前腕に触れると涙がはじまる

妹はまだ嬰児のうちに先天性の病のためにこの世を去った。私はもうすぐ10歳になるところで、妹の病室には15歳以上の人しか入れなかったので、妹に初めて直に触れたのは彼女が息を引き取ってからだった。それまでは見舞いに行っても、ガラスケースのある部屋のガラス窓越しにしか妹を見ることはできなかった。そんな距離感だったので、妹の身体が近くにあり触れることを許されても、抱く勇気はなかった。額を撫で、まるまるとした腕を撫でた。その肌の質感は触れたことのないなめらかさで、日光も埃も汗も一切に晒されたことがなく、傷つき強くなる必要もなく、へっちゃらでそこにある感じがした。こんなにはかなげなのに。

赤ちゃんが弱い存在であることは自明だが、それだけでなくこの身体はこれから葬いにふされてしまう。私は、なんとしてもこの触感を自分に残しておかなくてはと思った。それは、はかないだけではなく、きょうだいである彼女と私のほぼ唯一の接触になるかもしれないのだから。

触感を記憶するのは難しい。その頃の私は、子ども特有の記憶力の良さがどんどん失われていくように感じていた。記憶力とそれを俯瞰する性質があったのだと思う。触感を記憶するために、何かに例えなければならないと直感的に思った。白玉だんごでもない、耳たぶでもない。自分の身体に例えの基準を置くのは、自分の身体と感覚がある限り有効なのではないかと思った。ふと目についた前腕の内側は、白くて毛穴も血管も見えず、妹の肌に触感がかなり近いように感じた。比べてみると全然違うが、その違いを想起させることが重要だと考えた。私は自分の前腕の内側に妹の記憶を込めることにした。涙を浮かべて彼女を抱いている親に、もう大丈夫だから行くねと告げた。

それから20年以上経った。私の前腕の内側は相変わらず白いが、肉のハリは落ちてたるたるしている。妹が生きていたら20余年でくぐり抜けたであろう、数々の選択肢と彼女の人生を思う。私が過ごしてきた数々の選択肢と、あり得た別の自分のことも少し思いやる。想像の中では、妹の身体がこの世にあった時の感触も、彼女や私の送ったかもしれない人生も、手に取るように感じることができる。そのことが、私が妹を喪った悲しみをずっと癒してきたと考えている。