時代を映し出してきた番組プロデューサー丸山氏の視点 変わりゆく社会構造の中で 「関係性」を再考/更新し続けるということ【前篇】

VEIL SHIBUYAは、渋谷二丁目西地区再開発プロジェクトの一環としてアカデミア・ビジネス・アートなど分野・業種を越えて活躍する人々の叡智を社会に還元するプラットフォームを目指している。そのために、異分野をつなぐための場づくりや仕掛けづくり、そしてVEILの価値づくりのあり方について、日々模索を続けている。今回はNHKBSプレミアムで放送されている『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』をはじめ、経済教養ドキュメンタリーとして話題になった『欲望の資本主義』シリーズなど数多くの番組をプロデュースしてきた丸山俊一氏のインタビューが実現した。前編では、番組づくりで大切にしてきた視点を振り返りながら、領域横断的・融合的なインキュベーションを推進していくためのヒントを頂く。さらに、後編では番組づくりと都市空間づくりの共通点を探索する。

人と人との関係性の先に構築される社会

――現在、NHKBSプレミアムで放映されている『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』をはじめ、丸山さんがさまざまな番組をつくるうえでの時代や社会、個人に対して持っている課題感からお聞きしたいです。

30年あまり、聖俗、硬軟、様々なジャンルの番組、コンテンツ制作で試行錯誤してきたわけですが、今振り返ると、常に “今どんな時代か?今どんな社会に生きているのか?” 映像を通して考えることがベースにあったテーマだったように感じます。映像の魅力、面白さは、それ自体が人の心に映り込み、無意識のうちに影響を与えたり、逆に思いがけず時代の表象が映像に映り込んでいたりする点にあると思うのですが、言うまでもなく、それは活字、音声などだけでは得られないメディアとしての特性、魅力です。

『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』は、分断が叫ばれ、社会と個人の間に亀裂が入っているようにも見える現代のアメリカ社会の状況が、いつどのように、なぜ生まれたのか、時を追って再考する企画です。と言っても、政治史や経済史というような大上段からの分析とは異なるスタンスで、映画や流行、事件や大衆文化などを扱い、それらに表れた、「メイン」から零れ落ちる人々の心の底にある想いを見つめ、一風変わった角度から映像に映り込んだ「時代の空気」を主人公に考えてみようというものです。

今、「社会」と「個人」をつなぐものが薄まり、どこかそこに連続性が失われ、離れていってしまっているような印象があります。人と人が出会い、関係性が生まれ、その関係性の総体が社会というものであるイメージを僕自身はずっと持っているのですが、どうも、そのゆるやかな「つながり」のありようが怪しくなってきたのではないか、と。社会学者の宮台真司さんが、既に90年代後半、それぞれが見たい世界だけに閉じこもる状況を「島宇宙化」と表現したように記憶しますが、そうした現象が単にサブカルチャーだけの話ではすまなくなってきたという感もあります。アメリカにせよ、その大きな影響を受ける日本にせよ、そうした現代ゆえの社会と個人の分断が露わになってきているとしたら、どうつなげ、どう対話の回路を開けばよいのか?ここ10年くらい、手を変え、品を変え、映像を通して考えてきた問題の一つなのかもしれないなと思いますね。

――関係性がつくる空気によって、社会活動や経済活動が生み出すものも大きく変わってきますよね。そういった場や時代の空気というものは何が作り出しているのでしょうか。

始まりも終わりも無い、錯綜する複雑な因果関係があるように思います。「乱反射」という言葉がありますが、社会や経済は、人々の心を映し合い、乱反射する光のように動いていくものだと思います。歴史はあざなえる縄の如しとはよく言ったものですね。ある事象が、思いがけない形で乱反射して次の時代の「問い」として現れます。例えば、デジタルテクノロジーが主導する経済へと移行する中で、デジタル資本主義、AIブームなどが生まれ、社会構造も変化する中、人間の「意識」や「主体性」など、そうした近代的概念にも揺さぶりをかけている今の状況があります。これも元を辿って遡れば、90年代頃を境とする冷戦構造の解体によって削減された軍事費が、ニューエコノミーとしてITなどの分野に投入された結果が生んだ現象という因果関係も見出せるでしょう。デジタル技術、AI研究の最前線から、データ、アルゴリズムによる「人間性」の解析が進むことで、今度は近代的な価値観自体を疑うような問いが発せられる…、デジタルが一見“中世の扉”を開くようにも見える状況を生んだわけです。近代が築いてきた価値観、理念や枠組み自体が揺れている状況に、重層的な難しさと面白さを感じます。

――一方で、『新世代が解く!ニッポンのジレンマ』という討論番組では異なる分野の学識者や起業家がキャスティングされていましたが、専門的な言葉というよりは一般的な言葉で会話していたのが印象的で、とてもクリエイティブな感覚として残っています。

変化が早く、さらに共有する時代の文脈を生みにくい今の時代は、コミュニケーションの際にも、たった一つの言葉、概念でも、「この人は何を言っているんだろう。何をそこに込めているんだろう」という言葉の背後を丁寧に想像しないと、すれ違っていくことが多いような気がしています。例えば、「多様性が大事」という近年よく聞くフレーズ一つとっても、その言葉が発せられる背景にある想い、イメージ、描かれている世界は、発言者によって異なり、どこまで共有できているのか、疑わしいことも多々あります。「紋切り型」の言葉で納得してしまうのではなく、他者の思考、発想の文脈への想像力を持ち、考え、創造する時間を大事にし、対話を深めてほしいと願い、多くの皆さんに長時間の収録にお付き合い頂きました。

歴史を振り返ってみると、例えば福澤諭吉はSocietyという言葉が日本に入ってきたときに、当時の人々にイメージを伝えるために「人間交際(じんかんこうさい)」という言葉をあてはめたと記憶しています。あるいは、ヨーロッパの民主主義を見聞してきた勝海舟は、その思想がどんなものか問われたとき、「みんな敵がいい」と表現したという逸話もあります。幕末、開国という激動の時代の中で、ある種の絶対的な他者性を欧米に見出したような人々は、島国である日本の東洋的な論理との狭間で、当時の文脈の中で人々を説得する為の翻訳を迫られ、言葉をひねり出していたと思うんです。

僕たちも、ひとりひとりが、大事な概念については時に吟味し、時代の変化を見据えつつ原点の定義に帰り、新たな更新を試みていかなくてはいけないのではないかと思います。例えば「同調圧力」とか「承認欲求」とか、現代の文脈の中で、一般化し広まった言葉も、ぱっとその四文字を、様々な事象に共通了解として簡単にあてはめてしまえば、またその言葉に呪縛され、結果新たな分断を生んでしまうということがあり得るように思います。それぞれが勝手に「同調圧力」なら「同調圧力」の定義を持ち、マジックワードのようにしてすべてをそこに負わせてしまうことで納得してしまい、発見や対話が無くなってしまう、ということもあるわけです。もう少しそこで立ち止まって、虚心坦懐にこの人が言っている背景には何があるのか、どういう文脈でその言葉を使っているのか、どこに真意があるのだろうかと、丁寧に考えたりする。それは結果的に自分自身の心にも問いかけることになるわけですが、そういう内省的な時間を持ちながら対話できること、それが関係性が生まれるための第一歩だと思いたいですね。

余白が創り出す行動変容

――今はSNSなど、自分の意識を外に向けるようなものがいっぱいあって、多くの人は外側に正解があるような感覚でいる気がします。丸山さんのおっしゃるような「内省」を始めるにあたってのヒントがあれば、教えて頂きたいです。

90年代に結構長く美術番組のディレクターを担当していたのですが、その時代に、ちょっとアマノジャクな感覚を抱いたことを思い出します。

例えば、ある画家や美術館などの特集をやって、視聴者の方から「面白かった」「モネについてよくわかりました」などとご好評頂き、それは番組の一つの使命としてはもちろんありがたいことなんですが、同時にこれは本当に美術番組の正しい在り方なのかなと疑問に思ったことがあったんです。「一時間見たからモネの人生がわかりました」とか、「モネの魅力がオルセー美術館に行かなくてもわかりました」というご感想、確かにそれ自体は本当にありがたいご感想なのですが、それだけに甘んじていていいのかな、と。むしろ、よく分からない番組の構成だけれども、何か不思議な引っ掛かりが残って、それで美術館にどうしても自分で行ってみたくなったというような、そういう気分、余韻を残すようなもの…、見た方の心に何かを残せ、行動に駆り立てるようなものの方がもしかしたら本質的な美術番組のあり方なのではないかと考えたんですね。

そして、そう思ったときに、僕はフォーマット化された番組づくりからも解放された気分になったのです。番組としてまとめること、無理に起承転結をつけるのではなくて、どこか自分の中では未完成のままでも、視聴者の方との対話の回路を開くことの大事さ、ある主題を変奏曲のように、様々な形でアレンジして奏でていけるような感覚をもっていた方がいいのかもしれない。つまり作り手の視線だけの「完成」にこだわる必要はないんじゃないだろうか、最後に「起承転々」のままで、見てくださった方に開いたまま終わる番組もあっていい、ということを強く思ったんですね。そのあたりが、現在の制作における構え、感覚、発想へとつながる一つの分岐点だったのかもしれません。

――僕らも渋谷二丁目西地区再開発プロジェクトにおけるVEILとしての取り組みや役割を問うたときに、創造的な余白を都市の中に作るということを掲げています。僕らみたいな存在も、答えを与えきるわけではなくて、トリガーになるような余白を残したものを世の中に伝えることによって、逆に受け手に何か誘発させるような仕掛けが必要なんじゃないかなというのはすごく強く感じていますね。

建築や都市計画も、僕の専門ではもちろんありませんが、おそらく最初から論理的な機能性だけで設計してしまうと拒絶されてしまう予感がします。むしろそこに自分が入り込めるような「余白」や、そこに関わることで「新たな関係性」を持てるというような可能性を感じさせてくれることのほうが、非常に大事なんじゃないかと思いますね。

――その余白のデザインの仕方にも善し悪しがありますよね。まずは興味を惹きつけながら、答えは出さずに余白は残してとなると、番組のキャスティングやテーマ設定では、どんなことを気にされているのでしょうか。

起承転結を想定してゴールを決めるのではなく、「問いを立てる」ということでしょうか。単に問いを立てるだけじゃなくて、番組でも、その他の表現でも、その問いをどのように見てくださる方と共有するかということを大事に考えているとは言えるかもしれません。同じものを見ても、見る方によって多様に見える素晴らしさを失ってはいけないわけですが、その可能性をちゃんと引き出すためにも、まず問題自体をどのように共有するか。

最近『14歳からの個人主義』という本の中でも引用し、そこから少し独自の思考も展開させてもらったのですが、エーリッヒ・フロムの『悪について』という書で語られている、人間である限り誰しもが抱える葛藤の話が非常に印象的でした。フロムのメッセージを端的に言えば、「人間は動物であって同時に動物ではない。そこに本質的な葛藤があり、さらにその葛藤を常に解消したいと思っている存在が人間であることを自覚せねばならない」というのです。動物である存在としては群れることで安心したい、しかし、動物ではなく文化を形作る存在としては、そこに尊厳などの理念を構築し独自の観念の世界も創る理性的な存在でもある、その葛藤を解消したいと願う存在であるというのですね。これは、先の「完成」にこだわらない制作にも一脈通じる話とも言えるかもしれません。人間の存在のありよう自体、そもそも葛藤があり、ジレンマを抱えているのだとするならば、悪戯に解消させようとあがくのではなく、そのこと自体を楽しんでしまうセンスを持つべきではないだろうか?という問いにつながります。

先ほど話題に出た「新世代が解く!ニッポンのジレンマ」という、東日本大震災以後の日本のあり方を若者たちの自由な議論の場から考えていこうとする番組企画でも、その感覚は、ずっと大事にしたいと思っていたものです。タイトルこそ「解く」と入っているものの、悪戯に答えを急ぐのではなく、ジレンマと向き合い、むしろ楽しむ精神から、対話が生まれるという信念で企画を続けていました。

こうして振り返ってみると、どんな企画でも「解決策は何だ?」という論理より、むしろ常に「問い」をどこに立てるか?どのように「問い」を共有するのか?問題提起を大切に、後は、フラットに流れを見つめる精神で続けてきたような感覚がありますね。

後篇に続きます。

Interview:Masato Takahashi(Any.inc

Edit,Text:Yuko Fujimoto

Photographs:Ryo Yoshiya

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