01

風が吹いた。
春先のまだひんやりとした風は、目の前の住宅街を抜け、日露戦争忠魂碑が建つ塚で渦を巻き、そして田んぼへと抜けていった。
その走り抜ける風の軌跡を描くようにして、はやくも散り始めた桜が舞う。
弥生の月もまだ始まったばかり。
ボクは目の前の塚の上にある二日市軍人墓地を見上げた。
ジーンズの後ろポケットからスマホを取り出し、イングレス・スキャナーを起動する。
ADA — イングレスにおける重要な役割を果たす人工知能らしい — の凛々しくも女性らしい声がイヤホンから流れる。
Downloading latest Intel package. Welcome back.
青と緑に彩られた地球がクローズアップされる。
it’s benn 23 hours since your last login, i was getting worrying about you.
以前のログインから23時間も過ぎていたらしい。
それを彼女の声で気付かされる。
イングレス・スキャナーの中でクローズアップされた地球は、次第に日本に迫り、九州に迫り、そして福岡へ。
今、ボクが立っている筑紫野市の地図がスマホのスキャナー上に再現される。
ワイヤーフレームのような素っ気ない、黒と白と青と緑に染められた地図。
目の前のポータル、二日市軍人墓地が緑に染まっていることを確認し、ボクは塔原公園と小高い丘のような形になっている塚の間にある階段に足をかけた。

イングレス。米国Googleの社内スタートアップから始まったナイアンテック・ラボが開発した位置情報現実拡張ゲーム。
このゲームは青と緑の陣営に分かれ、ポータルと呼ばれる歴史的、文化的、あるいはランドマークといった拠点を奪い合い、さらにはポータル同士を繋いで三角形を作り、囲った中に内包されるMU(マインドユニット)というポイントをカウントして争われる陣取り合戦だ。と、言われている。
そして、このイングレスはただの陣取り合戦だけにとどまらず、背景に設定されているバックストーリーや謎解きなど様々な楽しみ方が用意されている。
そんなゲームをやるために、ボクは朝も早くから外に出てこんな場所、二日市軍人墓地ポータルまでやってきたわけだ。

塔原公園を過ぎ、塚のてっぺんへと至る坂道を歩いて行く。
この二日市軍人墓地という場所はとても奇妙な場所だ。
周囲には住宅街と田畑しかない。坂もなく、山を削ったような跡もない。
西側に数十メートル行ったあたりから急勾配の坂が始まるものの、この周囲は真っ平らな土地が広がっている。
その真っ平らな土地の中に、唐突に生えているような塚。その塚の上に二日市軍人墓地がある。
正確には、塚の上に建っているのは日露戦争忠魂碑であって、この塚全体が墓地なのかもしれない。
その証拠に、今、ボクが登っているこの小径の裏に回れば、朽ち果てた墓石がごろごろと転がっている。
時刻はおおよそ午前8時半。薄雲がかかった太陽はまだ東の空にあり、逆光がボクの目を眩ませていた。