孤独な天才たちにおくる言葉

自分には価値がないと悩む人に


Story:Fei


まえがきー自分には価値がないと悩む人に

「わたしは一体、何者なんだろう?」おそらくこの本を手にとったあなたは、そう何度も頭を悩ましてきたに違いない。ぼくもその内の一人だから、それがどんなに果てのない疑問であり、難しい問題なのか理解できる。学校や社会に対して何かと接するたびに、自分の未熟さや無知さを知り、生きるための気力を失う。そうしてだんだんと引きこもりがちになって、一日中「布団」から出られない日々が続く。俗にいう「うつ病」だ。きっとだいたいの読者はこんな経験をしているんじゃないかと思う。

そんな悩める人たちと同じような経験をしてきたぼくは、一冊の本をまとめることにした。ぼくたちのような「いくじなし」とは対局かもしれない存在「天才について」だ。しかし、ここでビッグニュースがある。それは、天才たちはぼくたちと同じように「うつ」だった経験があるということだ。アインシュタインやスティーブ・ジョブズは若いころ、世界に対して絶望していて、社会から拒絶されていた。アインシュタインは数学ができずに、学校を退学しているし、スティーブ・ジョブズは自分の作り上げた会社から退職させられている。それでも彼らが世界に対して名を残してきたのは、絶望の世界から社会を見てきたからだ。普段は見えない世界だからこそ、社会の問題は浮き彫りになる。「うつ」というのは、世界を変える大きなチャンスなんだ。

今、日本には総理大臣が2人いることを知っているだろうか?彼の名前は「坂口恭平」。まさに革命児、いや「天才」だとぼくは思っている。彼はある対談でこんなことを言っていた。「うつというのは美しいと読む。それは美しい花なんだ」今、生きる価値がないと思っている人たちへ。ぼくたちは重い「うつ」を患ったのかもしれない。ここで花の成長に例えてみよう。花というのは長い年月、地中で根を張り、小さな芽をだす。それから徐々に幹を伸ばしていき、やがてはつぼみができる。その中身はきっと、真っ暗闇に違いない。つぼみはなかなか咲くことができない。しかし、それでも水を与え、陽を浴び続ければ、やがては多くの人を魅了する花を咲かす。偉大な人たちは決まってそうだ。長い長い年月を経て、世界をあっと言わせるようなことをしでかす。

岡本太郎は、著書「自分の中に毒をもて」で言った。

「こんなに世の中にものが満ち溢れていて、一見豊かになっているのに、うつ病の人が増えているという。自殺者も多い。ぼくは当然だと思う。何も芸術家や文学者だけが行き詰まっているわけじゃない。世の中誰もが行き詰まっている。人間は精神が拡がるときと、とじこもるときが必ずある。ぼくだってしょっちゅう行き詰まっている。行き詰まったほうが面白い。だから、それを突破してやろうと挑むんだ。もし、行き詰まらないでいたら、ちっとも面白くない」

これから記していくのは、そんなお話。


目次


1. そもそも天才って何者?

2. 拡張現実に住む天才たち

3. お金は自由という才能を与える

4. 孤独を愛した天才たち

あとがき



1. そもそも天才って何者?

「天才とは1%の才能と99%の努力である」

トーマス・エジソン


奴らは決まってピンチに現れる

そもそも天才とはいったい何者なのだろうか?その定義が曖昧な人が多いだろうから、そこから話していくことにしよう。天才とは一般的にこのように捉えられている。

「天才とは才能のある人物である」

大体の読者はこのように天才を捉えていると思う。しかしこの定義はあまりあてにならない。そもそも才能とは何か。それは生まれ持った能力のことだ。生物学的にいえば、身体能力の差である。であれば天才とはもともと身体能力が極めて高かったのだろうか。そうではないはずだ。スポーツ選手はそうなのかもしれないが、それ以外にも天才と呼ばれた人たちは数多くいる。冒頭にもあるように、アインシュタインやジョブズはどう見ても身体能力は高くない。むしろ彼らは生物学的にみれば貧弱な存在だ。彼らが一度、アマゾンの密林やアフリカの平原へ行けば、一瞬にして絶対的強者の食い物にされてしまうだろう。

であれば天才とは何者なのか?才能とは身体的能力であるが、人間には創造性がある。それが人間の才能になり得るのではないか、そう考える読者は多数いるだろう。確かに創造性という能力は、天才として考えられる要因の一つではある。今ある、天才に関する本はだいたいがこの、創造性に関する本だからである。しかしぼくはこの論述に対しても異を唱えたい。

先ほどもいったように、才能とは生まれ持った能力のことであるはずだ。であれば想像力が才能の一つというのはあまり納得がいかない。例えばこう言えば分かりやすいだろうか。あなたが生まれて間もない赤ちゃんだったとする。そして隣には同じ病院で生まれた赤ちゃんがいた。さて、この同じ病院で生まれた赤ちゃんたちには創造性に大きな差はあるだろうか。常識的に考えてこの二人に創造性の差はない。なぜなら二人には何の知識も経験もないからだ。創造性というのは、「あらゆる知識があり、それを組み合わせる能力である」のだから、創造性が才能の一つだということには当てはまらない。つまりこの二つの意向から、「天才とは才能のある人物では決してない」ということがぼくの自論である。

ここまでで天才は才能のある人物ではないということが理解できた。ゼロから捉えることになった天才の定義をこれから思う存分に考えていこうと思う。まず、なぜぼくがこの時代、社会の状況の中で「天才について」論じようと思ったのかについて話していこう。

最近、よく天才という言葉を見るようになった。本屋や WEBサイトを見ていると、頻繁に「天才〇〇の本」「〇〇の天才現る」のような内容を発見する。しかしその多くが天才=才能と捉えた内容なのである。これは大きな誤解を生んでいる。その誤解は何を生み出すだろうか?後ほどの章で詳しく伝えるが、今の社会は人間が誕生して以来、類い稀ない成熟した社会である。いまだ宇宙にこそ行けるわけではないが、地球上のほとんどを踏破し、インターネットでいつでもどこでも、誰とでも通信し合えるようになった。欲しいものはインターネットですぐに手に入る。本や音楽は電子化して、わざわざ街に出歩く必要がなくなった。人間は楽園を目指して、大船を漕いでいたが、すでにそこに到達して、何不自由ない生活を送っている。しかし、最近では楽園で過ごすことに飽きた人たちが、自分で小舟を作ってまだ見ぬ別の島を求めるようになった。実はそうしたことは以前からあった。大船からこっそりと抜け出して、自分だけの島を探しに行く。そうしてきたのは、まぎれもない天才たちだ。

しかし、誰もが天才たちのように自分だけの島を求めて行動できるわけではない。それは危険が伴うからである。一生を安定して過ごしたい人もいる。ただそれは社会が許さないようになってきた。単純な作業はロボットがやってくれるようになったからだ。ロボットは人間よりもずっと早く、正確に仕事を終える。そうなった今、ぼくたち人間は単純作業よりも、創造性を扱うような作業を求められるようになった。ロボットが自動化してくれることをわざわざ人間に頼む必要がなくなったのだ。そこで求められるようになったのは、創造性であり、個性的な人物である。誰もが芸術家や小説家になることが求められるようになったということだ。それはパッと考えて見ても、とても華やかでいて、楽しいことなのかもしれない。しかし現実では決してそうではない。彼らの作品は確かに見ていてとても美しいし、素晴らしいものである。だがその裏では、まさに血の滲むような努力があった。実はそんな日々に耐えきれず、自己の精神を守るために人格障害が起きたり、果てには自殺するような世界なのだ。

最近、世界的に鬱や自殺が問題になってきた背景には、そうした「みな芸術家の時代」になったということが根底にある。ここで先ほどの天才=才能という誤解がとても大きな問題になってくる。なぜ彼らが鬱や自殺観念に悩まされるのか。それは社会との壁を感じることは前提であるが、その壁を越えられるのは、天才たちだけなんじゃないかという思考になるからだ。彼らにとって天才=才能なのだから、それは努力してどうにかなるという問題ではない。生まれ持ったものが違うのだから、何をしても無駄になってしまうと考えるようになる。そうしたら、あとは何が残るだろうか?全く何も残らないはずだ。ここで彼らは自分には価値がないという思考に陥る。そうしたら最後、生きている理由の見出せなくなった人たちは鬱になり、果てには自殺を考えるようになる。これが天才=才能の誤解が生み出す大きな問題なのである。

これを解決するにはどうしたらいいのか。それは天才の定義を、言葉の意味を変えるしかない。ぼくはそう考えるようになり、ここに一冊の本としてまとめることにした、というわけだ。

少し長くなったけれど、問題の本質と簡単な時代背景を述べたので、これから本のテーマ通り、「天才について」ぼくなりの自論を述べていこうと思う。そもそも天才=才能でなければ、どういった人物が天才と呼べるのだろうか?天才と馬鹿は紙一重なのか?


夢見てこそ人、愛と信と義こそが騎士の証


天才を語る上で、欠かせない人物がいるので紹介しようと思う。その人はイエス・キリストにも並ぶほどの人間で、世界ではキリストの次に有名だと言っても過言ではない。その名はドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ。16世紀スペイン人作家、ミゲル・セルバンデスのドンキホーテという小説に登場する主人公である。なぜキリストの次に有名なのか。意外と知らないかもしれないが、ドン・キホーテは聖書の次に発行部数の多い書物という真実がある。これから彼と天才の共通点を言いたいのだけれど、内容を知らない読者もいるだろうから、概要だけでも説明しておこう。ドン・キホーテとは、とある辺境の村の老いぼれた郷士の事で、騎士道物語を読みすぎた挙句、自分を伝説の騎士だと思い込み、従者パンサと痩せこけた老馬ロシナンテと共に、遍歴の旅に出かける、といった内容である。彼はお姫様(と言っても村に住む一般の女性)の高貴さを広め、世の中にはびこる悪を正すという使命を全うするために旅に出るのだが、彼の生まれた時代はすでに騎士やお姫様が活躍するような時代ではなく、いく先々で変人扱いされてしまう始末。彼は全くと言っていいほど、時代に必要な人間には見えなかったが、最後にはお金持ちの富豪とお金のために結婚を強いられている女性との関係を壊し、女性が本当に愛していた詩人の男性と結婚をさせることに成功する、というのがドン・キホーテの物語である。なぜぼくがこの酔狂な老人を天才研究に用いたのか。それはロシア人作家ドストエフスキーの言葉にある。彼は「作家の日記」という著書の中で、ドン・キホーテについて言及している。

「人間の魂の最も深い、最も不思議な一面が、人の心の洞察者である偉大な詩人によって、ここに見事にえぐり出されている」
「人類の天才によって作られたあらゆる書物の中で、最も偉大で最ももの悲しいこの書物」

「カラマーゾフの兄弟」や「白痴」で有名な彼でさへ、このように言わしめたのだ。ドン・キホーテが素晴らしい作品であることは理解できたと思う。そんなドン・キホーテは天才の特徴を見事に捉えている。まず彼が騎士であること。騎士とは怪物を倒し、囚われたお姫様を救い出すことが目的である。騎士道物語は「ヒロイック・ファンタジー」や「恋愛小説」の原型と言われていて、天才たちも同じように、怪物を倒し、お姫様を救い出すということを現実世界で成し遂げている。怪物とは現実で捉えれば社会問題であり、お姫様とは愛する異性のことだ。これは使命感ともいうことができるだろう。次に社会的で狂人であること。彼は郷士という立場上、社会的な知識も持ち合わせていたし、所々で生きるとは何かについて説いている。しかし、それと同時にその言葉は現実社会では異端扱いされてしまい、狂人というレッテルを貼られることになる。天才たちは十分に常識を持ち合わせているし、だからこそ既存の常識を打ち破る創造ができた。しかし、その考えは今までの常識とは全く当てはまらない異質なもので、やはり変人扱いされてしまうのだ。最後に、彼にはそれなりのお金があり、しかし孤独であったことだ。郷士は下級貴族という階級で、農民たちよりはずっと裕福であった。騎士道物語をコレクションしているあたり、生活には困っておらず、むしろ快適な生活をしていたはずだ。ただ彼はその立場上、独りであることが多く、結婚もしていない孤独な人間だった。


2. 拡張現実に住む天才たち

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」

アルベルト・アインシュタイン

本文。


3. お金は自由という才能を与える

「若い時の自分は、金こそ人生でもっとも大切なものだと思っていた。今、歳をとってよくわかったのだが、全くその通りだった」

オスカー・ワイルド

本文。


4. 孤独を愛した天才たち

「逆境は美しいものを人に与えてくれる」

ウィリアム・シェイクスピア

本文。