『聖剣伝説2』コンポーザー インタビュー

Ongaku
19 min readDec 12, 2015

2007-01-22

スタイルのある特有なメロディーと抽象的で激動性のあるコードを組み合わせ、菊田裕樹氏の音楽は光と闇の究極性を巧みに表現する。スクウェアでの最後のサウンドトラック「双界儀」は、ライブの楽器音と独特の合成音を使った彼にとって一番特徴的で革新的な作品である。

翻訳:山本貴洋

菊田裕樹 の作詞作曲家になる夢はもとをたどると、十歳の時に出会ったエマーソン、レイク・アンド・パルマーに代表するプログレッシブロックグループにあたる。他の次元では、彼のアーティストとしての発展先は多様性に富んでいたであろう。関西大学を宗教学、哲学そして文化人類学で卒業後、自己発明を象徴とした仮名を使い、漫画家としてキャリアを進めていった。そして、彼の作曲の面が独学にかかわらず一番名が通っていた。

1991年、未知のビデオゲーム業界へ安定した仕事を求め、オーディションリールを片手に、スクウェアの作曲家、植松伸夫と伊藤賢治のもとへインタビューへ行き仕事を得る。(そのオーディションリールは今、「Lost Files」の名で一般発売されている。)

27歳で「ロマンシン・サガ」の効果音をデザインし、その後まもなく彼にとって初めてのスクウェア RPG、「聖剣伝説2」、「聖剣伝説3」のサウンドトラックを見事に仕上げる。

スタイルのある特有なメロディーと抽象的で激動性のあるコードを組み合わせ、菊田氏の音楽は光と闇の究極性を巧みに表現する。スクウェアでの最後のサウンドトラック「双界儀」は、ライブの楽器音と独特の合成音を使った彼にとって一番特徴的で革新的な作品である。しかし、菊田氏の貢献にもかかわらず「双界儀」のゲーム自体はがっかりする結果に終わり、彼はクリエイティブな自由を求めスクウェアをあとにした。

本日、我々はこのアーティスト、菊田裕樹に、過去の未発表曲と新曲をひとつのコンセプトでまとめ上げた音楽プロジェクト、「Lost Files」について話を伺おうと思う。

菊田さん、今日は英語圏のファンの皆様とお話する機会を与えてもらい、本当にありがとうございます。菊田さんは今のゲームソフト業界で、一番多様な科目を学んできた経歴をもつ作曲家とも言えるのですが、大学での宗教学と文化人類学がどのように菊田さんの創造過程に影響を与えていると思いますか?

菊田裕樹氏: 僕の乏しい経歴はさておき、幸せなことに、大学において良い先生に出会い、生涯の目標として研究する価値のある多くのテーマを教えてもらいました。具体的には、グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson)の「精神と自然」(Mind and Nature)という本が、僕の思索的活動の出発点となったのです。ベイトソンという人は、人類学、社会学、言語学、精神病理学など、多岐にわたる分野で大きな研究成果を残した人で、高名なジョン・C・リリー(John Cunningham Lilly)と共にイルカのコミュニケーション研究なども行っています。そして、まさにこのコミュニケーションという、人間の原初的行動への興味や探究心が、僕が創作を行う上でのもっとも大きなモチベーションとなっているのです。コミュニケーションとはなにか、それは、他者と自分との間の差異を確認し、距離を測り、そこから自分という存在の枠組みを形作っていく作業に他なりません。コミュニケーション無くして自己は無く、コミュニケーション無くして世界も無いのです。自己と他者、引いては世界を結びつけるための方法にはいろいろありますが、音楽はその最も効果的なもののひとつです。たとえばひとつの音楽的フレーズによって、聴く人の心の中に、ある種の世界を生み出させることが可能だというと、傲慢に聞こえるかもしれませんが、実際にそれは可能なのです。情緒的なものであれ、より具体的な連想を伴うものであれ、いずれにしろ、匂いが記憶と直結するように、音は感情やイメージと直結しています。そこで、如何に注意深くそのイメージと音を結びつけ、夾雑物の無い形で作品として定着させるかに腐心し、そのためのテクニックを洗練させることが、在野の宗教学研究家としての僕の課題と言えるでしょう。

子供のころからすでに創造的であったんだろうという印象が得られるのですが、青年期に芸術的またはクリエイティブな発見をした思い出はあるでしょうか?

確かに僕は小さい頃から、感受性の強い子供でしたが、残念ながらあまり創作的とは言えませんでした。亡父は陶芸の研究家として世に知られた人でしたから、僕を陶芸作家にしたかったようですが、小学生時代の自分には、土や炎と格闘することにも、興味が湧きませんでした。しかし、そのころから頻繁に美術館や寺院に連れて行かれたこともあり、洗練された美術品を目にする機会も多く、そういった経験が、後の創作活動の基盤となっているのかも知れません。僕にとって、はっきり自分の精神に影響を与えたクリエイティブな要素と記憶しているのは、1970年に大阪で開催された万国博覧会EXPO70です。僕は当時8歳。あたかも未来というものを具現化したかのような斬新な建築物を前に、子供ながらに感じた胸の高鳴りを、今でもはっきり覚えています。青年期においては、ちょうどやってきた漫画やアニメーションの流行とぶつかり、その精神性や表現に大きく影響を受け、大学のサークルで、アマチュアアニメーションを制作し、SF大会などのコンベンションで上映していたのも、良い思い出です。卒業後、僕はコミックの世界に足を踏み入れ、数年を漫画家として過ごすことになりますが、その話はまた別の機会に。

過去に外国へ旅した時の経験について話してもらえますか?また、今の若者にとって、自国から離れてみる経験を持つことは必要だと思いますか?

仕事で中国やイギリスに行ったのを除けば、あまり海外に詳しいほうとも思えないのですが、南太平洋のフィジー共和国へは、縁あって5回ほど旅行しています。聖剣伝説2の仕事が終わったあたりでしょうか、世の中にマナ島という場所があるのを聞き、行ってみたくなったのです。きっかけは実に単純でしたが、そこはとても素晴らしい場所でした。今では残念ながらマナ島にも飛行場が出来てしまい、セスナでの行き来になってしまいましたが、当時は船で。水平線のかなたから近づいてくる島影に、胸をときめかせたものでした。またその海の綺麗なこと。水中に広がる珊瑚礁も、信じられないほどの見事さで、自然が美しくて感動するというのはこういうことだったのかと、驚きました。後に、フィジーの中でも外れの方にあるガメアという離島に足を運びましたが、そこはまたさらに美しい自然の宝庫で、フィジー本島の空港から国内線で2時間、そこから車で1時間、そこからさらに船で30分と、さんざん揺られて着いた場所は、まさに楽園という言葉が相応しい、珊瑚礁に囲まれた孤島でした。別段なにをするわけでもなく、昼は海に潜り飯を食い文庫本を読み、夜は降るような星空を眺めて眠る、シンプルな毎日でしたが、そこで過ごした時間は、何にも代えがたい豊かなものでした。日本という国も、もちろん四季折々の色があり、素敵ですが、そこに座っていたのでは、想像も付かないような世界が地球上にあるというのは紛れも無い事実で、そういうものにまったく触れないとしたたら、実に寂しい人生ではないかと僕は思います。

「Lost Files」のいくつかの作品は William GibsonやRay Bradbury、そして Philip K. Dickのサイエンス・フィクション小説の題名から来ているようですが、彼らのストーリーになにか特別な意味をお持ちなのでしょうか?

僕にとって最初のSFは小学生の頃、図書館で読んだヒューゴー・ガーンズバック(Hugo Gernsback)の「ラルフ124C41+」(Ralph 124C41+)という本です。最も好きなSF作家は、A・E・ヴァン・ヴォクト(Alfred Elton van Vogt)。映画エイリアンの原作ともなった小説「宇宙船ビーグル号の冒険」(The Voyage of the Space Beagle)には、大きく影響を受けています。それからずいぶんたくさんSF小説を読みましたが、フィリップ・K・ディック(Philip K. Dick)やオーソン・スコット・カード(Orson Scott Card)の作品の持つ深い精神性は、いまも僕の心を捉えて離しません。特に「エンダーのゲーム」(Ender’s Game)は思い入れの深い小説なのですが、近く実写映画化されると聞き、とても心配しています。蛇足ですが、日本には「ノーライフキング」(No life king)という、エンダーのように子供とビデオゲームをテーマにした素晴らしいSF小説があり、残念ながら英訳されていないのですが、いつか広く世界で読まれることを期待しています。ちなみに僕が自分で作った会社の名前はノーストリリア(NORSTRILIA)といいますが、これは、人類補完機構シリーズで有名なコードウェイナー・スミス(Cordwainer Smith)の小説「ノーストリリア」からもらっています。

いままでどんなことから影響をもらってきて、どんなことに刺激されてきたのでしょうか?また、アーティストとして企業の環境で働くにあたり、困難をかんじられた時がありましたか?

影響を受けたことを列挙していくと、長大な自分史になってしまうので、ちょっと無理だとは思いますが、敢えて言うならば、出会ってきた人たちからの影響が最も大きいでしょうか。良いにせよ悪いにせよ、最も大きく人の心を動かすのは人だと思います。

アーティストの作るものはアートであり、根本的に商業活動や企業とは相容れないものであると思います。特に、日本という国においては、アーティストやアートの価値が認められていないので、純粋にアートを目指したいのであれば、環境としては劣悪です。僕は、ビデオゲームやアニメーションのBGMを作曲するとき、自分をアーティストだとは考えていません。僕が目指すのは、如何にユーザに素敵なサービスを提供するかであり、客を楽しませることこそが、最も大きな目的であると考えています。もしも企業に雇われながら、自分がアーティストであることを意識するなら、そういったサービスの目的を果たした上で、さらにアーティスティックな実験やチャレンジを試みることが、正しい方法であると思います。僕がそういったチャレンジに成功しているかどうかは、皆さんが良く承知しているはずです。

「クーデルカ」の作成にあたり、株式会社サクノスを設立され、そして、「 Lost Files」の発表にあたり、Norstriliaを通じ独自で出版にあたった。独自にものごとをやり通す時の長所と短所は何でしょうか?

いわゆる官僚国家である日本の社会においては、独立精神というものは往々にして嫌われます。みんなで失敗を庇いあって、責任の所在を不明確にするやりかたが、伝統的だからです。しかし、それでは向上や発展といった、前向きな展開は望めません。失敗した時の風当たりは強いですが、そのリスクを覚悟して独自にものごとをやり通すからこそ、本当の意味での人間的成長があるのだと思います。また、創作活動に当たっては、他人をあてにせず、細部にいたるまで自分で責任を持って突き詰めることが大事ですから、そういう意味でも周囲に流されず独自にものごとを進めるのは、良い姿勢だと思います。

「聖剣伝説3」は日本国外で発売されなかったのですが、菊田さんの音楽に強く魅了されている国外のファンもいまだに増え続けています。「聖剣伝説」の音楽は長期RPG ファンにとても愛されています。「聖剣伝説2」と「聖剣伝説3」のサウンドトラックに関して、菊田さんが一番気に入っていることは何でしょうか?

呆れるほど時間をかけた、ということでしょうね。とにかく、手間暇かけて、納得がいくまで修正に修正を重ねて、細部にまでこだわった。当然のことですが、僕は作曲だけでなく、音色の選定からサンプリング、曲データの作成と詳細なエディット、エフェクトの設計、最終的なデータのまとめまで。プログラマー頼みの部分を除き、ほとんどすべての作業を自分の手で行っています。2年近い製作期間のあいだ、ほぼ24時間会社に居ましたから、途中まで曲を作ってしばらく素材のまま放置しておき、気が付いた部分は直し、またタイミングをみて続きを作る、というような、実に贅沢な時間の使い方が出来たことが、「聖剣伝説2」「聖剣伝説3」の音楽のクオリティーに直結しているんだと思います。細かい部分で言えば、同じ音色を2つ同時に鳴らして、ほんの少しだけ音程や位相をずらして立体感を出したり、片方だけビブラートをかけたり、思いつく限りの小技を試しています。楽器ごとの定位や、動かし方も、何度も何度も試行錯誤した上で決定しているという感じで、ちょっと考えられないくらい余裕のある作り方をしているので、長い間聞き続けてもらえるだけの作品に仕上がっているのではないでしょうか。

思わず息をのんでしまいそうな「双界儀」の音楽。それは豊かな光と闇の交差が巧みに表現されている。この難しいプロジェクトをやる際のポジティブな面はどんなことだったのでしょうか?

まずはアレンジのほとんどの部分を、生演奏で仕上げるのが大前提だったということかな。十分に制作費を用意してもらったので、いろいろなスタジオを予約し、ミュージシャンを揃え、普段は打ち込みによって表現している僕の音楽を、演奏家の感性で捉えたらどうなるかという実験性を主眼にすることが出来ました。しかし、残念なことに、僕の作曲理論は、一般的な常識から大きく外れているため、スタジオミュージシャンに理解されず、間違った演奏をされてしまうことが多く、録音に際して不快なトラブルを生む場合があるのです。双界儀を製作中の録音スタジオでも、そういう場面は何度もありました。たとえば、譜面にコードが書いていないと、不満を言うミュージシャンは多いのですが、僕が好んで構成する和音は通常のコードで表記すると極めて煩雑になりますし、基音を曖昧にしたり、複数の楽器にコードを分散した場合には、正確に表記することが不可能になるので、コードとして理解できるかどうかに関わらず、こちらが音符で指示した通り弾いてもらわないと困るのですが、そういったことを嫌がるミュージシャンとはどうしても喧嘩になってしまいます。幸い、実力のあるミュージシャンの方々は、人格も温和で理解力の高い方ばかりだったので、無事に録音を終えることが出来ましたが、スタジオワークが終了するまで、ずいぶん胃の痛い思いをしたのも事実です。

これは余談ですが、FIRE WIREでベースを弾いていただいた青木智仁(Tomohito Aoki)氏のエピソード。二日酔いでふらふらの状態でスタジオに現れた青木さんは、僕らの心配をよそにぼんやりした様子でセッティングを待って居たのですが、いざFIRE WIREのベース譜を一目見るなり、椅子に座り込み、アシスタントを呼びつけて買ってこさせたミネラルウォーターを一気に何本も何本も飲み干し、真剣な表情でベースを構えたと思うや、気合もろとも見事にあの難しいフレーズを弾ききったのでした。本物のミュージシャンとは凄いものだと実感した瞬間です。惜しくも青木さんは去年亡くなられましたが、その魂はいまもあの曲の中に生きています。

菊田さんは「クーデルカ」の作曲・企画・総合演出そして総監督をつとめていらっしゃいました。そのようにたくさんの責任を負うことにあたって、どのような目標・ゴールがありましたか?そのプロジェクトの将来をどのように見ていらっしゃったんでしょうか?

基本的に、集団で創作をする場合、責任や判断を複数の人間に分散すると、出来上がったもののクオリティーは下がります。出来るだけ少ない人間が、綿密に連絡をとりあってイメージを共有し、認識のズレがないように適切に判断を下していくことが、スケジュールを守りクオリティーを維持するコツです。理想を言えば、ディレクターひとりが絶対的権限を持ち、作家性を発揮することが望ましいのです。クーデルカという仕事の中で、僕が目指したのは、まさにこういう方向性でした。

僕はまず、物語の基盤となる世界を理解するために、中世から19世紀末にかけてのイギリス史に関する100冊ほどの文献を読み、その中から有用なデータやエピソードを拾い出してまとめました。そして、いくつかの歴史的事実を中心に据え、その周囲を創作と虚構で固めていく作業にとりかかりました。たとえば、エドワードというキャラクターは実在の人物である小説化ロード・ダンセイニ(Edward John Moreton Drax Plunkett, 18th Baron Dunsany)ですし、シャルロッテに手紙をしたためる母は悲運の美女と名高いゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(Sophie Dorothea von Braunschweig-Lneburg)です。ロジャー・ベーコンは歴史上有名な哲学者ですし、クイーンアリス号の事故は実際のイギリスの海事記録に載っています。そういった史実の間を、エミグレ書や、再生の儀式などという空想で埋めていくことで、より現実味のある物語世界を構築することを目指したわけです。イギリスはウェールズまで取材旅行をし、本物の雰囲気を自分の目で捉え、背景美術に過度とも思える緻密さを要求し、芝居の呼吸を再現するために当時ハリウッドですら実験段階であった多人数同時モーションキャプチャーを導入し、どんどん高い次元へと作品を押し上げていく情熱に支えられたチャレンジこそが、クーデルカというプロジェクトの本質だったのかもしれません。思い出せばイギリスへ行く飛行機の中で、タイタニック制作時のジェームズ・キャメロンの評伝を読み、彼が映像を構築するために費やす凄まじいまでの努力に圧倒され、創作には狂気を帯びた情熱が不可欠なのだと、再確認した次第。欠片なりとも見習いたいと思ったことが少しでも実現出来ていればいいのですが。

「Lost Files」は今までの菊田音楽の進化・エボルーションを反映する総集作品だと思われるのですが 、そのアルバムがどのように1990年初期からの「アーティスト・菊田」の発展をも反映しているとお考えですか?

正直、僕は自分が行ってきたことを「進化」だとは考えていません。ひとりの人間が限られた時間を生きて、さまざまなことを経験し、あるいはなにかを手に入れ、あるいはなにかを失い、その時々で自分の在り方に正直に音を紡いだ結果が、僕の音楽なのだと思うのです。僕が、20年近く昔に作った曲を、なんの抵抗もなく世に出せるのは、それが今より劣ったものではないからです。20年前の自分にはその時なりの素直な感情の表現が、今の自分には今の自分なりの複雑な味わいがあります。「Lost Files」が示しているのは、僕の創作という世界に対するアプローチの仕方の一貫性です。率直に言って、僕がしていることは20年前も今も変わっていません。ただ、人間としての在り方や、それを取り巻く時代や社会が変化しているため、そこで表現されるものも変化しているというだけのことです。そして周囲がどう変わろうとも、それを切り取る僕のセンスは不変であり、だからこそ20年前に作った曲と今作った曲を同じフィールドに置いてひとつのコンセプトとしてまとめあげることが出来るのです。そしておそらく、これから20年後に聞いたとしても、変わらない輝きを放つ作品になっていると信じます。

次の菊田裕樹は?

ここ数年の目標として、仕事如何に関わらず意欲的に音楽を作り、CD化していくことを目指しています。ですが、いつか実現したいと思っているシンプルな夢があるので、そのことを話しましょう。僕は、1950年代にハリウッドで作られた、ジーン・ケリーやフレッド・アステアなどによるミュージカル映画が大好きです。「雨に唄えば」(Singin’ in the Rain)を観終わって、映画館を出るとき、ふと唄いだしたくなる。それこそがエンターテイメントのもつ、真の魅力だと思うからです。僕が長年抱いている夢は、ミュージカルを作ること。メディアは、映画でもゲームでも構いません。素敵なメロディーに乗せて唄い踊る、楽しくほろ苦い物語をいつか作りあげたいと、心から願っているのです。

最近のゲームソフトは急速に変化していっています。これから先、ゲームソフトというメディアがどのような道を開いていって欲しいとお思いですか?

ゲームというメディアは、インタラクティブ性が新しいのだとよく言われますが、そうは思いません。従来からある演劇やマジックも、舞台の上とそれを見る観客とのコミュニケーションによって成り立つもので、十分にインタラクティブな要素を含んでいます。実は、ゲームというメディアがその独自性を発揮するのは、極めてパーソナルな装置でありながら、あたかも開かれたものであるかのような架空の世界を構築し、それを通じた他者とのコミュニケーションを実現する場合に他なりません。そういう意味で、ゲームソフト開発の大きな潮流が、今後より強くオンラインゲームに向かうことは自然な成り行きだと思います。僕自身、「超武侠大戦」(Tyou Bukyo Taisen)というオンラインゲームを設計して思うことですが、オンラインゲームにおけるゲームデザインは、スタンドアローン向けのゲームデザインと根本的に異なります。制作者によって作りこまれたイベントよりも、プレイヤー同士のコミュニケーションと自発性を根本に置いた設計こそが求められるのです。昨今開発されるオンラインゲームが揃って短命なのは、設計思想の転換をしないまま、旧来の手法に頼ったゲームデザインをするからで、今後のゲーム業界を担うスタッフは同じ過ちを犯さないようにしなくてはいけません。ゲームというメディアはまだまだ未成熟です。これからもっともっと研究され、分析され、緻密に練りこまれた、コミュニケーションのためのコンテンツが生み出されるべきです。みんなが、現実と同じ確かな手触りで架空のゲーム世界を生き、そこで出会った誰かと心を通じ合って、未知なる場所へ冒険の旅に出るとき、僕の作る音楽がその決意を後押しするとしたら、これにまさる幸せはないでしょう。

Translation by Takahiro Yamamoto.

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