言葉を使って学問することの難しさ(日本語編)

当たり前のようですが、私は日本語をつかって言語学を勉強しています。

(このことが表す政治性について語りたいところですが、今回はおいといて)

私の母語というか第一言語というか、人生の中で一番長く使用し、自然に思っていることを表現できるのが日本語です。

定義づけをあまりだらだらやると嫌われるので、「私にとっての日本語」をここでは「母語」と表現します。”母親”の言語でも、出身地である”日本”の言語でもなく、私に一番なじみのある言語という意味で。

母語で表現することは自然にできると書きましたが、それゆえに表現方法の豊かさや難しさをよーくよく知っています。伝える相手や状況、媒体によって文体を自分で変化させることができるし、同じ意味を表す膨大なボキャブラリーのリストを頭の中に持っていて、正しく選択しなければというプレッシャーが常にかかります。

外国語では文の格式を変えたり細かなニュアンスに合わせて語彙を選択するという作業は知識がよほどついてこないと難しく、このように自分の言葉をマネージメントすることができません。

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自分で言葉を選ぶことの難しさが分かると、論文や学術書を読んでいていかに書き手が言葉に気を使って書いているかがビシビシと伝わってきます。

「言葉」という言葉を使うその瞬間には、「ことば」でもなく「言語」でもなく「日本語」でもなく「母語」でもないという判断が書き手によってされているからです。時には、同じ表現を避けるためといった物質的な要因もありますが。

学門で物事を正確に、相手を説得するために文章を書かなければならないとき、この判断の鋭さがその文章の精度を決定し、書き手の技量の表しどころなのではないかと思います。

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言語学をやっているから例がわざとらしいですが、「言語」が何を表すのかって日本語とフランス語では違うし、日本とスイスではもちろん異なるし、おそらく私と友人、家族でさえもその意味合いは変わってきます。

そんな不安定な言葉を紡いでつくる文章で、一体自分の伝えたいことは相手にしっかり伝わるのだろうか、おそらくこの文章も私の想定しない反応が読み手の皆さんの心に生まれているはず。

どんでもない悩みの告白でした(あわわ。)

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