2018年、ぐっときた映画3本。

雪子
9 min readDec 29, 2018

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あっという間に1年が終わろうとしています。今年もたくさんの映画を観ました。なかでも「これは個人的にぐっときたぞ」な3本について今年もいろいろ書きました。

『ウインド・リバー』

人は生きていくなかであらゆる選択をする。住処も着るものも、その人がいかに生きるかという選択をした結果である。それがたとえ些細な選択であっても、積み重ねられていくなかで、その人をその人たらしめる実像が構築されていく。だがその一方で、選択をせずとも、生まれながらに運命を決められてしまった人々も存在する。本作で描かれるのは、そんな“抗えない運命”を生きる人々の痛々しく切実なドラマである––。

舞台は、アメリカはワイオミング州に実在するネイティブ・アメリカンの保留地「ウインド・リバー」。保留地の歴史をかいつまんで紐解くと、ヨーロッパ系の白人が1492年、北米地域に到達した際に、白人移住者に土地を“供給”するために先住民であるネイティブ・アメリカンの土地を使用したのがはじまりです。

そのとき「先住民の生活圏を確保する」という名目で生まれたものが保留地ということなのだけど、悲しいかな結果としては“奪った”も同然。住処を“奪われた”先住民は荒地に追いやられ、教育も職も社会的地位も与えられないまま、希望もなく断絶された世界の中を生きるしかない。アメリカ警察にも見放されたこの地では、失踪者や死亡者の人数すら不明という。

前置きが長くなりましたが、本作はその保留地「ウインド・リバー」でネイティブ・アメリカンの18歳の少女の死体が発見されることから物語がはじまります。雪深い森の中、発見現場から5km圏内には民家がひとつもなく、遺体は薄着で裸足。発見者である野生生物局の白人ハンターがFBI捜査官とこの事件を捜査するというのが本作のあらすじ。なぜ?どうして?という疑問だらけの事件が、徐々に紐解かれていくスリリングな展開は息を呑むほどだし、描かれる心情描写の繊細さは筆舌に尽くしがたい。じーんと心にくる、骨太なクライムサスペンスです。

抑圧され、選択の自由もなく、生きることに希望を抱けない人々が消去法的に採る選択の虚しさ。生き抜くことそのものの難しさを描いた作品は数多くあるでしょう。ですが、生き抜くためでしかない消去法的で切実な選択を、ここまで繊細な心情描写で美しく描ききる作品はそう多くないことと思います。

本作の監督・脚本はテイラー・シェリダン。俳優のキャリアでスタートし、メキシコの麻薬問題(これもアメリカの闇ですね)を描く『ボーダー・ライン』で脚本家デビューし、本作が監督デビュー作。『ウインド・リバー』で描かれた心情描写の繊細さと美しさに、鑑賞後からずっと今も、心を鷲掴みにされています。

人間社会も人の心も、得てして明暗が背中合わせになるものです。その影の部分に光を当てた作品がもともと好きなのですが、テイラー・シェリダンの光の当て方は冷静でありながら愛に満ちていて、バランス感覚が絶妙なのです。本作で完全に惚れてしまったので、『ボーダー・ライン』シリーズも一気に観ました。自分史の中で2018年は「テイラー・シェリダン元年」となるでしょう。

『ブリグズビー・ベア』

これ本当にもうたまらん大好物!!!!!と、鼻息が荒くなるほど大好きです。笑って泣いた97分、本作を観たときの体験は未だ鮮明に思い起こされます。お腹痛くなるほど笑いました。変に理屈を並べるよりも、大好きっていう言葉をたくさん並べる方が本作には合っている気がします。とはいっても書きたいことはたくさんあります。なぜなら大好きだから。

この作品では、人が物語を必要とする理由が描かれています。人はなぜ物語を必要とするのでしょうか。フィクションと知っていて、嘘だと知っていて、なぜ物語を求めるのでしょうか。物語は、人に何をもたらすのでしょうか。

少し話は逸れますが、ドイツの物理学者ヘルムホルツの言葉に、「物理学はWhyの学問でなくHowの学問である」というものがあります。風はなぜ吹くのか、という思弁的な問いではなく、風はどう吹くのか、という現象を記述する問いこそが物理学の分野であるという意味合いの言葉ですが、これに対し心理学者の故・河合隼雄氏は『ユング心理学入門』(培風館)でこのように述べています。

この輝かしい理論体系は、「あのひとはなぜ死んだか」という素朴なWhyには、何らの回答も与えてはくれない。実のところ心理療法家とは、この素朴にして困難なWhyの前に立つことを余儀なくされた人間である。

臨床心理学の現場で人の心に向き合い続けた氏らしい言葉ですが、私は同時にこうも思います。「この素朴にして困難なWhyに、擬似的な解を与えてくれる存在こそが物語なのではないか」。

私自身、物語を読みそして書いている人間なので、誰かの書いた物語に救われることもあれば、自身の書いた物語に思いがけずはっと救われることもあります。後者は単なる自己満足の話のようですが、不思議なことに物語にはそういう妙な力があるのです。

ここでやっと話が『ブリグズビー・ベア』に戻ります。できる限り先入観なく観ていただきたい作品なのであらすじの記述は避けますが、本作の主人公ジェームスは作中で、とても一人では抱えきれないほど大きな、そして数多くの「Why」の壁にぶつかります。非常にコミカルな作品なのでその重さの描写は最小限なのですが(その軽快なタッチも絶妙なセンス!)、当事者にとってはアイデンティティの根幹を揺るがすほどの非常に切な「Why」です。では、その「Why」にジェームスはどう立ち向かうのか? そこで彼が必要とするものこそが、“ブリグズビー・ベア”なのです。

本作の紹介は以上です。全然映画の話してないようですが、必要なことは述べたつもりです。あとはどうか、実際に観てください。余談ですが、私ははじめ一人で本作を観にいって、あまりにも好きすぎて人に教えたすぎて、映画仲間を誘いもう一度映画館へ行くなどしました。この行動がどれほど本作の余韻をエモーショナルに増長させることか、鑑賞した人ならおわかりいただけるでしょう。(あのときお付き合いいただいたみなさま、ありがとうございました!🐻)

『シェイプ・オブ・ウォーター』

劇場で観たあと、なかなか現実に戻ってこれなくて、半ばふらつきながら、すがるようにパンフレットとサウンドトラックを購入しました。この作品は一生の宝物になるだろうなと、強い確信を抱いたことを覚えています。

舞台は冷戦中のアメリカ。主人公は政府の極秘研究所に夜間掃除婦として勤める中年女性、イライザ。いつもと同じ掃除に励んでいたある日、突如血まみれの研究室の掃除を頼まれる。そこで出会ったのは、異形の見た目をした半魚人の“彼”だった— 。

本作もまた、“日陰”の物語です。主人公のイライザは、幼い頃のトラウマから声が出せず、会話はすべて手話。同僚のゼルダは黒人女性であり、隣人の老人ジャイルズは売れない画家。イライザの始業は深夜0時、物語の大半が「夜」 — 光の当たらない世界。この徹底的な世界観の構築により、非常に寓話性の高い物語に仕上がっています。

イライザは言葉が話せない。そして半魚人の“彼”ももちろん言葉など話せない。イライザが選んだ愛は一見、刹那的で儚いもののように思えます。けれど、その芯の強さたるや。日陰の孤独で出会う愛は尊く、それを守り抜くためなら人はいかようにも強くなれる。

ギレルモ・デル・トロ監督らしい、やさしく穏やかな愛に満ちた、大人のための御伽噺。大きな肯定につつまれた本作には、観るたび強く勇気付けられます。今年公開作なのに、DVDで何度観返したことか。一つひとつのカットがすべて絵本のように美しく、好きなシーンを挙げたら枚挙に暇がありません。強いてひとつに絞るなら、バスルームでイライザがいたずらっぽく笑うあのシーンでしょうか。愛が人をここまで変えるのかと、心が打ち震えました。

繊細な心の機微を引き立てる、水のように流れる美しい音楽も必聴。夜更かしをしているときや雨が降りしきる夜に、本作のサントラ聴くのが大好きです。

今年の3本も、迷うことなく決まりました。

実は今年から、映画への姿勢を変えています。仲間内でちょっとした「映画部」の活動を始めたのですが、その部長(?)的な立ち位置になったため、毎月必ず映画館に行く企画をするという習慣がついたのです。

これまでは「観たい作品があって、タイミングが会うときに観に行く」というスタイルだったのですが、今年は上記の理由から、上映作を常にチェックし、毎月何かしら観に行くという習慣がつきました。これが結果的に本当によかった。

観るつもりじゃなかったのに観てみたら超よかった!という作品にも出会えましたし(驚くことなかれ、本記事でさんざん大好きと語った『ブリグズビー・ベア』もそのひとつです)、何より「気づいたら上映期間終わってた」という悲劇がなくなりました。

あとから映画の予定を入れようとするとなかなか難しいですが、なんてことはない、先に予定を入れれば良いだけだったのでした。思っていた以上に良いサイクルが作れたので、引き続き映画部の活動に励んでいきたいと思います。

「映画はいいぞ」「なかでも映画館で観る映画は超いいぞ」というあまりにも自明な言葉で2018年を締めくくりたいと思います。

2019年も、良い映画にたくさん出会えますように。

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雪子

本と映画と音楽とネコをこよなく愛するフリーランスの物書き。スマホで読む掌編小説「ひとひら文庫」 、選択の物語を聞く対談マガジン「あなたは なぜ、」を作っています。