『神霊教とはどんな新宗教団体か?』@ChuChuOPico

『現代にっぽん新宗教百科』監修 島田 裕巳柏書房2011年9月15日発行より

神霊教(しんれいきょう)

所在地/東京都港区赤坂1ー14ー9
創立者/大塚寛一 代表役員/齋藤塋嗣
信者数/8万6754人

日本で初めて、仏教系にも神道系にもキリスト教系にも属さない「諸教」として認証された宗教法人が、この「神霊教」である。それもそのはず、神霊教の教義における最大の特徴は、開祖が発する神の力によって奇蹟が引き起こされ、その奇蹟が信者一人ひとりに体験されることで悩みを救うというものだからだ。既成宗教をいくら発展させてもこうした考え方は出てこない。しかも、教団は「ほとんどの信者が何らかの奇蹟を体験しており、その確率の高さは世界の宗教に例を見ない」として、開祖のもたらす奇蹟が、事実をともなわない空論ではなく、現実世界で「実証」されることを強調している。
 この教団が設立されたのは、昭和二十二(一九四七)年二月のこと。創立者の大塚寛一は明治二十四(一八九一)年五月、徳島県阿波郡伊沢村(現在の阿波町)の有力な商家の長男として生まれた。学力優秀、温厚篤実な大塚少年は、家督相続者としておおいに期待されたようだが、一六歳のときに両親や親戚たちの説得をふり払い、高野山や木曽の御嶽山など霊峰霊所を訪ね歩きつつ上京。さらに大阪をはじめ各地を遍歴し、明治四十四(一九一一)年には大陸を渡る。朝鮮半島や満州、蒙古、中国各地をめぐり歩き、三〇歳のときに一〇年間におよぶ大陸生活を終えて帰国した。
 帰国後の大塚は、大阪で電熱器事業に関与し、六〇件以上の特許を取得、全国各地に支店や派出所を出すなど、企業家としての才能を発揮する。しかし、もともと大塚の目的は事業ではなく、救世済民にあった。事業のかたわら、人びとに対して奇蹟による救済を行い、また国家社会を憂えて活動した。

昭和十四(一九三九)年九月から太平洋戦争の終結まで、政府の要人、宮内省関係者、参謀本部、軍令部、陸海軍の幹部や、大政翼賛会の指導者らに「大日本精神」と題した建白書(=意見の申立書)を送りつけ、日独伊三国同盟の締結に反対したり、日ソ中立条約が破棄される可能性を指摘したりするなど、後世の視点からすればきわめて適切な現状分析を披露し、「不戦必勝」の考え方にもとづき、米英との対立を避けるよう提言したとされる。
 終戦後の昭和二十二(一九四七)年二月十一日、大塚寛一は西宮で神霊教を立ち上げる(宗教法人法の成立による認証は昭和二十八年六月)。冒頭で触れたように、「実証」できる「奇蹟」を次々起こして信者を増やし、昭和二十九年には東京支部を設立。昭和三十年代半ばからは、抗争と混乱に満ちた夜の時代から光明平和の昼の時代への転換期にさしかかっていると説き、大転換にともなう混乱を解消し、万民救済と世界平和を実現するという「明けゆく世界運動」を起こす。

昭和四十一年からは、物質文明や科学技術への偏重を批判、神の力による「百ガン撲滅運動」(人類の幸福を阻み、発展を妨げる世の一切の障害を「百ガン」と称した)にも着手する。五十年代には、街頭や大学の構内でがんを切らずに治す「二一世紀の超宗教」とうたい、学生たちに影響を与えた布教活動を展開している。また、こうした運動と並行して、四十三年に「日本精神復興促進会」を発足させ、左翼陣営を牽制する動きも見せた。四十九年には港区赤坂にあるアメリカ合衆国大使館の南側、ホテルオークラの西側という超一等地に本庁を建設、平成三(一九九一)年に本部を移した。
 大塚寛一は昭和四十七年に死去。その遺志により、妻国恵が教団を後継し、平成十三年まで指導・運営にあたった。教団では大塚が「教祖様」、国恵が「教母様」と呼ばれている。現在は齋藤塋嗣が代表役員を務める。

著者 島田 裕巳(しまだ ひろみ)
宗教学者、文筆家。1953年東京生まれ。東京大学文学部宗教学科卒業後、同大学大学院人文科学研究科博士課程修了(宗教学専攻)。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員などを歴任。著書に『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)、『創価学会』『世界の宗教がざっくりわかる』(新潮新書)、『日本の10大新宗教』『葬式は、要らない』『戒名は、自分で決める』(幻冬舎新書)、『新宗教ビジネス』(講談社)、『人はひとりで死ぬ』──「無縁社会」を生きるために』(NHK出版新書)、『聖地にはこんなに秘密がある』(講談社)ほか多数。

『日本の新宗教50 完全パワーランキング──人脈力・資金力・政治力を前比較』編者・別冊宝島編集部、宝島社2017年5月3日発行より

『神霊教』

1947年に兵庫県で設立された神霊教は、現在東京都港区に本部を置き、公称信者数は7・9万人。その公式ホームページを開くと、いきなり「悩みを解決する奇蹟の宗教」という文字が目に飛び込んでくる。実に簡潔かつ要を得た説明で、神霊教の概念とはほとんどこの「奇蹟」を起こす宗教ということになる。
 神霊教の教祖・大塚寛一は1891年、徳島県の富裕な商家に生まれた。幼年の頃からよく勉強ができ、周囲から大きな期待を寄せられていたが、次第に宗教的な世界に魅せられるようになる。彼は16歳にして家を出て、高野山や御嶽山など、宗教的な霊地を遍歴する。ついには中国大陸まで渡り歩いた大塚は、30歳で帰国して会社を興すものの、その心は「万民救済」というものに向かっていた。
 大塚は旅のなかで確認したという「宇宙の真理」でもって、周囲の人々の病気を治すなどの「奇蹟」を起こして次第に評判になる。また一方で彼は、太平洋戦争勃発前夜から、政府要人に建白書を送りつけ、日独伊三国同盟の締結反対、対米戦は避けるべきなどの意見を発信するなどもしていた。
 終戦後の1947年、大塚は正式に自分の宗教団体として神霊教を設立する。その売り文句は「奇蹟が起こる」ということで、実際に大塚の周囲ではその後も「病気が治った」「事業が成功した」などの具体的エピソードが数多く発生する。神霊教とはこのように、「神の真理」などのような教義を説いていくというよりは、「具体的にいいことが起きます」と言って信奉者を集めてきた団体である。実際に会の公式ホームページには「奇蹟体験」などといったコーナーまであり「ガンが治った」「能力向上」「子宝を授かった」などの信者たちの体験談が多数掲載され、それが最大のコンテンツとなっている。
 ただし大塚は、戦前に政治的な文書をつくって流布していたことからもわかるように、戦後も社会情勢に対する一定の関心は持ち続けた。彼は戦後、教団運営と並行して「日本精神復興促進会」という組織を創設。これはかなり保守的な正確をもつ政治運動を伴ったもので、「国に対する誇りを持ちましょう」「『日の丸』の国旗を立てましょう」「家庭に日本の心を取り戻しましょう」といったことをスローガンとし、小渕恵三元首相なども賛同を寄せていた。
 大塚は72年に死去。その後、妻国恵が2001年まで教団を率い、現在は三代目体制である。

この本では日本の主だった新宗教団体50を取り上げ、その教義や歴史、また人脈や政治力、資金力などに関して論評している。各教団の“実力”を表したレーダーチャートは、事実上、日本最大・最強の宗教団体である創価学会の力を「5」とし、それを基準に考えたものだ。また、各教団の信者数の点数は『宗教年鑑』などに掲載される「公称信者数」ではなく、その「実態」から採点している。その他の項目も独自の調査・分析から現状を反映させた点数をつけた。

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ChuChuOPi(Twitter @ChuChuOPico)

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