言葉の正確性を捉える

Yoichi Yagi
4 min readApr 20, 2016

--

僕がインターンシップでお世話になったFICCという会社や新卒で入社したVMLという会社で、先輩方から様々なことを教えて頂いた中でも、自身の基礎となり、仕事をする上で常に意識の中心に置いている、「言葉の正確性を捉える」というものがあります。

「言葉の正確性」とは何か。という点で、例えばビジネスマナーでよく取り上げられるような、”本来の意味を理解せず使われていて、かつ多くの人が使用している言葉” などが、良い例の一つと思っています。
有名な例だと「了解しました」という言葉。これは多くの人が、何気なく仕事で使用しているケースが多いと思いますが、実際には、目上の人に使うと失礼にあたるという言葉ですね。僕はこの例を覚えてから、上司に理不尽な要求をされた場合に返事する際、「了解しました」という言葉を使用するようにしています。言葉を正確に扱えていないと、伝えたいことを伝えるために作った言葉が、意図している形で受けとってもらえなくなります。

僕はディレクターとして取引先と向き合っていたり、プランナーとして企画やアイデアを考えることが主な仕事ですが、多くの割合が言葉を扱う時間であり、ほとんどが言葉と向き合っている仕事と言っても間違いではないと思います。
このような仕事を行う上で、僕が最も避けなければいけないと意識していることは、「自身が意図している解釈と違った意味で、相手に解釈され、言葉が受け入れられること」です。
様々な意味を含めて、「伝える」ことが僕の仕事なので、まず「理解してもらう」ことが一番最初の段階です。次にその理解を持った上で、これも様々な意味を含め、「行動してもらう」ことが二番目の段階だと思っています。

入り口である「理解の段階」で、自身の意図している意味と違った解釈をされてしまうと、期待している「行動」が実行してもらえないことがほとんどです。
また、言葉の正確性をきちんと捉えられていない場合に一番大きく影響するのは「説得力」だと思っています。
ありがたいことに、僕は経験の浅い頃から、取引先へ直接プレゼンを行う機会や、マネジメントを単独で任せて頂いたりと、様々な働き方をさせてもらったのですが、どうも手応えがない。上手くやれないという期間があったことを覚えています。今思うと、言葉を正確に扱えていないことで、説得力に通じる「重み」のようなものが無かったのだと、感じる部分が多いです。

言葉というのは誰もが扱う故に、求められるハードルも高く、突き詰めて言葉と向き合っている人の文章には、時代に左右されない「強度」のようなものがあると思います。

例えばいかにも綺麗な風に見える言葉を並べた、ポエムに近いような言葉の表現を、最近よくTwitterやInstagramで見かけることがあります。
何かに強く向き合って、絞りだすように表現された言葉でないものが多いと思うので、それらを一様にすることが良いわけではないのですが、個人的にそのような投稿に対してには苦手意識を持ってしまっています。

綺麗な言葉を並べられているように見えるのだけど、実際その言葉の意味と向き合っていないように感じてしまうものが多くて、「これが私の自己表現です。オシャレでしょ?」と言われているような気分になります。
日本語というもの自体が、曖昧にぼやかしていることの美しさといった美的感覚を許容してきた背景があると思いますし、実際支持を集めることが多いと思っています。

例えば音楽アーティストのインタビューなどを読んでいると、曖昧さを許容する部分がある方が多いように感じます。
それは、創作の過程によって概念的に物事と向き合う割合を大きくする必要性があったことや、言葉の美的感覚が持つ意味と真剣に向き合ったからこそ、あえて許容できているのだと思います。
その表現に乗っかるような形で、深く言葉と向き合っていない人が曖昧さを許容したからとしても、それはタダ乗りしているだけで何の意味も持たないと考えています。

話題となったYahoo!知恵袋の投稿に回答されている先生方の投稿を見て、言葉の意味を正確に理解し、何を伝えたいかを明確に、かつそれがとても論理的に書かれている文章というのは、本当に美しいものだと改めて感じました。もちろん経験からくる説得力のようなものはあると思いますが、それを差し引いたとしても、これは強度のある文章だと。

本当に良い言葉というのは、感情的にも論理的にも人を動かすと思っています。
「言葉の正確性を捉える」というのは、人を動かすことに対して、感情的にも論理的にも深く考慮された状態で言葉を扱うことだと思うので、久しぶりにハッとした出来事でした。本当これぞまさに知恵袋だなあと。

--

--