理系的な考え方とその利点について

まず「理系」と聞くと、同時に「文系」を思い起こすことが多いと思う。
なぜか多くの人が、文系と理系を分けて、どちらに所属しているのか決めたがるからだ。
ただ、それぞれ学習の中で扱う科目が違うこと以外、その違いを明確に言葉で表現できる人はそう多くないように思う。
理系・文系とは、科目の集合体を指していることが多いように、曖昧なものを扱う言葉として使われていて、正確に意味を指す言葉として使われていないと思っている。
それ故に、「理系・文系的な考え方が、何を指しているのか」ということを意識している人もそんなに多くない気がしている。
考え方自体は、「理系的」と「文系的」という方向性があるものとして、それは一体どういう状態なのだろうか。
と、気になって書店をふらついていると、”科学的とはどういう意味か”という本がたまたま目に入り、その場で購入して読み進めた。

この本は、科学的という状態はどういったことを指すのかと同時に、科学を理解せず避けることが、日常において「損をする」という内容が書かれた本だった。それと同時に、理系的な考え方とその利点に触れていて、その内容が自分にとって大変参考になったので、知見としてまとめておくことにした。


■理系と文系の違い

理系・文系とは、それぞれが扱う科目をカテゴリ分けすることに用いられる。小学生の授業がスタートする時期から、既にそれは存在する。
国語、算数、理科、社会などといった授業があり、それぞれが分類されている。この時期に「学ぶ」こととは、イコール「ものを覚える」ことだ。言葉の読み書きを覚え、同じように計算などの仕組みについても覚えていく。この学ぶ段階で多くの人が理系・文系を意識していくらしい。
それは、同じ「覚える」という行為でも、それぞれの科目に違いがあり、得意不得意がハッキリしていくという点が原因らしい。その違いは「情報を覚える」ことと、「方法を覚える」ことだ。
文系科目は情報を覚えることで、点数を稼ぐが、理系科目は方法を覚える必要がある。例えば数学で答えが「1」になる問題があるとして、その方法(式)には様々な道筋がある。そこには無限の方法があり、方法自体を理解しないと、問題に対応出来なくなる。
「情報を覚える」学習は、それが必要な時に的確に取り出せる能力が求められる。これに対して「方法を覚える」学習は、それらを用いて加工する方法を覚えることが求められる。


■情報だけを覚える事の弊害

「覚える」という行為を実践する際、理解することが難しい手法、扱う情報量が多い方法などに対して、固有の名称を付けて覚えやすくする方法が多く利用されている。
名称を利用する本来の目的は、名称と方法を同時に覚え易くすることである。
ただ、方法を扱う言葉なのに、その名称を情報として覚えることが評価されたりする。その最も伝統的な例が九九だという。九九は「方法」を音や言葉で記憶させてしまうから、頭の中で数字を扱っている感覚を無くす。数字を扱うという最も大事な感覚を遠ざけることになってしまう。
こういった「方法を扱う名称」を覚えて、評価されていくことで、次第にそれを覚えることで満足してしまうようになる。そうなると、それ以上理解するために必要な領域へ、無意識的に踏み込まなくなってしまう。

「方法を扱う名称」で言えば、僕の仕事では日常的にそういった言葉を皆が扱い、会話の中を行き交っている。俗にマーケティング用語と呼ばれるやつだ。また、僕の仕事は受託業なのだけど、お客さんの商材によって極度に専門的な用語を扱うこともある。
こういった名称を扱う目的は、言語を記号化することによる、記憶の簡易化と伝達の効率化である。
少ない言葉で多くの意味を扱える集団は、コミュニケーションの時間を短縮し、密度の濃い時間を作ることが出来る。ただ、本来的には言葉より意味が先なのである。
言葉を扱うことに注力しすぎて、意味から離れてしまう可能性を作ってしまうと考えれば、それは非常に危険だと言える。また、その名称に対しての理解が違っていると、それだけで本来の目的が意味を失ってしまう。
名称を知っていることと、それを理解していることは同義でないということ。名称に対しての理解を常に意識することが非常に重要であり、その考え方が理系的でもあると言える。
理系的な考え方を優先することは、意味や方法から離れて言葉を扱わないことでもある。


■理系的な考え方について

理系的な考え方とは、「意味や方法を丁寧に扱い、物事を考える状態」と言えると思う。結果そのものを示すのでなく、結果に結びつく過程を強く意識した考え方が、理系的なのだ。
その状態は「論理的」という言葉が意味する内容に似ている。「論理的」という言葉を簡単にインターネットで調べた例によると、“物事に筋道を立てて考える様”と記されている。

ただ、無理に辻褄を合わせた理屈の展開も存在するのも確かで、そういった思考を論理的と言うのは、少し無理がある。屁理屈は過程に目を瞑って結果を出すことだけに集中した思考であり、それは論理的とは言えない。
なので、この場合は「よく理屈・理論を見極めて、物事を考えている」という状態が論理的な思考であり、それはこの段落の冒頭で書いた「理系的な考え方」とかなり近いものであると考えられる。

ちなみに個人的な話だけど、僕の周囲で“この人は論理的に物事を考えている”という人は、同時に“理屈っぽい”という印象の人が多いと感じている。理屈っぽい人は理系的な人なのかもしれない。


■文系的な考え方について

では反対に、論理的ではない状態が、イコール文系的なのか。上記と同様にインターネットで「非論理的」という言葉の意味を調べた例によると、“物事を考える際に道理を用いて考えない様”と示されている。
これを個人的な解釈で表現すると、 「感情を優先して物事を考えている状態」であると、僕は思う。

感情は理屈・理論を帳消しに出来る手段であり、結果だけを取り上げ、過程を拒絶する行為になったりする。
もし理系的な考え方が良いものとして決めつけるのであれば、この「感情を優先して物事を考えている状態」を文系的としてしまうと解りやすいのだけど、これは「非論理的」な思考を指すものであり、文系的とイコールにするのはあまり本質的ではないと思っている。
ただ、理系的な人はまず「理屈っぽい」、そして文系的な人は「感情を優先しやすい」と考えて周りの人を見渡すと、少なからず納得する部分があるのは確かだと思っている。

ただ、本来的には文系とされる科目であろうと、論理は扱うものである。論理とは言葉と言葉の意味を繋ぐものであり、結果への方法や過程を意味するものである。科目で分けて定義すべきものではない。


■問題を捉える

そもそも理系的、文系的というのはカテゴリとして存在するものであって、明確に定義されているものではない。ただ、考え方として「結果より過程や方法を重視する」、「名称ではなく意味を優先して捉える」というのは非常に重要なことだ。理系的な考え方において、最も大切な点の1つはここだと思う。
結果を捉えるのではなく、問題自体を見つける力である。問題を見つけることは答えを見つけるより何倍も難しい。
ピタゴラスイッチの佐藤雅彦さんはある本で、“世の中でいちばん難しいのは、問題をつくることです。問題のすごいところは、出来た瞬間その先に答えがあること。”と語っていた。

問題を正しく捉える事に自体に大きな価値がある。
日常的に物事の意味を問い続け、問題を捉える力を鍛えているような思考状態にあることが、「理系的な考え方」のメリットなのだと考えている。

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