らが発表しようとしていることを知っており、大っぴらに激しく反対することはありませんでした。1回の大騒ぎの後、彼らの報道はほとんど忘れられていました。したがって、NSAが反応する必要はありませんでした。しかし、スノーデンが情報を開示するとすぐに、彼は世界中の注目を集めただけでなく、ドイツなどの米国の同盟国との多数の国際的な確執を引き起こし、それらの国は米国がその国の市民のプライバシーを侵害していると非難しました。秘密情報の漏洩とアメリカの同盟国との対立により、スノーデンは米国の司法制度の範囲を超えて生きることを余儀なくされた国際的な無法者となりました。彼は受け入れられたルールに従って行動しなかったため、プリーストとアーキンよりも注目を集め、彼らよりも大きな影響を与えました。

もしあなたが公共人類学者として発言するならば(権力に対して真実を語るならば)、どのような種類のエクスポゼを試みますか?あなたはそれをどうやってやりますか?どのような個人的なコストがあると思いますか(もしあるとして)?

(4)インパクトのある物語を書く。私は、この章の節で最初の難問について議論したとき、非人類学者が最も人気のある人類学指向の本を書く傾向があることを強調しました。それは、人類学者がより広い聴衆のために書くことができないということではありません。むしろ、彼らはそのような執筆を思いとどまらせるような学問的文脈の中で働いているのです。とはいえ、一部の人類学者は、授業で採用されて使用される本に焦点を当てて、経済的にかなりうまくやっています。たとえば、シャグノンのヤノマミ族に関する民族誌の入門書は、5つの版を重ねて、100万部をはるかに超える売り上げを記録しています。この本が成功する理由の一部は、この本の説明を生きたものとさせるような一連の鮮やかな民族誌のビデオを教師が使用できることです。

シャグノンはまた、ヤノマミ族とのやり取りを生き生きと描写し、自身のことをインディー・ジョーンズ型の人物として表現しました。私の知る限り、研究している部族の特定のメンバーが、どのようにして意図的に人類学者を殺そうとしていたか(シャグノンの場合は銃で)について議論した他の人類学者はいません。そのような事件は他の人類学者にも起こったかもしれませんが、彼らはシャグノンがやったようにそれらについて自慢したことは決してありません。人類学者は一般に、自分とは異なる人々に対して寛容さを示し、研究を行いながら共に生活し、共に働く人々への敬意を示すことに誇りを持っています。シャグノンは反対の方向に動き、彼のヤノマミ族の描写に対して、劇的で、時には軽蔑的な雰囲気を与えました。

しかし、多くの大学生はシャグノンの本を楽しんでいます。それは彼らの偏見を引き出します — アマゾンのインディアンを風変りな「野蛮人」として強調します。これは必ずしもシャグノンの意図ではありませんでした。彼は、ヤノマミ族がアメリカ人と同じくらい野蛮であり、それ以上でもそれ以下でもないことを強調したかったのです。しかし、学生が彼の本から受け取る傾向のあるものは、それではありません。彼らはヤノマミ族に対する自分たちの優越性を受け取ります。シャグノンのもののような人気の民族誌に対してどのように対処できるでしょうか?それはアマゾンの集団についての詳細な記述を提供しますが、研究する人々をかなり好ましい用語で記述するという人類学的な教義に反してもいます。あなたならどうしますか?

ほとんどの人類学者は、フィクションの作品を生み出すという意見に抵抗します。彼らはどこともわからないところから民族誌を作り出すこと(カルロス・カスタネダが「ドン・ファンの教え(The Teachings of Don Juan)」でやったと多くの人が疑っているようなこと)はしません。ほとんどの人類学的な民族誌は、約2000部が売れます。これは、カスタネダが売り上げた数百万冊の本と比べてわずかなものです。一部の同僚の説明では、どこで事実が消え去り、フィクションが始まるのかは必ずしも明確ではありません。人類学者は、彼らが客観的であると主張します。彼らは、自分たちが正確な説明を提示していると主張します。しかし、この仮定をテストするために他の人類学者の現場を訪れる人はほとんどいません。彼らがそうしないことは、同僚とのより良い関係に役立ちます。

あなたは多くの本を読んできました。そのうちの一部はあなたを興奮させるものであり、他のものはそうではありませんでした。あなたが専門的な学識の感覚を含む一般向けの人類学の本を書くことになった場合、もしあなたが10万部を販売したいならば(そして販売価格の10%を手に入れたいならば)、あなたはどのトピックを選択しますか?過度にフィクションのほうへ移動したり、一緒に働いた人々を傷つけたりすることなく生徒の注意を引くためには、あなたはどのように書きますか?

私が議論してきたことを振り返り、あなたがそれぞれの節で出てきた重要な考え方を覚えているかどうかを確認してみましょう。私たちは、この章を、(a)人類学と広い公衆との相互作用に起因する2つの難問から始めました。そして私は、(b)公共人類学について、特にそれに対するさまざまな認識および公共人類学と応用人類学との関係について記述しました。次に私は、(c)より広い公衆に対する信頼性を高めることを目的として、人類学を変革するためのこの分野における4つの中心的な戦略について議論しました。最後に私は、(d)変更を促進する方法への提案を探求しました。この章では、私は、あなたが公共人類学の取り組む問題を理解するだけでなく、人類学者から公衆に訴えかけるための効果的な方法についても検討するように努めてきました。あなたはこれらのポイントをつかんだでしょうか?それとも退屈で卒倒しましたか?いくつかのポイントはあなたに関係があるように思えましたか?

締めくくりの質問

第1に、私は以前の節で、Altmetricと公共人類学研究センターの仕事を取り上げました。そのウェブサイトを見て、表示されるデータを調べてみてください。世界のメディアの中で教員たちの出版物を強調することが、昇進のための基準を広げるのに効果的であると思いますか?もしそうであるならば、それはなぜでしょうか?もしそうでないならば、なぜそうではないのでしょうか?

第2に、以下は、あなたのような入門の学生が、ブラジル人の主要グループと連携して公益人類学センターと共に働き、1960年代後半にヤノマミ族から採取した血液サンプルの返還を促進したときの説明です。この章で強調されている戦略のうち、この取り組みの中で効果的であったとあなたが思うものはどれですか?私は4つを挙げました。この説明の中にあなたはいくつ見つけることができますか?あなたならどのようにして、この物語がより多くの人々に届くようにメディアを引き付けますか?

ボロフスキー博士は、公共人類学の例として(カーンアカデミーのモデルに沿って)、入門の学生向けに人類学の主要なトピックに関する10~15分の短いビデオを作成しました。28本のビデオはすべて、「視点:文化人類学への開かれた招待(Perspectives: An Open Introduction to Cultural Anthropology)」のウェブサイトから利用できます。

公共人類学センターのプロジェクト:いかにして血液がヤノマミ族に戻ったか

このプロジェクトについての詳細な情報と完全な参考資料は、公共人類学センターのウェブサイトにあります。学生と講師は、コミュニティーアクションプロジェクトに参加することができます。

図19.1:ヤノマミ族の肖像。(Photo by Claudia Andujar. All rights reserved.)

第1段階:この問題は、かなり単純なもののように見えました — 法的責任の問題になる前は。当初、ヤノマミ族へと血液を返還するという視点は、科学を主張することと先住民の権利を主張することの連続性のどこに立つかということに帰着するものでした。問題となっているのは、1960年代後半に遺伝学者のジェームズ・ニールと人類学者のナポレオン・シャグノンを含むアメリカの研究チームによってヤノマミ族から採取された血液サンプルでした。[S1-a]ヤノマミ族の知らないうちに、この血液サンプルはその後、ペンシルベニア州立大学をはじめとする多くのアメリカの機関で保管されました。ヤノマミ族は、パトリック・ティアニーの「エルドラドの闇(Darkness in El Dorado)」(2000)の出版後になってようやくこの事実を発見しました。ティアニーは、ヤノマミ族の血液サンプルが「ペンシルベニア州立大学の古い冷蔵庫」に保管されていると書きました。[S1-b]

ヤノマミ族にとって、これは非常に動揺させられるものでした。一部のヤノマミ族は、このサンプルが研究者のキャリアを支援していたために、自分たちはかつてよりもより良い補償を受けるべきだと感じました。しかし、多くの人々は、ヤノマミ族の伝統に従って適切に廃棄できるように、サンプルを返却するのではなく保持することが宗教的な犠牲であると感じていました。[S1-c]

ヤノマミ族には、彼らの血液サンプルは、彼らを襲う病気についてさらに学ぶために使われることが約束されていました。[S1-d](それらのサンプルは、麻疹の流行の最中に収集された、ということに注意すべきです。)残念ながら、これは起こりませんでした。数人の研究者がそのサンプルを個人的な研究に使用しました。しかし、40年以上にわたってサンプルが保管されてきたさまざまな機関によって作成された出版物から判断すると、それらは広く研究されておらず、ヤノマミ族に直接利益をもたらすような方法で使用されたこともありません。したがって、科学と先住民の権利との間の対立のように思われたもの(少なくとも最初の数年間は)は、大部分において、漠然とした将来の使用(ヒトゲノムプロジェクトなど)のためにサンプルを保存しておきたい人と、宗教上の理由で血液が返還されることを望むヤノマミ族との間の対立でした。

しかし、この紛争を解決するのを助けるために弁護士が関与するようになったとき、参照枠組みは大きく変わりました。その後は、法的責任の問題と訴訟が起こされる恐れに焦点が当てられました。

図19.2:ダビ・コペナワ。(Photo by Claudia Andujar. All rights reserved.)

第2段階:ブラジルにおけるヤノマミ族の著名な指導者であるダビ・コペナワは、ティアニーの本についての会話の中で、ブルース・アルバートから、アメリカに彼の親族の血液サンプルが保存されていることを初めて知らされました。ヤノマミ族擁護委員会(CCPY)は、コペナワと協力して、ロライマ州(ブラジルでほとんどのヤノマミ族が住んでいた州)とブラジルの首都ブラジリアにいるMPF(連邦公務省)の連邦検事にこの問題を持ち込みました。2002年、エラ・ウィッコ・フォルクマー・デ・カスティリョ副検事は、ペンシルベニア州立大学のサンプルを保管していたケネス・ワイス博士と連絡を取りました。[S2-a]その後、アルバートはコペナワからのメモを含めてワイスに手紙を書きました。[S2-b]この手紙のやり取りと並行して、主要なヤノマミ族はワシントンD.C.のインディアン資源センターに手紙を書きました。[S2-c]この手紙のやり取りからはほとんど結果が出ませんでした。2005年、ブラジルのマウリシオ・ファブレッティ副検事は、ワイス[S2-d]、ペンシルベニア州立大学のスーザン・ウェルチ学部長[S2-e]、およびビンガムトン大学の研究担当副学長であるジェラルド・ソネンフェルド博士に手紙を書きました。[S2-d]やはり、ほとんど何も起こりませんでした。ウェルチの反応は、ペンシルベニア州立大学が血液を戻すことを妨げるような重大な問題を強調していました。[S2-e]

第3段階:北米全土の学生と協力して活動する公共人類学センターの関与により、2006年のペンシルベニア州立大学の回答はより肯定的なものになりました。これらの学生からのワイスへのメールはほとんど効果がありませんでした。[S3-a]しかし、ペンシルベニア州立大学の学長であるグラハム・スパニエル博士への公共人類学センターからの正式な書簡と、他の数十人の学生からの支持を受けた学生書簡との組み合わせ[S3-b]は、肯定的な影響を与えました。これらの手紙への最高学術責任者ロドニー・エリクソン博士の返事[S3-c]と、ファブレッティへのウェルチの返事とを比較するだけで違いがわかります。

図19.3:Photo by Victor Englebert. All rights reserved.

ほぼ同時期に、アメリカ国立癌研究所(NCI)のディレクターであるジョセフ・フラウメニ博士は、ファブレッティ副検事への返事の中で、研究所は「[血液]検体をヤノマミ族の代表者に返還する意思がある」と述べました。[S3-d]これを知って、エリクソン最高学術責任者は、ペンシルベニア州立大学の血液の移送が「理想的には、NCIと同時に同じ状況の下で行われる」ことが望ましいと示唆しました。[S3-c]

しかし、最初は理にかなっているように思われたことが問題になりました。フラウメニ博士の助手であるカレン・ピット博士がサンプルの返還を促進するために多大な努力をした一方で、他の人(NCI、ペンシルベニア州立大学、ブラジルの)はプロセスを妨害し、時には虚偽のうわさを広めました。

第4段階:血液サンプルの返還を遅らせているのは誰なのか、あるいは何なのかは数年の間不明のままでした。アメリカの弁護士は、血液に関するすべての責任と保証の権利を放棄する正式な法的合意を主張しました。ブラジル人は、この主張に戸惑い、彼らが何に同意しているかわからないため、そのような合意に署名することをためらいました。ブラジルの副検事であるアントニオ・モリモト氏は、血液サンプルを単純にワシントンD.C.のブラジル大使館に引き渡すことを提案しました。[S4-a]しかし、ペンシルベニア州立大学と国立癌研究所は拒否しました。血液サンプルがヤノマミ族に戻された直後に儀式的に処分されることになっているという事実[Globo video S5-c3]、および、これが最終合意[S5-b1a, 2.4]の一部であったという事実は、NCIの弁護士にとっては無関係でした。彼女は、サンプルを返却する前に責任を放棄する合意を締結することを主張しました。最終的な移送の合意は、NCIが「移送…以前のサンプルの使用から生じるいかなる行為に関しても損害を被らない」となりました。[S5-b1a, 2.3]

図19.4:Photo by Victor Englebert. All rights reserved.

数年の間、膠着状態がありました。一方では、ペンシルベニア州立大学とNCIは、血液を返還したいと主張し、他方では、ブラジル政府は、血液が返還されることを望んでいると主張しました。しかし、彼らはそれがどのように行われるかについて決して同意できませんでした。

このような状況を考えると、血液の返還を望んでいる人々には、関係者に何らかの合意に達するよう圧力をかけるというただ1つの選択肢しかありませんでした。米国では、公共人類学センターが関係する主要人物に繰り返し連絡を取り、モリモト副検事[S4-b](およびブルース・アルバート)の努力を可能な限り支援し、メディアの注目を集めようとしました。[S4-c1S4-c2S4-c3S4-c4S4-c5S4-c6S4-c7S4-c8S4-c9]ブラジル側では、2004年にCCPYの支援を受けて設立されたヤノマミ族NGO(非政府組織)であるフツカラ・ヤノマミ協会(HAY)、および2007年にCCPYを吸収したインスティテュート・ソシオアンビエンタル(ISA)などのパートナー組織にとって、血液サンプルの返却が優先事項となりました。HAYの会長のダビ・コペナワは問題を提起し続けるための重要な役割を果たし、ブラジル、フランス、イギリスのメディアに記事を載せるよう働きかけました。[S4-c1S4-c2S4-c3S4-c4S4-c5S4-c6S4-c7S4-c8S4-c9]

第5段階:最終的に、ブラジルの圧力が重要でした。連邦公務省(MPF)の検事との複数の会議を通じて、ISAは次のようなことがわかりました。ISAの熟練した弁護士であるアナ・ポーラ・カルデイラ・ソウト・マイオールの言葉を引用すると:「生物学的物質の移転合意[に関連して]…連絡してきたアメリカの機関の要求により、新しいブラジル政府機関がこの件に関わることになった。サンプルの安全性の条件と最終的な送り先…[についてのアメリカ側の懸念のため]、外務省に加えて、ANVISA[ブラジルにおいて食品医薬品局に相当するもの]、およびAGU[ブラジル司法長官]も関与した。」最終的に、「MPFはブラジル側の官僚的障害を解決することができ、アメリカの機関との会話を明確にすることを通じて、求められたサンプルがアメリカ人により返還されるという合意に署名できると感じた。」

図19.5:Photo by Victor Englebert. All rights reserved.

2015年4月、ペンシルベニア州立大学は、血液サンプル(2693個のバイアル)を返還しました。これらのサンプルには、ビンガムトン大学に保管されていたものが含まれていました。2015年9月、国立癌研究所はサンプル(474個のバイアル)を返還しました。読者は、もし望むならば、正式な譲渡合意を熟読することができます。[S5-aS5-b1S5-b1aS5-b2]

ブラジルのメディア[S5-c1S5-c2S5-c3S5-c4S5-c5S5-c6S5-c7]、ブラジル政府の報告書[S5-d1S5-d2S5-d3]、および英国のメディア[S5-e]で、サンプルがヤノマミ族に戻されることがとりあげられました。

病気の蔓延やヤノマミ族がアメリカの機関を訴えるというような、移送に反対する人によって強調されたうわさ話の危険性(この移送を非常に複雑な法的問題にしたもの)は、どれも実際に起こることはなかったということに注意すべきです。その代わり、多くのヤノマミ族の人々にとって、血液サンプルの返還は深く心を打つ瞬間でした。サンプルの返還に関するダビ・コペナワのコメントをビデオの中で聞くことができます。[S5-c4]

血液サンプルの返還は、アメリカの人類学にとっても重要な瞬間を表しています。印刷物[S5-f]および映画[S5-g]におけるこの学問分野へのさまざまな批判への反論として、この血液の返還は、(自分たち自身のためでなく、ヤノマミ族のために)ヤノマミ族を支援するアメリカの人類学者の明確な事例を構成しています。それは、近年の事例よりも、ヤノマミ族に対してはるかに肯定的な見方でアメリカの人類学を描いています。

著者について

ロバート・ボロフスキーは、ハワイ・パシフィック大学の人類学教授です。著名な学者である彼は、6冊の本を執筆または編集するとともに、この学問分野の主要なジャーナル誌に論文を発表しています。ボロフスキー博士は、カリフォルニア大学出版部が発行する「公共人類学叢書シリーズ」の編集者、公共人類学センターのディレクター、および http://www.publicanthropology.orghttp://www.publicanthropology.net のウェブサイト管理者です。出版物には、「歴史を作る(Making History)」(1987)、「文化人類学を評価する(Assessing Cultural Anthropology)」(1994)、「太平洋の過去についての回想(Remembrance of Pacific Pasts)」(2000)、「ヤノマミ族:激しい論争と私たちがそれから学べること(The Yanomami: The Fierce Controversy and What We Can Learn From It)」(2005)があります。

書誌情報

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注記

[1] Anne Fadiman, The Spirit Catches You and You Fall Down (New York: Farrar, Straus, and Giroux, 1997), front matter.
[2] Chronicle of Higher Education, “Academics Should Do More to Shape Public Debate,” The Chronicle Review, November 11, 2016, B9.
[3] Mary Douglas, Purity and Danger: An Analysis of Pollution and Taboo (New York: Routledge, 1966), 123.
[4] Eric Wolf, “They Divide and Subdivide, and Call It Anthropology,” The New York Times, November 30, 1980, E9.
[5] Dan Salzstein, “Chill Out, Mom and Dad,” The New York Times, September 4, 2016, BR23.
[6] Alexander Erwin, Applied Anthropology: Tools and Perspectives for Contemporary Practice (New York: Pearson, 2005), 149.
[7] Ibid.
[8] Ibid., 102–104.
[9] Tom Greaves, Ralph Bolton, and Florencia Zapata, Vicos and Beyond: A Half Century of Applying Anthropology in Peru (Lanham MD: AltaMira Press, 2010), viii.
[10] Paul L. Doughty, “Ending Serfdom in Peru: The Struggle for Land and Freedom in Vicos,” in Contemporary Cultures and Societies of Latin America, ed. Dwight B. Heath (Prospect Heights, IL: Waveland Press, 2002), 238.
[11] Ibid., 239.
[12] Shirley J. Fiske, “Global Climate Change from the Bottom Up,” in Applying Anthropology in the Global Village, ed. Christina Wasson, Mary Odell Butler, and Jacqueline Copeland-Carson (Walnut Creek, CA: Left Coast Press, 2012), 162.
[13] “The Fifty Years War: What Has Changed Since the Federal Government Went to War in the Hollows,” The Economist, May 21, 2015.
[14] Margaret Lock, Twice Dead: Organ Transplants and the Reinvention of Death (Berkeley, CA: University of California Press, 2001), front matter.
[15] Thomas Hylland Erikson, Engaging Anthropology: The Case of a Public Presence (New York: Berg, 2006), back cover.
[16] Kay B. Warren, “Perils and Promises of Engaged Anthropology: Historical Transitions and Ethnographic Dilemmas,” in Engaged Observer: Anthropology, Advocacy, and Activism, ed. Victoria Sanford and Asale Angel-Agani (New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 2006), 213.
[17] National Association for the Practice of Anthropology, “The Practice of Anthropology.” http://practicinganthropology.org/practicing-anthro/
[18] Charles R. Hale, “What is Activist Research?” Social Science Research Council, 2, no. 1–2 (2001):13–15. www.utexas.edu/cola/anthropology/_files/PDF/Hale.pdf
[19] George W. Stocking, “Ideas and Institutions in American Anthropology: Thoughts toward a History of the Interwar Years,” in Selected Papers from the American Anthropologist, 1921–1945, ed. George W. Stocking (Washington, DC: American Anthropological Association, 1976), 1.
[20] Raymond Firth, “An Appraisal of Modern Social Anthropology,” Annual Review of Anthropology 4 (1975):4.
[21] Andrew Abbott, The System of Professions: An Essay on the Division of Expert Labor (Chicago: University of Chicago Press, 1988), 119.
[22] Robert Trotter, Jean Schensul, and Kristin Kostick., “Theories and Methods in Applied Anthropology,” in Handbook of Methods in Cultural Anthropology, ed. H. Russell Bernard and Clarence Gravlee (New York: Rowman & Littlefield, 2015), 661.
[23] Merrill Singer, “Why I Am Not a Public Anthropologist,” Anthropology News 41 no. 6 (2000):6–7.
[24] Margaret Mead, “Changing Styles of Anthropological Work,” Annual Review of Anthropology 2 (1973):1–2.
[25] Robert C. Kiste and Mac Marshall, American Anthropology in Micronesia: An Assessment (Honolulu: University of Hawaii Press, 1999), front book flap.
[26] David Givens, Patsy Evans, and Timothy Jablonski, American Anthropological Association Survey of Anthropology PhDs, http://www.americananthro.org/LearnAndTeach/ResourceDetail.aspx?ItemNumber=1499
[27] Ibid.
[28] Victor Turner, The Ritual Process: Structure and Anti-Structure (Chicago: University of Chicago Press, 1969), 96.
[29] Ibid., 203.
[30] Deborah L. Rhode, In Pursuit of Knowledge: Scholars, Status, and Academic Culture (Stanford, CA: Stanford University Press, 2006), 11.
[31] Ibid., 46.
[32] National Science Foundation, Grant Proposal Guide: Chapter III — NSF Proposal Processing and Review. A. Review Criteria. www.nsf.gov/pubs/2004/nsf042/3.htm
[33] National Institutes of Health, Office of Behavioral and Social Sciences, https://obssr.od.nih.gov/pdf/OBSSR_Prospectus.pdf
[34] Research Councils United Kingdom, “Embedding Public Engagement in Research,” www.rcuk.ac.uk/pe/embedding
[35] Adam Kuper, “Anthropology,” Times Literary Supplement, March 30, 2009, 23.
[36] Abhijit V. Banerjee and Esther Duflo, Poor Economics: A Radical Rethinking of the Way to Fight Global Poverty (New York: Public Affairs, 2011) 49–50, 57–58.
[37] Ibid., back cover.
[38] Mary Furner, Advocacy and Objectivity: A Crisis in the Professionalization of American Social Science, 1865–1905 (Lexington, KY: University of Kentucky Press, 1975), 324.
[39] M. R. Macleod, Susan Michie, Ian Roberts, Ulrich Dirnagl, Iain Chalmers, John P. A. Ioannidis, Rustam Al-Shahi Salman, An-Wen Chan, and Paul Glasziou, “Biomedical Research: Increasing Value, Reducing Waste.” Lancet 383 no. 9912 (2014):101.
[40] Paul Glasziou, “Reducing Waste from Incomplete or Unusable Reports of Biomedical Research.” Lancet 383 no. 9913 (2014):267.
[41] “Tested and Found Wanting,” The Economist, November 5, 2016.
[42] Benedict Carey, “Many Psychology Findings Not as Strong as Claimed, Study Says,” New York Times, August 27, 2015.
[43] Napoleon A. Chagnon, “Life Histories, Blood Revenge, and Warfare in a Tribal Population” Science 239 no. 4843 (1988): 985–992.
[44] Marta Miklikowska and Douglas Fry, “Natural Born Nonkillers: A Critique of the Killers-Have-More-Kids Idea.” In Nonkilling Psychology, edited by Daniel Christie and Joan Evan Pim (Honolulu: Center for Global Nonkilling, 2012), 61.
[45] Nicholas Lemann, “The Bell Curve Flattened,” Slate, January 18, http://www.slate.com/articles/briefing/articles/1997/01/the_bell_curve_flattened.html
[46] Catalogue for Philanthropy, “Partners in Health: A Non Profit Corporation,” http://www.philanthropydirectory.org/charity/partners-health-nonprofit-corporation
[47] The Partners in Health approach and mission are described in http://www.pih.org/pages/our-mission; http://www.pih.org/pages/our-principles; and http://www.pih.org/priority-programs/community-health-workers
[48] Fredrick Barth, “Ethnicity and the Concept of Culture.” Program on Nonviolent Sanctions and Cultural Survival Seminar Synopses Paper presented to the Conference “Rethinking Culture,” Harvard University, 1995, 1.
[49] Ibid., 7.
[50] Ibid., 8.
[51] “Kidney Broker Pleads Guilty in First U.S. Organ Trafficking Prosecution, Bloomberg Business, October 27, 2011, http://www.bloomberg.com/news/articles/2011-10-27/kidney-broker-pleads-guilty-in-first-u-s-organ-trafficking-prosecution
[52] “Operation Bid Rig,” Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Bid_Rig
[53] Nancy Scheper-Hughes, “The Rosenbaum Kidney Trafficking Gang,” Counterpunch, November 30, 2011, www.counterpunch.org/2011/11/30/the-rosenbaum-kidney-trafficking-gang
[54] “Edward Snowden,” Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Snowden
[55] Dana Priest and William M. Arkin, “Monitoring America.” Washington Post, December 19, 2010, http://projects.washingtonpost.com/top-secret-america/articles/monitoring-america
[56] Ibid.

画像のクレジット

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Figure 1: All rights reserved. Claudia Andujar 1 (black and white)
Figure 2: Davi Kopenawa. All rights reserved. Claudia Andujar
Figure 3: All rights reserved. Victor Englebert
Figure 4: All rights reserved. Victor Englebert
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Figure 6: Image by Robert Borofsky

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