キャロル――レズビアンではなく、ミサンドリー(男性嫌悪)の映画である

日本初公開の日(2016年2月11日)にさっそく観た。ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラ主演の『キャロル』である。監督は、『ポイズン(’91)』、『エデンより彼方に(’02)』のトッド・ヘインズ。

原作のパトリシア・ハイスミスだが、第2作である『The Price of Salt(’52)』は“クレア・モーガン”という別名義で出版された。作家デビュー作『見知らぬ乗客』の成功によって、“サスペンス作家”のレッテルを貼られたことにより、もしこの“女性同士の恋愛”の物語を発表したら、また別なレッテルを貼られるのではないかと危惧し、別名義でこの作品を出す。しかし、当時は同性愛への偏見が強く、『見知らぬ乗客』の出版社はこの作品を拒否した。1952年に別の出版社からハードカバーが刊行された。

翌年、ペーパーバック版が刊行されると、当時としては画期的な100万部を超える大ベストセラーになった。同性愛者の物語は悲劇に終わるのが常だった時代にあり、『The Price of Salt』は、ある種のハッピーエンドで終わるからである。出版社には山のようなファンレターが届いた。その多くは同性愛の女性・男性であり、「これこそ私の物語です!」「私たちはもう孤独じゃない!」という内容だった。


『キャロル』製作のために集まったプロデューサーたちは、「パトリシア・ハイスミスの描く愛は普遍的なメッセージがある」と確信していた。衣裳担当のサンディ・パウエルは、「ハイスミスの小説は、出版された当時、とても大胆な作品だった。昔の小説なのに、ストーリーに古さを感じさせないの。キャロルとテレーズの抱える苦悩は、多くの場合、現代にも存在することだわ」と言う。


映画のあらすじはこうである。時は1952年のクリスマス。あるデパートの店員テレーズ・ヴェリウェット(ルーニー・マーラ)は、おもちゃ売り場で、色鮮やかな美しいキャロル・エアード(ケイト・ブランシェット)の娘のプレゼント(鉄道模型!)の購入を担当し、(たぶんわざと)高価なスエードの手袋を忘れていく。テレーズは手袋を郵送し、キャロルはお礼の電話をすると同時に、翌日のランチにテレーズを誘う。だが、キャロルは離婚寸前の夫がいる。テレーズにも恋人がいる。1950年当時、同性愛者には市民権など与えられていない。実際、妻キャロルの同性愛的傾向を察知した夫ハージ(カイル・チャンドラー)は、その「道徳的観点」を楯にとって娘の親権を奪い去ろうとする。なんというセコさ!


映画の視点も効果的だ。テレーズが“視る”のは、美しくて艶やかなキャロルただ一人。今の恋人すら眼中にない。「愛というよりは純粋な欲望を描いてきた」と監督が言うように、これはテレーズの欲望の視線である。ところが、テレーズを愛しているキャロルは、「あなたを解き放つわ」と言って、つかの間の逢瀬にピリオドを打つ。今、弱い立場にいて、テレーズと一緒に暮らしてほしいと思っている、あのキャロルが。若いテレーズは、失恋の痛手を乗り越えるために、強くならなければいけなかった。「彼女はもう映画の冒頭での彼女ではない。そして、心を解放することがどれだけ大切なことか気づいているのは、キャロルなんだ」と監督は語る。


敏感なフェミニストならもうおわかりだろう。私が言いたいのは、この映画はレズビアンではなくミサンドリーをテーマにした作品だ。結婚式の言葉に「永遠の愛を誓います」「二人の死が別つまで」とは、とんだおめでたい嘘八百である。その嘘で塗り固めた言葉を「祝福」として儀式をする。八百長もいいところである。ああ、胸がスッとした。


ちなみに私はネットで「The “Carol” Oscars Snub: The Problem Isn’t Lesbians, It’s Misandry『キャロル』オスカー賞そっぽ向く:問題はレズビアンではない、ミサンドリーだ)」という記事を読んで、なおさら『キャロル』を観たいと思った。

その記事を要約すると、

「『キャロル』は全人類の映画史上、アカデミー最優秀作品にノミネートされたけど、あまりにゲイゲイしくって最終的に落とされたよ!
ちょっと待って! 最優秀作品の 『キッズ・オールライト(’10)』は? 『ミルク(’08)』は? 『ブローク・バック・マウンテン(’05)』は? アカデミー賞はゲイ映画でも問題ないって何度も何度も証明したじゃんか!
今年の最優秀作品を検討しよう! かつて一番フェミニストで家父長制くたばれアクション映画『マッド・マックス :怒りのデス・ロード』では、本当の主人公はフュリオサなんだけど、マックスはスクリーンの端っこにチョロチョロして、ウザくて泥だらけで臭そうだし、常にワーワー叫んで見っともなくて、それでも男が必要であると観衆に思い出させるよね。彼は正しいわ! 大きくて強い男なしでリプロダクション(妊娠・出産)には到達しないからね。
でも『キャロル』の監督は、1952年にクイアな女性の目を通して、夫と恋人という男性たちのアホ面を、その収まりようのない自信を、徒労と不毛さを、すべての観衆に男を笑いものにするという大胆な決断もしたのよ! 以下省略!
もし『キャロル』が本当に最優秀作品のためのオスカーを望んでいたら、監督はすべての映画の“倫理”に従い、夫ハージが戻って自分の松明を振りながら英雄の歌を朗々と歌い、妻の身体に切断された腕を縫い込み、彼女がテレーズとの愛でドロドロに蕩け切った忍耐を離れて追っかけ、二人の再会を待つ必要がある。つまり、男とオトコと漢と野郎と若ん衆と少年が不可欠なんよ!(ミヤマによる超意訳)」

結果、『キャロル』が描いたのはアホで間抜けな男たちの見すぼらしさと「使えね~」感パネエことだったが、それを観た男たちが気分を悪くしてオスカー賞から除外した、という話。これで男の度量の狭さが証明されるだろう。男ってみみっちくてショボくてケツの穴が臭くて小さいんだよ? ついでに尻もブツブツで汚いし。いつもパンツにウン筋つけてるし。身体の中心にウンコぶらさげてるし。でもそれって本当に「男らしい」ことなんか? お前らの人生、虚しくて鼻血が出そうだぜ。

*追記:『キャロル』監督があのエンディングの撮影前に二人に語った”映画”とは?!

*追記2:このコラムはECQAニュースレター2016年3月号に記載されました。