Twitterが見た夢

初めてTwitterを見たとき、どこかピンとくるものがあった。それまでになじんでいた、ホームページやブログとは何かがちがう。最初にその他との差異に気づいたのは、海外のブロガーや記者が情報発信に使い始めていることを見かけた時だった。それは自分がホームページやブログを通して実現したかったネット上でのプレゼンスを体現する人々の姿に等しかった。

同じことは日本でも起きた。ブロガーとして存在感のある人をアルファブロガーと呼ぶならわしはすでにあったが、それと同じくアルファツイッタラーと呼ばれる人も出てきた。彼らの多くはリアル、ネット上を問わず元々プレゼンスのある人たちだったが、そうでない人もいた。つまり、ツイッターを通してポピュラーになったのだ。

数多くの既存メディアが既にツイッターのアカウントを開設し、情報発信を始めていた。RSSが急速に使われなくなっていたため、リンクへと誘導する簡便なツールとして使われるようになった。そのような昔からの大メディアと個人が肩を並べるようになったが、ただそれだけのことだった。個人が小さなヤフーニュースになっただけだった。それはすでにブロガーが成し遂げていたことでしかなかった。

バカッターという言葉がある。ツイッターで自らの空気を読まない言動のために、いわゆる炎上してしまうような人物を指すネットスラングだ。バカはいつの時代にもいるし、いつでも人間はバカになり得る。それが可視化されてつるし上げられる仕組みがたまたま揃ってしまっただけだ。元々日本人は他人にとても冷たい。それがバカッター現象を多少は強化したかもしれないが、誤差の範囲でしかないと思う。世界中どこでも同じようなことは起きているだろう。

当初の良さをなくしただけでなく、マイナス面が知られてしまったTwitterに未来はもうない。他にいくらでも虚栄心を満たすためのSNSはある。どれかひとつが廃れても新たなものが出てくるだけだ。余談だが、有望なウェブサービスをfacebookとTwitterが買っては潰す姿はタコが自分の足を食うに等しい。ましてや自らのシステムの賛同者/補完者を潰したTwitterは愚か者以外の何物でもない( I really loved you, Tweetie!)

Twitterは本来の意味でソーシャルなサービスになれたかもしれなかった。なぜ人はソーシャルにならざるを得ないのか。それは人がひとりでは生きていけないからだ。正確に言えば、良く生きるためには他人の知恵が必要なのだ。それはネットサービス上の口コミに等しいようで全く異なる。どこの誰ともわからない田吾作の意見などクソでしかないのだ。アルゴリズムが生み出した評判のシステムなど何の価値もない。いや価値を感じる人もいるのだろうが、そういうヤツはオレ様の眼中にはない。

みんな本当は気づいている。食べログなんて何の当てにもならないし、宿泊予約サイトの評価なんて広義の自作自演だということに。だって書いている人がどんな人かわからないんだから。

人の信頼度は言葉で決まる。その言葉の価値を可視化し、宮台真司が言うところの頼れる「旦那」をシステム的に選別できる仕組みをTwitterは作るはずだった。

でも人はネット上では絶望的にバカだった。「バカの壁」どころではなかった。ブロードバンドが可能にしたのは「常時バカ」だった。常にバカに接続されてはTwitterもどうしようもなかった。

だから我々は言葉に戻った。音としても文字としても。「Double Barrell RR Show」として。

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