連合赤軍「あさま山荘」事件

Akimasa Net >> 団塊の世代一代記

2002/08/11
 参考文献1件追加、および加筆
 2000/03/26初出

連合赤軍「あさま山荘」事件とは

1972年(昭和47年)2月19日(土)午後、長野県の別荘地軽井沢町にあった「浅間山荘(あさま山荘)」に連合赤軍兵士数名が管理人の妻を人質にとって立てこもる。2月28日(月)人質解放のため機動隊による突入作戦が開始され、その模様は終日全国にテレビ放映された。

連合赤軍とは

1969年(昭和44年)9月4日
 赤軍派結成(共産同戦旗派から分裂独立)
 1971年(昭和46年)7月
 赤軍派・京浜安保共闘「統一赤軍」結成宣言 (→連合赤軍へ)
 12月31日、榛名山アジトにて「連合赤軍」創設
 一般学生青年層による反安保大衆運動、学園紛争は、安保成立の日、1970年(昭和45年)6月23日を境に次第に沈静化した。これに対して、赤軍派、京浜安保共闘などのウルトラ過激派の行動はますますエスカレートしてテロリストへの道をたどった。
 戦術は、銃器・爆弾闘争へと移り、ヘルメットと角材で武装した「ゲバ学生」による「火炎瓶闘争」とは比較にならない激しいものであった。

さて、連合赤軍内部では「あさま山荘」事件を起こす前に、メンバー同志のリンチ殺人が繰り返し行われ多数の死者が出ていました。人質解放作戦終了後に、そうしたいわゆる「総括」の全容が明らかになったこともあり、国内における極左過激派集団の勢いはその後急速に衰えていきました。総括:メンバー29人のうち14人が仲間からリンチを受けて殺され埋められていた。

2002/08/11記
 「あさま山荘」の正式名称は、以下のとおりである。
 河合楽器健康保険組合保養所「浅間山荘」
 つまり漢字表記が正しい。それに対して、事件の早い段階で、書きやすい平仮名表記が通称として使用されるようになり、現在に至っているようである。

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)

プロジェクトX~挑戦者たち~
 第75回「あさま山荘 衝撃の鉄球作戦」(2002年01月08日放送)
 アンコール、同年12月28日放送

そのころの主なニュース

2月2日、元日本兵横井庄一さん帰国(恥ずかしながら帰ってまいりました)
 2月3日、冬季オリンピック札幌大会開催(13日まで)
 スキー70m級ジャンプで日本が金・銀・銅メダル独占
 (笠谷、金野、青地選手)
 2月21日、ニクソン米大統領中国訪問(頭越し外交、佐藤栄作首相)
 周恩来首相が出迎え、毛沢東主席と会談
 27日米中平和五原則で合意、28日帰国

1972年(昭和47年)2月28日(月)

この日私は結婚休暇明けで1週間ぶりに出社した。しかし出先でテレビの前に釘付けになってしまい仕事にはならなかった。「あさま山荘」人質解放(19日以来)のため機動隊による突入作戦が開始され、その模様が終日全国にテレビ放映されていたのである。

この日NHKは、番組途中でたった5分間、訪中していたニクソン米大統領帰国のニュースを報じたのみで、衆議院予算委員会中継は中止した。この結果NHKの連続生放映は朝9時から夜7時までにおよび新記録となった。民放各社もまたCMを飛ばして番組を自動延長した。そうして、最高視聴率は史上空前 89.7%を記録したといわれる。

救出作戦の経過

人質〇〇(管理人の奥さん、31歳)は必ず救出せよ。
 これが本警備の最高目的である。(後藤田正晴警察庁長官より)

警察側、死者2名、重軽傷27名(内1名は報道関係者)
 この外、22日に民間人1名が犯人に狙撃され死亡している。
 (この人物は、警察の検問所、阻止線を突破して山荘玄関まで達した)

特型警備車(防弾装甲車)
 高圧放水車
 クレーン車(大鉄球作戦用)
 午前10時00分、作戦開始命令
 午前10時54分、大鉄球作戦開始
 クレーン車のアームから鋼鉄性のワイヤーで吊り下げられた大鉄球(モルケン)をスウィングさせて建物にぶつけて破壊していった。同時に行った放水の威力もすばらしく作業は順調に進んだが・・・
 11時27分頃
 高見繁光警部(特科車輛隊)撃たれる(殉職後、警視正)
 11時56分
 内田尚孝、第二機動隊長撃たれる(殉職後、警視長)
 途中でクレーン車がエンスト。
 放水量も約2時間分くらいしか確保できていなかった。
 12時38分、拳銃使用許可(警察庁より許可命令届く)
 13時37分、緊急指揮幕僚会議
 特別決死隊編成(警視庁2名、長野県警2名)など
 14時50分頃、鉄パイプ爆弾投下(警察官5名重軽傷)
 17時37分、決死隊4名突入、数メートルの至近距離で犯人と対峙。
 この前後(18時07分までの約20分余り)、最後の高圧(13気圧)放水により突破口を広げる作業が続けられた。
 18時05分、隊長(機動隊長)命令、一斉に突入、検挙せよ
 18時14分、犯人逮捕(男5人)、人質無事救出(事件発生以来218時間)

現場での指揮はどのように行われたのか

1972年(昭和47年)2月19日(土)15時20分
 長野県軽井沢町レイクニュータウン(新興別荘地)の「浅間山荘」(河合楽器保養所)に連合赤軍兵士数名が人質をとって立てこもる。

後藤田正晴警察庁長官は、ただちに「浅間山荘」派遣幕僚団を結成する(警察庁9名、警視庁16名、計25名)とともに、警視庁機動隊派遣を決定する。

もちろんこれは長野県警本部長を助けて働くための処置であるが、縦割り組織の中で有事の指揮命令系統を確立・維持・機能させるのは実に困難な仕事であった。

実質的な現場指揮官としてこの仕事を成し遂げたのは佐々淳行氏(警視庁所属)。東京大学法学部卒業後、国家地方警察本部(現警察庁)に入庁したキャリアである。

彼は、全共闘による「東大安田講堂事件」(1969年1月18~19日攻防戦)に象徴される反安保・学園紛争の制圧過程で、百戦錬磨の実戦経験から得られた豊富な「危機管理」技術を持っていた。

今、警察による不祥事が続いている。昔、たった一人の人質救出のため、文字通り命をかけて戦った警察があった。その救出活動のための基礎的技術は、反安保・学園紛争の制圧過程で磨かれたのである。

治安を維持するとはどういうことなのか。そもそも維持するに値する治安とは、いったい誰にとっての治安なのであろうか。

参考資料

佐々淳行著、 「連合赤軍あさま山荘事件」-実戦・危機管理、文春文庫
 久能靖著、「浅間山荘事件の真実」、河出書房新社
 語られざる連合赤軍-浅間山荘から30年-、高橋檀著、彩流社2002年

キーワード:
 連合赤軍
 あさま山荘、浅間山荘
 佐々淳行


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