Undefined というバンドは解散しました。そしてセレモニーは開かれる。

YUKI WAKATSUKI
22 min readJul 20, 2019

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2019年5月頭、Undefined の僕を除く全てのメンバーが会社を去ることになった。それは、創業メンバーの健嗣、かにちゃん、そして唯一のフルタイムエンジニアであった平川の三人だ。事実上、Undefined のチームは解散することになった。僕はこのことを今でも強く覚えているし、きっとこれからの人生においても大きな出来事になるのだと思う。果たしてそれを上手に文章に書き起こすことができるか解らないが、完璧な文章など存在しないから、僕は筆を取る。

NYAGO をリリースしたのは、2018年の3月末だ。沸くTwitter、止まらないダウンロード、僕たちは文字通り浮かれていた。自分たちのつくったサービスが評価され、知人や友人を始め、全く知らない人まで NYAGO を使っていた。世界が色鮮やかに見えて、張り切って早朝に出社して深夜まで残った。それでも様々な事情があって、 NYAGO は一週間でクローズした。

それからというもの、 Undefined は底抜けの闇の中を彷徨っていた。辛くなかったかと言えば嘘になるが、僕たちはそれなりに楽しんでいたと思う。数々のC向けプロダクトをつくっては壊し、ときに小さくリリースしたり、プロジェクトを捨てたり、そんな毎日を送っていた。それでも僕たちの中には焦りがあり、結果、2018年12月から1ヶ月限定で3人が離れて行動することになった。僕は平川と一緒にプロダクトを2つつくってリリースした。

その間、健嗣とかにちゃんが何をしていたのかはあまり良く知らない。敢えてコミュニケーションを取らないようにしていたし、自分は1ヶ月で2つのプロダクトをつくるという過密なスケジュールに追われていたからだ。2018年の年末に3人で集まると、僕は「家をつくろう。若者向けの、あらゆる負担の少ないクールな家をつくろう。」と2人に伝えた。まだ煙草を吸うことのできた六本木の SUZU CAFE での出来事だった。当時、僕はちょうどシェアハウスから出たタイミングで、引っ越しの面倒臭さや金銭的、時間的負担を熟知していた。だからきっとこのアイディアを思いついたのだろう。

奇遇なことに、健嗣も同様のことを考えていたようで、話はスムーズに進んだ。果たして自分たちにできるのだろうか、という不安はあれど、モチベーションは非常に高かった。それからというもの、不動産関係や金融関係、ハードウェアからソフトウェアの開発まで急ピッチで用意した。様々な方々に手伝ってもらい、4月の時点では新築の物件が一棟、リノベーションの物件が一棟、そろそろ着工しようかというところまで来ていた。我ながら、このスピード感は目を見張るものがあり、Undefined は「若者向けのクールな家をつくる会社」になるのだろうなという気がしていた。

しかし、同時に僕たちの中では訳の解らない、非常に表現の難しいモヤモヤとした感情が次第に大きくなっていた。今回の解散は、ひとえにこの感情が引き起こしたものだと認識しており、それは誰にも阻止することのできない、僕たちのチームならではのものだった。僕はひとりひとりとすごく時間をかけて対話をしたから、100%ではなくとも、ほぼ全ての彼らの気持ちを代弁することが出来る。Undefined を創業しようと言い出した者として、ただ唯一会社に残った者として彼らの心境をこの文章に綴ろうと思う。

平川

平川は僕の中高の同期だった。奇遇にも中高ともに部活も同じで、無論、僕は中学では幽霊部員、高校ではすぐに辞めさせられるような部員だったので、殆ど関係ないとも言えるが、とにかく縁の切れない、そんな関係だった。

彼は高校卒業後にポーランドに飛んだ。高校の同級生の殆どは、彼が高校を卒業してなにをしているのか、どこの大学に進学したのか、どこに住んでいるかさえ知らなかった。彼の行方を知っていたのは、彼の家族と、学校の先生と、そして片手で数えられるくらいのひどく親しい友人のみだった。僕はかろうじてその友人の一人だったようで、高校を卒業する少し前に唐突にそれを伝えられた。寂しいような気もしたが、きっと彼とはまたどこかで会えるような気がした。

僕が Undefined を創業する直前、彼としばしば電話した。当時は Clippr というモバイル特化の食べログのようなものをつくっていて、僕はそれがいかに優れたアプリで、人の生活をどう変えるのかということについて声高らかに雄弁した。彼はその長い話の最中、相槌を打ちながら聞き、「それはすごくいいかもな」と言って、ついでに彼の意見を詳しく説明してくれた。僕が思うに、彼は議論に向いているタイプの人種で、僕がどんな極端な持論をぶつけても、小難しい科学の話をしても、必ずフィードバックをくれたし、彼の意見も聞かせてくれた。創業前に彼に電話をかけたのは、きっと平川のそういう特徴を無意識下で僕が認識していたからであろう。

ポーランドに飛んでから一年が経つか経たないかくらいで、平川から連絡があった。「日本に帰ることにした。今はプログラミングを勉強している。」とのことだった。僕は、平川に対して、エンジニアになることを提案し、そして Undefined で修行をしないかと誘った。大した理由はなかったが、彼のストイックさを誰よりも熟知していたし、そして彼の何もかもを捨てる覚悟を心から応援したいと思った。2018年のゴールデン・ウィーク明けに、彼は正式に Undefined で修行を始めた。

彼は僕たちがシェアしていた南青山の家に住み、誰よりも早く起きて朝食、そして昼食と夕食用の弁当を作った。部屋の掃除を一通り終えると、寝起きの悪い僕たちを起こし、歩いて出社した。朝から夜まで一瞬たりとも休まずにプログラミングを勉強し、数カ月後にはプロダクションの開発にも参加するようになった。決して要領の良いタイプの人間ではなかったが、圧倒的なストイックさと環境適応能力でエンジニアとして一人前になった。僕は友人で在る上に、その過程を全て見ている訳だから、多少のバイアスはかかるものの、彼のことを心から尊敬している。

そんな彼が転職の相談をしてきたのは、2019年の4月頃だっただろうか。先述の通り、僕たちは家をつくる事業に取り組んでいて、これまでのアプリ開発とは違ってソフトウェア開発の配分は少なかった。また、メンバーが最大10人ほどいたのが、創業者と平川の4人になり、そのうちでコードを書くのは平川と僕だけだった。この状況はエンジニアとしての成長を考えると、あまり良くない、彼は丁寧に言葉を選んで僕にそう伝えた。彼は僕に対する感謝の気持ちや義理を重んじていて、僕の反応を聞いてから実際に行動に移そうとしていたらしい。僕は正直、複雑な気持ちだった。純粋なエンジニアは社内に彼しかいなかったし、彼が抜けてからの僕の開発における負担は計り知れなかった。それ以上にメンバーが辞めていくことへの恐怖があった。

それでも彼の意見はひどく的を射ているように思ったし、個人の成長や意思決定を阻害するのは友人としてクールでないと思ったのだろう、僕は彼の転職を応援することを決めた。それからは早かった。Twitter をやっていない平川は、転職先の目星をつけるのも難しかったので、僕が2社に連絡を取り、そして面談をセッティングしてもらった。平川と僕の2人で面談に行き、僕は現在の Undefined の状況を説明し、平川がどんな人間であり、どういったスキルセットを有しているかを伝えた。そして、平川はエンジニアリングの学習を始めた頃に使ったことがあり、かつプロダクトが好きだと言って、Progate に転職した。平川に対し、エンジニアになろうと提案した僕の最後の責務は、平川の転職を成功させることだと思っていた。だから、全力でサポートしたのだ。会社として考えれば、メンバーの転職を手伝うことなど、褒められたことではないのは理解している。ただし、平川の友人として、そこまではサポートしたかった。

こうして5月の連休明けから、平川は Progate で働き始めた。Undefined に比べて大きなチームで、ユーザ数が多く、歴史も長いプロジェクトに取り組むのはすごく大変そうだが、充実しているように見える。今でも平川とは頻繁に会い、一緒に作業をしている。

かにちゃん

かにちゃんは僕の生きてきた中でも、相当な変わり者だと思う。FLIGHTS というドローンのスタートアップで出会い、最初は無口なシティ・ボーイといった印象だった。昼過ぎに出社し、デイリー・ヤマザキのあんぱんと牛乳を食べながら、深夜まで、時には朝までコンピュータに向かって作業していた。スキニーにジャケットというスタイルの似合う、背の高い男だった。

彼と打ち解けたのは、一緒に行った韓国出張だと思う。当時、ドローンVR というなかなか国内では事例のないプロジェクトに取り組んでおり、映像がぶれないようにするジンバルと呼ばれるユニットが国内では製造されていなかった。そこで、ホームセンターを駆け巡りそれを一緒に自作したが、やはりクオリティに問題があった。だから、韓国の会社がこれをつくっていると知ったとき、これは行くしか無いと思ったのだ。しかし、それはなかなか高価なもので、かつ実務に耐え得るものかの保証など全く無かった。そこで、どうにか交渉して借りてこようという気になったのだ。

すぐに社長に相談した。かにちゃんも僕も殆ど私財を持っておらず、できれば会社で渡航費を出してもらいたかった。社長からの提案は、「ジンバルを借りて来ることが出来たら渡航費は出す。」とのことだった。おもしろいと思ってすぐにチケットを取り、ソウルに飛んだ。空港に着くと同時に、この国の人の多くは英語が通じないということが分かった。そこで、市街地に向かう電車の中で英語と韓国語、そして日本語も話すことの出来る人を見つけ、彼を連れて3人で会社に向かった。結果として、ジンバルは借りられなかった。悔しかったが、その出張中に Clippr の構想を話し、一緒にスタートアップをやろうと誘った。

彼は FLIGHTS での引き継ぎを終えると、すぐに Undefined に参加してくれた。彼の住んでいたスカイコート代々木というマンションの一室をオフィスにして、そこに三段ベッドを入れて3人で住んだ。かにちゃんは音楽と映画について非常に詳しく、聞けばいくらでも話をしてくれた。大学時代に自費出版したアンダーグラウンドな雑誌も、本当におもしろかった。山梨の地元には居ないタイプの、カルチャーな人間だった。

彼の性格とスキルを見込んで、CTO の肩書を背負ってもらった。あくる日もあくる日も Swift の技術書を読み込んで、かにちゃんは必死に勉強していた。それでも彼が Swift を書けるようになることは無かったし、僕たちも焦っていた。結果として、僕がメインでデザインと開発を担当することになり、かにちゃんは CTO という肩書を降りた。資金調達を実施した以上、ある意味自然なことだが、あのときに僕たちがかにちゃんを待つことが出来たら、ということを未だに考えてしまう。

NYAGO をリリースしてからも、彼のポジションは不確定だった。これはしばしば議題に上がるが、解決の見えない問題だった。僕はかにちゃんに対して苛立ちを覚え、健嗣がそれをなだめた。本当は三人で会社をやることが僕たちの価値だったのに、いつの日かスタートアップらしく、会社らしく在ろうとしてしまう自分が居た。それは次第にエスカレートしていき、会社におけるポジションやバリューに悩むかにちゃんを追い詰めていたのだろう。

そんな日々が続き、かにちゃんは次第に彼らしさを失っていった。元来、趣味を深く追究し、積極的にイベント事にも参加するタイプだったようだが、会社を始めてからは家と会社を往復する生活になり、音楽に打ち込むむことも、映画を見ることもなかった。言葉で説明することの難しい独特のユーモアはいつの間にか見せなくなり、会社に来るときの表情は暗かった。

そういった変化に気づいては居たものの、「かにちゃんが頑張ればどうにか変わるだろう。」というある意味自分を落ち着かせるための結論に導き、クリティカルな善後策を打たなかった。今考えれば当たり前のことだが、彼の精神は次第に衰弱していき、音を立てることなく静かに崩壊した。

それはいつだったか覚えていないが、三人で毎月の締め会をしたときのことだ。芋洗坂のわらやき屋だった。健嗣はその所特段元気の無いかにちゃんを心配して、彼に理由を尋ねていた。かにちゃんはすごく時間かけて、何杯か酒を飲んだ後で、「会社に対して自分が何のバリューも出せていない、自分で何度もトライはしてみたけど改善しそうもない、辞めたい。」と僕らに伝えた。

健嗣も僕も、それを止めた。会社にとってかにちゃんというキャラクター、創業メンバーにかにちゃんが居るということの価値の大きさを語り、今辞めるのは得策じゃないと思う、もう少し頑張ろうという旨のことを二人で伝えた。かにちゃんは、納得したように頷いてその日は解散した。少なくともその夜は僕にとって非常に良い夜であったし、皆にとってもそういった認識であるように思えた。

しかし、次の日の朝、かにちゃんは来なかった。Slack にも連絡は無かった。あらゆる手段を使って連絡したが、彼と連絡を取ることの出来る人は誰一人としていなかった。これまでも度々そういうことが在ったが、前日の夜が在ったからこそ不安は払拭出来なかったし、これまでのそれは大抵深酒によるものだった。

そして、その期間は1週間ほど続いた。誰も連絡は取れず、どうしようもなくなってかにちゃんとルームシェアしていた人に連絡したり、仲の良い知人に状況を聞いたりしたが、結局のところ真相は解らなかった。そして、その後、思い出したかのように突然かにちゃんから連絡があり、何もなかったかのように出勤が始まる。しかし、3日ほど出勤したところで、また連絡が途絶え、今度こそ1~2ヶ月程行方知らずになった。僕らは定期的に電話を掛けたり、LINE でメッセージを送ったりしたが、それ以上のことは基本的にしなかった。何回か家を訪問したことがあったが、彼と顔を合わせることは出来ず、それ以上の情報は知り得なかった。

4月に入り、もうかにちゃんが会社に来ないことは当たり前になっていた。なんとなく健嗣も僕も引っ掛かりはしたものの、自分たちだけではどうしようも出来ない問題を目の前に、立ち尽くすことしか出来なかったから、ただ夢中で家の事業を進めた。そして4月末、ひょんなことから、かにちゃんと連絡が付く。待ち合わせ場所を六本木のルノアールに設定し、印刷した空白の退職届と印鑑を握りしめて向かった。

案の定、かにちゃんは退職の意思を僕らに伝えた。彼はそれを伝えるまで、ひどく暗い表情をしていたが、その後は吹っ切れたようであった。事務的な作業をして、僕にとってそれは人生で最も複雑な心境での捺印だった。2017年9月から始まった Undefined という会社は、ここで一人の共同創業者を失うことになる。

退職してからのかにちゃんは、右往左往しながらも楽しそうにやっている。相変わらず生活圏内が近く、趣味が合うこともあって頻繁に会っている。彼の中で膨らんだ会社に対するプレッシャーは、紛れもなく僕が作り出したものであったし、僕が彼の退職を責めることは出来ない。そして責めるつもりもない。むしろ、就職を蹴ってまで Undefined に捧げてくれた1年半、若くエネルギッシュなこの期間がこういった結末に終わってしまったことは僕の責任である。

健嗣

僕の人生にとって、健嗣と出会えたことは本当に大きな出来事だった。高校を卒業するかしないかくらいの時期に、共通の友人に引き合わせてもらってすぐに、東南アジアのバックパックを遂行した。創業前の彼は、お世辞にも褒められた生活をしているわけではなかった。女の家を転々とし、あらゆるバイトをした。飲食店、海の家、キャッチなど。そして彼はどのバイト先でも圧倒的な結果を出して突然辞めた。健嗣と僕は高校が一緒で、地元では有名な進学校だったから、彼は相当後ろ指を指されていたと思う。それでも彼はそういう暮らしをしていて、僕はそれがとてもクールだと思った。彼とスタートアップを始めたら、きっと面白いことになるだろうと直感でそう感じた。

僕と健嗣は根本的には違えど、人間的にはかなり近い人種だ。学生の頃から人の前に立ち、話術を武器に人を巻き込んできた。一緒に会社をやる上で、健嗣と僕の間ではカニバリゼーションが起きていたのだと思う。肩書や実力、周りからの評価で、僕らはいつも比べられることが多かった。「好きな人たちと好きなものつくったらおもしろいよね」というモチベーションでつくった会社であるはずが、自分たちは多様な経営者の背中を見て、当時の心意気を失っていたように思う。それが、健嗣とのカニバリゼーションの引き金であり、本当はそういったあれこれを一切気にする必要などなく、自分たちらしくやっていればよかったのだろう。

さらに、僕たちの共通する点として挙げられるのが、コンプレックスから来る強い支配欲だ。ここに書くのが憚れるような原体験に基づく強いコンプレックスを二人共抱いていた。「誰かを見返さないと」とか、「あいつに勝ちたい」みたいな比較や復讐に近い、邪でドロドロとしたモチベーションが僕たちの行動規範を形成していたように思う。きっとそれがコミュニケーション能力やリーダーシップ精神のようなものに昇華していたのだろうが、正直に言えばコンプレックスに突き動かされている状態は、健嗣にとってさえ、無論、僕にとっても辛く、それが露呈し始めたのが、今年に入ってからだった。

そうした状況を赤裸々に伝えてくれたのは、健嗣からであった。彼は珍しく会社を休み、一日中暗い部屋に閉じ籠もって自分と向き合ったと僕に伝えた。それが正しい方法なのかは解らないが、彼は年明けくらいから自身と向き合うということに取り組んでいたように見えた。それからというもの、健嗣と僕は出社し、顔を合わせながらも、六本木の道や、あるいは檜町公園を散歩しながら、自分のアイデンティティや生き方、これからどのように生きていくべきかを飽きることなく語り合った。僕が思うに、彼のずば抜けた才能はその言語化能力にある。誰しも考え込むような自身の問題について、彼は躊躇うことなく流暢に、そして相手の感情に訴えかけるようにそれを伝えることが出来る。後にも先にも彼以上にそういった能力に長けた人物を知らないし、僕は彼のそういう才能をすごくクールだと思う。

僕は自身のコンプレックスを引き剥がすことに対して強い恐れがあった。なぜなら、それこそが僕の原動力であり、唯一の武器であることのように思えたからだ。誰かを見返すために、黙らせるために努力し、あらゆる能力を最速で身につけて支配してきた。その全てが形の無い、仮想敵に対するヘイトだった。健嗣は僕がそんなことを考えている間に、すごい速さでコンプレックスを引き剥がしていった。かつての健嗣に見られた、ジャックナイフのような鋭いコミュニケーションは減り、健嗣自身を中心として彼固有の宇宙をこの世界につくり出そうとしていた。無論、それは今に至るまで続いているようだ。

だから、彼からゴールデン・ウィーク直前の深夜に電話がかかってきたとき、僕は彼が何を言わんとしているか、はっきりと想像が付いていた。彼は丁寧に言葉を選んで、それでいて真っ直ぐに会社を辞める意思を僕に伝えた。僕は全身から血の気が引き、電話を持つ手の指先が冷たくなるのを感じた。それでも僕は、そういった自身の気持ちを悟られぬよう、振り絞って「良いと思うよ。」とだけ伝えた。引き止めるのはダサいと思ったし、何より今の健嗣が Undefined に残ることは彼の人生にとってさえも得策だとは思えなかった。

こんな結末だからこそ、「健嗣くんはなぜ辞めたの?」という質問に対して答えるのは難しい。それはこれだけ事情を熟知している僕にとってさえも、上手に言語化して一言で伝えることの出来ない問なのだ。ただ、彼の出した結論は健嗣にとっても、僕にとっても最善だと思えたし、それに対して後悔の念は微塵たりともない。

健嗣は今、文字通り自由に生きている。そうとしか言いようが無い。僕はしばしば彼に会って、彼の近況を聞く。それを話す彼の目からは、 Undefined に居たときには感じることの出来なかった生気を感じ、昔の彼に戻ったのだなという気持ちになる。少し寂しい気持ちはあるが、今でも僕は彼の全てを応援しているし、これからもそのスタンスは変わらない。もう、健嗣と自分、どっちが優れているかとか、そういう不毛な気持ちを持たなくて良い、ただの友達、特別に関係の深い友達というだけだ。

こうして成功を誓った3人は、2年の時を待つこと無く解散した。その解散は意外にもあっけない、実感の無い感情が僕の心中を満たしていた。

5月の連休中、僕は実家に帰ってひたすら読書に勤しんだ。会社をどうするか、個人としてどうするか、その事実に向き合うのが怖かったから、現実逃避として読書を選んだ。山梨の空気は澄んでいて、周りに急かす者は誰一人として居なかった。夜中にしんと静まり返った街中を寝巻きのまま散歩して、昔遊んだ神社で煙草を吸った。漠然と、地元に帰るのは無いなと思った。理由は解らない。

僕の人生観をつくり出したのは、間違いなく本によるものが大きいと思う。幼い頃から擦り切れるほど繰り返し読んだお気に入りの本を、これまでの軌跡を振り返るように丁寧に、一冊ずつ読んだ。読み終わると、Tumblr で書評のようなものを書いたり、自分の心境を書いたりした。とにかく、何らかの手段で自分の感情をアウトプットしないといけないと思った。

正直に話せば、僕は会社を畳もうと思っていた。事実、東京に帰ってから株主の方々一人ひとりに連絡を取り、実際に会って会社を畳む意思を伝えた。皆、怒ったり、咎めたりすることはなかった。ただ、「もったいなかったね、まだやり直せるのに。でも個人の意思決定は尊重するよ。」と言った。紛れもなく全ての株主がそう言った。

東京に帰ってから、また皆で集合し、南青山の社宅から荷物を引き揚げた。僕以外のメンバーが、これから来る未知の未来に対して最高にポジティヴに向き合っているように見えた。それが悔しくて、こんな状況でも僕は羨望の目を彼らに向けていた。南青山から世田谷に荷物を運ぶ道中、僕が運転して助手席に健嗣が乗っていた。後部座席は全て荷物で埋まり、二人だけだった。会話らしい会話は無かったが、健嗣が口を開いて話し始める。

「今の佑樹と、今の俺はあまり会うべきではないと思う。お互いがお互いの行く末に嫉妬し、足を引っ張り合うような気がする。かにちゃんや平川に対して、そういう気持ちは無い。」

彼はひどく丁寧に言葉を選んで話したが、要約するとこんなところだった。僕は全身に鳥肌が立つのを感じて、ハンドルを持つ手が汗ばむ。お互いにというのは嘘で、きっと嫉妬するのは僕の方だろう。まだコンプレックスの外殻を捨て切れていないのは僕の方だから。健嗣もそれを解っていて、それでも僕を傷つけぬようにそう伝えたのだろう。そう思った。

それから僕はひたすら思考に耽った。彼女以外の殆どの人間に会わず、殆ど何も食べずに一日を家の中で過ごした。体重は数キロか減り、見た目も不健康になった。手を動かしていないと気分が落ち込んでしまうので、受託を何個か受けた。その一つが、yutori社のリブランディングであり、それを含め、手を動かすために制作した。

不思議と、その時のことを全く覚えていない。ただそういった時期が存在していたという認識だけで、具体的に何をしていたかとか、どんなことを考えていたかとかそういったことは全く思い出せない。それでも僕の中ではドラスティックな思考の変化があり、結論から言えば会社を続けることにした。ただ、もう Undefined では無い。Undefined は健嗣、かにちゃん、僕の三人で始めた会社で、その名前で続けていくのはどうしても厳しかった。手間やコストが掛かるのは承知の上で、社名を変えることにした。

ちょうどそのタイミングで、同居していた友人が山梨に戻ることが決まった。一部屋空くので、そこをオフィスにすることにした。社名も変え、自宅の一室をオフィスにし、そしてしばらくは一人で。これまで囚われていたスタートアップのセオリーとか、先輩経営者の背中とかそういったものはまるごと捨てることにした。自分と自分の周りの人が欲しがるものをつくる。自分の美学に基づいたプロダクトを粛々とつくる。そういったファクトリーをつくる。そう決めた。

僕は今、Ceremony というファクトリーを一人でつくっている。麻布十番の自宅で、殆ど外には出ずにひたすらものづくりを続けている。受託もほぼ全て一段落し、プロダクトをつくり始めた。誘ってもらった場合を除き、この界隈の人にも殆ど会わない。自分が欲しいプロダクトをつくる上で、必要なことでは無いと思ったからだ。結構楽しく、自由にやっている。

https://weareceremony.com

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果たして僕は何者なのだろうか、と思う。コンプレックスを完全に引き剥がずことは出来ていないが、かつての僕とは比べ物にならないほど解放された気がする。それでも、これまでアイデンティティであった誰かに対する憎しみや怒りを解放したその先に何があるのかは未だに解らない。

もし僕らに確固たるアイデンティティが在ったとしたら、Undefined という会社は生まれなかっただろう。僕らはアイデンティティが無く、コンプレックスに突き動かされてきたからこそ今がある。そして、そのコンプレックスはある意味テンポラリなもので、それが引き剥がれた先に何があるのかは健嗣も、かにちゃんも、そして僕も解らない。

ただ、このバンドのような Undefined という会社はここで解散し、三人と、平川は各々の道を行く。自分はこんな人です、といつの日か自己紹介出来る日が来るのだろうか、それが良いのか悪いのかもわからないし、出来るのか出来ないのかも見当がつかない。ただ、今の僕は Ceremony という名のファクトリーをつくる。

Undefined というバンドは解散しました。そしてセレモニーは開かれる。

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YUKI WAKATSUKI

Undefined という会社の代表取締役。ねこさかな。