東京大学工学部を造り、新日鉄八幡製鉄所を築く礎は、吉田松陰「工学教育論」にあった。

無粋な感想は述べません。彼が何者なのかはWikiだけで理解できるはずもありません。何故、彼の元で学んだ塾生たちがこうも世の中に羽ばたいたのか。その一偏に触れてみてください。

原資料名:「学校を論ず、付けたり作場」(道元真吾氏:現代語訳,抜粋)

人材を集めて国勢を振興させるのは、今日の重要な任務である。そして、人材がひとたび集まったならば、国の勢いが振興することを期待しなくとも、自然に振興するものである。人材を集めるのは、その才能に従って任用するのが最良である。けれども、ただその人の名を聞くだけで採用し、また、実際に面会することなく採用に至らないようなことがあれば、人々の非難を招き、国政を堕落させるのに充分である。このことは、あやまちや軽はずみなことがないように必ず気を付けなければならない。

それゆえ、私には二つの策がある。一つには学校を盛んにすること、二つには作業場を興すことである。現在は学校(明倫館)を設けているといっても、まったく盛んにはなっていない。私の考えとしては、広く藩内に号令し、学問態度について世の中の模範となりえる者、志気・才能が学問を通じて目標に達しえる者、そのほか、兵学、農学、暦学、算術、天文地理など諸種の学芸について、すぐれた才能があると自負する者を募集し、身分の高低に関わらず、学問の深さの程度を問はず、全員が学生になることを可能とすべきである。学生には、科目を分けて各々学びたいところを学ばせ、規則で拘束してはならない。そして、もっぱら学生が品性を身につけ、才能が目標に達しているかどうかだけを見極めて、実力のあるものは登用・昇進し、実力の無いものは降職・免職するのである。

現在は、陪臣や足軽、長州藩内の民衆は、今なお学校に入ることができない。その代償の甚だしさというものは、どれほど悲しく、情けなく感じられようか。読書の人というのは、大部分が形式だけで実質や内容がともなっていない。中国古代、多くの優秀な学者が集まった斉の国の稷という地区を手本に照らして考えるべきである。

それゆえ私が思うには、作業場を興して俺を学校に併設するのに及ぶことはない。船大工、銅職人、製薬・皮革の職人など、少しでも技能を持つ者すべて、つまり全員が、ぜひとも才能を達するように従事すべきである。今、これらを作業場に寄せ集め、多くの人々の知恵を集めて合わせて巧みの考えを広くし、船艦・機械についての物事を深く調べ、その意味や本質を解き明かすならば、必ず成就するところがあるはずである。

ああ、今日の緊急の任務は人材を集めることである。人材がすっかり集まったならば、これを学校・作業場に置く。そうしてのちに、その才能、能力を測定し、程度に応じてこれを採用すれば、主君の過失を諌める官吏があり、行政を司る臣下があり、軍事力が備わり、民政の程度が高まって、一つ一つの器量、一つ一つの技芸、ことごとくその極上を得ることができる。このようにして国政が振興しない国は、未だかつて存在しないのである。

原文出典:山口県教育会編『吉田松陰全集』第5巻(岩波書店,1939年)

この後、松下村塾塾生であった伊藤博文は総理大臣の地位となり、志を同じくした 工部卿 山尾 庸三は 工学寮を創立した( のちの東京大学工学部)

遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)

そして1901年(日暮れ一番)八幡製鉄所に灯がともる。

鉄の夜明け~新勝庵ブログ~