「ブレイキング・バッド」を読み解く

H.I.P.S.
17 min readOct 18, 2014

--

5.エンパイア・ビジネスとモラルの問題

*以下の考察は当該ドラマを最後までご覧になった方に向けて書かれております。所謂「ネタバレ」があることをご承知下さい。

ビジネスとして捉えた場合、ウォルター・ホワイトの起業は、以下のような経過を辿る。

初めにイノベーションがある。従来のドラッグ業界では「貧乏人のドラッグ」と蔑称され、粗放な施設と技術で十分とされていたメタアンフェタミン、通称メスの製造に専門知識を持ち込んで、99.1%という抜きん出た純度を達成することに成功するのだ。ジェシーがアートだと絶賛し、一時助手を務めたゲイル・ベティカーが、ホイットマンの詩を引いて賞賛するほどのプロダクトは、メチルアミンを原料に使うことでトレードマークとなる青味を帯び、市場では従来品の四倍の価格で取引される。販売はジェシーが担当するのが、起業時の分担だった。ただし小分けにした袋詰めをジェシーが単独で夜通し売り歩いても捌ける量は僅かで、売り上げは2600ドルにしかならない。

ビジネスの規模を拡大する為に、次にはプロの仲介業者を挟むことを試みるが、ここで自分たちではどうしようもない現実に直面する — — メス・ビジネスの暴力性だ。二軒の仲介業者 — — ジェシーが紹介したクレイジー8、及びメキシコの麻薬カルテル幹部の甥であるトゥコ・サラマンカ — — とトラブルになった後は、独自にネズミ講式の販売網を試みるが、商品の強奪、競合業者による売人の殺害などは当り前であり、市場の支配はプロダクトの優越に加えて暴力によって維持されるのが普通だ。この暴力を自前で調達することは彼らには困難であり、そこでやむなく、大手の傘下に入ることにする。ビジネス自体を横取りされかねない危険な選択だ。

この大手を経営するガス・フリングは、ウォルターのグレイマター起業より数年後に、また別種のイノべーションでドラッグ業界参入を試みた人物だ。主力商品を、他組織に供給を握られたままのコカインから化学的な合成が可能なメスに移し、自分の経営する飲食店チェーンを隠れ蓑に使って販売する、というアイデアを麻薬カルテルに売り込んだが、この提案は却下され、試供品提供を縄張り荒しと咎められて、製造に携わっていた「化学者」を殺されている。その後アメリカに移り、ウォルターとの提携に踏み切る以前の業態ははっきりしないが、おそらくカルテルの子会社として、提供される低品質の商品をフライドチキンのチェーン「ロス・ポジョス・ヘルマノス」のサプライ網を通して輸送し、下部組織を通じて販売する、というものだったと思われる。ウォルターの製品にビジネスの可能性と、更にはカルテルへの復讐と独立の為の絶好の手段を見出したガスは、800万ドルを投じて大規模なラボを建造し、提供する。

この提携が失敗に終った原因は二つある。業界慣行と、ガスの「化学者」に対する個人的な思い入れだ。通常の提携関係、ないしは下請契約ならおそらく何の問題もなかったが、ガス・フリングにとって「化学者」は単なる下請業者ではない。ウォルターにも、後には十分に代理が務まるようになったジェシーにも、家で手料理を振舞うサービスぶりだ。一時助手として付けていたゲイル・ベティカーを復帰させ技術を盗ませた上で、ウォルターとの提携を打ち切りにしようと決めた時には、自らベティカーの家を訪ねて打診するが、ドラマで描かれる訪問ではどこにも触れていないにも拘らず、ベティカーの死後の現場検証では指紋が出ている — — つまり、その後で何らかの状況があったということだ。ガスにとって「化学者」との親密な関係は過去の失敗のやり直しであり、その意味ではウォルターと同じとも言える。ゲイル・ベティカーを殺された時のやりすぎや、ジェシーを「化学者」として使うことを考えていた間の寛大さは、隙のない計算尽くの常の行動の例外だ。

提携開始時、ウォルターは以前の仲介業者トゥコ・サラマンカがDEA捜査官ハンク・シュレーダーによって射殺された状況に関わっていたとして、カルテルから死刑宣告を受けていた。ガスは実行者として送り込まれたトゥコの従兄弟二人の矛先をハンクに向けさせて銃撃戦を引き起こし、生き残った一人を病院で殺害させると同時に、メキシコ側では自分に直接指示をする関係にあったカルテル幹部を殺させる。この行動が齎す利益は四つだ。第一に、米墨間に軽い国際問題を引き起こしてメキシコの供給からアメリカ市場を切り離すこと。第二に、彼の最初の「化学者」を手に掛けたカルテルの元幹部ヘクトル・サラマンカの甥たちを殺し、カルテルとの関係をかき回し、最終的な復讐への道筋を付けること。第三に、かつて考案したビジネスモデル — — 原材料ないし製品の供給元に拘束されることなく生産と販売を一手に取り仕切る — — を実現するための人材を保護すること、第四には、現在の「化学者」であるウォルター・ホワイトに庇護の事実を誇示することだ。これは提携関係の強化を促す筈だった。実際、ウォルターの質問に対してガスは率直に答えた上、契約をウォルター側に有利に変更することさえ提案している。

が、ガス・フリングにとっては業界慣行の枠に収まる行動であったとしても、ついこの前まで一般市民だったウォルター・ホワイトには十分以上に恐ろしい。ネズミ講販売時代の売人を殺したのが提携相手の下部組織で、殺害に子供を使っていて、しかもその点に抗議すると殺して始末を付ける、という非道ぶりに、ジェシー・ピンクマンが怖いもの知らずに噛み付くので尚更恐ろしい。その度に何とか話を付けはするが、話が付いたら付いたで一層恐ろしい — — 関係はどんどん悪化するからだ。怯え切ったウォルターは扱いにくくなり、ゲイル・ベティカーに技術を盗ませて始末しようとすれば素人にあるまじき瞬発力で彼らを出し抜いてジェシーにベティカーを殺させる。この時の居並ぶプロの憮然たる表情は見物だが、ガスは怒りを隠さないことを得策と判断して、決定的にウォルターを怯えさせる — — 非合法に銃を入手し、ガスの殺害を目論むくらいに。カルテルへの、降伏して技術供与で手打ち、を装った復讐劇でジェシーが役割をきっちり果たすと、ガスはジェシーの申し入れを容れて、以後は彼が「化学者」、ウォルターとの提携は平和的に解消、という方針に切り替えるが、その際にも取り敢えずは脅すので、ウォルターの恐怖は極大に達する。

小心者を脅しすぎるのは禁物だ。しかもガスにとって不運なことに、恐怖のあまり夜逃げしようにもスカイラーの拠ない使い込みのせいで、ウォルターはそのための資金を捻出できない。開き直ったウォルター・ホワイトの狂おしき一日はとんでもないもので、家族の安全を確保し謀略と大芝居でジェシーを寝返らせガスの爆殺を試み、それが失敗するとヘクトール・サラマンカと手を組んで誘い出し、今度は漸く成功する。大手との提携はこれで解消だ。

再度の立ち上げでウォルターが取った事業形態は、ガスのそれとは対照的だ。生産から流通、末端小売、警備保障までを私有し管理するガス型の企業は、莫大な設備投資とランニング・コストを必要とする。外部からの攻撃にも警察の追及にも弱い。一方、害虫駆除の会社を買い取って普通に営業させ、作業中のシートで覆われた家の中に移動ラボを組んで製造、駆除終了とともに撤収し、流通と小売は35%のコミッションで別業者に委託、市場の掌握と拡大はその業者が担当してくれるので常勤の暴力担当者は置かず必要な時に雇い入れ、ウォルター自身は生産と品質管理に専念する、という形態は遥かに柔軟だ。生産の調整も簡単で、ジェシーが脱落するまでは別にラボを持たせて増産するという計画も温めていた。大型楽器運搬用ケースに収めて住宅の玄関を通る程度の機材による簡易ラボは安価で、技術者さえいれば幾らでも増設可能、減産が必要になっても機材が遊ぶだけ、しかも点々と移動するので摘発は困難だ。小売の現場を抑えて上まで辿って行っても、仕入れの段階から先は断ち切れている、という状態は安全でもある。多国籍企業の流通担当者を介したチェコへの輸出(コミッション30%で委託)も始めて、ウォルターは概ね三ヶ月間で8000万ドルを稼ぎ出す。私がやっているのはメス・ビジネスでもマネー・ビジネスでもない、エンパイア・ビジネスだ、と豪語するのも無理はない。ガレージ起業後一年少々でここまで漕ぎ着けるのは、スタートアップ企業としては大成功に属するだろう。ガスの組織を集中型とするなら、自律分散型ということになる。警備面での多少の脆弱さはあるが、健康状態から見て最大半年程度でのエグジットが前提なら特に問題はない。ただし製造部門以外は立ち上げの過程で徐々に形を取って行ったので、特に設計してそうなったというものではない。多くのスタートアップ企業が結果的にこういう形を取らざるを得ないのと同様だ。

自立分散型の発想には世代的な背景がある。例えば1976年、スティーヴ・ジョブズとスティーヴ・ウォズニアックがジョブズの家のガレージでAppleを起業したのは、ヒューレート・パッカードにパーソナル・コンピューターの商品化を提案して蹴られたからだ。HPからは意味不明と言われたパーソナル・コンピューターはやがて、高速回線で相互に接続することで、自律分散型のネットワークを形成することになる。同社のApple IIの成功を見たビル・ゲイツが参入してくるのが1981年。ちなみにジョブズとゲイツはどちらも1955年生まれで、1959年生まれのウォルター・ホワイトより四歳年長、ということになる。グレイマター社もおそらくは、こういう時代の空気の中で立ち上げられ、成長したのであろう。ただし、当時の正気の大人たちにとっては、馬鹿げたお遊びはいい加減にしろ、だったに違いないし、実際、ウォルター・ホワイトも含め、多くの人が途中退場を余儀なくされて、縮み行く世界の中で面白くもない人生を送ることになった。ウォルターが余すところ一年を切った人生のやり直しにおいてこういうスタイルを採用し、結果的に出来てくる組織が警察官上がりのマイク・エルマントラウトから見た場合、メスが作りたいならガスの下で大人しく製造に励んでいればよかったじゃないか、であるのは、故のないことではない。この二人の間には最初から埋め難いギャップがあり、その相当部分は世代による文化的な相違だ。

マイク・エルマントラウトとウォルターは、常にすれ違っている。 まず、ウォルターが製造番号を削り取った銃を買い込み(この場面は「ブレイキング・バッド」の中でも最もいい場面の一つだと思う。気の毒なくらい一目瞭然の素人であるウォルターが、犯罪者として生き残る為には人を殺すことも辞さない決意をするのが、銃の密売人の目を通して、外側から描かれる)、抜き方を練習してから出掛けて行ってマイクに話を持ち掛けた時、マイクは当然、ウォルターはガスを殺して組織を乗っ取るつもりだと思った。ウォルターの話の持ち掛け方にも問題はあるが、実際にはただもう怯えて、やられる前にやれ、と考えていただけだ。少なくともガスの組織を羨んだ様子は一度もない(ウォルターからするとガスの組織はこういう風に見える筈である—— http://www.youtube.com/watch?v=axSnW-ygU5g )。ウォルターがガスを爆殺した時も、マイクは、今度こそ殺されると思い込んで逆襲したとは夢にも思わない。だからこそ、メキシコ側でガス・フリングの死を知ると怒り狂って車を飛ばして戻り、ウォルターとジェシーが、ラボの様子を監視していたカメラの映像が警察の目に触れたら事だ、まずマイクに録画がどこに残っているのか聞かなければ、と言うので車で突っ走って来るのと文字通りすれ違う。

このすれ違いは全く解決される見込みがない。ウォルターがメス製造を再開すると言えば、一から始めてああいう組織を別途立ち上げるつもりだと考え、自分がそんな器かどうか考えろ、すぐにこけるぞ、という意味で、お前は時限爆弾だ、と言う。だがウォルターは健康状態において自覚的に時限爆弾であり、偉大なるガス・フリングのように重厚長大な組織に君臨する気など最初からない。快適にメスを作って広く売り捌いてより多く儲けること — — ウォルターにとってはこの三段階が揃えば十分に「帝国」だ。ジェシーを含めた三人で得た最初の収益を分ける際に、マイクは少々意地の悪いやり方をする — — 最初に全収益をテーブルに上げて三等分し、ぬか喜びさせた後で、そこから経費を三等分してを引いて行く。札束の山はみるみる小さくなる。最初から全経費を差し引いた残りを分けていたら印象は全く違っていた筈だ。現実はお前さんが考えているほど甘くない、諦めろ、を量として見せている訳だが、ウォルターの目には、嵩みすぎるコスト、が見えただけであり、当然次の段階には、ではどうやってカットするか、が来る。結果として出て来るのが、コミッション35%の委託販売制だ。これもまたある種のイノベーションである。

問題を発見する、最も手早く適切な解決法を考える、実行する、がウォルターのアプローチであって、間に挟まるものは全て平然と跨ぐ。万事が実にフラットであって、故にシンプルで手早い。跨いだら先に進む。道徳感情が何か言うとしても、それは既に、煩い蝿、に成り果てている。これはゲイル・ベティカー殺害においてもガス・フリング殺害においても「二分間で十人」においても全く変わることがない。マイクが職業犯罪者としての練れた生き方の極で仁義を重んじヒエラルキーを重んじ業界の掟を重んじ、与えられたルールの中で最大限のパフォーマンスを発揮することを自らに課しているとしたら、ウォルターはその業界に飛び込んで来て素人の勝手ルールで全てを跨ぎ越し、しかも、古式ゆかしいやり方なら、全ては終ったので全員行方を眩まして完、となるところで、再起業する気満々である訳だ。

対立している、とか、いがみ合っている、とかいう問題ではない。発想が根本的なところで食い違っている。マイクから見た場合、ウォルターは常に余りにも非常識であり、故に常に — — 実際には三度、不在中のガス・フリング爆殺を入れれば四度 — — 出し抜かれる。実際には非常識ではなく無常識なので、おそらくウォルター自身はこれを「クリエイティヴ」と呼んで恥じないだろう。最初期、一晩中売り歩いた収益2600ドルの分前を得意満面で持参したジェシーはウォルターに叱り飛ばされる — — もっと想像力を使え。つまりは、ビジネス啓発本的に言うところの「クリエイティヴ」になれ、という事だ。「クリエイティヴ」に考えた結果、ジェシーは、業界プロトコールにおいては話も持ち掛けられないような大物ディーラー、トゥコ・サラマンカへの直接の伝手を発掘し、出掛けて行って半殺しにされた上、持ち込んだ商品を巻き上げられる。そこでウォルターは極めて「クリエイティヴ」にトゥコの事務所に乗り込んで雷酸水銀を爆発させ、代金に加えて慰謝料と次回の取引まで獲得して帰って来る。ウォルターとの関係においては、ジェシーは競って非常識な発想を磨かざるを得ない。何しろ二人所帯でもあり、ウォルターに採用できるのは自律分散型の関係 — — 馬鹿じゃなければこの問題をクリアしろ、それはお前の責任だ — — だけだからだ。マイクの自動車に乗せられて組織に仕える人間としての規律と仁義を叩き込まれる方が、ジェシーには遥かに性に合う訳だが、そこでマイクを感心させるのはまさにウォルターの無責任な薫陶が引き出した「クリエイティヴ」な発想 — — 例えば見張りのジャンキーの目の前で穴を掘って見せると寄って来るので、シャベルを与えていつまでも一心不乱に掘らせておく — — だ。警察の証拠品保管庫に収められたノートパソコンのデータを破壊する、という話になった時、マイクが目にすることになるのは、ほぼ素人な二人組の一方が、或いは他方が非常識なアイデアを捻り出し、もう一方の技術的な、或いは実践上のバックアップによって実行に移し、生き延びて来たやり方の最良の例だ。

この「クリエイティヴ」は、本質的にどうかしてしまっているモラル、にも直結している。既存の枠組みを遠慮なく超えて思考するのが「クリエイティヴ」であるとすれば、ビジネスの枠組み同様、モラルの枠組みも乗り越えられるべきものになる。これは彼がメス密造によって保険でカバーされない治療費と死後の家族に必要な生活費教育費ローン残金を捻出しようと考えた時から既にそうだった。道義的にどうか、という問題については、ウォルターではなくゲイル・ベティカーが回答している — — 自分は思想的にはリバタリアンだ、乱用者はどのみちどこかで薬物を手に入れる、だとしたら純度の高い薬物を製造して彼らに提供するのは何ら問題ではない、と(この回答は、幾らか、神聖なるコイントスでクレイジー8を殺すことを分担したウォルターがレポート用紙に書き出すpro et contraを思わせるところがある — — ただし、ウォルターの場合はproもcontraも余りにも自己中心的すぎて失笑ものだが。誰かを殺さない理由として、殺すとトラウマになる、はないだろう)。つまりは、ゲイルもまた問題を解決するために一般的なモラルの問題は跨いで通った訳だ。どっぷり首まで浸かる前に散々行きつ戻りつを繰り返したウォルターには、ここまでよく整理された回答はなかっただろうが、状況に応じて随時跨ぎ続けてきた以上、異論はない。ガス・フリングとの提携を経て、自前のエンパイア・ビジネスを立ち上げる過程においては尚更にそうだ。また別種のモラル — — マイクが体現する職業犯罪者のハードボイルドな仁義はそもそも問題にはなっていない。

「ブレイキング・バッド」が恐ろしいのは、一家の父である高校の化学教師が総計二百人の直接間接の犠牲者を出しながらメス・ビジネスの成功者に成り上がっていく話だからではない。化学者としては一流だが「器量」は大きくない小市民がメス・ビジネスの世界に足を踏み入れて、解決を要する状況に直面する度にモラルの障害を一つまた一つと跨いでクリアするのを、うわこの糞野郎跨ぎやがった、と、少なくとも最初のうちは笑いながら、眺める快感が確かにあるからだ(その度に、共犯にされるジェシー・ピンクマンは唖然としながら受け入れ、その咎は全て彼に回される — — これがこのドラマにおける安全性の担保だ)。その意味で、これはブラック・コメディだ。精神的なダメージの蓄積はジェシー程ではないにせよ皆無でもないことは、演じるブライアン・クランストンの顔を見ていればわかるので、そろそろ限界だろうと予測をするが、次の障害が来ると、また性懲りもなく跨ぐ。ではその限界は何処にあるのか。

制作側がぐいぐい押して行くのは、ウォルター・ホワイトの道徳的な限界ではなく、視聴者のそれだ。もう許容できない付いて行けない、という声は、Twitterで検索を掛ければすぐに見ることができる。しかし、恐ろしいのはここだが、少なからぬ人は、まだ押してる、まだ押してると思いながら、我らがウォルター・ホワイトがマイケル・コルレオーネ級の「二分間で十人」をやらかすまで、うっかり付いて行ってしまい、凄いところまで来ちまったねと呆れながら、それでも最終的には満足感とともにファイナル・シーズンを見終えてしまうことになる。だが、一体何故。

単純な話だ。ウォルター・ホワイトの道徳ないし無道徳は、既に我々の時代の道徳ないし無道徳の一部であるからだ。その事業展開からビジネス・モデルからそれを支える論理から問題解決の姿勢に至るまで、と言えばよりはっきりするだろう — — ウォルター・ホワイトの選択は、道徳感情の遠い声を除けば、今日の基準では特に問題がないどころか、しばしば推奨されるものでもある。我々は今や、道徳の荒野にいる。

--

--