ウィキリークス創業者ジュリアン・ポール・アサンジが歩んだ過酷な人生。

#Genius50
7 min readFeb 3, 2016

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(出典:http://bit.ly/1l7snez)

ジュリアン・ポール・アサンジ(Julian Paul Assange 、1971年7月3日ー現在)氏は、オーストラリアのジャーナリスト、インターネット活動家である。2006年にアサンジ氏が立ち上げたウェブサイト「ウィキリークス」の創業者として知られる。創設する以前はプログラマ、ハッカーとして活動していた。ウィキリークスとは、政府、企業、宗教などに関する機密情報を公開するウェブサイトである。投稿者は匿名性が守られており、機密情報から投稿者が特定することができないようになっている。

アサンジ氏が作りあげたもの「ウィキリークス」

アサンジ氏が作り上げた最も影響のあるもの、それは「ウィキリークス」である。名前からもわかるように、各国の政治や企業活動などに関する機密情報を公開するためのWebサイトである。創設者ジュリアン・アサンジらによって、2006年に開設された。

ウィキリークスは投稿者が身元を知られたり通信の監視を受けたりせずに投稿することを可能にしているという。主な話題は、各国の政府や企業などに関する機密情報の公開および告発である。2010年には米軍のアフガニスタン紛争に関連するする機密文書や、CIA(アメリカ中央情報局)による内部情報などが相次いで投稿され、世界中で注目を集めた。2010年8月現在、ウィキリークスには約1200万点の文書があるとされる。
出典:
IT用語辞典バイナリ

ウィキリークスの特徴の一つに情報公開の方法がある。

そもそもアサンジ氏は、自身のサイト「ウィキリークス」に機密情報が載るだけでは満足しておらず、常に得た情報を人々が毎回注目するように公開方法にも力を入れていたとされる。そこで「ウィキリークス」に協力関係を結んだのが、ニューヨークタイムズ紙(米)、ガーディアン紙(英)、そしてシュピーゲル誌(独)の三紙である。ウィキリークスが過去に公開した中でもっとも規模が大きい「コラテラル・マーダー」の公開には、上記の3社の協力が大きいとされる。またその後の情報公開においては、フランスとスペインなどのメディアの協力も得ながら行っている。膨大な資料の精査、それらの再構築、そして、世界各国への公開日程など、綿密な打ち合わせを重ねたことで、情報発信の強度は完璧なものとなりました。

更に、アサンジ氏がワシントンDCのプレスクラブで記者会見をし、世界中の注目の中、自ら「コラテラルマーダー」の詳細を報告、このようなメディアに情報を発信する手段をより凝ったパフォーマンスのもとで行うことで、世間からの注目を引きつけることに、常に成功しているのです。
引用:ウィキリークスと情報漏洩の全貌

ウィキリークスに情報が集まる理由

驚くのが、ウィキリークスに寄せられる情報のほとんどが、「郵送」によるものであるということだ。郵送であれば、デジタル特有の痕跡が残ることなく、安全に情報提供ができるという。インターネットによるものでは
誰がどんなに調べてもその出所がわからないように情報提供者と
ウィキリークスの間には、複数の経由地点を設け、内容も暗号化されている。

情報伝達の経由地点は、ウィキリークス協力者となっている世界各地のエンジニアが所有するコンピュータです。その幾つかの経由地点のどこかで、情報提供元に関する情報は破壊されます。ウィキリークスには、暗号化された情報のみが入ってきて、更に暗号を解いて、初めて元の文書が出現するのです。情報入手経路を複雑化し、なお且つ入手元の情報を破壊すれば、リークに関するリスクは0に近い状態になるというわけです。
引用:ウィキリークスと情報漏洩の全貌

この方法が浸透するにつれて、ウィキリークスには多くの情報が集まる
ようになり、ウィキリークス側では、徐々に「情報が勝手に入ってくる」
状態が確立されていく。

養父から暴力を振るわれ逃げ続けた幼少期。

アサンジ氏はオーストラリア・クリーンズランド州のタウンズビルに生まれる。その後マグネティック・アイランドという小さな島で育つ。ところが8歳のときに劇団経営者の父親と母親が離婚。その後アサンジ氏は、母親に引き取られる。母親は再婚したものの、養父によって毎日のように家庭内暴力を振るわれた。心身ともに疲労困憊した母親は、幼いアサンジを連れて家出。その後何度も養父から逃げるため引っ越しを繰り返し、幼少期のアサンジ氏はほとんど学校に通うことが出来ず、母親から読み書きを覚えたという。

一台の古いコンピューターがきっかけとなり、ハッカーへと育つ。そして反権力思想へ。

上記のように、普通の少年とは180度異なる少年期を過ごしたアサンジ少年が時間を費やしたもの、それはおんぼろコンピューターである。母親が友人から譲り受けたボロボロのパソコンを使い、まだウェブサイトが多く存在しなかった時代に、16歳のアサンジ氏は一人で「Mendax」と名づけたサイトを立ち上げた。その後友人2人とともに、コンピュータ・ネットワークとテレコム・システムを使って地元の役所や企業のネットに侵入。大人顔負けのハッカーに育っていった。またアサンジ氏が反権力思想になったのには、実子との関係にあると言われている。

アサンジ氏は、18歳のときに当時16歳の女性との間に子供を授かっている。その後、籍を入れるものの、アサンジ氏が何度も「ハッカー容疑」で警察に追われる生活となり、妻は家を出ることとなる。役所はアサンジ氏から息子を取り上げ、妻に親権を与えた。怒り狂ったアサンジは、実母の助けを借りて、親権争いに立ち上がった。法廷闘争は6年も続いた。この長く続いた裁判により、精神的ダメージを受けたアサンジ氏は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)にかかってしまう。その精神的ダメージは「こっぱ役人」を底辺とした「Institutional Hierarchy」(既存の権力支配層)全体に対する憤りとなった。(出典:日経ビジネス

(出典:http://bit.ly/1HqJVXH

ウィキリークス創設

アサンジ氏は、数々の政府レベルの機密を得ることで、その後の活動方針を徐々に確立していく。そして自分の思想を最大限に反映させて活動すべくネットワーク「ウィキリークス」の構想を固めていく。 彼の幼少期を振り返ると、その人生は旅の繰り返しでした。アサンジは、ウィキリークスでの活動のため、世界各地を放浪し続け、彼のその人生は人々によく「City to city, country to country”(街から街へ、国から国へ)」と表現されます。その中で、沢山のコネクションをつくり、また沢山の協力者を得て、組織作りをしていったのです。 こういった力強い協力者とボランティアに囲まれ、2006年にウィキリークスを設立、ドメイン「wikileaks.org」「wikileaks.info」「wikileaks.cn」も取得し、組織としての活動を開始した。(引用:wikileaks情報漏洩の全貌

最後に

アサンジ氏のこれまでの人生から読み取れるのは、世の中に大きな影響を及ぼした人物は、幼少期過酷な環境に置かれた経験があることだろう。またその幼少期をどのように過ごすかもその後の人生にどのように影響するかに関わるだろう。アサンジ氏が作り上げた「ウィキリークス」は今後ますます注目されるだろう。

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