頭を空っぽにしたい。

頭が空っぽってことは、今・ココにただ集中している状態ってこと。

そのために自分を吐き出しきりたい!

自分が可愛いから、自分を大切にしすぎて、守りすぎてしまう。

そうやって「自分」を溜め込むから、頭がぐるぐる…何かを見失ってしまう。

今・ココがなくなってしまうから、自分を見失ってしまう。

自分以外の何者かに憧れ、無理して頑張って、ずっと頭はパンクしそうで、ずっと心は枯渇している。

「やりたいこと・苦手なこと」「過去や未来のこと」「後悔や損得」「他者や世間」

そうやって「自分探し」をすることで、今・ココっていう「自分が在る」ところを自ら放棄してしまう。

自分を手放す。

自分が大切だからって、自分を作っていくんじゃなくて、

自分が大切だからこそ、自分を手放していく。

作り出した自分を無くすことが「そのままの自分で在る」こと。

なにもないからこそ、ただ自分だけを最優先させて、おもしろいことを楽しむことができる。

その心の声に従い切る先に、自分が在る。

たとえば「しなければならない」なんてものがないんだから、
勝手に「いろんなことをやりまくる」って状態になる。

そうやって勝手にどっかにたどり着く。

「世間的な自分」を捨ててみる。
どう思われるか、なにが正しいのか、どうなりたいのか、なにが自分なのか。
そんな重荷を捨ててみる。

「ただの自分」を解放してみる。
どう思ったのか、なにが楽しいのか、今なにをやりたいのか、ただそうなだけの自分。
そんなものを認めて、吐き出してみる。

勝手におもしろいことを見つけ楽しめる自分で在れる。

常に変わっていっていい。

頭の中でつくった自分であろうとすると、それに縛られて成長なんてできない。

だって、その自分像からそれてしまうことは、そうではない自分は「ダメな自分」として否定してしまう恐怖でしかないのだから。

都度、自分に従い切れば、同じなんてことはあり得ない。

さっき言ったことと今思ったことが違うなんて当たり前。
気分で変わったっていい。

無理やり「そう在ろうとする」ことが異常で、
勝手に「そうなっちゃう」ことが自然なこと。

連続する自分が自分なんかじゃなくて、
一瞬一瞬、死んでは生まれるものが自分。

それが、その瞬間に「死んでもいい」って思えるような、悔いのない自分の人生。

表現しよう。

そうやって【自分を生きる】から生まれるものは、言葉でも絵でも行動でも話すことでも、すべて自分の血肉であって【表現】である。

表現することによって自分を解放する。
それはまさに、自分を手放すこと。

経験として吐き出すそれは、まさに血肉として身体に刻まれる、自分そのもの。

他者の表現を借りているうちは自分の血肉ではないのだから、溜め込んで忘れないようにと思考がそこに囚われてしまう。

いろんな外的要因によって自分ってものができていくのだとすれば、それを「そのまま」留めておこうとするのではなく、自分のものとして表現してしまおう。

そうやって自分が反応するおもしろいことを【直感に従って】楽しんでいれば、自分を喜ばせていれば、勝手に頭は空っぽになる。

思考はいつでも後付けで理由や意味をぼくに与えてくれる。
だけど、思考に「ぼく」はいない。
直感に従う「ぼく」をぼくとして、何か見せてくれるだけ。

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