寺田寅彦 蓑田長政

蓑(みの)

「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」 末延芳晴

p50

蓑田は主に英作文や会話を教えた。特に、パラフレーズ(言い換え)やエロキューション(朗読法)の練習に力を入れた。

明治二十七八年の頃K市の県立中学校に新しい英語の先生が赴任して来た。此の先生が当時の他の先生達に比較してあらゆる点で異彩を放つて居た。第一に年が若くて生徒等の兄さん位に見えた。さうして年取つて黒く萎びた先生や、堂々とした鬚を立てた先生等の中に交つた此の白面無鬚の公子の服装も著しくスマートなものであつた。ズボンの折目がいつでもキチンと際立つて居るだけでも周囲のくた/\のホーズとは類を異にして居た。さうして教員室から教場へ来る迄の廊下を必ず帽子をかぶり、冬なら外套を着て歩いて来た。教場へはいつてから其の黒い中折帽子をとつて机の上におき、寒いと外套は着たまゝで授業を始めるのであつた。金縁の眼鏡を一つしやくり上げてさうして劇しく眼ばたきをして「ウェル……」といつて始めるのであつた。
 生徒等は、此の未だかつて見たことのないタイプの先生を、どう取扱つてよいかに迷つたやうに見えた。尊敬してよいのか、軽蔑してよいのか見当が付かなかつた程に此の先生の身辺を不思議な雰囲気が取巻いて居た。
 先生は子供の時分にアメリカへ行つて、それから十何年の間ずつとあちらで育ち、シカゴの大学で修学して帰朝するとすぐに、此の南海の田舎へ赴任して来たといふことであつた。郷里は鹿児島であつたが少くも見たところでは生徒等の描いて居た薩摩隼人の型には全く嵌まらない人柄であつた。
 段々馴染んで来るにつれて、此の先生の気象の鋭さがいたづら盛りの悪太郎共を押さへつけてしまつた。在来の先生なら当然困惑しなければならないやうな場面を仕組んで持つて行つても、此の先生からは一向に予定の反応を呼出すことが出来なかつた。怒るだらうと思ふと、光る眼鏡の奥の鋭い眼で笑はれたり、さうかと思ふと、思ひもかけぬ弱点を見つかつて烈しく罵倒されてすつかりおびえてしまふのであつた。兎も角も此の先生の頭の中には生徒等の今迄見て来た世界とは全くちがつた世界があるといふことが朧気ながらも子供等に感ぜられたやうであつた。
 当時漢文では孟子や八大家文集をMM先生から教はつて居た。MM先生は勿論若い時には髷を頂き大刀を腰にしたことのある人であつた。非常な近眼で文字の大きい漢籍でも眼鏡にくつつけるやうにして読んだ。授業中によく生徒が後の方の窓から抜出した。誰かゞ話しでもして居ると教壇から下りて来て、いきなり嫌疑者をつかまへて叱責した、はたから人違ひを弁明しても「インニヤ、ふだんが悪い」と云つて聞かれなかつた。作文の時間にはよく黒板一杯に南画の風景を描いて「サア、此れを書いて」と云つて独り悦に入るのであつた。
 国語では徒然草や大鏡をMZ先生から教はつた。此の先生の時にはよく昔話をねだつて、色々の面白い懐旧談を聞かされた。此方が正則の授業よりは遥に面白かつたのみならず、実際有益でもあつたやうに思はれる。維新前の死罪、打首、鎗試し、火あぶりの実見談などを、昔の人には珍らしい科学的な記載によつて話された時などは一人の生徒が脳貧血を起して退席した位であつた。
 新しい英語の先生と、それとは全く対蹠的な此等の先生との中間の地帯には、大学を出てから間のない若くて元気で愉快で生徒の信望を集めた先生達が光つて居た。漢文国語の先生から祖先の日本に関する知識と親しみを植付けられる一方で、此等の若い先生達から新しい日本への憧憬と希望を吹込まれて居た生徒の眼前に突然此の新しい英語教師の蓑田先生が現はれて、批評の焦点を狂はせてしまつたのであつた。
 蓑田先生は主に作文や会話やの実用英語を受持つて居たが、其の教授法も生徒等には新しかつた。最も力を注いだのはパラフレーズの猛練習であつて、一つの章句をありとあらゆる仕方に書きかへさせるので、語彙の総ざらへをすると同時に、シンタキスの可能性を払底させるといふ徹底的なやり方であつた。それが火の出るやうな性急で鞭撻されるので、大抵の生徒は悲鳴をあげた。併し此のおかげで生徒の実力は急加速度で進んだといふことは後日になつて思合はされた。時にはエロキューションのやうな稽古もやつた。「ピーター・プラングル、ザ、プリックリー、プラングリー、ビーア、ピッカー……」といふ種類のを早口で云はせたりした。「英語でも日本語でも口調は同じぢや」と云つてテキストと其の訳とを同じアクセントで読んで聞かせたりしたが、其の「先生の日本語」は成程英語と同じ調子であるが、それは「生徒等の日本語」とは余程毛色の変つたものであることだけはたしかであつた。
 教授の合間に時々雑談をして聞かせることもあつたが、さういふ時に生徒等は先生のよく口にする「社会」といふ言葉を珍らしく感じた。恐らく此の言葉は始めて此の先生から聞かされたかも知れない。同じ人間の集団を人は国家、国民の名で呼ぶのを此の先生は社会といふ名で呼んで居たのである。
 先生はK市で一等の旅館延命軒の二階に下宿して居た。黄八丈のどてらの上に白縮緬の兵児帯、鳥打帽に白襟巻、それに赤皮の編上靴といふ全く独創的な出で立ちで本町の人通りを歩いて居ることもあつた。時には新地の妓楼に上つて豪遊をするさうだといふゴシップもあつたが、それが仮令事実であつても悪い感じはしない程に先生の行動は周囲から切り離されたものゝやうに見えたのであつた。
 当時の中学生には、夜間や日曜祭日に先生の私宅や下宿を訪問して遊ばせて貰ふことが流行して居た。勿論大抵最上級の生徒の、中でも元気でアムビシアスで、善いことにも悪いことにもリーダーになるやうな連中が三四人、五六人と連立つては、矢張若くて愉快な先生を訪問した。先生達の大学生時代の思出話などは最も濃厚に生徒等の夢を彩つた。或る先生は火鉢の炭火を火吹竹で吹き起して手づから餅を焼いて喰はせると同時に、自分でも迅速に且最多量に頬張りながら墨田川のボートレースの話をしたりした。又或る先生の処では正月前後にカルタ会を開き、新婚の夫人も交つて賑やかに夜を更かし、寒月の映る河岸を「鞭声粛々」で帰つて行つたりした。
 併し、大学出でもなく、スポーツもやらず、さうして鋭くて愛想気のない蓑田先生の宿を訪問する先徒は少かつたやうに見える。其の少数の訪問者のうちに、今此の思出を書いて居る筆者の私の前身であるところの十八歳の少年も交つて居た。
 宿屋の二階の先生の居室は他の多くの先生の室よりも一体に綺麗で明るく色彩に富んで居た。見た事もないやうな立派なトランクにべた/\色々のホテルの札を貼つたのも珍らしかつた。コスモポリタンとかレビュー・オヴ・レビュースとかさういふ雑誌を見せられて世界の出来事を話され、又パリのサロンの写真帳をひろげて、アムプレショニズムやポアンティリズムの講釈を聞かされた。此等の話は凡て当時の自分に取つては全く耳新しく眼新しいものばかりであつた。さうして自分の将来に見るべく聞くべき広い世界への憧憬の焔を燃え立たさせるのであつた。
 襖の紙の上に一枚の小さな油画が額縁もなしに画布のまゝピンで止めてあつた。それは黒田清輝画伯の描いた簡単な風景のスケッチであつたが、普通の油画とは余程変つた色彩と描法とが眼についた。先生の説明によると、それは絵具を解くのに石油を使つて、画布も特別なものを用ゐるといふことであつた。今考へるとアブソルバンのことであつたらしい。黒田画伯と蓑田先生とは同県で旧知の間柄であつたのである。此の一枚の油画にしても先生の身辺を繞る一種特別な雰囲気を色づけるに有力なものであつた。当時先生から話された具体的の事柄は大抵忘れてしまつた。恐らく多くは六ヶし過ぎて当時の田舎の中学生には理解出来ないやうな事が多かつたかも知れない。併し先生の元気な話を聞く事が自分には愉快であつた。何よりも愉快なのは、それ迄は唯一色のみにしか見えなかつた世の中が、思ひもかけなかつた色々の光で照らし出されることが可能であるといふ啓示アポカリプスであつた。
 自分等が中学校を出て、九州の高等学校へ行つて居る留守に蓑田先生はK市の中学を去つてしまつた。校長と喧嘩をした為といふ噂もあつた。去るに臨んで生徒を講堂に集めて旧思想打破の大演説をやつて職員一同色を失つたといふたよりも聞いた。其の演説を評して「六尺の音叉一時に振ふが如し」と手紙に書いて来た友人もあつた。其後の先生の消息に就いては、しばらく何事も知らないで数年を過ぎた。大学二年の夏休みに逗子へ遊びに行つて、夕方養神亭の裏の海岸を歩いて涼風に吹かれて居た時、とある別荘らしい家の門前で思ひもかけず出遭つたのが蓑田先生で、その別荘が即ち先生の別荘であつた。先生の方でも未だ自分の顔と名前を覚えて居てくれた。さうして久し振で昔に変らず元気で愉快な話を聞いた。一寸東京へ帰つて居たいから今夜一晩此処へ泊つて留守番をしないかといふことになつて、計らず先生の別荘に一夜を過ごした、さうして縁側の籐椅子に凭れて海を見ながら先生の葉巻を吹かし、風月のボン/\をかじり、生れて始めての綺麗な羽根蒲団で寝た。食事も養神亭から女中が運んでくれた、雨戸の開閉もやつて貰つて、留守番とはいひながら天晴れ一夜の別荘生活をしたのであつた。
 帰京後一度麹町区一番町の邸に先生を訪ねた。郷里の田地を売つて建てたといふ洋館の応接間に通されて、此処でも生れて始めての工合のいゝ安楽椅子に坐らされた。此頃ソーシオロジーを研究して居ると云つて色々の書物を見せられた。どういふ話のつゞきであつたか忘れたが「兎に角君は、人間何も別にえらくならなくてもいゝといふことを承知して居るから感心だよ」と云つて誉められて嬉しがつた事を覚えて居る。此れは併し恐らく其当時の先生自身の心境を語る意味の言葉であつたかと思はれる。
 其後唯一度帝劇で会つたことがある。東京朝日のS氏と一緒であつた。それがS氏であることは、先生が戯れに芸者か何かのような口調で「Sさん」と云つて呼びかけたので分つたのであつた。当時先生はたしかジャパンタイムス紙に筆を執つて居られたやうである。
 先生の訃報に接して市ヶ谷の邸に告別に行つたのは何年頃であつたか思出せない。其時の会葬者の中には前のS氏の顔も見えた。番町の広い邸宅に比べて、此の新居で臨終の地となつた市ヶ谷の家は何となく淋しく見えた。それでも座敷の装飾や勝手道具などの何でもないやうな処に矢張如何にも先生らしい雰囲気を感じて、中学時代の昔をなつかしく思出すのであつた。何でも、うすら寒い雨の降つたあとであつたかと思はれる。会葬者に踏み荒された庭の土があり/\と思出されるやうな気がする。

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