2014年、ぐっときた映画3本。

雪子
10 min readDec 31, 2014

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※過去のブログのおひっこし記事です※

毎年恒例(にしたいと思っている)1年のまとめ映画エントリー。
奇しくも今日は、新宿ミラノ座の最終日。日本最大の大スクリーンで、最後の上映「E.T.」を観てきました。

最終日に集まるくらいですから、観客席を埋め尽くすのは、映画愛とミラノ座愛にあふれる人たちばかり。大きなスクリーンで「E.T.」を観ながら、別れを惜しんできました。

観ながら考えていたのは、やはり自分は、物語にカタルシスを求める人間なのだなと。小さい頃からずっと、物語に救われてきました。
だから今年の3本も、わたしを救ってくれた3本です。

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「思い出のマーニー」

映画があまりにも素晴らしかったので、原作まで読んでしまいました。観終わった後、感動しながら「今年のいちばんはこれだな」と確信して、今に至ります。

主人公の杏奈は12歳。幼い頃に両親を亡くした彼女は「もらいっ子」で、義母に心を許すことができず、誰にも心を開くことができません。では「心を開く」とは何なのか。そもそも、自分の心というものはどうやって確認するものなのか。その問いに、大人になったわたしたちははたして明確に答えられるでしょうか。

杏奈は映画の冒頭で、グループで遊んでいるクラスメイトたちを見ながら、ひとりスケッチブックに大きな輪を描きます。

「この世には目に見えない魔法の輪がある。その輪には内側と外側があって、私は外側にいる人間」

輪の内側と外側に人を表す絵を描き、彼女は「私は、私が嫌い」と心でつぶやく。そんな杏奈に担任の先生が、何を描いているの、と声をかけてスケッチブックを覗き込もうとします。杏奈は拒みますが、先生がもう一度、見せてよ、という仕草をすると、杏奈は「そんなに言うなら仕方がない」とでも言うように、渋々スケッチブックを見せようとします。が、その途端に先生は他の生徒に呼ばれ、背を向けて立ち去ってしまいます。そう、「輪の内側の中に」。

杏奈はムッとしますが、すぐに、まるで「なんでもない」かのような顔をします。「ほらね」とでも言わんばかりに。

この場面は原作に無いのですが、物語の中心にある魔法の輪の概念と、杏奈の内面の葛藤を伝える象徴的なシーンだと思います。杏奈は劇中、感情を揺るがすさまざまな出来事に巡り会いますが、その度に「なんでもない」顔をします。自分は外側の人間だから、内側に入ることなど決してない。そう頑なに信じる彼女は、「なんでもない」顔をして、感情を出しません。感情を押し殺している、とも言い換えることができるほどに。

そんな杏奈は持病の喘息の療養のため、北海道の親戚の家に預けられます。大自然は人間社会ではないので「魔法の輪」などありません。お気に入りの場所である入江で、杏奈はマーニーに出会います。杏奈は「魔法の輪」が無いからこそ他者であるマーニーを受け止めることができ、はじめて自分以外の他者を受け入れ、理解し、そして愛するようになります。マーニーに対しては、「なんでもない」顔をしません。内側も外側もない相手だから、素直に感情を表し、互いを尊重し合うこと、ひいては「許し」まで覚えます。杏奈はマーニーとの出会いで、人間が魔法の輪で二分化できるものではないことを学ぶのです。

杏奈をそこまで変えるマーニーとは、一体何者なの? という疑問については映画を鑑賞していただくとして、やはりこの作品が見事なのは、12歳という年齢にあると思います。自己と他者との境界に悩み苦しむ、繊細であやうい時期。自己を知り、他者を知り、他者もまた自分と同じように性格や生活があるのだということを理解するのは、頭ではわかっていてもなかなか難しいことだと思うのです。

告白すると、開始10分で泣いてしまいました。主人公の杏奈が、あまりにも昔のわたしに似ていて。

じぶんの小さい頃の写真を見ると、まったく笑っていないんです。こんなこと言ったら、「映画に感化されてまたそんな…」とか思われてしまうかもしれませんが、本当に一枚も笑っている写真がない。原作の言葉を借りれば「ふつうの顔」をしている。歯を見せて笑えるようになったのは、きっと中学に入ってからだと思います。もちろん、自分を外側の人間だと思っていました。

だからこそ。

殻に篭り、意地を張り、他者を許容できない杏奈の姿が、過去の自分に被って仕方なかった。映画を観たあとのいちばんの感想は「もっと早くこの作品に出会いたかった」でした。

原作がもともと名作、ということも大きいと思うのですが、観客に伝わるように映画化するシナリオライティングもとても難しい課題だと思います。主人公を日本人に、舞台を北海道に、そして独自のエピソードを折り込み、原作の良さを最大限に伝える作り込みにとても感動しました。

原作も、映画も。一生の宝物になりそうです。

「ウォルト・ディズニーの約束」

幼少期の記憶に、折り合いをつけたくなることってありませんか。

「折り合い」だなんて、何を言っているのだと思う方もいらっしゃるでしょう。過去は過去ですし、生まれてくる環境を、わたしたちには選ぶことができません。(運命学や宗教学ではまた異なった解釈になるのでしょうけれど。)まずは生を受けたこと、育ててくれた人がいることに、感謝しなければいけませんね。

けれどその前提条件の上で、どのような環境だったとしても、思い描く理想と現実の間に葛藤が生まれるのは、至極当然のことだと思うのです。理想は決して現実にはなりえない。もう少しこうだったら、あのときこうなっていたらと思い描くのはある意味人間らしくもある、とわたしは思います。

「ウォルト・ディズニーの約束」、これはディズニーの名作「メリーポピンズ」制作秘話ともいえる作品。ウォルト・ディズニーが「メリーポピンズ」の映画化権を原作者のパメラ・トラバーズに交渉するところから、物語は始まります。無事映画化権を獲得したは良いものの、脚本、演出、撮影まで、パメラが見せるのは異常なほどの細部へのこだわり。ウォルトはなんとしても映画化したいという気持ちから彼女のこだわりに応えようとしますが「どうして、そこまで」という気持ちが拭えません。

物語が進むにつれ、彼女が「メリーポピンズ」へ見せるこだわりの理由が、徐々に明らかになっていきます。それが、彼女の「折り合い」でした。

過去は過去、変えることなどできません。それが幼少期の出来事であれば、その葛藤はなおさらです。

誰しもが理解している事実ではありますが、ではその過去を咀嚼して飲み込み消化することができるかといえば、また別の話なのではと思います。そこに、人は悩み苦しみ、葛藤する。つまり、ドラマが生まれるのはいつだって「折り合いのつかないできごと」だと思うのです。わたし個人の見解ではありますが、あらゆる創作作品は「私的」であればあるほどその魅力が増すものだと考えています。パメラもまた、至極「私的」な想いで作品を作り上げていました。

迷ってばかりいるわたしが、「これでいいんだ」と救われた作品でした。

「ジャージー・ボーイズ」

クリント・イーストウッド最新作。「イーストウッドの最新作を、映画館で観る」というのはなんて贅沢なことなのだろうと、その幸福を噛み締めながら観ていました。公開後まもなく映画館に足を運んだのですが、大きなシアターが満員になっていて、なんともいえないうれしさが込み上げたのを覚えています。

60年代のアメリカで、ビートルズと並ぶほどの人気を集めたザ・フォー・シーズンズのドキュメンタリー作品。ブロードウェイでの大ヒットミュージカルが原作になっているので、映画もミュージカル仕立てになっています。

人気ポップスグループの、成功までの苦難の道のり。輝かしいアメリカン・ドリームの裏側に潜む闇。「シェリー」「君の瞳に恋してる」、聴き慣れた音楽の裏側にあるドラマには、意外性のあるエピソードもあり素直に驚きながら観ていました。

けれどいちばん驚いたのは、この映画全体から伝わるみずみずしさ。演技がとても良いことも一因であるとは思うのですが、よくあるドキュメンタリー作品、には決してなっていなくて、撮影や演出、構成まで、とてもみずみずしい仕上がりなんです。抜群の安定感はあるにしても、まるで、若手の映画監督が撮影したかのような新鮮さをもつ作品になっていて。

イーストウッド、御年84歳ですよ!? 大巨匠なのに、どうしてこんなにみずみずしい作品が撮れるのでしょう。正直、説明がつかないなと思って、観終わった後混乱していました(感動しながら、ですよ!)。なぜこんなことができるのだろうと色々考えていたのですが、説明を求めるだけ野暮なのかもしれない、という結論に至りました。

映画と音楽を心から愛している彼だからこそ、ここまでみずみずしい作品が生まれたのだと、そう思っています。愛が理由だったら説明とか整合性はいらないですものね。

特に、爽快感あふれるエンドロールは圧巻。
ウイスキーでも飲みながらゆっくり観てほしい、大人のための映画です。

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今年の3本。邦画はジブリ作品のみとなってしまいましたが、こうして振り返ってみれば、この1年を象徴する3本になっているなと思いました。

去年の記事を見ると、「地獄でなぜ悪い」を観て「泣いた」とか言ってるので相当気が滅入っていたんだろうなぁと思います(改めて言いますが泣くような映画じゃない)。観る側の状況、バイアスの強さは作品の解釈に大きく影響しますよね。昔はそれもあんまりよくないのかなと思っていたのですが、最近は、それでいいんだなと思えてきました。

今年はきっと変化の一年で、今年が終わる頃には自分がきっとずいぶん変わっているんじゃないか。

そんなことを思っていたのですが、本当にそのとおりになりました。

なんていうかな。迷わなくなって、足場が固まった気がするというか。

「ああ、わたしはこれから、きっとこうやって生きていくんだろうな、この生き方をずっと変えないんだろうな」というものが、わりと見えました。

仕事を辞めて、「なにもしない」をして、作りたいものを作って。

あのからっぽの時間に、ずいぶんと救われました。

そして、そのあと新しく始めたお仕事にも。

去年のことを考えると本当に葛藤の日々で、その辛酸さたるやもう二度と思い出したくないくらいなのですが、今年はほんとうに色々な人のやさしさに救われていた気がします。その恩返しがいつかできたらいいな、と思いつつ、まずは日々精進していきたいと思います。

来年も良い年になりますように。

みなさん、よいお年をお迎えくださいませ。

Originally published on December 31, 2014.

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雪子

本と映画と音楽とネコをこよなく愛するフリーランスの物書き。スマホで読む掌編小説「ひとひら文庫」 、選択の物語を聞く対談マガジン「あなたは なぜ、」を作っています。