視点:文化人類学への開かれた招待 第2版 —第2章 文化の概念—

Japanese translation of “Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”

Better Late Than Never
47 min readJun 17, 2020

コミュニティーカレッジ人類学協会(SACC)のサイトで公開されている教科書“Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

第2章 文化の概念

プリシラ・メデイロス、マクマスター大学
priscilla.medeiros[at]wchospital.ca

エミリー・コウォール、マクマスター大学
cowallee[at]mcmaster.ca

学習目標

•自民族中心主義と文化相対主義の考え方を比較対照する。
•人類学における文化の概念を定義する際に初期の人類学者であるサー・ジェームズ・フレイザーとサー・E・B・タイラーが果たした役割を記述する。
•安楽椅子の人類学と参与観察のフィールドワークとの違いを特定し、ブロニスワフ・マリノフスキーが人類学のフィールドワーク技術の開発にどのように貢献したかを説明する。
•フランツ・ボアズと彼の学生が文化についての新しい理論の発展に対して果たした貢献を特定する。
•人類学の研究から生じることのある倫理的問題のいくつかを評価する。

1杯のコーヒーの上で交わされる文化に関するいくつかの考察

あなたは、コーヒーショップで文化を学ぶことができると思いますか?コーヒーショップに行って、本かノートパソコンを持って座り、周りの会話を聞いたことがありますか?もしあなたがある意味でイエスと答えた場合、あなたは人類学者として行動していたことになります。人類学者は周囲の一部になり、日々のことをしている人々を観察し、参加することを好みます。文化の概念についての章を書いている2人の人類学者として、私たちは他の人々が文化について何を考えているかを知りたいと思いました。私たちのコミュニティーのコーヒーショップよりも良い場所があるでしょうか?

私たちの小さなコーヒーショップはコーヒー豆の香りでいっぱいで、人々の声はコーヒー豆を挽く音と競い合っていました。カウンターでは、黒板にサンドイッチとデザートの日替わりスペシャルが書かれていました。(コーヒーショップはそれ自体の言語を持っており、マキアートやラテなどの語彙が伴います。そこはまるで、外国の文化に足を踏み入れたように感じることができます。)私たちは他の人々を観察することができるような静かな一角を見つけました。そしてできれば、会話できるような何人かの人を見つけることを願っていました(ただし、わたしたちの会話であまりその人たちを煩わせることなく)。私たちは、人類学者が文化についてどのように考えているかを理解していますが、私たちの周りに座っている人々が何を言うかについても疑問に思っていました。文化の定義を持つことは、平均的なコーヒーショップの常連客にとって実際に何かを意味することがあるでしょうか?定義は重要ですか?人々は気にしますか?私たちはその朝、とても幸運でした。なぜなら、私たちの隣に座っていたのは、ノートパソコンで作業している1人の男性で、彼の足元には介助犬が横たわっていたからです。

コーヒーショップでボブに出会う

食品を提供する店の中に動物を連れていくことは通常許可されていませんが、私たちのコミュニティーでは、人々は介助犬を連れていくことができます。この若いゴールデンレトリバーは、飼い主が糖尿病であることを示すサインを表示するハーネスを着用していました。この犬はとてもフレンドリーでした。実際、彼女は触れてもらいたがり、私たちを放そうとせず、尻尾を振りながらその鼻を私たちの手に押し付けてきました。これは非常に珍しいことです。なぜなら、盲導犬のような多くの介助犬は触れられるべきではないからです。彼女の飼い主であるボブは、彼の犬は友好的で、人々に近づくことを恐れてはならないということを教えてくれました:もしボブが糖尿病性の昏睡などの緊急時に助けを必要とする場合、この犬は誰かに助けを求めに行かなければなりません。

私たちはボブと彼の犬との出会いを楽しみ、私たちの質問に答えてくれないかと彼に尋ねました:「文化とは何ですか?」という質問です。ボブは自分の考えやアイデアを喜んで共有してくれました。

ボブは、言語が文化的アイデンティティーにとって非常に重要だと感じています。彼は、もしある人が言語を失うならば、その人はまた野生生物、土着の植物、物事の在り方についての重要な情報も失うと考えています。ファースト・ネイション(先住民族)の部族の一員として、ボブは言葉には深い文化的意味があると信じています。最も重要なことは、彼は英語のことを商業の言語と見なしていることです。ボブは、西洋の消費主義の影響と、それが文化的アイデンティティーを変える方法を懸念しています。

ボブは人類学者ではありません。彼は自分のアイデアを喜んで共有する一般人でした。しかし、ボブは知らず知らずのうちに、人類学の要素のいくつかを説明していました。彼は言語の重要性と、それがもはや話されなくなったときにおける伝統の喪失に焦点を合わせるとともに、彼は言語が文化的アイデンティティーの一部であることを認識していました。彼は、文化的価値を変えるようなグローバル化と消費主義のことを心配していました。

ボブの意見を念頭に置いて、私たちは、2人の文化人類学者としての私たちが文化について同じ質問にどのように答えるかについて考え始めました。私たちの訓練はこの質問に対する私たちの理解を形作っていますが、私たちは文化の概念には単純な定義以上のものがあることを知っています。文化の概念の質問をすることが人類学者にとって重要なのはなぜでしょうか?それは本当に問題なのでしょうか?文化は正式に勉強しなくても私たちが理解できるようなものなのでしょうか?

この章では、私たちは、人類学が文化の概念をどのように発展させたかを説明します。私たちの旅は、ストーリーテリング(物語を語ること)の重要性と人類学が社会科学になった過程を探ります。その道筋の中で、私たちは何人かの重要な学者について学び、北アメリカにおける人類学の紹介に触れます。それでは、ガリヴァー旅行記を取り上げてみることによって、ストーリーテリングについての私たちの議論を始めましょう。

文化の反映としての物語

物語(ストーリー)はあらゆる文化で語られており、しばしば幼い子供たちに道徳的な教訓を教えます。寓話も似ていますが、これはしばしば、人々がどのように生きるかの例を示したり、危険な状況にあるときに何をすべきかを述べたりします。それらはまた、伝統の一部になったり、生き方を保存するのを助けたり、謎を説明したりすることもできます。ストーリーテリングは、ほら話や民話など、多くのさまざまな形態を取ります。これらは娯楽のため、または人生で遭遇する問題を議論するためのものです。どちらも文化的保存、すなわち道徳や価値観を次世代に伝える方法の一形態です。物語は、ある社会の中では認められていない特定の活動や慣習に対する社会的統制の形態になることもあります。

寓話は、コミュニティーの他の人により語り直され、受け入れられることによって伝統になります。異なる文化には、共通のテーマを共有する非常に類似した物語があります。最も一般的なテーマの1つは、善と悪の戦いです。もう1つは、冒険の物語です。冒険はしばしば、キャラクターを現実の状況、機会、苦難、心痛で満たされた遠くの土地に連れて行きます。これらのタイプの物語の両方で、読者は「他者」として知られている人類学的な概念に引き合わされます。他者とは正確には何でしょうか?他者は、慣習、信念、または行動が自分自身のものとは「異なる」人々を記述するために使用される用語です。

図2.1:旅行作家のレミュエル・ガリヴァーが、リリパット人によって捕らえられ、縛り付けられています。

物語は他者の概念を説明できるでしょうか?ジョナサン・スウィフトの「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travels)」は、ガリヴァーが行った4つの異なる航海についてのものです。彼の最初の冒険は最も有名です。この物語の中で、レミュエル・ガリヴァーは、事業が失敗したあとで航海を計画している外科医です。海での嵐の中で、彼は難破し、目を覚ますと身長が6インチのリリパット人の捕獲隊に縛り付けられ拘束されていることに気づきます。ヨーロッパ人が通常の身長と考えるような背丈であったガリヴァーは、突然巨人となっています。この冒険の間、ガリヴァーは部外者、すなわち異なる特徴と言語を持つよそ者と見なされます。ガリヴァーは他者になります。

私たちがガリヴァー旅行記から学ぶことができる、文化についての教訓とは何でしょうか?スウィフトの物語は、文化の違い、人間社会で発生する対立、および権力のバランスについての教訓を提供します。それはまた、他者についての重要な例も提供してくれます。他者とは、この物語における視点の問題です:ガリヴァーはリリパット人のことを奇妙で珍しいと考えています。ガリヴァーにとって、リリパット人は他者ですが、リリパット人も同じようにガリヴァーのことを他者として見ています — ガリヴァーは彼らの捕虜であり、その大きさのために珍しい人間の種です。

ガリヴァー旅行記のテーマは、さまざまな文化とストーリーテリングの側面を説明しています。この物語では、言語、慣習的な行動、異なるグループ間の対立を使用して、風変わりであることや奇妙であることについての考え方を探求しています。この物語は冒険として枠づけられていますが、実際には文化がどのように類似することがあるかについてのものです。最終的に、ガリヴァーは別の文化グループのメンバーとなり、新しい規範、態度、行動を学びます。同時に、ガリヴァーは彼らを植民地化することを望んでいます。これは彼の以前の文化的自己を反映しています。

物語は文化の重要な部分であり、伝統や文化的価値観を伝えるために使用されるときには、人々を過去につなげることができます。物語は、ある世代から別の世代へと宗教的、社会的、政治的、および経済的な実践を認証する方法でもあります。物語は、一部の社会では社会的圧力をかけたり、人々の歩調を合わせたりするために使用され、人々の考え方や行動を形成することの一部であるために、重要なものです。

語り手としての人類学者

記録された歴史を通じて、人々は文化の詳細を共有する方法として物語を語ることに頼ってきました。初期の人類学者が他の文明の人々を研究したとき、彼らは書面による説明と他人の意見に依拠していました。彼らは、他人が収集した情報のみに基づいて、他の文化についての事実を提示し、その「物語」を発展させました。これらの学者は、彼らが研究していた人々といかなる直接的な接触も持っていませんでした。このアプローチは、安楽椅子の人類学として知られるようになりました。単純に言えば、もし距離をとって(安楽椅子から)文化を見た場合、人類学者は自分の視点からその文化を測定するとともに、人類学者自身の文化を研究対象の文化よりも優れたものとして比較する傾向があります。この観点は、自民族中心主義とも呼ばれます。自民族中心主義とは、自分自身のグループや文化が他のどのグループや文化よりも優れているという考え方に基づいた態度のことです。

初期の人類学的研究は、しばしば人間の条件についての偏った自民族中心的解釈を提示しました。たとえば、植民地時代に遭遇した文化を研究した結果として、人種的優越性に関する考え方が現れました。16世紀から20世紀半ばまでの植民地時代に、ヨーロッパ諸国(イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル)が土地(アジア、アフリカ、南北アメリカ)と人々に対する支配を確立しました。間違ったことと正しいことについてのヨーロッパの考え方が、異なる文化の人々の生き方を判断するための尺度として使用されました。これらの他の文化は原始的であるとみなされていましたが、この原始的という言葉は非ヨーロッパ人の人々に対する自民族中心的な用語です。それはまた、先住民族の文化には技術の進歩がなかったことを示唆する否定的な用語です。入植者は、彼らがあらゆる点で他者より優れていると考えました。

図2.2:サー・ジェームズ・フレイザーは現代の人類学の創始者の1人です。

安楽椅子の人類学者たちは、彼らが研究した文化を訪れることはなかったため、彼らの自民族中心的な考え方に気付くことはまずありませんでした。スコットランドの社会人類学者サー・ジェームズ・フレイザーは、1890年の作品「金枝篇:比較宗教の研究(The Golden Bough: A Study of Comparative Religions)」で有名です。そのタイトルは後に「魔術と宗教の研究(A Study in Magic and Religion)」に変更されました。それは、世界中のさまざまな文化グループの魔術的および宗教的信念を記述し記録した最初の本の1つでした。しかし、この本はその分野での広範な研究の成果ではありませんでした。そうではなくて、フレイザーは彼の研究を系統立てて述べるために、学者、宣教師、政府関係者など、旅行した他の人の説明に頼っていました。

フィールドワークを使用しない人類学の著作の別の例は、サー・E・B・タイラーの1871年の作品「原始文化(Primitive Culture)」です。1896年にオックスフォード大学で最初の人類学の教授になったタイラーは、独立した分野としての社会文化人類学の発展に重要な影響を与えました。タイラーは、文化を「社会の一員として人間が獲得した知識、信念、芸術、法律、道徳、慣習、およびその他のあらゆる能力や習慣を含む複雑な全体」と定義しました。[1]彼の文化の定義は、現在でもまだ頻繁に使われており、人類学における文化の概念の基礎として残っています。

図2.3:マレーシアの母子の素描。E・B・タイラー「人類学:人間と文明の研究への入門(Anthropology: An Introduction to the Study of Man and Civilization)」(1904)

タイラーの文化の定義は、チャールズ・ダーウィンの作品を含む、彼の時代の人気のある理論と哲学の影響を受けていました。ダーウィンは、1859年に出版された彼の本「種の起源について(On the Origin of Species)」の中で自然選択による進化論を定式化しました。タイラーを含むこの時代の学者たちは、文化は植物や動物と同じように進化の対象であると信じ、文化は単純なものから複雑なものへと時間の経過とともに発展すると考えました。19世紀の人類学者の多くは、文化ははっきりと区別できる段階を通じて進化すると信じていました。彼らはこれらの段階に野蛮、未開、文明などの用語を付けました。[2]これらの文化進化論の理論は後に成功裏に反証されることになりますが、19世紀の文化進化論についての相反する見解は、生物学が文化よりも行動を形作るのかどうかについての今なお続く生まれか育ちか論争を浮き彫りにしています。

フレイザーとタイラーはどちらも、情報を収集するために現場に行ったことがないにもかかわらず、重要かつ基礎的な研究に貢献しました。安楽椅子の人類学者は、19世紀後半における学問分野としての人類学の発展において重要でした。なぜなら、これらの初期の学者たちは研究している文化を直接体験してはいませんでしたが、彼らの仕事は、究極的には現場に行くことによってしか答えられない重要な質問を問いかけたからです。

文化の参加者としての人類学者

文化を研究する方法としての安楽椅子アプローチは、ブロニスワフ・マリノフスキー、アルフレッド・ラドクリフ-ブラウン、フランツ・ボアズ、マーガレット・ミードなどの学者がフィールドに繰り出し、参加者および観察者となることによって研究することで変化しました。彼らが行ったように、フィールドワークは、文化の「複雑な全体」を理解するために人類学者が使用する最も重要な道具になりました。

ポーランドの人類学者であるブロニスワフ・マリノフスキーは、フレイザーの研究に大きな影響を受けました。しかしながら、フレイザーが「金枝篇」を書く際に使用した安楽椅子の人類学のアプローチとは異なり、マリノフスキーはより革新的な民族誌的な技術を使用し、彼はフィールドワークによってさまざまな文化を研究するためにベランダから飛び出しました。ベランダから離れたアプローチは、能動的な参与観察を含むため、安楽椅子の人類学とは異なります。参与観察とは、ある場所へ旅行し、人々の間で生活し、彼らの日々の生活を観察するものです。

図2.4:トロブリアンド諸島でのブロニスワフ・マリノフスキー、1915~1918年。

マリノフスキーがベランダから離れたとき、何が起きたでしょうか?「西太平洋の遠洋航海者(Argonauts of the Western Pacific)」(1922)は、最初の現代的な民族誌と見なされており、フィールドワークへのアプローチを再定義しました。この本は、トロブリアンド島民に関するマリノフスキーの三部作の一部分です。マリノフスキーは彼らと暮らし、彼らの村での生活を観察しました。島民の間で生活することにより、マリノフスキーは彼らの社会生活、食物と住処、性的行動、共同体の経済、親族関係のパターン、および家族について学ぶことができました。[3]

マリノフスキーは、トロブリアンド島民とのフィールドワークで、ある程度「ネイティブ」になりました。ネイティブになるとは、文化的グループの中に完全に統合されることを意味します:リーダーシップの地位に就き、社会で重要な役割を引き受けること、結婚または配偶者の契約を結ぶこと、セクシュアリティーを探ること、または儀式へと完全に参加すること、などです。人類学者がネイティブになるときには、その人類学者は地元の人々と個人的に関わります。「西太平洋の遠洋航海者」の中で、マリノフスキーは他の人類学者が「彼らの世界の彼らの眺めに気づくためには、ネイティブの視点、すなわち彼らの人生の関係を把握する」べきだと示唆しました。[4]しかしながら、この章で後に見ていくように、マリノフスキーによるネイティブになるという実践は、倫理的観点から問題を提起しました。参与観察は、民族誌的データを収集する方法ですが、ネイティブになるということは、関係性の両側を分ける線を曖昧にすることによって、人類学者と文化グループの両方を危険にさらします。

文化の理論の発展

ヨーロッパにおける人類学

文化人類学の学問分野は、19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパと北米、特に米国とでは幾分異なって発展し、それぞれの地域は文化の概念に新しい側面をもたらしました。ヨーロッパの人類学者の多くは、社会がどのように構成され、それはどのようにして長期にわたって安定しているかについての質問に特に興味がありました。これは、文化と社会は同じものではないという新たに現れてきた認識を強調していました。文化はタイラーによって知識、信念、慣習として定義されていましたが、社会は単なる共有された考え方や習慣以上のものです。すべての社会で、人々は家族、政治的団体、企業などの社会制度を通じて互いに結びつけられています。ヨーロッパの人類学者はしばしば、これらの社会制度の形態と機能を理解することに研究の焦点を合わせていました。

ヨーロッパの人類学者は、社会制度が社会の組織と社会秩序の維持にどのように貢献するかを説明するために機能主義の理論を発展させました。ブロニスワフ・マリノフスキーは、文化的伝統が、食物、快適さ、安全、知識、生殖、経済的生計などの特定の人間の必要性への反応として発展したと考えていました。たとえば、学校などの教育制度の機能の1つは、人々が仕事を得て社会に貢献するための知識を提供することです。イギリスの人類学者A・R・ラドクリフ-ブラウンもまた、社会構造が長期にわたってある社会の中で社会的安定性を維持するように機能する方法に興味を持っていました(ただし彼は構造-機能主義という用語を好みましたが)。[5]彼は、多くの社会では、最も重要な社会構造として機能するのは家族であると示唆しました。なぜなら、家族関係が個人の社会的、政治的、経済的関係について多くを決定し、これらのパターンが世代から世代へと繰り返されるからです。父親が稼ぎ手であり、母親が子供を育てるために家にいるような家族単位では、夫と妻の両方の社会的および経済的役割は、主として家族内での彼らの特定の責任によって定義されるでしょう。もし彼らの子供が同じ取り決めに従うように成長した場合、これらの社会的役割は次世代でも継続されるでしょう。

20世紀には、機能主義的アプローチは北米の人類学でも一般的になりましたが、最終的には好まれなくなりました。機能主義に対する最大の批判の1つは、それが文化を安定的かつ秩序あるものとみなし、社会の変化を無視するか説明できないというものです。また、機能主義は、ある社会が特定の種類の社会制度を発展させ、別の社会制度を発展させなかった理由を説明するのにも苦労しています。機能主義的な視点は、社会を結びつける社会制度の重要性を確立することにより、文化のより洗練された概念の発展に確かに貢献しました。文化的なものと社会的なものとの間の区分を定義することは複雑であり続けていますが、機能主義理論は、文化が単なる考え方や信念のセットではなく、日常生活を構築し人間の共同体が機能できるようにするような特定の実践と社会制度で構成されていることを実証することにより、文化の概念を発展させるのに役立ちました。

アメリカにおける人類学

北米(カナダ、米国、およびメキシコ)の人類学が発展する中で、19世紀および20世紀に人類学のアメリカ学派が行った重要な貢献は、文化相対主義の概念でした。これは、すべての人間は自分自身の文化のレンズを通して世界を見るため、文化は客観的に理解することはできないという考え方です。文化相対主義は、インサイダーの観点から文化を理解することを強調するため、自民族中心主義とは異なります。文化への焦点は、文化相対主義の考え方と相まって、米国の文化人類学とヨーロッパの社会人類学とを区別しました。

フィールドワークの参与観察の方法は、人類学の実践に対する革命的な変化でしたが、それは同時に、克服する必要のある問題を提示しました。その課題とは、自民族中心主義、人種の固定観念、植民地的態度から離れ、人類学者に高い倫理基準と開かれた心を維持するよう奨励する方向に進むことでした。

図2.5:フランツ・ボアズ。アメリカ人類学の創始者の1人、1915年。

アメリカの人類学者であるフランツ・ボアズは、アメリカの人類学者たちを文化進化論から離れさせ、文化相対主義へと向けて再方向付けしたことで知られています。ボアズは、最初はドイツのキール大学で物理科学を学びました。彼は訓練された科学者であったため、ある主題を研究する方法として経験的手法を使用することに精通していました。経験的手法は、観察と実験を使用してテストすることのできる証拠に基づくものです。

1883年、フランツ・ボアズはカナダ北極圏のバフィン島への地理学の調査旅行に出かけました。「中央エスキモー(The Central Eskimo)」(1888)は、バフィン島で中央エスキモー(イヌイット)の人々の文化と言語を研究した時間を詳しく説明しています。彼は、道具、衣服、住処など、彼らの文化のあらゆる側面を研究しました。この研究は、人類学のアメリカ学派へのボアズの最初の主要な貢献であり、文化は広範なフィールド調査を通じてしか理解できないと彼に確信させました。彼がバフィン島で観察したように、文化的な考え方と実践は自然環境との相互作用によって形作られます。イヌイットの文化的伝統は、彼らが住んでいた環境に適していました。この仕事により、彼は文化相対主義を推進するようになりました:文化相対主義とは、文化は部外者の基準と比較するのではなく、それ自身の観点から理解されなければならないという原則です。これは、民族誌のフィールドワークにおける自民族中心主義の課題を修正する上で重要な転換点でした。[6]

ボアズは、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミード、アルフレッド・クローバーなどを含むアメリカ人類学者の第一世代を訓練したため、アメリカ人類学の創始者と見なされることがしばしばあります。文化相対主義へのコミットメントを出発点として、これらの学生は文化の概念を洗練し続けました。ボアズの最初の女子学生のひとりであるルース・ベネディクトは、アメリカ北西部と南西部の文化を調査するための出発点として文化相対主義を使用しました。彼女の最も売れた本「文化の型(Patterns of Culture)」(1934)は、文化が人々に思考と行動の一貫したパターンを与えることを強調しました。彼女は、文化は個人に対して心理的な影響を与え、個人の性格の特性を形作り、ある文化のメンバーが攻撃性や冷静さへの傾向などの類似の特性を示すように導くと主張しました。

ベネディクトはコロンビア大学の教授であり、彼女の学生であるマーガレット・ミードに大きな影響を与えました。マーガレット・ミードはその後、アメリカの最も有名な女性文化人類学者のひとりになりました。ミードは、この学問分野が主に男性のものであった時代に民族誌研究を行った先駆者でした。サモア諸島のタウ島の思春期の少女に関する彼女の1925年の研究は、「サモアの思春期(Coming of Age in Samoa)」(1928)として出版され、サモアのティーンエイジャーは米国のティーンエイジャーと同じようなストレスや感情的な困難を経験していないことを明らかにしました。この本は生まれか育ちか論争に重要な貢献をし、学んだ文化的役割は生物学よりも重要であるという議論を提供しました。この本はまた、個々の感情と人格特性が文化の産物であるという考え方を補強しました。

図2.6:ルース・ベネディクト、1936年。

ボアズのもうひとりの学生であるアルフレッド・ルイス・クローバーも、フィールド研究と文化相対主義へのコミットメントを共有しましたが、クローバーは文化がどのようにして時間とともに変化し、互いに影響を与えるかについて特に興味を持っていました。「文化の本質(The Nature of Culture)」(1952)のような出版物を通じて、クローバーは文化が異なる構造として出現するようになった歴史的プロセスと、文化的特徴の広がりまたは拡散を通じて文化がより類似することがある方法とを検討しました。クローバーはまた、言語とそれが文化の伝達に果たす役割にも興味がありました。彼はネイティブアメリカンの言語を研究し、これらの言語が消滅する前にそれらを記録する試みに彼のキャリアの多くを捧げました。

米国の人類学者は、文化相対主義を使用して、いくつかのやり方で文化の概念に深みを加えています。タイラーは、知識、信念、芸術、法律、道徳、慣習、能力、習慣などを含むものとして文化を定義していました。ボアズと彼の学生は、個人の生活の中での文化化(文化を学ぶプロセス)の重要性を強調することにより、この定義に追加しました。ベネディクト、ミード、およびその他の人たちは、文化化を通じて、文化が個人のアイデンティティー、自己認識、および感情を基本的な方法で形作ることを確立しました。彼らはまた、全体論、すなわちその歴史を含む社会の全体の文脈を考慮した研究へのアプローチの必要性を強調しました。

クローバーや他の人たちは、文化の要素としての言語の重要性を確立し、複雑な考え方を伝えるために言語が使用される方法を文書化しました。20世紀後半には、象徴人類学への新しいアプローチにより、言語が分析の中心になりました。後に、ポストモダニスト人類学の創設メンバーであるクリフォード・ギアツは、彼の著書「文化の解釈学(The Interpretation of Cultures)」(1973)で、文化は「人々の頭の中に閉じ込められた」ものとしてみなされるべきではないと述べました。そうではなくて、文化とは、会話や他の行動を介して公にやりとりされるものでした。文化は、「シンボルに具体化された意味の歴史的に伝えられたパターン、すなわち象徴的な形で表現された継承される概念の体系であり、それによって人間が人生についての知識と人生に向きあう態度とを伝え、永続させ、発展させる手段である」と彼は結論付けました。[7]この定義は、今日も影響力を持ち続けており、アメリカ人類学における文化の概念を洗練するための多くの初期の取り組みの影響を反映しています。

真実を語る際の倫理的問題

人類学者がより洗練された文化の概念を発展させるにつれて、彼らは人類学研究に付随する倫理的課題についてのより深い理解も得ました。参与観察フィールドワークは、人類学者を研究対象の人々との密接な関係に連れ込むため、多くの複雑な問題が発生することがあります。文化相対主義は、人類学者が他の文化のメンバーに敬意を払うことを奨励する視点ですが、人類学の専門家が職業上のふるまいの正式な基準を開発する必要性を認識したのは第二次世界大戦の後になってからでした。

1946年にドイツのニュルンベルクで開始されたニュルンベルク裁判は、フランス、ソビエト連邦、英国、米国の指示の下で行われ、ナチ政権のメンバーを戦争犯罪で起訴しました。軍隊や政治の人物に加えて、医師や科学者も非倫理的な人体実験と大量殺人で起訴されました。この裁判は、もし医師や他の科学者が虐待的または搾取的な目標のために彼らの技能を使用する場合には、危険となることを実証しました。この裁判から生まれたニュルンベルク綱領は、医学倫理および研究倫理の画期的な文書と見なされています。それは、あらゆる医学的または科学的研究に関与する人間の被験者の倫理的取り扱いの原則を確立しました。

多くの大学は、人間の被験者の取り扱いのための倫理ガイドラインを書くために、ニュルンベルク綱領からの原則を採用しています。これらのガイドラインが存在する大学で働く人類学者および学生は、これらの規則に従う義務があります。アメリカ人類学会(AAA)は、他の国の多くの人類学組織とともに、さまざまな状況の中で研究に従事する人類学者に期待される特定のことを記述する倫理規約を発展させました。AAA倫理規約の原則には以下が含まれます:危害を加えないこと、自身の仕事に関してオープンで正直であること、インフォームド・コンセントと必要な許可を取得すること、すべての研究における脆弱な集団が、競合する倫理的義務から保護されるようにすること、結果にアクセスできるようにすること、記録を保護し保存すること、敬意を持ち倫理的な職業上の関係を維持すること。これらの原則は単純に聞こえますが、実際には複雑になることがあります。

ブロニスワフ・マリノフスキー

ブロニスワフ・マリノフスキーの経歴は、文化の調査がどのようにして人類学者を困難な倫理的領域に導くかの例を与えてくれます。上で説明したように、マリノフスキーは人類学の歴史の中で主要な人物と広くみなされています。彼は参与観察フィールドワークの実践を開始し、「西太平洋の遠洋航海者」を含むいくつかの高く評価されている本を出版しました。彼の死後、フィールドワークを行っている間に彼がつけていた個人的な日記が発見され、「厳密な言葉の意味での日記(A Diary in the Strictest Sense of the Term)」(1967)として出版されました。この日記は、マリノフスキーの孤独と孤立の感覚を記述していましたが、彼の性的な空想についての大量の情報と、トロブリアンド島民についての無神経で軽蔑的な意見も含まれていました。この日記は、重要な民族誌学者の心の中の貴重な洞察を提供しましたが、偏見や人種差別を含む彼の個人的な感情が彼の公式の結論にどの程度反映されているかについての疑問も投げかけました。

ほとんどの人類学者は、研究プロジェクトを追跡する手段として日記または日誌をつけていますが、これらの記録はほとんど公開されていません。マリノフスキーの日記は彼の死後に出版されたため、彼が自分の書いたものを書いた理由を説明することも、彼がどれだけ個人と専門家を分離できていたかを評価することもできませんでした。これらの本のどちらが、マリノフスキーとトロブリアンド島民との相互作用についての真実を最もよく反映しているのでしょうか?フィールド研究者の私的な生活に関するこのまれな洞察は、人類学者が職業倫理の境界内で行動しているときでさえも、彼ら自身の自民族中心的な態度と偏見を脇に置くことに依然として苦労していることを示しています。

ナポレオン・シャグノン

より深刻で複雑な事件は、ブラジルとベネズエラのアマゾンの熱帯雨林に住む先住民族ヤノマミの間で行われた研究に関するものでした。1960年代から、人類学者のナポレオン・シャグノンと遺伝学者のジェームズ・ニールはヤノマミ族の間で研究を行いました。ニールは、遠隔地に住む人々に対する、核爆発によって放出された放射線の影響を研究することに興味がありました。シャグノンはヤノマミ社会における暴力の役割についての理論を調査していました。2000年、アメリカのジャーナリスト、パトリック・ティアニーは、シャグノンとニールの研究についての本「エルドラドの闇:いかにして科学者とジャーナリストがアマゾンを荒廃させたか(Darkness in El Dorado: How Scientists and Journalists Devastated the Amazon)」を出版しました。この本には、この2人がヤノマミ族に麻疹を故意に感染させ、何千人もの人々を殺した伝染病を引き起こしたという主張を含む、多くの驚くべき告発が含まれていました。この本はまた、ニールがヤノマミ族の同意なしに医学実験を行い、シャグノンがヤノマミ族のグループ間に意図的に対立を生じさせて結果として生じる暴力を研究した、と主張しました。

図2.7:ヤノマミ族の女性と子供、1997年。

これらの告発はアメリカ人類学会の注意を喚起し、最終的に多くの調査が行われました。ジェームス・ニールは亡くなっていましたが、ナポレオン・シャグノンは断固として告発を否定しました。2002年、AAAは報告書を発行しました。シャグノンは、ヤノマミ文化の暴力的性質を彼らに害を与えるような形で誤って伝えたとともに、彼の研究のための適切な同意を得ていなかったと判断されました。しかしながら、シャグノンはこれらの結論を拒否し続け、証拠の評価に使用されたプロセスが不公平であると不満を述べました。2005年、AAAは調査プロセスの問題を引用して、自身の結論を取り消しました。数年にわたるその状況の調査の結果は、ほとんどの人を満足させませんでした。シャグノンは間違いなく有罪とは宣言されておらず、無罪ともされませんでした。数年がたっても、このエピソードに関する議論は続いています。[8]この論争は、人類学的な探求においては真理がいかに捉えにくいかを示しています。人類学者は意図的にフィクションを作成するという意味での語り手であるべきではありませんが、視点と理論的指向の違いは人類学者が同じ状況を解釈する方法に避けられない違いを生み出します。人類学者は、彼らが話す物語が信じるに足るものであり、倫理的アプローチを使用して研究される人々の声を表していることを保証するために、理論と方法のツールキットを使用するよう試みなければなりません。

コーヒーショップに戻る

この章では、人類学者が文化を定義する方法におけるいくつかの歴史的な転換点を見てきました。文化についての真の、絶対的な定義はありません。人類学者は言語、自己の発達(特に幼児期から成人期までの)、親族関係、社会的単位の構造または階級構造内における人の階層、結婚・家族・通過儀礼、信念体系、そして儀式などの伝統を尊重します。しかしながら、人類学者はまた、変化と変化がそれらの伝統に与える影響にも注目しています。

グローバル化が劇的なペースで進行し、変化が毎日のように現れる中で、新しく出現する潮流はどのように文化の概念を再定義するのでしょうか?たとえば、ソーシャルメディアとインターネットは世界をつなぎ、国境のない新しい言語、関係性、オンライン文化を作り出しています。これは次のような疑問につながります:デジタル人類学、あるいはサイバー人類学という未来があるのでしょうか?主にテキストを読むことを通じて出会うことになるオンライン文化の研究は、安楽椅子のものと考えられますか、それともベランダを離れた研究でしょうか?サイバー世界は現実の文化ですか、それとも仮想の文化ですか?人類学者は家を離れることなく新しい世界を探索できるため、オンライン文化に取り組むことは、いくつかの点で人類学をそのルーツに引き戻します。同時に、サイバースペースと新しいテクノロジーにより、人々は世界中の人々をリアルタイムで見たり、聞いたり、コミュニケーションをとったりすることができるようになります。

ボブと時間を過ごしたコーヒーショップに戻ると、私たちはボブが自分自身の文化の慣れ親しんだ側面、すなわち言語、社会構造、価値観のユニークな表現といった伝統を生き生きとしたままに保ちたいと願っていることを発見しました。文化とは何かという質問は、文化的自己と文化的他者に関する私たち自身の理解について、そして自己と文化の認識の重要性について、私たちを熟考するように誘いました。

エミリー

私の文化的自己は私の子供時代の最初の慣習的な伝統から発展しましたが、私がイヌイットとともに過ごした生活によって、私は、自分が北方の友人たちと同じような価値観と共同体の特性を持っていると考えるようになりました。私の子供時代は、思いやり、受け入れ、そして生活の必要性を達成するために一緒に働くことに集中していました。イヌイットのいる土地での生活にも違いはありませんでした。そして年月を経るにつれて、私たちはただ単に異なる場所や状況で暮らしているだけであり、私たちがどれだけ同じであるかを私は理解するようになりました。私の人類学の訓練は、世界とその人々を楽しむように私に教えることによって私の人生経験を豊かにしました。私はまた、フィールドで働くときに文化的な他者であることを経験しました。これは、文化的自己と文化的他者とが経験の両側で常にお互いに対立していることをいつも私に思い出させてくれます。

プリシラ

ケニアでさまざまな先住民族と一緒に暮らすことは、共同体がどのようにしてその伝統的な文化と生活様式を維持しているかを学ぶ機会を私に与えてくれました。私は、先祖の文化や宗教と強いつながりを保っているポルトガル系カナダ人の家族の出身です。ポルトガル人は、物語を語ることが自身の伝統、文化的アイデンティティー、土着の知識、言語を生かし続ける方法だと考えています。私がケニアのナイロビ州に住んでいたとき、私はそこの人々が同じ視点を持っていることを発見しました。私は、人々がその文化的歴史によっていまだに自身のアイデンティティーを定義しているのは奇妙だと思いました。文化フィールドワークを実施することで私が学んだことは、文化の意味がグループごとに異なるだけでなく、すべての人間社会が文化を通じて自分自身を定義するということです。

最後の省察

ボブは、文化の概念の核心にあるものを理解する旅へと私たちを連れ出しました。明らかに、文化の概念はまっすぐな線に従うものではありません。学者、語り手、そして日常生活で出会う人々は、文化の構成要素について何らかの言うべきことを持っています。さまざまな声から現れてきた物語は、人間であるとはどういうことかについての洞察をもたらします。文化の概念を定義することは、多くのピースのあるパズルを組み立てるようなものです。文化の概念のパズルはほぼ完了するところまできていますが、完成はしていません…いまのところまだ。

ディスカッションのための質問

1.安楽椅子の人類学とベランダを離れるアプローチは、文化を研究する方法としてどのように異なっていましたか?文化について読むことからでは学ぶことができず、文化を人として経験することによって学ぶことができるものは何ですか?
2.文化の概念を定義するのが難しいのはなぜですか?あなたは、文化の最も重要な要素は何だと思いますか?
3.「社会的」と「文化的」を区別することが難しいのはなぜですか?あなたは、これが重要な違いだと思いますか?
4.21世紀には、過去に比べて人々は他の文化のメンバーとはるかに大きな接触を持ちます。将来の文化の研究において、どのトピックまたは関心事項が優先されるべきですか?

用語集

安楽椅子の人類学:研究対象の人々との直接的な接触を伴わない、初期の信用の置けない人類学研究の方法。

文化的決定論:行動の違いは、人種的または遺伝的な原因ではなく文化的な原因の結果であるという考え方。

文化進化論:19世紀の人類学で一般的な理論であり、社会は単純な段階から高度な段階へと進化したことを示唆しています。この理論は後に否定されました。

文化相対主義:私たちは他の人の信念や行動を、自分たち自身の文化の観点からではなく、彼ら自身の文化の観点から理解することを目指すべきだという考え方。

文化:学習され共有された信念、実践、およびシンボルのセット。それらは一緒になって人々を結びつけ、彼らの世界観と生活様式を形作るような、包括的で統合された全体を形成します。

文化化:ある文化または集団の特徴と期待を学習するプロセス。

自民族中心主義:自分自身の文化を、最も重要かつ最も正しいものであり、他のすべての文化を測定するための基準と見なす傾向。

機能主義:イギリスの人類学で開発された人類学へのアプローチであり、社会の部分が協力して全体の機能をサポートする方法を強調しました。

ネイティブになる:リーダーシップの地位に就く、社会で重要な役割を引き受ける、結婚する、または研究している社会の中に人類学者を組み込むような他の行動などの行為を通じて、文化グループに完全に統合されること。

全体論:行動の歴史的、環境的、文化的基盤を広く見ること。

親族:人間のグループ内で家族を形成するような血縁、共通の祖先、および社会的な関係。

参与観察:観察の1つのタイプであって、人類学者が、情報提供者が従事しているのと同じ活動に参加しながら観察すること。

構造-機能主義:ある文化の中の慣習や社会制度が社会の組織と社会秩序の維持に貢献する方法に焦点を当てた人類学へのアプローチ。

他者:慣習、信念、または行動が自分自身のものと「異なる」人々を記述するために使用されている用語。

著者について

プリシラ・メデイロス博士は、医療人類学者であり、カナダのウイメンズ・カレッジ・ホスピタルのウイメンズ・カレッジ研究所における博士課程修了後フェローです。彼女は、2019年1月にオンタリオのマクマスター大学で博士論文考査に合格しました。彼女の主な研究関心は健康の人類学に集中しています。これには、医療の生物文化的側面を研究することが含まれ、特に先進国の公衆衛生の手段の歴史と発展、病気と不平等、ジェンダー関係に重点が置かれています。プリシラは、ニューブランズウィック大学の修士課程の一環として、ケニアのナイロビ州で7年前にHIVとともに生きる人々の予防、ケア、およびサポートに関する共同体ベースの仕事を始めました。彼女の現在の博士課程修了後の研究は、カナダのHIV女性の性と生殖に関する健康研究(CHIWOS)とカナダ大西洋諸州への拡張からのデータの地理空間分析に焦点を当てており、CIHRカナダHIV試験ネットワークによって資金提供されています。フィールドで仕事をしたり教室で教えたりしていないときには、プリシラは異国の地へと旅行し、地元の料理を調理法を学び、外国の言葉を話し、世界の驚異を探検しています。実際のところ、彼女はフィールドでの冒険に関しては人類学における実在のインディアナ・ジェーンであり、共有されるべき多くの素晴らしい物語を持っています。

エミリー・コウォール博士は、文化人類学者であり、カナダのマクマスター大学の人類学部の講師です。彼女は医学史家、そしてオンタリオ州の元登録医療従事者です。彼女の主な学術研究の関心は、カナダ北極圏の文化的民族史に焦点を当てています。エミリーは1980年代に東部北極圏に移り、そこで共同体の生活に溶け込みました。2003年から2011年まで共同体ベースの研究プロジェクトに戻り、彼女の以前の共同体での関係に基づいて、1930年から1972年までの結核の人間地理学的および文化的影響を調べる画期的な研究を完了しました。2008年から2015年まで、文化資料マネジメントの仕事のためにカナダ高緯度北極圏群島に行き、エルズミア島のクッティニルパーク国立公園にあるカナダ国立公園局で防衛研究科学時代に特化した博物館の作成に従事しました。彼女が遠隔地の野営地に向かう小型機に乗り込んでいるとき以外では、彼女はメキシコ全土の環境衛生と宗教的巡礼の文化的側面を探っています。

書誌情報

Benedict, Ruth. Patterns of Culture. Boston: Houghton and Mifflin Company, 1934.
Boas, Franz. Race, Language, and Culture. Chicago: University of Chicago Press, 1940.
Darwin, Charles. On the Origin of Species. London: John Murray, Albemarle Street, 1859.
Kroeber, Alfred. The Nature of Culture. Chicago: University of Chicago Press, 1952.
Malinowski, Bronislaw. Argonauts of the Western Pacific. London: Routledge and Sons, 1922.
Mead, Margaret. Coming of Age in Samoa: A Psychological Study of Primitive Youth for Western Civilization. New York: William Morrow and Company, 1928.
Swift, Jonathan. Gulliver’s Travels into Several Remote Nations of the World. London: Benjamin Motte, 1726.
Tylor, Edward B. Primitive Culture: Researches into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Language, Art, and Customs. London: Cambridge University Press. 1871.

注記

[1] Edward B. Tylor, Primitive Culture: Researches into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Language, Art, and Customs (London: Cambridge University Press, 1871), preface.
[2] ルイス・ヘンリー・モーガンは、彼の著書「古代社会」:Ancient Society (New York: Henry Holt, 1877)で、これらの用語に基づいて進化的枠組みを提案した人類学者のひとりでした。
[3] この映画は、マリノフスキーの研究慣行をさらに詳しく説明しています:Bronislaw Malinowski: Off the Veranda, (Films Media Group, 1986)
[4] Bronislaw Malinowski. Argonauts of the Western Pacific (London: Routledge & Keegan Paul, 1922), 290.
[5] このトピックの詳細については以下を参照。Adam Kuper, Anthropology and Anthropologists: The Modern British School (New York: Routledge, 1983) and Alfred Radcliffe-Brown, Structure and Function in Primitive Society (London: Cohen and West, 1952).
[6] 文化相対主義に対するボアズの態度は、カナダ北極圏での彼の経験に影響されており、そこでは彼は自身の以前の経験とは異なる自然環境の中で生きるのに苦労しました。彼の個人的な日記と手紙は、「文明化された」ということが何を意味するのかについての彼の思考の進化を記録しています。婚約者への手紙の中で、彼は次のように書いています:「私はしばしば、私たちの「良い社会」が「野蛮」なものと比べて持っている利点は何なのかを自分に問いかけている。そして、私が彼らの習慣について知れば知るほど、私たちが彼らを見下す権利などないことに気づいた … 私たちにとってはばかげているように見える形態や迷信のことを非難する権利など私たちにはない。私たち「高度に教育された人々」は、相対的に言ってはるかにひどいものだ。」手紙全体は、以下で読むことができます:George Stocking, ed. Observers Observed: Essays on Ethnographic Fieldwork (Madison, WI: University of Wisconsin Press, 1983), 33.
[7] Clifford Geertz, The Interpretation of Culture (New York: Basic Books, Geertz 1973), 89.
[8] 論争の詳細な情報については、以下を参照。Thomas Gregor and Daniel Gross, “Guilt by Association: The Culture of Accusation and the American Anthropological Associations Investigation of Darkness in El Dorado.” American Anthropologist 106 no. 4 (2004):687–698 and Robert Borofsky, Yanomami: The Fierce Controversy and What We Can Learn From It (Berkley: University California Press, 2005). Napoleon Chagnon has written his rebuttal in Noble Savages: My Life Among Two Dangerous Tribes — The Yanomamo and the Anthropologists (New York: Simon and Schuster, 2013).

画像のクレジット

この本の中で使用されている画像の多くは、著作権者の許可を得て掲載されています。本書の図は、元の画像情報で特に明記されていない限り、パブリックドメインまたはクリエイティブコモンズでライセンスされているとみなされるべきではありません。

Figure 1: Public domain image from Gulliver’s Travels in Lilliput and Brobdingnag by John Lang. London: T.C. and E.C. Jack, 1908.
Figure 2: Public domain image from https://commons.wikimedia.org/wiki/File:JamesGeorge-Frazer.jpg
Figure 3: Public domain image from Anthropology: An Introduction to the Study of Man and Civilization by E.B. Tylor 1904. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Anthropology;_an_introduction_to_the_study_of_man_and_civilization_(1896)_(14760690736).jpg
Figure 4: Public domain image from London School of Economics Library Collections.
Figure 5: Photograph of Franz Boas is from the public domain collection of the Canadian Museum of Civilization, Negative 79–796.
Figure 6: Photograph of Ruth Benedict is public domain from the Library of Congress. https://en.wikipedia.org/wiki/Ruth_Benedict#/media/File:Ruth_Benedict.jpg
Figure 7: Image of Yanomami mother and child by Cmacauley https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yanomami_Woman_%26_Child.jpg
Figure 8: Photo courtesy of Emily Cowall.
Figure 9: Photo courtesy of Priscilla Medeiros.

この訳文は元の本のCreative Commons BY-NC 4.0ライセンスに従って同ライセンスにて公開します。 問題がありましたら、可能な限り早く対応いたしますので、ご連絡ください。また、誤訳・不適切な表現等ありましたらご指摘ください。

--

--

Better Late Than Never

オープン教育リソース(OER : Open Educational Resources)の教科書と、その他の教育資料の翻訳を公開しています。