2016年、ぐっときた映画3本。

雪子
15 min readDec 31, 2016

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去年は年をまたいでしまって悔しかったので、今年はなんとしてでも年内に書くぞと決めていました。今年の映画ベスト3 、大晦日滑り込み更新です。

「この世界の片隅に」

http://konosekai.jp/

観終えたあと、しばらく呆然としていました。その感覚は、他のどの映画を観たときとも違っていて、「感動」や「余韻」よりももっと手前、例えるならば、旅先から帰る飛行機が着陸したときの「元のところに帰ってきたのだ」とゆっくり脳が自覚していく、そういう感覚でした。もしも自分がタイムスリップをした後、元の世界に帰ってくることがあるとしたら、きっとこういう感覚になるのではないかと思います。

そんな例えを用いたくなるほどに、スクリーンの向こうに広がるのは、昭和20年当時の広島の街でした。主人公の“すずさん”は、絵を描くことが大好きな女の子。紙と鉛筆さえあれば描きたいものをなんでも描くことができ、いくらでも物語を紡ぎ出すことができる、そういう豊かさを持っています。けれど、自分の世界が豊かであるがゆえに、周りから何歩も遅れてしまったり、うっかり転んでしまったりもする。そんなすずさんが18歳になった頃、縁談が届きます。すずさんに一目惚れをしたというその人は、軍港の街として栄える呉市に住む海軍勤務の男性でした。すずさんはお嫁に行くことを決め、知人もいない呉市で新しい生活を始めるのです。

このすずさんが、とっても愛らしいのです。のんびりやさんで、おっちょこちょい。すずさんが感じる時間の流れは、とても穏やかででゆっくりとしています。その“日常”が心地よくて、その世界にすっかり馴染んだ頃、飛び交う言葉や映像に映り込む物から、ようやく「戦争の匂い」が漂い始めるのです。

その頃になってようやく、私は描かれていた時代のことを思い出しました。昭和20年の時代が舞台と知りながらも、愛らしい日常に夢中で、戦時中であることが意識から消えていたのです。そんな自分に、大きなショックを受けました。

戦後と呼ばれて久しい現在、日本にとって戦争は「非日常」の世界です。日常と非日常の間にはくっきりとした境界線があり、その垣根は容易に超えられるものではないはずだと、そう頑なに信じたい気持ちが誰しもあるのではないかと思います。その願いを、「この世界」はあっさりと裏切る。スクリーンの中にあるのは、すずさんや広島に生きる人たちが、毎日笑い悲しみ暮らしていく生活の、その傍でただ戦争が起きている、それだけの世界でした。それを現実と呼ばずして、何と呼びましょうか。日常と非日常の垣根なんて、ないようなものだったのです。その圧倒的な説得力たるや、とても言葉に尽くせません。

けれど、扱う時代が時代であるゆえに、それは何も本作に限った話ではないだろう、と思われるかもしれません。では何が違うのかといえば、それは「嘘のつき方が違う」のだと思うのです。

フィクションは作り物であり、嘘の世界です。作り手は、いかにうまく嘘をつくかということに全力を注ぎ、観客は「どれだけうまく騙してくれるのか」と期待するものです。けれど、本作は違いました。「騙される」感覚が限りなく薄く、その時代のその場所の空気が、ただただそのままあったのです。それこそ、匂いすら感じられるほどに。

この「ただそのままある」日常世界は、フィクションでなかなか実現できるものではありません。あまり用いられるものではない、と言い換えた方が正しいかもしれません。なぜならばフィクションの世界は、背景も人物も、声も音も、そのすべてが意図して作られる世界だからです。まだ実写であれば、そのときの天気や「景色の映り込み」に偶然性が生まれる可能性もあるでしょう。ですがアニメーションの場合は、何を描き何を描かないか、そのすべてが作り手に委ねられているものです。だからこそ「作り手の意図」に徹底した表現世界が実現するのだと思いますが、本作は「作り手の意図」よりも「その時代に生きていた人たち」を描くことに徹底されていました。当時の街並みや住んでいた人たちをすべて調べ上げ画面に描いたというのですから、これは片渕監督の入念な取材力、表現力の賜物でしょう。だからこそ、効率性や整合性からは程遠い「偶然」にあふれた世界が描かれているのです。それは逆説的に、現実と限りなく等しい世界になり、リアリティが強調された日常になる。嘘の中に現実を混ぜ込んだからこそ為し得た、アニメーションの偉業です。

印象に残ったシーンはいくつもあるのですが、作中、すずさんがあるものを失うシーンがありました。あのシーンが、私はかなしくてかなしくて仕方なかった。よりにもよって“それ”を失って、はたして同じことが自分に起きたら耐えられるだろうか、と考えてしまって。でも、生きるってそういうことなんだよ、と、最後のすずさんなら笑ってそう言うのではないかと思うのです(あの愛らしい広島弁で)。日常も当たり前も、いつしか覆ってしまうかもしれない。だからこそ、愛おしい。私たちにできるのは、世界の片隅を愛おしんで生きていくことだけなのです。

「ズートピア」

http://www.disney.co.jp/movie/zootopia.html

ディズニーがここまでやるのか、と心底驚いた作品でした。

舞台は動物だけが暮らす楽園、ズートピア。ウサギやキツネ、ゾウにカワウソ、ナマケモノ。本作には実に様々な、おそらく地球上にいるほとんどの動物が登場するのではないのでしょうか。動物たちの生活には仕事があり家があり街があり、法もあり秩序もある。その様は人間世界とまったく変わりありません。

主人公はウサギのジュディ。「警察官になって世界をより良いものにする」という夢を持つ、正義感の強い少女です。ズートピアでは身体が大きく強い動物しか警官になれませんが、彼女は優秀な成績で学校を卒業し、見事「ズートピア初のウサギ警官」となり、街へ出て働き始めることになります。けれど、初めての任務は駐車違反を取り締まる仕事。抱く夢からは程遠い任務に彼女は失望し、両親からの電話にも「駐車違反は今日だけ、本当はもっとすごい仕事をしているの」と嘘をついてしまいます。どうしたら自分が優秀であると認められるのかと悩んでいると、ある日彼女は犯罪の現場を目にします。それは、かつて自分が助けたキツネのニックが詐欺を行う姿でした。ジュディは捕まえようと躍起になりますが、そのニックが未解決の行方不明事件の鍵を握っていることを知り、協力しないかと交渉をもちかけます。

ジュディとニック、この正反対の二人が事件解決のために繰り広げる冒険が、もう面白くて楽しくて仕方がありません。二人の掛け合いも楽しいのですが、ズートピアの世界そのものがとっても愛らしいのです。ゾウばかりの巨大なアイス屋さん、ナマケモノだらけの役所(何もかもが遅い)、ネズミだけが暮らす小さな街。出会う動物すべてが個性にあふれていて、振る舞いまでもが現実の動物そっくり。テンポも抜群なので、何度も笑ってしまいました。けれど最も驚かされたのは、本作の主題が「差別と偏見」であったことでした。

「ウサギをかわいいだけだと思わないで」「キツネが騙し屋だなんて思わないで」。ジュディの発言からは、差別や偏見を許さない生真面目さがうかがえます。種別に対する差別や偏見に出会うたび、彼女は目くじらを立て正義を貫こうとします。ですが、彼女が初めての任務を任されたとき、その任務をどう思ったでしょうか。「どうして優秀な私が駐車違反の取り締まりなんかやらなきゃいけないの」「私にはもっとふさわしい仕事があるはず」。夢に対して真剣だからこそ、その思考に至るのは必然かもしれません。けれどその思考は「偏見」ではないと、はたして言い切れるものでしょうか。

職業に貴賎はありません。華やかな仕事であったとしても、その裏側は苦しいものであったり、泥臭いものであったりします。「くだらない」と思える仕事もあるかもしれません。けれど、その仕事は本当にくだらないでしょうか。誰にも求められていない仕事でしょうか。「偏見」に捉われ、必要とされている大切な仕事であることを、見落としてはいないでしょうか。

「差別はいけない」「偏見はいけない」「物事の表面だけを見てはいけない」。言葉で何度そう認識し、理解をしたとしても、先入観が偏見をはたらかせてしまうことは誰しもあるはずなのです。そして多くの場合、その先入観は無意識下にはたらきます。だから、気づけない。多くのことに気づけないまま、無意識で多くの判断を下してしまう。

人種、性別、宗教、年齢、職業、学識。頭でどれだけ理解をしていても、その枠を外して真に相手を捉えることは、決して容易なことではありません。「そんなまさか、自分に限って」と思うかもしれません。けれど、観客の「そんなまさか」のプライドを、笑顔で剥ぎ取る映画こそが本作です。あのディズニーが、そういう映画を作ったのです。正直、恐ろしさすら感じます。ディズニーが鬼の首とったような顔をしている、とまでは思いませんが、それに限りなく近い敗北感を、一観客として覚えました。あのディズニーが、多くの人に愛される映画を作り続けてきたディズニーが、まさか人の心にここまで立ち入るとは思っていなかったのです(そしてこれも、偏見です)。

これはすごい映画です。何がすごいって、これだけデリケートな主題を扱いながら、ちゃんと面白いのです。笑えるのです。泣けるのです。エンターテイメントとして、成立させているのです。驚きでしかありません。そして、きっとこれこそがディズニーがずっとやりたかったことなのでは、とも思います。

差別も偏見もあるべきではありません。その先入観をまったく持たずに生きられたら良いけれど、あいにく人間はそんなにうまい作りをしていません。整合性などない、矛盾に満ちた感情の生き物です。では、どう生きていけば良いのか。最後まで観れば、ディズニーの伝えたいメッセージがわかります。解釈は人それぞれだと思いますが、私は「常に自分に問い続けること」が解であると捉えました。

ディズニーにこそ描いてほしい、ディズニーにしかできない映画。本作はディズニーの金字塔となる作品だと思います。面白いままあっという間に終わる108分。ジュディかわいい。ニックかっこいい。切っ先が鋭すぎて、観客は切られたことにすら気づかない。すごい。すごいしか言えない。何度でも観たいと思わせる、あまりにも華麗で見事な作品です。

「シン・ゴジラ」

http://www.shin-godzilla.jp/

監督、庵野秀明・樋口真嗣。主演、長谷川博己・石原さとみ。この発表があった時点で、ランクインすることは薄々わかっていました。絶対に「しでかしてくれる」監督陣、好みすぎる主演陣(諸君、繰り返すようだが私は長谷川博己が好きだ)、上映前には「私のために(好みを揃えてくれて)ありがとう」「いただきます」という気持ちでした。観終えた後、ものすごい満足感と「ごちそうさまでした」の感覚があったので、やっぱり「おいしい作品だった」ということには間違いないのではと思います。

ゴジラ作品にあらすじは不要でしょう。現代の日本に、海からゴジラがやってきます。さて、日本はどうする。以上それだけ。以上それだけで、どうしてこんなに面白いのでしょうか。

過去のゴジラをすべて見たわけではありませんが、私はこの「シン・ゴジラ」が一番好きです。シリーズでは異色作かもしれませんが、それでも好きです。爽快すぎるテンポ。抜群のカット割り。消化の追いつかない情報量。そして、庵野さんならではの「社会への皮肉」。

これまでのゴジラの多くは、「暴れるゴジラと人間との戦い」が尺のほとんどを占めていました。本作も同様ではありますが、最も面白いのは「日本の政治と会議」が皮肉めいたユーモアで描かれている点ではないでしょうか。大人数で集まって何も決まらない会議、「ご決断」がお偉いさん方の間で「どうぞどうぞ」の譲り合いになる他責思考、譲渡に譲渡を重ねた上で行方不明になる権限。「日本あるある」が濃縮された、ある意味「会議モノ」(他に類を見ませんが)に属する映画だとも言えます。けれど、それらが嫌味でなく笑えてしまうエンターテイメントに仕上がっているのは、庵野さんが極めて中立の視点で描いていたからだと思うのです。

日本に襲来するゴジラは、災害でしかありません。巨大不明生物が海から上陸し暴れまわってるんですから、普通に考えて非常事態です。避難勧告は鳴り止まず、道は行き惑う人たちで渋滞する。これらは、日本にとって痛々しく苦い記憶に残っている、地震災害の記憶と重なりはしませんでしょうか。「どうしてもっと早くに決断をしないんだ」、一刻を争う事態に、焦りや苛立ちを覚えるのは当然のことです。けれど、もし自分が判断をする立場だったとき、はたして万全の状態でその期待に応えることができるでしょうか。

本作で注目すべきは、そのカメラワークです。巨大不明生物への対策について決断をするシーンでは、議員が大臣に決断を迫るカットがあり、大臣が総理に決断を迫るカットがあり、総理が大臣に決断を迫られるカットがあります。引きのアングルでいっぺんに取るのではなく、ひとつひとつの視点が切り分けて撮られている。これは単に画的なバランスで取られたものではなく、「立場」の軸で丁寧に撮り分けられたカットであると思うのです。

本作はカット割りも秀逸です。まるで何かのリミックスムービーを観ているかのように、映像も音響も心地よく編集され、観る者に快感を与えます。その爽快なテンポを実現させるためには、多くの“省略”がなされています。登場人物の肩書ですら数秒の字幕で済ますほどの徹底ぶりです(私はほとんど読めませんでした)。足すだけ足して徹底的に引いていく、この「引きの巧さ」、省略の美学こそが本作の醍醐味なのですが、先述の「立場」のカットは、略されていません。なぜならば、本作においてそれは省略してはならない要であるからです。

皮肉を言うのは容易なことです。ですが、それだけではエンターテイメントに昇華されません。何を描き、何を描かないか。それは観客に何を見せ何を見せないかということと同義であり、作品の主題を決定づける核でもあります。本作は「会議モノ」でありながらも、それぞれの立場を平等に描ききり、「こうすべきである」という主観的思想は限りなく薄められています。なぜ薄められたかといえば、本作で描くべきは「ゴジラ」だからです。結果として、東京で暴れまわるゴジラと、講じられる手段の拮抗が本作の最大の盛り上がりとなっています(在来線のくだり最高です)。その取捨選択は惚れ惚れするほどの徹底ぶりでした。

台詞も演技もアングルも編集もテンポも、本作はすべてがコミカルです。想像を絶する情報量の脚本が119分に収まったのは、アニメーションで培われた庵野さんの「肌感覚」の成せる技だと思います。実写映画の表現はまだこれだけの伸びしろがあるんだ、いくらでも遊べるんだ、という腕をまざまざと見せつけられた気持ちです。庵野さん、ありがとう。

今年の3本は、ほとんど迷うことなく決まりました。

このベスト3の記事は、私の個人的な一年の振り返りを兼ねています。だからこそこれまでは、「この映画に救われた」というような、面白さの軸とあわせて、私的カタルシスを重視する軸でまとめていました。それゆえに迷うことも多かったのですが、今年はその両軸でこの3本が飛び抜けていました。

今年は元旦のひとひら文庫の公開に始まり、公私ともに仕切り直しの年でした。これまでに築いた礎を活かしながら、「いつかこういうふうに生きたい」と願っていた生き方を実現させる、その第一歩を踏み出した年です。生き方の再構築、とも呼べるようなこの一年は決して穏やかなものではなく、浮き沈みも激しいものではありました。

けれど、ひとひら文庫をきっかけにご縁が広がったり、講談社 小説現代のショートショート・コンテストに入選させていただいたり、新しいプロジェクトにお声がけをいただいたりと、とても恵まれた一年だったと思います。自分自身の咀嚼やアウトプットの機会になればと始めたこの記事をきっかけに、スプラトゥーンのイカしたハイカラ同人雑誌「HITEYE」で映画コラムの執筆をさせていただくことができたのも本当にうれしかったです。一流クリエイターが集結する誌面の中に私が紛れているのは恐縮の限りですが、とにかく読み応えのある一冊です。「本職が本気で遊ぶ」現場に携わることができたのは、とても幸せなことでした。通販でもご購入いただけますので、興味のある方はぜひ。

今年はそんなうれしいことがたくさんありましたが、やりたいことも書きたいものもたくさんあるのに、心身がそれに追いつかず、歯がゆく悔しい思いをした時期もありました。けれどそんな中で、声をかけてくださる方や、私の作品を好きだと言ってくださる方がいらっしゃったことに、本当に救われました。改めて、皆さま本当にありがとうございました。

今年は土台を築くのにいっぱいいっぱいだったので、来年は飛躍のできる一年にしたいなと思います。未来のことを考えると、とてもわくわくします。そう思えるのだから、2016年はやっぱり良い年だったのだと思います。

2017年が実りある一年になりますように。

皆さま、良いお年をお迎えくださいませ。

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雪子

本と映画と音楽とネコをこよなく愛するフリーランスの物書き。スマホで読む掌編小説「ひとひら文庫」 、選択の物語を聞く対談マガジン「あなたは なぜ、」を作っています。