文章を書こう-言語化力をつけるために

HIROKI tanahashi
7 min readDec 29, 2017

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言語化する力が足りない。

何かを考えたり、何かについて説明したり、あるいは他の人と何かのアイデアについて議論する場合でも、言語化する力が弱いとどうにもならない。思考が、理解が、議論が、前に進んでいかない。だから、いつでも言語化する力を鍛え続ける必要がある。誰にとっても…。

イメージと言語

イメージと言語の狭間において考えること。それは僕自身の最近テーマにしてることでもある。言語で考えるとリニアな思考になってしまいがちだが、イメージの組み合わせをうまく使えば、より多義的に、身体的に思考することが可能なことはアビ・ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』などを見ていると感じられるから。イメージで思考することは言語での思考の限界を超えることができると思い、その可能性を探求することが、最近の関心ごとだ。

けれど、一方で、言葉にして考えることを怠る理由として、自分はイメージで思考していることをあげる人が少なくない気もしている。それははっきり違うと思う。イメージで考えるためには、まず言語的な思考力がないとまともな思考にはならないからだ。大抵の場合、言語による思考力が弱い人ほど、イメージによる思考そのものも弱い。特に組み立てが弱い。

その理由はマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を読むと明白だ。イメージによる思考そのものが、社会の文字化の結果だからだ。

「自然の外観」を提示しようとする試みは非文字型文化のひとびとにとっては不自然そのものであり、外観の提示というかたちでは彼等の意識にはまったくのぼらない、という発見は、現代人の間にある心の動揺を引き起こした。というのは、視覚だけを抽出し、それによって現実を知覚認識するわれわれの慣習につきものの現実歪曲の現象が、数学、科学および論理学や詩といった言語芸術にも悪影響を与えていることになるからである。

非文字社会のひとびとは、自然を視覚的な外観だけを取り出すということをしない。視覚化による自然の抽出化は文字化によって人間が手にした方法であり、その絵画的な手法は数学や科学、詩や散文などのベースとなる方法ということになる。その絵画的な方法は、文字を読み書きするというリテラシーがあってこそ、成立したのだということをマクルーハンは指摘しているのだ。

ホメロス詩の英雄は自我をそなえるにしたがって分裂した人間となったのだった。そしてその「分裂」は、それまでの聴覚中心の部族的な人間が視覚化の努力をいっさい払わなかったような複雑な情況の絵画的なモデル化、または「からくり」を見るにつけても明白だった。すなわち、非部族化と個の出現と絵画化はひとつの現象なのだ。呪術的洋式は心理内部における事件が視覚的に明瞭になるにつれて消失する。しかしながら視覚化による明確化は、同時に複雑な心理関係の単純化でもあり歪曲でもある。

絵画の出現は、非部族化や個の出現同様に、非文字社会から文字社会への移行に際して起こったというのがマクルーハンが明らかにしていることだ。この自然の単純化、あるいは歪曲という方法を使いこなすことができるゆえに言語的な思考も、視覚表現的思考も成り立つのである。

それなのに、視覚表現では考えられるけど、言語化は苦手というのは、おそらくただの言い訳でしかない。言語化が苦手であれば、視覚を用いている場合も言語で考えるような論理的組み立てや意味の編集などがうまくできていないはずである。それは視覚表現の多義性を悪い方向に使って、自分でも理解できてないものをなんとなく良しとしてしまっているのにすぎない。

イメージ的な思考を強化するためにも言語化力を高める必要がある

これからはイメージによる思考力が重要になる社会だと思っている。だからこそ、そのベースになる言語化する力を各々がもっと高めていかなくてはならない。言語化する力が備わっていないと折角のイメージを操る力が中途半端にしか生きないからだ。

そういう意味も含めて、イメージと言語の狭間で考えるということを僕は自分のテーマにしていたりもする。いや、それ以上にイメージと言語の狭間で考えることに、言語中心の思考では排除してしまうものを拾える可能性を感じるからだ。で、あればこそ、言語化力のほうも高めないと、狭間で考える場合の力も相対的に低いままになってしまうと思っている。

言語化力を高めるには、まず文章化する力を鍛えるのが、1つの手っ取り早い方法だと思う。

もちろん、会話力を鍛えるというのももう1つ別の方法としてはあるが、マクルーハン的な意味で文字を使う方が、自然を単純化して歪曲する、つまり、現実を抽出化して切り取り、その切り取ったものを素材に人工的に思考を組み立てるという作業を視覚的な作業として行いやすいからだ。

ある意味、それは活版印刷における文字の組み立て作業でもあり、視覚的なモンタージュや、映像の編集作業にもつながるはずだ。文章を書くというのは、そういう意味でも思考を視覚的な要素をうまく使いながら進める作業だと思う。美術館などで絵を集めて並べることで1つのストーリーを作り上げることと変わらない。だから、文章化は本来、視覚表現を行う人が得意であって良い思考スタイルのはずである。

言語を集めて並べると発想が生まれる。発想力は言語化力の近くにある。

KJ法(アフィニティマッピング)的な方法で情報をレイアウトしながら発想するにしても情報を集めて並べることで意味を見出すという点で同様だ。もちろん、そこに言語中心の力は欠かせない。発想は組み立てるものであるという意味で、言語を視覚的に扱う力である。

だから、デッサンしたりスケッチしたりするように文章化を日々行い、文章という形での言語化を繰り返し行い、言語化の力をつけていく訓練が必要になる。とにかく日々書きまくること、事あるごとに文章化により自分の思考を言葉で組み立てる頻度を多くするのだ。文章化の頻度、回数を多くすればするほど、言語化力はついてくる。ようは筋トレと変わらない。繰り返し続ければ良いだけだ。逆に言えば、それ以外に手っ取り早く、言語化力を鍛える手段はないということかもしれない。

もちろん、文章を書くだけでなく、文章を読むことも言語化力を鍛えることに繋がる。それは視覚表現的な作品を自分で制作することだけでなく、他人が作った視覚表現作品を読み、解釈することも視覚表現力を高めることにつながるのと同じだ。

文章化する力がついてくると、結局話したり聞いたりする力もいっしょに鍛えられるので、誰かといっしょに何かを創造する活動をするのにも役に立つ。議論ができ、対話ができ、ブレインストーミングができる。複数の人の発言を拾って組み合わせることで、新たなアイデアを作りだすことができるのも、言語を操る力が高いからだ。

ちょうど年末年始で休みになり、時間もいつもよりは自由になることだろう。この機会に文章化する力をつけるためにどんな努力を自分はするのか、それぞれ考え、実行をはじめてみるには、良いタイミングかもしれない。

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HIROKI tanahashi

人間の思考はどんなふうに作られているか?を問うことがライフワーク。ヨーロッパ文化史に興味あり。