はっきり言おう。みんな気付いてるでしょ。

飲んで、語るだけじゃ、社会を変えられないよ。繋がり、話すだけじゃ何も変わらない。

小さな気付きや学びはあるだろう。その繋がりから広がることもあるだろう。それが小さな一歩を生み出していくかもしれない。雨垂れが石を穿つように、その小さな動きが集まり、続くことで、何かを変えることはあるかも知れない。

でも、あえて言いたい。

かもしれない?あるだろう?
それじゃ足りないよ。間に合わないことが多すぎる。それじゃただの日和見や自己満足になってしまうし、誰も幸せにはできない。

今、苦しんでる人がものすごいいる。今、ものすごいスピードで失われていくものがある。手遅れになっているから劇的に変えなきゃいけないことも、そろそろ手遅れになるから今止めなきゃいけないこともある。

危機感や、温度感が違い過ぎる。

良いことをしたい、社会を良い方向に変える仕事がしたい、子供や家族に誇れる仕事をしたいと皆が言う。でもそれは同時に、膨大な過去と負に向き合い、それよりも更なる熱量で変えて行かなきゃいけない、ということでもある。

社会に良いこと。ソーシャルなこと。ボランティアや寄付的なこと。それはもちろん確かに「良い」ことだ。でも実は、無私の活動や、奉仕をしたと思える自分が気持ち「良い」だけなんじゃないか。

善意のつもりだし、悪意なんかあるわけないし、感謝されこそすれ批判や不満を言われるわけがない、という人の心の僅かな隙。「誰のためなの?」という問いが失われる、人の心の影。

よく見て。本当に困っている人や、失われてはならないものを目の前にしたら、現実的な解と、この先も途切れず持続的に支え続ける仕組みこそが、本当に「良い」ことだって分かるはずだ。

僕は不用意に助けたり、支援することが怖くてできない。続けられないと知った時の、相手の失望や顔を直視できないから。今日は良いことをした、くらいで笑ったり、誇れる気がしないからだ。

良いことをしたいと思うきっかけは、きっと純粋なもんなんだ。良い風や波に乗り、漂い流されてるだけでも「変革しているつもり、良いことをしている気分」にはなれる。ただ、潮の流れを変えるには、想像を絶するほどのエネルギーが必要だ。

でもどうせなら、一緒に変える側になろう。そういう仕事や生き方も、自分で選べる時代だ。

苦しんでいる人たちよりもっと大変な道かも知れないけど、だからこそ彼らのために生きた、社会を良くするために取り組んだと言えるんじゃないか。全員にそんな覚悟を最初から求めていないけど、少しでも取り組みたいと思った人が、参加し続けていける仕組みを作ろうよ。