セレンディピティと幸せの関係

※これは卒業論文です。何万字かあるのでご注意ください。

目次

序章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3

第一章 セレンディピティについて・・・・・・・・・・・ 3

第一節 セレンディピィティの歴史と実例・・・・・・・・・・・・・ 3

第ニ節 セレンディピティの力を持つひとの特徴・・・・・・・・・・ 5

第三節 どうすればセレンディピティに出会えるのか?・・・・・・・ 6

第四節 言葉による認識・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

第二章 幸せについて・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9

第一節 「幸せ」という言葉の意味・・・・・・・・・・・・・・・・ 9

第ニ節 幸せについての価値基準・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10

第三節 幸せの要因・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12

第四節 お金は人を幸せにするのか・・・・・・・・・・・・・・・・ 14

第三章 幸せとセレンディピティの関係・・・・・・・・・15

第一節幸福判断・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 15

第ニ節個人の幸せの目的地・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16

第三節 ライフスタイルという目標設定・・・・・・・・・・・・・・ 17

第四節アランの幸福論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 18

終章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20

参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 23

序章 セレンディピティとは?

セレンディピティとは、一言で言うと偶然から価値のある幸運(幸せ)を摑み取るチカラのことである。そして、何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見する「能力」のことだ。ただ、求めているものを発見する能力ではなく、見つけようとしているものとは別の価値あるものを見つける能力のことを指すことが多い。英英辞典の『The World Book Dictionary』で、serendipityという言葉はthe natural ability to make interesting or valuable discoveries by accident、「偶然に面白いものや価値あるものを見つけること」と説明されている。

わたしがこの力を信じ始めたのは大学二年の頃だろうか。偶然や奇跡という言葉だけでは片付けられない幸運が舞い込んできた。それからというもの、何か良い事があるとセレンディピティの力なのでは?と思うようになった。セレンディピティの力を信じ始めるとどんどん強くなる。驚くほどに。周りの人々は私の努力が実ったのだと言ったり、才能だと言ってくれたりするが、そのレベルの出来事ではない。偶然がこんなに重なることはありえない、何かがおかしい。と思っているときに、セレンディピティという言葉に出会った。そう、幸運をつかみとる能力がこの世に存在するとしたら納得なのである。ただの偶然から幸運を導き、単なる思いつきを優れた閃きに変える力を持っている人が世の中には本当に存在するのだろうか?様々な分野の知見を参考にしながらセレンディピティの存在を証明し、幸せとの関係について考えてみたいと思う。

第一章 セレンディピティについて

第一節 セレンディピィティの歴史と実例

セレンディピティの意味が分かったところで、次にいつどこでこの現象が見られこの名前が付けられたのか、歴史について見ていきたい。そもそも、セレンディピィティという言葉は、18世紀イギリスの作家ホーレス・ウォルポールが友人への手紙の中で使用したのが最初で作家ウォルポールはおとぎ話『セレンディップ(セイロン)の三王子』を読みそれから「偶然による大発見をセレンディピィティと呼ぶことにしよう」と手紙で友人に提案する。その手紙を受け取った友人ホーレス・マンがこの造語を口伝えで広めて、セレンディピィティという言葉が使われるようになったという。様々な分野の現象にセレンディピティという言葉が使われ説明されている。歴史上でセレンディピィティの現象を語るエピソードは科学の分野での新発見に関するものが一番多い。ノーベル賞受賞者にもセレンディピティを語る人が多い。一番有名なのがニュートンとりんごのエピソードだ。ノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベル自身がセレンディピィティを語っている。ノーベルは不安定な液体爆弾を安定化させようと苦労を重ねたが、なかなか成功しなかった。ところがある日、ニトログリセリンの保存容器に穴があいて、そこから漏れたニトログリセリンが固まっているのに気づく。容器の周囲にあった珪藻土が安定剤として機能していたのだ。ダイナマイトの製造法へのきっかけとなった瞬間だった。これがまさに、見つけようとしているものとは別の価値あるものを見つける能力、セレンディピティだ。求めていた液体爆弾を安定化させられたのではないが、珪藻土が安定剤として機能するという知恵を手に入れたのだ。また、2002年にノーベル化学賞を受賞した島津製作所の田中耕一さんもセレンディピィティの好例だ。田中はバイオ産業において重要なタンパク質の質量を分析する装置を開発していた。様々な手法を検討したが、どれもうまくいかず、これ以上打つ手はないところまで追い詰められたが、実験を続ける。その途中、「生涯最高の失敗」をしてしまう。1985年2月のある日、本来実験で使用混ぜるはずだったアセトンではなく、間違えてグリセリンを混ぜてしまった。グリセリンはアセトンと違ってネバネバするので、すぐに間違いだとわかったのだが、田中さんは、試料を捨ててしまうのは「もったいない」と、失敗した試料を使って実験を行う。しかも、ただ待っていないで1分でも早く結果がみたかったため、レーザーを連続照射して観察を続けた。「間違える」という偶然を「捨てずに使い」、そして「観察を続ける」ことによって、見事これまでにない現象を世界で初めて観察し、そのことがノーベル賞につながったのである。まさに「想定外」の成果であった。このような科学実験の最中の間違いから生じる成功がセレンディピティと呼ばれることが多い。私もよく使う「ポストイット」が完成した過程にもセレンディピティの力が見られるようだ。スリーエム社が製造するポストイットは失敗で終わった接着剤があると聞いていた研究者がその失敗作に利用価値を見いだし、社内の反対を押し切って独力で製造装置を作り上げた結果の産物である。研究の対象以外に知識も固定観念もない「素人」がゼロから発想する力、素直に行動する力によって出来上がったものだ 。作ろうとしていた接着剤から別の価値を見つけた結果、失敗作が全世界の人が使う物に変わったのだ。日常の些細なことから、歴史に残る大発明までセレンディピティはあちこちに転がっている。ここで分かることは、何かの目的や目標を果たす道中で偶然見つけることが多い。大切なものに気づくかどうかは個人の意識や、感情、環境などあらゆることが影響する、ということだ。

第ニ節 セレンディピティの力を持つひとの特徴

セレンディピティの力を持つひとは、「好奇心を大切にする」、「知らない世界に触れる」、「心を休ませる時間を作る」、「偏見を持たない」、「日常に起こる偶然の一致を意識する」、「常日頃から、自分にとって大切な人・こと・ものを意識する時間をつくる」 、「閃いたら怖がらずに実行する」、「大切な人・こと・ものに執着しない。」などの一定の特徴がある。セレンディピティの能力には重要な2つのキーワードがあることに気づく。それは、偶然の一致と閃きだ。偶然の一致が日常生活においてどれくらい起こるのか「偶然の一致」を探し、書き留めてみたら驚いた。今日たまたま知り合った人と住んでいる所が同じだった。からあげが食べたいな、と思いながら家に帰ったら、夜ご飯がからあげだった。会いたいなと思っていた友達から突然連絡が来た。知り合いの結婚式でなんとなく顔を覚えていた人に偶然次の日に出会った。たまたま行ったイベントで出会ったひとが友達の友達だった。など、どんなことでも。日常に起こる偶然の一致を意識してみると、どんどん偶然の一致が増えていく。閃きとは、自分の潜在意識からのメッセージだと思う。潜在意識とは、日常生活で色々と考えることを「顕在意識」より深い部分、つまり自分では認識しにくい部分の意識である。私は対人関係の中やランニング中に閃きを得ることが多い。その閃きを実行することがセレンディピティの能力になると考えている。その閃きを得たらなにもためらわず実行する。実行すること自体が成功なのだ。 実行する力があるということが、セレンディピティの力を持つひとの特徴の一つでもある。2005年の日経新聞に、脳科学者の茂木健一郎氏がセレンディピティについて次の様なコラムを書いていた。「偶然の出来事自体はコントロールすることはできない。しかし、偶然の出会いを生かすよう心がけることはできる。セレンディピティは鍛えることのできる能力なのである。まずは、行動を起こす事こそが肝心である。待っているだけでは幸運は訪れない。また、注目すべき出来事が起こったとき、それに気付き、受容することが大切である。特定の目的に目を奪われて心の余裕がないとセレンディピティが育まれない。行動し、気づき受容する。まるで素敵な恋人との出会いのようである。」偶然に幸運を発見しようと努力する人は、実はあまりいないのかもしれない。何かに一途にひたすら一途に求めているうちに、どこからか偶然送られてくるプレゼントのような話は昔からよくある。一般的に日常の生活は「頑張る。そして成果が出る」という必然の世界だ。その必然の世界の繰り返しにはまって多くの人が「偶然」の発見や出会いを見過ごしている。セレンディピティをキャッチしやすい状態にするには感性を敏感にすることが大切である。日々の生活の中で、人の目を見て話をしたり、元気よく挨拶したり、素直にありがとうと伝えたりなど、忙しい日常で忘れてしまった「少し心を込める」という、感謝に満ちた行動はセレンディピティの能力を発揮できるきっかけになる。

第三節 どうすればセレンディピティに出会えるのか?

では、どうすればセレンディピティに出会えるのか? 偶然の幸運にどうすれば出会えるのか?偶然の幸運に出会うには、Action(行動)、Awareness(気づき) 、Acceptance(受容)という3つのAを回すことが最も大切だという。そして、楽しいことを感じる時に放出される「ドーパミン」という神経伝達物質が、予期せぬうれしいことがあった時、最も多く放出される。脳には「何かをする→うれしい→ドーパミンが放出される→もっとしたくなる」という性質があることは一般的に知られている。つまり、いつもと違う行動をとって、新しい出会いに気づき、それを受容する。このことは同時に、「セレンディピティは、けっして運命的に向こうからやってくるのではなく、こちらから手を差し伸べて必然的に出会うもの」と言っているようにも解釈できるのではないか。セレンディピティは今こそ、もっとも出会いやすい時代だと思う。移動にかかる費用は年を追う毎に低下し、リアルな世界で新しい世界に触れてセレンディピティの体験を得ることが容易になっている。具体的な例を挙げると、格安航空を使えば東京から沖縄まで片道3000円ほどで行けてしまう。宿だってゲストハウスやユースホステル、カプセルホテルを使えば遠出をして宿泊しても大した出費にはならない。また、インターネットは、偶有性の海そのものだ。たとえバーチャルな世界であれ、そこは偶然の幸運で溢れている。インターネット上での偶然を私は何度も経験した。facebookで友達のページを見ていたとき、丁度前からその友達が歩いてきた。ただの偶然なのは分かっているが、この偶然には何か理由があるのではないかと思い、少し立ち話をすると私が知りたかったけれど誰も知らない凄く重大な情報を教えてくれた。これは、ただの偶然ではないと確信し、セレンディピティの力を実感した瞬間だった。まさに偶然から幸せを摑み取るチカラのことである。見つけようとしているものとは別の価値あるものを見つけた瞬間だった。もちろんリアルな体験が大切だということは間違いないのだが、現代はインターネット上の出会いをリアルな出会いへと結びつけられる。SNSで人とつながったり、ネットでイベントを知って実際に足を運んでみたり、知らない事実を知って何かアクションを起こしてみたり。インターネットから始まるセレンディピティが溢れ返っているように感じる。リアルな世界でもインターネット上の世界でも、かなり低コストで知らない世界に触れて、セレンディピティに出会うことができるのではないだろうか。異文化に興味をもつことはセレンディピティをもたらす上でとても重要な考えだ。ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さんは「たしかにわたしたちは幸運だった。でもあまり幸運だ、幸運だ、とばかり言われると、それはちがうだろう、と言いたくなる。幸運はみんなのところに同じように降り注いでいたではないか、それを捕まえるか捕まえられないかは、ちゃんと準備をしていたかいなかったかの差ではないか、と」この言葉はまさにセレンディピティの特徴を言い当てていると思う。確かに幸運というのは全ての人に同じように降り注いでいる。しかしそれを幸せと感じとれる人が全員ではない。無関係に見えるものの中に、関係性を見いだす。過去の出来事を後悔することなく、その出来事がどう次に繋がるのか考えることなのではないか。

第四節 言葉による認識

実際、「幸せ」という言葉や「セレンディピティ」という言葉を知らなければ無いようなものだ。この言葉の意味を知り、認識する。そして、セレンディピティという言葉を頭の片隅に置くだけで人生の感じ方は変わる。「幸せ」と「セレンディピティ」だけの話ではなくこの世界にあるもの全てがそうだと言える。名前がつけられることによってその存在が認められるものはこの世に溢れている。具体的な例を挙げるとすれば虹が一番分かりやすい。そもそも、虹が七色に見えるのは七色の定義を知り、七色に名前をつけているからである。七色の一色知らない色があれば、虹は六色だと認識するのだ。日本人には、赤、橙、黄色、緑、青、藍色、紫という色の区別により虹を見ている。日本では虹は7色で作られているということが、当たり前になっている。昔、日本では「青・あい・むらさき」は区別して考えられていたようだ。引力を発見したことで有名なアイザック・ニュートンが虹を見つけ出した。そのニュートンが始めに虹色が7色だと言った。ニュートンが20色だといったら、現代もそうなっていたのかもしれない。虹は太陽の大気中の光の屈折から作られている。虹の色は、太陽の光の色を分けて表しているため、赤色から紫色までたくさんの色が作られている。たくさんの色があり、虹色だと思っている7色の中には入っていない黄緑やピンク色も見えるはずだ。虹の色は、3色から数千色まで数えることができる。知っている色の名前を虹にあてはめて言うときっと10色を超えるかもしれない。虹が7色だという考えがない国もあり、イギリスでは虹は6色だと言い、ドイツでは5色だと言われている。しかし日本の虹とは見え方が違うわけではない。どこの国でも虹は同じように見えているはずだ。虹の話を踏まえると、知っているか知らないかの違いが、事実上の存在を決定している場合がある。セレンディピティという言葉も虹の一色みたいなものだと思う。知らないひとは区別できないものだ。虹の色を三色知っている人か、七色知っている人か、どちらが幸せか考えた場合、七色を知っている人と感じるかもしれない。しかし三色知っている人と一万色知っている人を比べたらどうだろうか。どちらが幸せなのだろうか。幸せなのは色を多く知っている人だと言われるかもしれない。しかし三色なら三色なりの楽しみかた、幸せがある。人間でも同じことが言えるのではないか。1000人の友達がいる人と、3人の友達がいる人、どちらが幸せか。確かに1000人の方が幸せそうな感じがする。しかしその1000人と関わるより3人との方が深く関われるはずだ。もちろん1000人全員と深く関われる人もいるだろう。しかし私だったら3人の友人との関わりを選ぶだろうし、虹の色も一万色か三色だったら三色をじっくり味わいたいと思う。要するに、どちらが幸せでどちらが不幸せなのかは個人の価値観幸せの感じ方によって異なる。次の章では、幸運や幸せの基準について考えてみたい。

第二章 幸せについて

第一節 「幸せ」という言葉の意味

この根本的な問いは古くから投げかけられてきた。肯定派は、古くは、古代ギリシャのアリストテレス。アリストテレスは「幸福は誰もが求める最高の目標である」と断言している。近代では、ベンサムが「最大多数の最大幸福」つまり、なるべく多くの幸せが得られるような経済システム・社会システムほど優れている、という。功利主義だ。ベンサムは、幸福とは個人的快楽であり、社会は個人の総和であるから、最大多数の個人がもちうる最大の快楽こそ、社会が目指すべき善であるとする。つまりベンサムの場合、幸福は結果としてめざすべき、という立場だ。一方、幸せは目指すものではないという主張をする人も少なくない。幸せはめざすべきものではなく日常の中にあることを発見するべきものだ、とか、幸せではなく夢や目標を目指すべきで、それが達成されたところにではなく、それを目指しているところに幸せがあるのだ、など。

あるいは、日本語の「し合わせ」は「受動的」にたまたま巡り会ったことを受け入れるような意味なので、こちらの観点から、元来幸せは「能動的」に目指すものではないと考えることもできるだろう。

「幸せ」の意味を辞書でひいてみると、

し‐あわせ 〔‐あはせ〕 【幸せ/仕合(わ)せ/×倖せ】

1 運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。

2 めぐり合わせ。運命。

3 運がよくなること。うまい具合にいくこと。

4 物事のやり方。また事の次第。と、記してある。

「幸福」 の意味は辞書には、

1 心が満ち足りていること。

2 幸せは、幸運、さいわい、また運が向くこと。と、書かれている。

幸せは運からくるもの、自分で発見すべきもの、目指すもの。など様々な考え方があるけれど、私は自分で発見すべきものだと思う。目指そうとして手に入れられるならこの世の全員が幸せになっているだろう。

第ニ節 幸せについての価値基準

「そもそも幸せって何だと思いますか?」この問いは誰にでも身近なテーマだと思う。私にとっての幸せは、仕事や自分の努力の結果成功すること、対人関係が上手くいっていること、環境に恵まれること、金銭的に不自由のないこと、などが思いつく。一番は、死ぬ時に、いい人生だった、と思えることだろうか。幸福というのは多様で、幸せや楽しさなどの中にも様々なカタチがある。一方、不幸についても同じことが言える。悲しみ、苦しみ、怒り、嫉妬、憎しみ、あきらめ、などである。ただ、ひとつ言えるのは幸福と不幸は対照ではない。幸福でないからと言って不幸ではないし、不幸だからといって全く幸福でないとは言えないのだ。幸福の基準の中には、他人より優れている、他人より環境に恵まれている、他人が自分より不幸だ、と考えることによって幸せを感じる人もいるだろう。しかし、人との比較による幸せは長続きしない幸せであることが知られている。人の心は他人との比較で測れるものではないのだ。心理学者マズローが提唱した欲求の五段階説によると、人間は低い欲求がほぼ満たされてはじめて上位の欲求を満たしたいと思うようになる。この欲求は下から、生理的欲求、安全欲求、愛情、所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求だ。

収入が低い時には、住居、食事、身の安全など下位の欲求が満たされることが重要になってくる。ここまで幸せの要因を詳しく理解しても、幸せとは難しいもので、生活的な満足度が高くても幸福でないという人がたくさんいる。簡単に二つに分けるとしたら「地位財」と「非地位財」に分けることが出来る。地位財(お金、物、地位など)は、周囲との比較により満足を得るもの、個人進化・生存競争のために重要なもの。非地位財(健康、自主性、目標達成、周りの環境、自由、愛情など)は他人との相対比較とは関係なく幸せが得られるものや個人の安心・安全な生活のために重要なものだ。地位財は幸福の持続性が低く、 非地位財は幸福の持続性が高いと言う。人との比較による幸せは長続きしないということが証明されている。つまり、健康、自主性、目標達成、周りの環境、自由、愛情という自分自身のことによって感じる幸せは長続きするのだ。

第三節 幸せの要因

幸せはなにと関係するのか、要因はきっとたくさんある。前野隆司は『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門』で次のような要因を挙げている。

これらの項目の中で私自身の幸福に影響する要因は、年齢、性別、健康、結婚、対人関係、社会、親切、性格、気質、目標、教育、学習、成長、感謝、収入、雇用、消費、生活、趣味、安全と、ほぼ全て当てはまる。年齢、性別、宗教はその人がその年齢、性別、宗教などに見合った生活を送れているのかということが大きく影響する。健康は幸福に大きく影響する。幸せな人は健康で長寿だというデータがある。痩せているひとより適度に太っているひとの方が幸せというイメージは多くの人が持っているだろう。確かにぽっちゃりした人は明るく笑顔の人が多いイメージがある。これは後でアランが笑うことと幸せの関係で言っている内容に関わる。幸せの要因のひとつに痩せすぎていないことが入っていてもいいかもしれない。太りすぎ、痩せ過ぎ=不健康にあたるのでこれは、幸せの要因にはあてはまらない。幸せに関して私が気になるのは結婚に関することだ。未婚でも幸せな人はたくさんいるし、逆に結婚していても不幸な人はたくさんいる。離婚して不幸になる人もいれば幸せになる人もいる。それなのになぜ結婚=幸福の図が多くの人の頭に描かれているのか不思議で仕方ない。しかし、もちろん私もそのひとりである。結婚という言葉と幸せという言葉が完全にリンクしてしまっているからだ。言葉のイメージと現実は完全に一致する訳ではない。

私の通っていた小学校でよく教えられていた四つの言葉がある。「健康」「感謝」「親切」「努力」だ。幸福に影響する要因はいくつもあるがこの四つはその中でも特に大切なことだ。「幸福になるためにこの四つを心がけなさい。」と言われたことは一度もないが、幼い心に合い言葉のように刻み付けるのはとても良い教育方針だと今になって感じた。また、祖母が毎日のように言っていた、「人には親切に」という言葉も脳内に刻みこまれている。生きて行く中で大事にしなければいけないことがどんどん増えていき、一番大事にすべきものを見失ってしまうときがある。そんな時に、思い出す脳内に刻みこまれた言葉は、私よりずっとずっと長く生きた人間の幸せになるためのキーワードのように聞こえるものだ。対人関係、社会、親切、などは個人の心がけひとつで良くも悪くもできる。そして相手次第で良くも悪くもなる。 目標、教育、学習、成長、感謝は自分の努力次第だ。収入、雇用、消費、生活、趣味、安全、性格、気質については、外的要因が大きく影響する。この要因から見えることは、幸せになろうと努力をすること、外的な要因から幸せを感じとりやすい状態であることが重要だと言うことだ。上記の一覧表の幾つもの要因の周りに枠を書いて「幸せになろうと努力すること」と書く必要があるのではないかと感じた。

第四節 お金は人を幸せにするのか

次に多くの人が口を揃えて言う「もっとお金があったらなあ。」という問題にフォーカスしてみよう。調査会社カンター・ジャパンが十六歳以上の男女を対象に、財産の所有と幸福感に関し、2012年に21カ国で行った調査によると「もっと多くの財産があれば幸せだと思う」と解答した人を国別に比べると、ロシア70%、中国70%、日本65%、ドイツ37%、フランス35%、イギリス21%、アメリカ16%となっている。

生まれ変わるならまた日本に生まれたいと言う日本人がとても多いのにも関わらず、日本人はいつだって現状不満足だ。どんなに物が豊かになっても人の心は豊かにならないのだろうか。プリストン大学名誉教授でノーベル経済学賞受賞者であるダニエル・カーネマンは「人は所得などの特定の価値を得ることが必ずしも幸福に直結しないにもかかわらず、それらを過大評価してしまう傾向がある」と言っている。「人生に満足していますか?」という長期的な幸福への答えは年収に比例して増えるが、「楽しいですか?」という短期的な幸福についての答えは年収に比例しないという事が分かっている。カーネマンは「感情的幸福」は750万程度までは収入に比例して増えていくのに対し、750万を超えると比例しなくなるという研究結果を残している。確かに、何不自由ない生活を送れて、人より少しお金を持っているという地位を築いたらその先いくら収入があっても幸福以上にはならない。収入が多過ぎると、喜びを感じなくなりつまらなくなってしまうのかもしれない。自分のお財布の中でやりくりしてなんとか買ったものや、ずっと欲しかったものを買うと幸せを感じる。しかし収入が多くて欲しい物はなんでも手に入るようだと、幸せを感じにくくなる。よく考えてみればお金がありすぎると幸せを感じにくくなるのが当然な気がする。よく考えず多くの人は、お金がたくさんあれば幸せになれると思い、高収入を目指したり宝くじに想いを懸けてみたりするのだ。

第三章 幸せとセレンディピティの関係

第一節 幸福判断

幸福の判断はとても難しい。個人的な判断が間違っていることが多々ある。幸福と不幸の判断は対照でないのにもかかわらず、それに気づいていない時、自分の幸せについての判断を誤ってしまう。多くの人は幸せが間接的にやってくると理解していないからではないか。これをすれば幸せになれるという確実なものは何もない。何か、幸せになるための直接のアクションは無くて、すべて間接的だ。一見、幸せとは違う別のアクションをした結果として、偶然手に入れたもののように幸せはやってくる。幸せになるためには、幸せになることを直接目指してはならない。ということだ。難しい。幸福の要因は外的なものや、身体的なもの(健康など)で自分でコントロールできない場合が多い。外的要因は地位財であることが多く、心的要因は非地位財である。その他の要因は、1、自己実現と成長 2、つながりと感謝 3、前向きと楽観 4、独立とマイペースなどが挙げられると前野隆司は言う。1つ目の自己実現と成長とは、自分に向かう幸せだといえる。大きな目標を持っていること、大きな目標と目の前の目標が一致していること、そのために、学習・成長していることが幸せに関わっているという。コンピテンス(自分は有能であると感じること)、社会の要請に応えている、これまでの人生が変化、学習、成長に満ちていた、今の自分は本当になりたかった自分である、と思うことができる状態を言う。2つ目の、つながりと感謝は他人に向かう幸せだといえる。人の喜ぶ顔が見たい、自分を大切に思ってくれる人たちがいる、人生において感謝することがたくさんある、日々の生活において、他者に感謝し、手助けしたいと思っていることが挙げられる。3つ目の前向きと楽観とは、楽観性、気持ちの切り替え、積極的な他者関係、自分は人生で多くのことを達成してきたという自己受容などを指す。4つ目の独立とマイペースとは、社会的比較志向のなさ、自分になにができて何ができないかは外部の制約のせいではないという思考、自己概念の明確傾向、最大効果の追求などが挙げられる。このような心的特性をふまえると「自己実現と成長」を目指すとき、「あいつより出世する」という考えかたが間違っている。自己実現は他人との比較ではなく自分自身との戦いであるべきだ。他人との戦いから得た幸せは長続きしない幸せだ。これらの要因を踏まえると、自分らしく、人の目を気にせず自分のペースで幸せに向かうことが重要だと分かる。

第ニ節 個人の幸せの目的地

セレンディピティの力はだれもが持っているわけではないかもしれない。しかし幸せについては誰もが隣り合わせで誰もが目指しているものである。「幸せとは?」と考えたとき、その答えの出し方を見つけた。私の答えは、「あなたにとって幸せってなんですか?」と聞かれたときに「今です。」と答えられることだ。死ぬ直前、最後に何を思い、何と言って死にたいかと聞かれたら、「生まれ変わってもまたこの人生が良い。」と言えることだと思う。この二つを合わせると、現在の幸せの基準と、目標とする幸せが明確になる。「自分が死ぬときにどう思っていたいか。なんと言って死にたいか。」という問いの答えが、その人個人の幸せの最終地点である。

幸せについて私の身近な人に「あなたにとって幸せとは?」と聞くと、「お金がたくさんあること、大切なひとと過ごす時間、健康、おいしいものを食べること」など現在の行動としての幸せを考えるひとが多い。しかし、「自分が死ぬときにどう思っていたいか。なんと言って死にたいか。」と聞くと、「ごめんね。ではなく、ありがとう。と言って死にたい」、「親にありがとう。と言って死にたい」、「全部知れたなあ。と言って死にたい」、「家族に自分の死から未来を見て欲しい。と言って死にたい」、「今まで生きてきて良かった。と言って死にたい」など、こう言って死を迎えることができたら幸せな人生だったといえる。私は、「私の人生、生き切ったなあ。」と思えればいいな。と思う。このように、個人の幸せの目的地はそれぞれで、幸せの基準が全く違う。

第三節 ライフスタイルという目標設定

アドラーは、人生や世界、性格についての意味を「ライフスタイル」と呼んでいたようだ。スタイルとは姿勢という意味より生き方という意味に近い。人生は目標に向けての動きであり、目標を追求していくものである。この目標は人それぞれで個々の人生を貫く、この人生目標に向けての特有の運動法則がある。すべての人は対人関係の中に生きていて、うまくいく経験、うまくいかない経験を重ねていく。経験を通じて、問題解決のパターンを身につけていくのだ。そもそもライフスタイルとは、自分と世界の現状と理想についつの信念体系という定義もある。ライフスタイルは目標に向けての一貫し動きであるから、それを部分に分けることは本来できない。しかし、ライフスタイルを構成を三つに分けて考えることが可能だ。一つ目は、自己の現状、私は誰かということについてもっている信念を意味する「自己概念」二つ目は、世界の現状、世界は私に何を要求しているかという「世界像」三つ目は、この世界で居場所を得るために私はどうあるべきかという「自己理想」だ。自己概念は自分がどんなふうであるかの信念なので他の人が必ず納得できるわけではない。世界像は自分のまわりの世界はどんなふうであるかの信念で、自分のまわりが安全と感じる人もいれば、危険だと感じる人もいる。自己理想は、自分がどうあるべきかということだ。自己理想にはさまざまなものがあり、こうあるべきだ。という目標を設定し追求することを指す。この信念がどのようなものかによって生き方そのものが変わってくる。この意味づけによって人生が複雑になる場合もある。アドラーの晩年の秘書のエヴリン・フェルドマンが著書『As We Remember Him』で「アドラーの本を最初から最後まで三回ほど読んだ。火曜日に朝私は椅子から立ち上がった。世界は違っていた。アドラーは私に教えてくれたのである。世界は信じがたいほどシンプルだ」と記している。 人生が複雑なのではなく、私が人生を複雑にしているのだ。これに気づく事ができれば一気に人生、まわりの世界がシンプルになる。セレンディピティの力が強くなるだろう。

第四節 アランの幸福論

アランは、「幸福をどこかに探しにいっても、そんなものは見つからない。なぜなら、幸福は自分で作るものだから」と言っている。この言葉に私は強く共感する。幸福論は、自分の意思の力で幸福を作らないかぎり、幸福にはなれない。という考えがもとになっているのだ。他人の幸せ羨む人、幸せになりたいと嘆く人は、すでに手にしている小さな幸せを見落としがちだという考え方だ。人は幸せを探し始めると、幸せを見つけられない運命に陥る。幸せというのは理屈で定めることも、こんなものだろうと予想することもできないのである。つまり今この瞬間に手にしていなければ駄目なのだ。未来の中に幸せがあると思えるのは、今すでに幸せを手にしていることを意味する。希望は幸せの中から生まれるのだ。「明日が楽しみである時はすでに今が幸せだということ」だ。これが分かれば、自分が今何故幸せではないのか簡単に理解できる。小さな幸せに気づき大きな幸せを作り出すためには、鉄則がいくつかある。一つ目は、どうしようもなく不安なとき(幸せではないと感じるとき)はとりとめのない考えをやめて体を動かす。ということだ。ずっと幸せを感じ続ける事が出来る人間など存在しないだろう。アランは幸福論の中でネガティブな考えを「情念」と記している。情念から解放されるには「考え方」ではなく、「行動」が大事だということだ。アランの幸福論を読む前、私は、ネガティブに考えたり、どうしようもなく不安な事があった時は、解決するまで掘り下げて考えていた。その結果として不安が大きくなることがよくあった。人は自分が望む通りに考えることはできない。しかし筋肉も含め体がその動きになじんでいれば、望むように行動することはできるのだ。不安な時に、理屈を考え始めては自分が辛くなるだけである。それよりも簡単な運動でもしてみればその効果はすぐに分かる。二つ目に、出来る時に人を喜ばせること。うそをついたり、卑しいお世辞を言ったりするのではなく、ただ出来る時に喜ばせるということだ。難しいように感じるが、これは誰でもほとんど常にできることなのである。他人を少し幸せな気持ちにすることが出来たときは、必ず自分も幸せな気持ちになる。三つ目に大切なのは、笑うことだ。アランは幸福論の中で、「幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せになれるのだ。」と言っている。幸せな人を想像すると、笑顔の人が浮かぶだろう。しかし、幸せな人が笑顔なのではなく、笑顔は幸せを呼ぶのだ。四つ目に大切なのは、幸せには形がないと、気づくことだ。目標としているもの(こと)が、どんなに素晴らしいものだろと想像し、探し回っている時の方が、実際に手に入れた時よりも幸せなことはよくあることだ。実物が手に入ると全て終わったのだと思い、探すことを辞めてしまうからだ。行動をしないことが、幸せから一番遠いことなのだ。だから、まず行動を起こしそれから振り返っていけばいいのである。行動する前からあれこれ考えずまずはやってみること、その中で幸せに気づくことだ。これから起きる大変さや人間の弱さを想像し出したら、何もできない。戦う前から負けているのだ。五つ目に、幸せになることを求め真剣に行動することが必要である。幸せが自然に入ってくるものだと思い込み、扉を開けて傍観しているだけならば、入ってくるのは悲しみである。単なる不機嫌も、そのままにしておけば悲しみや苛立ちになる。これが悲観主義の根幹だ。退屈そう待っているだけで手に入る幸せなんてないだろう。六つ目に、信念というものが大きな意味を持つ人間世界にあっては、自分の信念をしっかり認識しなければならない。努力は人を裏切らないとか、信じるものは救われるとか、そういった類の言葉に近いが、これは事実なのだ。強く信じて行動すればいつか夢は現実になる。多くの人は目の前の現実だけを見て、努力したのに駄目だった。夢が叶わなかったと嘆くが、長期的に見ても本当に駄目だったのかとよく聞きたくなる。目の前の出来事で挫折したことが何年後かの自分を左右する出来事になってはいないのか。むしろ、目の前の挫折があったから今があると言えるように努力ができるではないか。マインドサイクルを変えるだけだ。自分で倒れそうだと思えば倒れてしまうし、何もできないと思えば何もできない。望んでも裏切られると思えば裏切られるのである。不幸になるのは簡単なことで、難しいのは幸福になることだ。行動を起こさないといけない。七つ目に、自分の不幸を他人に一切話さないということだ。現在の不幸も過去の不幸もどちらもである。愚痴は他人を悲しませる。そういった話を好むように見える人であっても、やがて嫌な気分になるのだ。悲しみは毒のようなものだ。毒を好むことができても、毒で気分が良くなることはないのである。幸せになるためには自分の不幸話や愚痴をこぼさないこと。心がけるだけで変われるのだ。

終章

まず第一章で、セレンディピティとは、見つけようとしているものとは別の価値あるものを見つける能力のことだと説明し、言葉の起源がおとぎ話から来ていることや、ノーベル賞などの歴史的大発見はこの力が働いている場合が多いことを証明した。すでに証明されている大発明以外に日常的にセレンディピティに出会う方法もある。偶然の幸運に出会うには「行動、気づき、受容」が大切なキーワードになっている。「セレンディピティは、けっして運命的に向こうからやってくるのではなく、こちらから手を差し伸べて必然的に出会うもの」だということだ。毎日同じことを繰り返すだけでは、なかなかセレンディピティの力を発揮することは出来ないだろう。いつもと違う場所や人、「もの」や「こと」、との出会いからセレンディピティが生まれる。変わることを恐れたり、安心できる場所に留まっていてはいけない。「好奇心を大切にする」、「知らない世界に触れる」、「心を休ませる時間を作る」、「偏見を持たない」、「日常に起こる偶然の一致を意識する」、「常日頃から、自分にとって大切な人・こと・ものを意識する時間をつくる」、 「閃いたら怖がらずに実行する」、「大切な人・こと・ものに執着しない。」そして「偶然の一致を意識すること」が鍵となる。インターネットの普及により人と人は繋がりやすくなった。繋がりやきかっけが増えることで偶然が重なりやすくなり、セレンディピティにもっとも出会いやすい時代になったのだ。実際に行動する前に準備をしたり調べたり出来るようになったことが、私たちの行動のハードルを下げているように感じる。とは言え、偶然の出来事はコントロールできない。偶然の出会いを生かすように、そして見過ごさないように心がける必要がある。「幸せ」という言葉や「セレンディピティ」という言葉を知らなければ無いようなもので、この世界の全てのものが、名前を持つことで認識されている。虹が七色に見えるということは七色の名前を知り、認識しているからである。名前や言葉をつけてそれを知ることで認識することができる。「幸せ」という言葉も同じで、意味を理解し認識することで初めて、幸せだと感じる。知る事で変わると言ってもあまりに多くを知り過ぎるのも逆効果な場合もある。虹の色の名前を三色しか知らない人と一万色知っている人では一方はこれしか知らないと思う場合もあり、もう一方では多すぎて煩わしい。と思う場合もある。これは人の感じ方の違いだ。幸せだという感じ方も誰一人同じ人はいないのだ。

第二章では、幸福は誰もが求める最高の目標である。という前提のもと幸せの辞書的な意味について言及した。 運がよいこと。めぐり合わせ。運がよくなること。という意味の「幸せ」心が満ち足りていること、幸運。という「幸福」などの意味がある。「し合わせ」という語源からたまたま巡り会ったと言う意味で「受動的」な意味を表している。幸せは運からくるもの、自分で発見すべきもの、目指すもの。など様々な考え方があるけれど、 自分で手に入れるもの。「能動的」なものだと思う。年齢、性別、健康、宗教、結婚、対人関係、社会、親切、性格、気質、目標、教育、学習、成長、感謝、収入、雇用、消費、生活、趣味、政治、安全が幸福に影響する要因だと言われている。健康は幸せ、不健康は不幸というのは正しい。しかし、結婚は幸せ、結婚しないことは不幸というのは正しいとは言えない。結婚していても不幸な人もいるし、結婚していなくても幸せな人、離婚をして幸せな人も世の中には居るのではないだろうか。幸せのイメージは万人に当てはまるわけではないのだ。様々な要因を踏まえて分かったのは、幸せになろうと努力をすることの重要性だ。収入が多ければ幸せか。という問題では日本人はいつだって現状不満足だという事が分かった。そして、人生満足度は収入に比例して増加するが、「今楽しいですか?」という問題には、収入はそれほど影響しないということが分かった。人間は、生理的欲求、安全欲求、愛情、所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求という順番で満たそうとする。生活的な満足度が高くても幸福でない人が居る理由を「地位財」と「非地位財」という言葉を使い、人との比較による幸せは長続きしないということを説明した。つまり、お金や仕事などの地位財は幸福の持続性が低く、健康、自主性、目標達成、周りの環境、自由、愛情という自分自身のことによって感じる幸せは長続きするのだ。

第三章では、幸せが間接的にやってくることを理解していないために幸福判断を間違えることがあり、幸せになるためには、幸せになることを直接目指してはならない。と説明した。幸福の要因は外的なものや、身体的なもの(健康など)で自分でコントロールできない場合が多い。外的要因は地位財であることが多く、心的要因は非地位財である。また、自分のペースで幸せに向かう方法として、自己実現と成長、つながりと感謝、前向きと楽観、独立とマイペースという要因に分類考えることもできると説明した。セレンディピティの力に親近感が湧く人は少ない。しかし「幸せ」は誰もが身近に感じる言葉だろう。「あなたにとって幸せってなんですか?」という質問を私の周りの人に聞いて回った。答えが同じ人は一人も居なかった。幸せの基準も今まで生きて来た環境も違うから当然だが、答えを聞くと毎回驚いた。「幸せってなんですか?」「死ぬ時に何を思って死にたいですか?」この質問はその人の価値観、幸せの尺度を知る事が出来る質問だと思った。

この問題を突破すると、「今」という言葉が「幸せ」と切り離せないものだと分かる。「今」「生きること」の中で目標を追求したり、対人関係を築いたり、性格や人生を作り上げることを、ライフスタイルと呼び、ライフスタイルには自己概念、世界像、自己理想の3つがあると考える。そしてこの3つが人生を複雑にするが、立ち返ると人生を複雑にしているのはいつも自分自身で、まわりの世界はいつだってシンプルなのだ。アランの幸福論は、自分の意思の力で幸福を作らないかぎり、幸福にはなれない。という考えがもとになっている。多くの人は、すでに手にしている小さな幸せを見落としがちだ。人は幸せを探し始めると、幸せを見つけられない運命に陥る。未来の中に幸せがあるときは、今幸せだということなのだ。小さな幸せに気づき大きな幸せを作り出すためには鉄則がある。それは、情念を追い出したい時は体を動かすこと、出来るだけ人を喜ばせること、よく笑うこと、幸せというモノを直接求めないこと、幸せを真剣に求めること、自分の信念をしっかり認識すること、そして今この時をなによりも大事にすることだ。

様々な事を踏まえ、私が幸せとセレンディピティの関係について導き出した結論は、ただ生きるのではなく、「善く生きる」こと。明日を今日の延長にしてただ生を先に伸ばしてはいけない。明日のことを思わず、今日の1日を満ち足りたものにする必要がある。今日の1日1日を大切に、一瞬一瞬を大切にできれば、見逃してしまいそうなくらい小さな偶然の出会いにも気づくことができる。「偶然」に出会う確率には個人差はそれほどないはずだ。「今」を大事に一瞬一瞬をしっかり生きていると、偶然起こった出来事に敏感になり、それを幸運だと感じたり幸せだと感じる事が多くなる。その偶然を掛け合わせて幸せという言葉で説明不可能になった出来事をセレンディピティと呼んでいるのではないか。つまりセレンディピティとは、幸せの感じ方から生まれた言葉なのだ。幸せの中の一つと考えていいかもしれない。

「生きていて、よかった」そう思える瞬間においては、過去も未来も存在しない。その瞬間、「善く生きる」ことができているのである。「善く生きること」それが生きている人の最大の幸福なのだ。(20982字)

参考文献

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