…2007 (結局のところ、それはプレイ道具なのか?)

Room No.0001
Aug 9, 2017 · 13 min read

2007年に『現代思想・入門』 (宝島社) を再読し旧ホームページへアップしたレビューを以下に再掲する.

その際,末尾には,〈現存在や悟性には力を感じているけれど〉という追記があったことをこの冒頭に記す. また,再掲にあたってリライトし,画像,多数の改行を加えた他,ヘーゲルへの補足(18世紀後半のカント→ドイツ観念論→青年ヘーゲル派/ヘーゲル左派)を削除している.


学生時代に影響を受けた1冊。

デリダの〈形而上学批判〉を導き手として、〈ポスト構造主義〉のポジションから現代思想の歴史を眺めなおす本だ。

といっても〈ポスト構造主義〉という名の具体的な思想は存在しない。

〈形而上学批判〉を含んだ、構造主義以降に現れた哲学/思想が、便宜上そう呼ばれているにすぎない。

「水平線の分離から生じる無」_underline,2014

物語はこのようにして始まる。

17世紀前半を生きたフランスのデカルトから始まる近代哲学、その総決算をしたとされる19世紀の哲学者ヘーゲル(独)に象徴される哲学のあり方=現実を言葉で説明しつくす〈知の体系〉という建物(柄谷行人がいうところの〈形式化〉) — — その天上的なモノを19世紀半ば以降カール・マルクス(独)は地上に引きずり降ろそうとしたが、それもまた建物だった。

天上、つまり、著作のないソクラテスの弟子でありアリストテレスの師でもある紀元前は古代ギリシアの哲学者プラトン以降ずっと信じられ続けた〈形而上学〉への批判がここに始まってゆく。

その起源を駆け足で追うと、

1.ニーチェ(独)は19世紀後半〈神は死んだ〉と宣言し、形而上にある〈理念的な人間〉の死を宣告。〈意志〉からの視点を解体して、狂気・暴力・混沌といった〈力への意志〉を振りかざした。

2.ソシュール(スイス)は20世紀前期、言葉の記号性を振りかざし、〈差異〉しかないとし、形而上学的「言葉=内容」の同一性を破壊した。

3.20世紀前期のフッサール(オーストリア)は、エポケー=保留を用いた〈現象学的還元〉を振りかざした。「偏見を保留にした上でその対象を考察してみよう」という、形而上学的「言葉=内容」の同一性の真偽に留保をもたらした技術であり、より哲学的に言えば、形而上学的〈世界は客観的にできている〉前提を括弧に入れることで判断停止、再考を促すスタイルをとる。考察は自らの意識から始まるため〈生きた現在〉を保証する〈生活空間〉を前提とする。そのあり方はいずれ(かつての〈理性〉を〈経験〉に置き換えたにすぎない)形而上学であるとしデリダに批判されるだろう。この現象学は実存主義と接続する(サルトルは〈生活空間〉にあたる部分にマルクス主義の解釈を当て嵌めた)。

4.ハイデガー(独)は20世紀中期、現存在=ダーザインという概念の展開で、形而上学は存在の忘却であるから《形而上学が〈説明したにすぎない〉人間像》ではないものを、人間の存在の核に据える(存在論)。

現象学者フッサールとその弟子ハイデガーは、古代ギリシアから脈々と続いてきた〈形而上学〉から生まれた異端児だった。

〈客観か主観か〉という対立構図は、かつてならヘーゲルと比較するならカントの思想に、そしてマルクス主義に対して実存主義や現象学があったが、20世紀中期にあたる最後の実存主義者であり現象学者であるサルトルの思想(自身の行為に責任を持つ美しい人間像;現在の欠如から越えようとする人間像)は、マルクス主義の客観的側面を〈状況〉と捉え、そのなかで生きていく主観的な姿を追求したため、対立構図ではなかった(実存主義はヘーゲル左派を批判する形で19世紀半ばにキルケゴール→ヤスパーズ→ハイデガーという系譜を持ち、ここで現象学と出会う)。

しかし、五月革命(60年代末の全共闘運動に類似する)の敗北からそれらは終わり、〈主体の死〉や〈人間の終焉〉を唱える1960年からの構造主義(レヴィ=ストロース;静態的で反ヒューマニズム;科学主義)が最勢力として台頭することになる。

記号学の影響もあるレヴィ=ストロースは、同時代人のサルトルを〈コギトの理念に囚われた思想である〉と批判する。そのコギトとは、デカルトの有名な文句〈我思う、ゆえに我あり〉から始まる〈理念的な人間〉のことを指す。それは抑圧的なイデオロギーであり、ブルジョワ階級によるヨーロッパ中心主義(自民族中心主義)を囲い込む装置と化してしまっている(極端に言えば侵略の歴史の根底部を補強してしまう) — — そのようなことをレヴィ=ストロースは、人類学のもとで未開の地=無文字社会を旅し研究していく中で確信していく。

この点においてデリダは、構造主義は〈未開の地の技術〉を契機とし、より自民族中心主義を押し進めている、と批判する。客観主義からイデオロギーを取り払おうとしたにすぎない、とする。

〈客観か主観か〉という構図自体が乗り越えられなければならないのだ。

実体より関係性、

経緯より総体的関係、

見える制度よりそれを支える無意識構造=象徴秩序(ちなみにマルクスは見える制度=経済上の動機を基礎に理論を打ち立てた。また、精神分析学のフロイトが無意識を提唱したのは20世紀初頭)、

それら諸要素を形式化し押し進めていくこと。

だが、構造主義にも様々な問題点があるとされ〈ポスト構造主義(反{人間/ロゴス/西欧}中心主義)〉と呼ばれる流れの中からいよいよ批判されていくことになる(ヘーゲルらドイツ観念論の起源は批判哲学とも呼ばれるカントから始まるが、批判に留まる辺りがデリダは似ている)。

ジャック・デリダは、プラトン→アリストテレス→デカルト→カント→ヘーゲル→ソシュールという系譜を持つ形而上学に対し、超越論的に現実を言い尽くしたい欲望が、理念や観念といった神学的ともいえる建物を生んできたが(それを〈現前の哲学〉と呼ぶ)、そのような〈A=Bである〉という同一性の夢をいくら追おうが、追った数だけの精密な模型を作ることしかできず、なぜなら間に言語があるからだ、とする。むしろ、その翻訳過程から現実がずらされていくような結びつきがあり、その〈差延化〉から見出される〈意味されるモノの不在〉が、無際限の〈戯れ〉を生むのだと述べる。

それを証明するためにデリダは様々な建物の内部から〈脱構築〉を行う。

また、先に出てきた〈言い尽くしたい欲望〉についてジル・ドゥルーズは、ニーチェを引きながら〈禁欲主義的理想〉が原動力になっているのだと述べる。現実という生きた無秩序性を恐れる一種の弱さであり、支配された人間、弱い人間が状況を打ち消そうとする道徳的なモチーフが裏にあるのだと述べる。

二人組時代のドゥルーズ=ガタリは、超越論的視点を失った、脱属領化した、遊牧的アナーキストを描写する。数々の(個々に流れる時間すら違う)諸分子が(系譜的な樹木=ツリーではなく)リゾーム=シダの地下茎のように縦横無尽に走っては地上に顔を出し葉を見せてはまた地下へと横断的に走って際限なく形成され続けていく(生成する異質性)多種多様体という精神分裂状態=器官なき身体のなかで偶発的な問題にぶちあたったときに一回的な組み合わせとして固有名詞を持つ思想が現れるにすぎない — — イデオロギー=虚偽意識もその程度にすぎない — — そのような欲望機械のもとで劇場なき人生=一回性の出来事という解放のもとついには戦争機械が描写される。

ドゥルーズはこれを領土を欲しがる定住民の内的比喩に用いていく。脱属領化の実験を急速に押し進めた先の渇いた自己破壊の危険に気をつけながら発見し創造する欲望人間を指し示す。


本書を改めて読み返そうと思ったのはサルトルへの関心が湧いたからだった。〈状況〉のなかでいかに美しく責任を持ち現状を越えていくかという姿勢はとても普遍的に思える。

ただし、サルトルは〈状況〉にマルクス主義を代入し、生涯それを遂行した。資本主義の成熟の果てに共産主義が現れるとするマルクス主義(科学的社会主義)は、全共闘60年代を経て最も反省されるべきものとして批判に挙げられ、ゆえにそれと心中したサルトルも当然批判されることになる(ちなみに、レヴィ=ストロースは、実存主義の現場において、個人的問題を実存主義に持っていくことをカフェのおしゃべりのようだと危惧し、いわば形而上学を神聖視するように、哲学から人類学へと移行した。その考え方――危惧の仕方――は好きだ)。

僕は、五月革命はもとより全共闘運動すら(生前だったゆえに)記憶になく、なぜ戦争を回避できなかったのかという日本の戦後思想も当然イメージできない今、バブル崩壊以後の風景のもとで(だがそれさえも情報レベルでしかイメージできない世代が現れている現在)現代思想の安易なリバイバルを避けたいという気持ちがある、と同時に、(キルケゴールの影響を受けた)カフカ的な実存主義を経つつ海外旅行によって構造主義的な客観性を発見したのちに知のファッション化というニューアカデミズムの残照を浴びてこの本に偶然出会いポスト構造主義に関心を示した学生時代の僕は(その後のオタク文化→動物化を眺め)そのまま20世紀を個人のなかで繰り返したのだと考えた。

と同時に、上でまとめた流れまでは誰もが思春期において普遍的に体験する流れなのではないかと思うのだ。

(中身は代替可能だが)生の〈状況〉に対して個人生成した実存主義は年を経るにつれ曖昧になりヒューマニズムが一番分かりやすいという結論に達した大衆が資本主義社会=有機的な客観世界を相手取る過程で生じるストレスゆえ必然的なメディアを消費しながら時を過ごす経緯。

「Dual Lattice」_underline, 2017

日本の〈戦後思想〉は、大戦中、戦争を支えた〈皇国思想〉に抗うことができなかった反省から、アメリカ経由の民主主義をそれに対置させる戦後民主主義と、その延長上にある戦後マルクス主義の、二系列があり、吉本隆明はそれを〈現実感覚の有無〉を評価基準に、批判していく。例えば、ロシア語で知識階級や知識人を指す〈インテリゲンチャ〉は理念的(理想的)な一基準(一種の模型)から現実に対し異議申しだてをするが、結局、現実と通じあえず思弁的なまま終わってしまい(言語論、美術論にも当て嵌まる)、現実から目を背けたユートピア空想(自己完結)になり、思想の場から脱落する状態になる、と指摘し、家族のように遠い血縁で全員が繋がっているような共同幻想が日本の国家を形成させていると述べ、現実感覚からのスタートを指揮する(まるで現象学者フッサールだ)。西欧と同じくマルクス主義が失墜し(理念と現実との落差への失望から)70年代から日本に現れるポスト・マルクス主義(その欠陥を見つけだして修正するタイプと、根本的な欠陥があるとして継承を断つタイプの二つ)それをも批判していく。吉本隆明は、戦後思想においてマルクス主義をどう越えていくかというスタイルだった。

構造主義の著作が翻訳されていくのも70年代だ。


1980年、その吉本隆明と対立する形で、フランス現代思想である〈ポスト構造主義〉が登場する。

蓮實重彦による — — デリダ(言葉は事実からつねにズレる)的な、またドゥルーズ(文学は弱さの再現ではないのか)的な — — 吉本隆明批判だ。さらに柄谷行人は〈建築への意志〉や〈形式化〉の徹底により自己破綻を露わにさせる姿勢でマルクスからゲーデルなどを批評していく。加えて、浅田彰『構造と力』によって〈ポスト構造主義〉は完全に日本でも読まれるものとなり、〈形而上学〉や〈マルクス主義〉の影を取り払ったフラットな視点を持つことができるようになった。


別冊宝島『現代思想・入門』を再読して思いだしたのは、当時ドゥルーズがカッコいいと思ったことだ。快楽主義的、90年代クラブカルチャー/テイストレスカルチャー受容とも合う。僕は、結構ベタにデカルトの心身二元論を何の影響なのか引きずっていて、23歳の頃に精神から身体へと比重を転向した。言語表現を凍結させ、荷物はデリダ的脱構築で棄ててゆき、ドゥルーズ的なスタイルを実積した。

しかし、上で述べたように本書再読のきっかけはサルトルへの関心だった(松岡正剛の言葉を借りれば《サルトルは「意識」そのものではなく、意識が世界と接するときの「仕方」にこそ関心があったのだ》という〈仕方の問題〉こそ関心対象だったからだ)。

例えば、ドゥルーズは実積において自己破壊の危険性を警告しているが、それを隣に据えれば、複数の強度の耐性が形成されてしまったゆえの、オーヴァードーズな状態にあり〈大きな物語〉消滅を前提とするポストモダンにおいて、日本、つまり大きな状況への不安感が増していった、ということ。とくに気づいたのは、僕が〈状況〉を設定し表現を行う人間であり、表現において言葉なきダイヴを繰り返していたということだ(後者は、ゆえに努力しなければ僕には言語化し得ない)。

本書は84年に別冊宝島のシリーズとして刊行されたものだから、だいぶ古い。ここまでのフランス現代思想を、結局、僕は遊び尽くしたということなのかもしれない、それらはStuff、プレイ道具にすぎなかったのかもしれない(そして〈客観か主観か〉の枠を越えた現代思想に対し、遊ぶ以上の意味を見出せないでいる)。

デリダ、ドゥルーズに加えられるクリステヴァ、リオタール、ボードリヤールといったポストモダニズムの面々もいるが、今は、フーコーに最も興味がある(しかし、それは新たな〈状況〉を期待してのことであるのが、読了後に判明したのが気にかかる)。

_underline,2017.8(2007.1)

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