「ブレイキング・バッド」を読み解く

H.I.P.S.
12 min readOct 27, 2014

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6. ウォルター・ホワイトの変容

*以下の考察は当該ドラマを最後までご覧になった方に向けて書かれております。所謂「ネタバレ」があることをご承知下さい。

アリストテレスはフィクションを、主人公の特質によって分類した。王や英雄ら、常人=観客より「高い」人物が主人公であれば悲劇、「低い」人物であれば喜劇、美徳の主が無理からぬ過ちの結果破滅するのに「哀れみと恐れ」を感じるのが前者なら、悪徳の主が滑稽な過ちを犯し処罰されることが笑いを惹き起こすのが喜劇だ。尤も、これは解釈次第でどうにでもできるものでもあり、例えば「リチャード三世」を、玉座に就いた道化が全てを転倒しかき回す喜劇として上演することは可能だし、「ヴェニスの商人」を、分からず屋の父親にして強欲な金貸というまさしく道化でしかないシャイロックの悲劇として扱うのは通例になっている。

ウォルター・ホワイトはちっぽけな人間だ。社会にさえ見捨てられ廃棄される瀬戸際に立つ、まるで英雄的なところのない人物だ。特に前半部において、ウォルターの卑小さは、その尤も至極なエゴイズムにおいて際立っている――トゥコ・サラマンカに拉致されて暑い中を砂漠の真ん中の荒屋までトランクに詰められて運ばれた後、寄越された水のガロン瓶をジェシーの前からひったくって飲むところで、思わず笑った人は少なくない筈だ。ウォルター・ホワイトが愛すべき人物である場面の大半はそういう状況――エゴイズムを中心に怯懦や貪欲や傲慢や狡猾が遺憾なく発揮され、その小人物ぶりがあられもなく現れる状況においてだ。ジェシーがその愚かさにおいて喜劇的な人物だとしたら、ウォルターはそのエゴイズムにおいて喜劇的な人物だ。モリエールのアルパゴンとスガナレルが、ベン・ジョンソンのヴォルポーネとモスカが、或いはブラック魔王とケンケンが喜劇的な人物であるなら、ウォルター・ホワイトとジェシー・ピンクマンも古典的な意味での喜劇の登場人物と言うことができる。

ウォルターが次々に跨いではならないモラルを跨ぎ越し、そこに出現する道徳の荒野を突き進もうとさえしなければ、この喜劇はいつまででも続けることができただろう。古典的な喜劇において喜劇性を保証するのは、何事も変わらない舞台と、そこで同じ役割を演じ続ける人物だ。現代においてはシットコムというジャンルがこの種の喜劇を提供している。今一つぱっとしない父にして今ひとつぱっとしない教師が、ドロップアウトした元生徒を無理矢理相棒にしメスを密造して犯罪界デビュー、裏世界での名乗りはハイゼンベルク、というシットコムを想像することは容易だ。毎回出現する恐るべき危機(含家庭の危機)に、どこまでも小心でエゴイストなウォルターが恐るべき非常識を発揮して立ち向かい、唖然とするジェシーを巻き込んで目を覆うしかないほどブラックな状況を作り出す、というシリーズは、理論的には十分可能ではある。少なくとも、死体を溶かそうとしてバスタブの底が抜けるところまではそうなっている。だが「ブレイキング・バッド」は、製作者側の言葉によれば、チップス先生がスカーフェイスに変貌する話だ。これはその種の喜劇が成立する不動の基盤を設定しないことを意味する。ウォルターが踏み出す道徳の荒野は無限の成り上がりと没落が起こる無重力地帯であり、幻想以外(ウォルターの場合には、ちぐはぐな内装で表象される家庭、がそれに当たる)いかなる安定した足場もない。全てが可能になると同時に全ては揺れ動き、この変動の中で彼らの喜劇性はもはや笑えない何かへと変貌する。その最初の一歩が、クレイジー8の絞殺だ。

ではこの場合の到達点である「スカーフェイス」は何を意味するのか。

ウォルターは時折映画に言及する。例えば証拠保管庫内のノートパソコンのデータを外部から磁石で破壊する実験が成功した時、中で証拠品が宙に舞ったらすごい音がするぞ、と警告するマイクに、”in 60 seconds, we’ll be gone” と言うのがそれだ――六十秒で姿を消しているさ。”Gone in 60 seconds” は1974年のアメリカ映画で、邦題は「バニシング in 60」、自動車泥棒を主題とし、四十分間にわたる前代未聞のカーアクションで評判を取った。公開当時ウォルターは十五歳――不細工なポンティアック・アズテックの派手な飛ばしようも納得が行こうというものである。ハンクに、あの映画では犯人は捕まらない、と指摘する「フレンチ・コネクション」は1971年だ。場面から連想される映画――例えば「タクシードライバー」(1976)、「ワイルドバンチ」(1969)――も含め、ウォルターの言動にはこれらの映画――アメリカン・ニューシネマとその周辺――がぼんやりと浮かび上がる。全て、ウォルターが十代から二十代にかけて見たであろう映画だ。そこでは、犯罪も含め、反社会的行動は自由への希求と自己実現を意味した――警官を主人公にした場合でさえ、彼らは組織のはぐれ者だった。主人公はしばしば悲惨な最後を遂げたが、それは全てを排して自由に自分自身であろうとする戦いにおける輝かしい死であった。Live free or die, という訳だ。

犯罪者の自覚を持った時、ウォルター・ホワイトが半ば意識的に踏襲してしまうのはこのドラマトゥルギーだ — — トゥコ・サラマンカとの取引の場所に廃車場を選んでジェシーに注意される場面で判る通り、残念なことに彼には映画以外、犯罪者が取るべき行動のモデルがない。結果的に、愛すべきエゴイズムに満ちた小市民が、道徳の荒野を、まるで1970年代のアウトローのごとく自由を求めて疾走する、という光景が出現する。「名前のない馬」をラジオで聞きながら車を飛ばしていて警察とトラブルになる挿話は、その雛形だ。

台詞まで諳んじている「スカーフェイス」(1983)はそうした疾走の果てに出現する、毒々しく塗り立て、ネオンで飾りたてた自由の表象だ。その更に先には、ビスポークのスーツの下に信じられないほど太いサスペンダーを付け、巨大な携帯電話を手にしたゴードン・ゲッコーが現れて、小市民の地道な勤勉を足蹴にしながら、強欲は善だ、と宣言するのだが、残念ながら、自分が手放したグレイマターの株券が今ならどのくらいになっているかを密かに確認し続けているウォルターが「ウォール街」(1989)をどう見たのかは分からない。八十年代の文化史において、トニー・モンタナとゴードン・ゲッコーは表裏一体のアイコンだ。アンチ・ヒーローの自由は、社会規範を拒否した無軌道な青春の暴走から力への陶酔を経て強欲の肯定へと変貌する。永遠の疾走は、最終的には、無限の欲望へと帰着する訳だ。

ウォルターは息子と並んでテレビに見入り、トニー・モンタナのM16乱射に喝采する。世代から世代へと文化が継承される光景はかくのごとし — — と言ったらシニカルすぎるだろうか。「スカーフェイス」は単に製作者が予定する帰結というだけではない―― « The World is Yours »の誇大妄想まで含めて、「悪」のロールモデルを提供するカルト・ムービーであり、一旦実演が可能となったが最後、ウォルター・ホワイトがそのルートを辿るのを躊躇う理由は何もない。輸送列車から盗んだメチルアミンを1500万ドルで売り払い、山分けしてエグジットしよう、一人500万でも十分すぎる額じゃないか、というマイクの提案を蹴るのは、ウォルターにとってもまた強欲は善であるからだ。青春をやり直す、とは彼にとって、力への陶酔と強欲の疾走感を存分に堪能することに他ならない。ウォルターがグレイマターから抜けたのはシュヴァルツ夫妻には幸いなことだった――でなければおそらく彼は重役室に陣取って、いかなる良心の呵責もなく完全に合法的に、同じことをしていただろう。今や映画ではお馴染の、悪のコーポレーションの悪の重役だ。遮るものもない道徳の荒野がその背景にはある。癌にでもなって早々とおさらばする以外出口のないぱっとしない人生だけが、マイクが言うような「時限爆弾」になることからウォルターを救っていたのだ。

実際には、ジェシーを道連れにした第二の青春においても、ウォルターは大人にならざるを得ない――或いは、過去の憧れをだらだら引き摺ったまま五十歳になってから今更「目が覚める」未成熟な中年男は、今度こそ嫌でも大人にならざるを得ない。第五シーズン前半は、ウォルターのハイゼンベルクとしてのキャリアの二つの頂点を描いて終わる。一つは蹴落とす気満々でメチルアミンの全量買取にやって来る競合業者を相手に、自社製品の優越と販売に徹することの利点を説いて契約を取り付ける場面だ――この交渉自体は呆れ果てるくらいに普通のビジネスだが、私が誰だか言ってみろ、と問うた相手が、ハイゼンベルク、と答えない限り、彼の勝利は完全なものにはならない。もうひとつは、ガス・フリングの組織の旧関係者九人およびマイクの弁護士を、複数の刑務所で二分間で抹殺させる場面だ。

ただし両者は大いに異なっている。前者は、何故六十にもなって(五十だ、とウォルターは訂正するが、若者にとっては大差はない)いきなりぐれるのかとジェシーに聞かれた時、目が覚めたのさ、答えた先にあったもの――犯罪の魔術で取り戻した青春の頂点であり、彼の脇にはジェシーとマイクが立っていた。後者は自宅の窓際で時間を測りながら報告を待つウォルターと実行部隊による殺害が交錯する場面で、「ゴッドファーザー」を彷彿とさせる――と言うよりウォルターによる「ゴッドファーザー」の再演であり、意味するものもほぼそのままだ。ウォルターは一人きりで、彼の第二の青春はそこで終わる。

この二つの頂点の間にあるのが、マイクの殺害とジェシー・ピンクマンとの決別だ。警察の追及を逃れて国外逃亡を図るマイクの隠し金を運んでやったウォルターは、例の九人の名前を教える教えないで言い争いになり、詰まらないエゴの為にガス・フリントの組織を潰した、と罵って去ろうとするマイクを撃つ――これはウォルターとしては例外的な行動であり、衝動的に人を殺せるところまで来たという意味では最悪な訳だが、銃を取りに往復する足取りも、撃ってから自分で驚いている顔も、呆れたことにまさに昔ながらのウォルター・ホワイトだ。撃った途端に走り出して止まった車を追い、運転席から逃げ出したマイクを探して藪を掻き分け河原まで行くと、マイクは石の上に静かに座っている。

素人に腹を撃たれて暫く生きていたが、最後は座って息絶えるのは、セルジオ・レオーネの「ウェスタン」におけるシャイアンの死に方を思わせる。憤激に任せて引金を引いたウォルターは、跨ぎ越した後で解決すべき問題を探し、そんなものは全くなかったことに思い当たり、済まない、と詫びる。マイクはうんざりした声で、黙って、静かに死なせてくれ、と言う。「ウェスタン」では鉄道の齎す文明がアウトローの美学に引導を渡した。映画の古き西部同様、マイクの死でこのドラマにおける何かが死ぬ。堅気の社会に対するあくまで裏として自分の活動圏を定義し、その中でのモラルをきっちりと守ることを良しとする古き犯罪者の世界はここで終り、道徳の荒野における普通のビジネスとしての犯罪が勝利する。マイクの死に対する罪悪感は、害虫駆除会社の事務室の蝿としてウォルターの凝視の対象になるが、その間にもマイクの自動車はスクラップにされ、死体は一晩自分の車のトランクに隠した後、ポリエチレンの樽に詰めて化学的に解体される予定だ――全ては最早通常業務であり、青春も反逆もどこにもない。

ジェシーのビジネスからの退場はもっと素っ気ない。マイクを殺した以上ジェシーを繋ぎとめておくことはできない、という判断に煩悶が伴った様子はない。かつてはロマンスだった共同事業は、今やただのビジネスであり、その代表権はウォルター一人にしかない。例の九人をどうするのか相談しようとやって来たジェシーは、車庫のシャッターを閉めて追い払われる。ビジネスの論理に従うなら答は簡単だ。ウォルターは同じように素人で同じように小心で同じように仁義を弁えず、同じようにマイクに毛嫌いされていた多国籍企業の物流担当者リディア・ロダルト=クェイルから名前を聞き出し、心置きなく十人を排除して、エンパイア・ビジネスを切り回す。

ハイゼンベルクは二分間で十人を殺した男として悪名を轟かせ、ジェシーを外して何の波風も立たなくなった仕事は退屈極まりなく、ウォルターは老け込み、寛解していた癌は再発し、妻に見せられた資金洗浄の追い付かない金の山8000万ドルを見せられて引退する。ガス・フリングとの破格の契約でさえ一年で1500万ドルをジェシーと山分けであったことと、ガスのラボと比較した場合の移動ラボの生産量を合わせて考えれば、この三ヶ月がどれほど順風満帆だったかわかるだろう。残るのは家族に癌を隠しながら洗車場のオーナーとして「老後」を過ごし、満々と水を湛えるプールの脇でヴィトー・コルレオーネのごとく大往生を遂げることだけだ。家庭さえ、彼は制圧しおおせた。あれほど足掻き続けた妻は今や資金洗浄を担当する共犯者で、ホワイト家は8000万ドルを飲み込んで膨れ上がった水の底、シュレイダー夫妻は秘密の外にいるお客さんだ。つまり、一年半の苦闘を経て、目標は全て達成されたのである。

もし、ささやかなミスが、「二分間で十人」のハイゼンベルクとは誰だったのか、の手掛かりをハンクに与え、パニック障害の発作が起こるほどの恐怖を引き起こさなければ――ただし、客人も使う手洗いにゲイル・ベティカーの賛辞の入ったホィットマンの詩集を置いておくのは、ゲイルはハイゼンベルクではない、とわざわざ断言したのと同様の、ただし無意識の、自己顕示欲=自己破壊願望だと、心理学者なら言うだろう――、かつ、癌の再発がわかった後、五百万ドルの分け前を届けて甘酸っぱい感傷とともに別れを告げたジェシーが捨てられたと思い込んでいなければ、全てはそのまま終わっていただろう。

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