目の前には直径4mほどの大きな多肉植物が横たわっている。地面から虚空に向かって四方八方を突き刺すように葉を伸ばしている。もしかしたらGoogleMapで上空からこの多肉植物を見たら、鬼の顔のように見えるのではないだろうか?
その鬼の鼻の部分から全ての秩序をぶち破るように、非常にまっすぐな意思で天空を目指している太い茎のようなものが生えている。竹のような太さと勢いで3mほどの高さまで伸びていて、さきっぽが花のつぼみのようになっているように見える。…まさか、こんなスケールの花が咲くのか?
「種田さん、早いね」呆然としている背後から不意にSUGEEが現れた。降りるべき高速のインターの名前と、その後の道順(かなり細くて曲がりくねった道を何本も通った)、そして目印であるこのアガベの形状しか案内されていなかった僕は、慣れない場所への不安から、待ち合わせの2時間前にこの場所にたどり着いていた。SUGEEはそんなことは事前に知っていたかのように、ふわりと目の前に現れた。
「10年に1度ほど、この太くてまっすぐな茎が伸びてくる。何週間かしたら先にあるつぼみが大きく開いて、それは綺麗な花が咲く。そして一気に全てが枯れる。」
こんなに大きくて生命力が鬼のように強そうなアガベ(リュウゼツラン)は、10年後に花をさかせることに特化した生命体なのか?その花からどんな種ができるのだろう?その種はどのように別の場所に運ばれていくのだろう。

東京で事業目標の達成に追われる普通のビジネスマンである僕にとって、「シャーマン」を名乗り活動するSUGEEは、最初に出会ったときから謎おおき存在だった。「この人と話したら、なにか大きな変化があるのではないか?」自分の中の知的好奇心を押さえられず、知人のつてをたどってなんとか連絡をとった。話を聞かせて欲しいと申し出たところ、今日この時間(の2時間後)と、アガベの前を指定されたわけだ。
SUGEEの言う「祈り」や「現代のシャーマニズム」という一種あやしげな雰囲気をまとう言葉の示すところについて聞いて行くうちに、普段考えもしなかったような、人間本来の暮らし方や世界との向き合い方や愛情に関してまでを一気に考え直すきっかけになった。
SUGEEは旅人でもあるのだが、この対話は思考の旅のような体験だった。その記録をここに残そうと思う。

種田 さっそく本題から。「祈り」という言葉について話したいのですが、僕が初めてSUGEEに会ったのは、下北沢でやっていたライブでした。オリジナルの曲はもちろんですが、アメージンググレイス、美空ひばりさんの愛燦々なんかをジャンベを叩きながら歌っている姿を見て、一発で祈りの音楽だということを感じました。また、次にあったときは、渋谷でやっていたトークイベントで神聖な島である沖縄久高島の「祈り」について話していて、SUGEEが表現している音楽との色濃いつながりを感じました。
そのふたつの体験のあとに考えたのは、自分は「祈り」という言葉の意味をきちんと理解していなかったのではないか?というものでした。
「祈り」って、主体(自分)があって、大切にしたいとかんじる対象があって、主体から矢印のようなものが向かっていくというようなイメージがあるとして、その矢印の起点である主体が持つ主観、つまり「自分の中にある気持ち」が即ち「祈り」なんだといままで思っていたんです。

でも、SUGEEの話を聞いたり演奏を見たりしていると、どうやら何か主観的なものというだけでは説明しきれないなにかなのではないか?という風に考えています。
種田 三回目にお会いしたときは、SUGEEのジャンベ演奏とベリーダンサーのセッションを拝見しました。お2人のあまりの集中力というか没頭具合を見て、僕は「セッションとはどんな感じがするものなのか」という話を伺いました。SUGEEは「グルーヴは自分のものではない。演奏をしていると共演者とのあいだには流れが訪れる瞬間がある。その流れで乗れると思ったものに身をまかせるしかない」とおっしゃっていました。

その次にお会いしたときには「聖地とはどんな場所か?」という疑問をぶつけてみました。「パワースポットなどと言って、何か不思議なことが起こる場所のような捉え方をされる場合が多くあるが、断じてそうではない」「その場所を大切な場所だと感じた誰かが、そこを清浄に保つ行為をずっと続けて受け継いできた場所だ」とおっしゃっていました。
SUGEEの言葉全てに共通するように感じるのは、主観を越えたなにかに、自分の身体が突き動かされるように行動する姿のように感じます。
矢印の起点にある主観を「祈り」だとおもっていたのですが、それよりもむしろ自分と対象の間にある矢印の軸そのものがあると感じること。また、それを守るために具体的に日々行動することをあわせて「祈り」と呼ぶのではないだろうかと考えるに至りました。

…いきなり抽象的な話から始めてしまったのですが、「祈り」とは何なのか?というところを伺いたいです。僕が感じたことは、SUGEEが表現しようとしていることをとらえているでしょうか?
SUGEE「祈り」から人間が離れてしまったとき何が起こるか?ということを、自分の実体験を通してお話しましょう。
今、現代社会に生きていて、別に「祈り」なんて無くても生活できるでしょう。
SUGEE 高校生までのどかな田舎で生活してきて、大学入学とともに東京で生活を始めたんです。そのときに都市で生活するということと自分が本来もつ感覚とのギャップを感じて、かなり苦しかったんですが、そういうもんだと思って我慢しながら暮らしていたんですよ。それが限界を迎えて20台前半のときにパニック障害をわずらってしまいました。自律神経が乱されて、動悸とか不安感が突然襲ってきて、狭いところとか、例えば電車の中に15分いるだけですごく不安感に襲われてしまう時期があったんです。21歳から23歳までの間の2、3年がそんな時期でした。
今いる自分の方向性と都市社会とのズレをすごく感じて、自分らしさのようなものが全く見えなくなってしまった。すごくもがいた3年間でした。大学から大学院に入るまでの頃のことですね。
ある日、都会から少し離れて友人と高尾山を登りにいったとき、山頂で不思議な機械に出会ったんです。ローマにある真実の口と同じデザインの機械なんですけど、口の中に手を入れると血圧とか血流をはかって占い?診断?のようなものが出てくるマシンでした。

そのときかなり参ってたのもあったんだと思うんですが、迷わず手を入れて診断してみたところ、「ほんの少しの運動と規則正しい生活により、あなたに待ち受けている不幸なできごとを避けることができます」と書いてあったんです。それを読んだ時は正直最初笑ってしまったんですが、なにか引っかかるものがあって、翌日からランニングを始めたんです。続けるうちに、運動して汗をかくことによってだんだん調子が戻ってきた感じがあったんですよね。
SUGEE 死への恐怖とか、自分が発狂することへの恐怖とか、そういうものが断続的に襲ってくる。人前で取り乱したいけれどとりみだせない。自分の心の中だけで起こることなので、これはものすごく辛いです。
こういうことってなにかのサインだと思うんですよ。一体なんのサインなのか?これは、自分自身と実生活がズレていて、自分自身の内面と深いところまで向き合わなくてはいけない。というサインなんだと思います。
自分の心や意識で起こっていることなんだけど、それは考えたり悩んだりという意識の領域だけでなにかしようと思っても何も解決されませんでした。そんな状態は3年近く続いていたんですが、運動を始めて血流がよくなってストレスが緩和されてくると、本来の思考が整ってきたように感じました。
真実の口が言っていることも一理あって、行動を伴う自分の内面との対話は、確かに身にふりかかる不幸を遠ざける効果があるのかもしれない。
種田 なるほど。旅は「行動を伴う内面との対話」という感じがしますね。
SUGEE 自己との対話というと、心の中で音の無い声を響かせて問いかけ、言葉が返ってくるようなイメージがあります。しかし、自分の意識の中だけの対話だけではいつまで経っても問題は解決されないのです。
SUGEE 旅では、自分がいままで想像したことがないようなことがたくさん起こります。実際の旅でもメタファーとしての旅でも構わないのですが、具体的な行動を起こすことで、会った事もないような人と出会い、自分が想像もしなかったようなできごとに直面することになります。そのときそのときに自分が何を感じたか?ということの中に答えは少しずつちりばめられているものなのです。
「旅に出よう」と思ったときの自分は大学で政治学を専攻していて、日米安保を研究していたこともあり、フィールドワークを兼ねて基地問題を見にいくために最初は沖縄にいくことにしました。久高島をはじめとして様々な場所でいろいろな人たちと出会って話すうちに、人が自然のサイクルのなかで暮らす中で素直に自分自身と向き合っている姿を多く見ました。それが本来の人間の姿なんだと感じたんです。それは、東京で死の不安に苛まれながら暮らしていた自分にとって、決定的に足りないもんだったんですね。

SUGEE 「おおきな力」とともに日常生活を送る人たちです。
自然だったり、神だったり、ご先祖さまだったり、人間という種の根源的な想いのようなものだったり、森羅万象さまざまな、おおきなものとつながっている感覚を持って日々生きている人たちを多く見てきました。
僕が旅に出て感じたように、彼らは、日常的に「おおきな力」つまりコントロールできない非自己との関わりの体験を通して、自分自身の感覚と深く向き合っています。根源的なものとつながりから、大きな癒しの力を得ています。
種田 都市に暮らしている人たちは、そういったものとはすごく断絶していますよね。普段意識でコントロールできる範囲で暮らすことに慣れすぎて、そういった病気も含め、自己の問題を頭の中でどうにかしようとしがちになっているのかな?
SUGEE 断絶してますね。あるいは自分がコントロールできないと感じるものは存在自体を無視している。
その沖縄のあと、東南アジアにも行って同じような感覚を受けたんですが、人間はたとえどのような場所に生きていたとしても、癒しだったり、大きな根源的な力とつながっている感覚なしには本来は生きられないのではないか?ということを思ったんですよ。
種田 僕は青森の田舎の出身で、祖父がイカ漁師なのですが、家の中にも神棚があったし、裏に鳥居とほこらがまつられていました。毎日朝起きると、食べ物とお酒を捧げて無事を祈ってから海に出て行ったのを記憶しています。
漁獲がいい日は大漁旗を掲げて戻って来て、神様に感謝してたんじゃないかな…。僕も大学で上京してきたんですが、そういう日常の生活実感と、東京の生活実感って抜本的に違ったもののように感じます。

漫画や本で見ると、江戸時代の頃にはそういうのはもちろん色濃く残っていますよね。そのころと比べて、現代の都会で、どんなものとのつながりも感じずに暮らす生活との間には破壊的な分断がりますね。…なんで分断しちゃったんだろう?この分断って…、もしかして戦争とか関係ありますかね?
SUGEE うーん。その通りですね。人間の歴史を振り返ってみると、例えば産業革命なんかの大きな技術の進歩がある前の時代は、「祈り」こそが生活だった時代がありますね。
産業や交通が発達して、共同体の規模が物理的に大きくなっていくにつれて、その共同体全体を食わしていくために、より多くの土地と資源と食料を外部から調達する必要が出てきてしまいます。そうなると、全部の共同体が平等に広がるということは当然あり得ません。かならずぶつかり合いが出てくる。
そういうプロセスを経て、必然的に武力の時代が到来したわけです。
武器をとり、軍隊を持ち。これは全世界が経験していることだと思うんですけれど。
そういう他者とぶつかり奪うことばかりを考える枠組みの中で、「おおきな力」とのつながりを大切にするような気持ちは次第に失われて行ったということなんでしょう。
種田 確かに鎌倉時代(中世)は、民衆への仏教の拡がりも含めて「祈り」の時代という感じがしますね。戦国・江戸時代ぐらいまでは、祈りの枠組みでみんな生きていたと思うんですが、明治の文明開化あたりで、目の前に敵が迫って来て「そんなものとつながってる場合じゃねぇ」という感じになってしまったんでしょうか?昭和の敗戦はそれを決定的なものにしてしまったのかな。
でも最近、特に先進国では武力を背景にした衝突や対立という考え方よりも、限られた資源を分け合っていく考え方を持つような人が増えてきたようにも感じますね。
SUGEE 確かに領土やそこに住まう人たちまで奪うような考え方は時代錯誤なものになってきてますね。それよりも資源にまつわる利権だったりとか、情報だったりとか、外から奪ってでも手に入れたいものはピンポイントなものになってきてるのかもしれません。それを国と国とのあいだの友好関係だったり、同盟関係だったりをうまいこと使って、利害関係を調整してそれぞれの実利を調整する方向にいってます。
しかし、見えにくくなっているけれど、自分が属している国や、コミュニティや、宗教的な共同体の拡張を目的とした武力が背景にあるということは変わらないと思います。ただし、もう拡張しきったんじゃないか?これ以上拡張できないんじゃないか?ということにも各コミュニティは薄々気づいていますよね。
そういった実利を得ようと考える人たちがどう動くのかによって世界はこれからも変わると思いますが、基本的にはまだ武力を背景に奪い合う時代の枠組みの中にいるのではないでしょうか。
種田 なるほど。武力を背景とした実利追求の考え方の中で「祈っている場合じゃない」という状態自体はいまも続いてる感じがしますよね。
SUGEE ブッダ・キリスト以降のここ2000年ぐらいは、お互い非寛容な非常に暴力的な時代を過ごしてきたわけです。
でも本当にここ最近は、SNSをはじめとする情報ネットワークや交通の進歩によって、世界中の人が急速に目に見えてつながっていっている感覚が実感としてありますよね。対立していた相手が意外に自分と変わらない生活を送り、似たようなことを考えていることがわかってきた。
しかしSNSによって国を越えて人間同士のつながりはできてきたように思うんですが、なんとなく「心まではつながっていない」のではないかと感じています。国同士の奪い合いという考え方自体をふるいものに塗り替えるところまであと一歩のところまできていますが、惜しい!ですよね。
例えば、さきほどの沖縄の話ではないですが、ネットワークでつながっている人たちが、おおきな存在とのつながりを時間と場所を越えて共通なものとして感じることができるのならば、心までがつながることができるのではないかと思います。
これからはネットワークの中の個人同士のつながりの中に「あたらしい祈り」や共通の癒しが必要になってくると思います。そもそも人間という動物はそういう存在ですから。
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