1.人生についての基礎的な考察

これからは「 人生100年時代 」が到来するとちまたではささやかれている。

2016年にリンダ・グラットンとアンドリュー・スコット共著のビジネス書『ライフ・シフト 100年時代の人生戦略 (The 100-Year Life: Living and Working in an Age of Longevity)』が話題を呼んだのは記憶に新しいと思う。

趣旨としては、人類は現代医学や健康保険制度の発達により念願の長寿を手に入れつつあり、これまでの「 教育・仕事・退職 」という人生の3ステージ・モデルが崩れ去りつつあるといったものである。長寿化を前提に人間社会の今後のあり方や変化を推察しようとする試みである。

砂時計
砂時計
(画像ソース:Photo by Aron Visuals on Unsplash

その発想自体はまったく新しいものではない。古代から錬金術師などが不老不死を試みていたし、最 …


1.ドイツのビール工場見学の回想

もし5つ選べたらどの言語をしゃべりたい?

If you could to pick, which 5 languages in the world would you like to speak?

こんな問いについて話し合った経験はいまも昔も一度しかない。

あれはドイツに来て2ヶ月目のことだった。ビアホールで交わした会話がいまだ印象強く記憶に残っている。

著者は2011年7月にドイツ北部のブレーメンに来たのだが、話のきっかけは同年8月に地元のビール銘柄 ベックス(Beck’s) の工場見学に参加したことにさかのぼる。

ベックスはドイツ最多の輸出量を誇るビール銘柄である。が、輸出向けビールであり、実はドイツ国内で飲まれるのはまれである。

ブレーメンのヴェーザー川沿いに位置するベックスの工場はその独特の匂いで周囲にもその存在感を示す。

ドイツ、ブレーメンのヴェーザー川沿いに位置するベックス・ビール醸造所 (2011年8月13日撮影)

当時、著者はすぐ対岸のフラットシェア(Wohngemeinschaft)に住んでいたことから、発酵の香りがよく漂ってきたものだ。

工場見学ツアーではベックスやビール全体の歴史についての動画を視聴したのち、醸造所内で製造過程の説明などを受けた。

中でも興味深かったのは、 ビールは人類史上最も古い飲み物のひとつであり、人類史と深く結びついていることだ。

ビールの歴史はおよそ1万年前にまでさかのぼる。古代のメソポタミアやエジプトですでに飲まれていたほか、最近では中国やイランの一部でもそれ以前から作られていたことが発見されている。

工場ツアーでは、船乗りやバイキングに酔っぱらいのイメージが強いのは、ビールなどのアルコール飲料が航海中に飲まれていたことに由来するなどと教わった。なるほど、船上で貯蔵可能な飲料としてビールは貴重な役割を果たしたのだ。

のどが渇いたらとりあえずビールを飲む。そんな航海生活を送っていただろう船乗りたち。

少なくとも船上などの極地において人類は水よりもビールを長らく飲んできたのだ。

ほかにもドイツの飲料ボトルのデポジット制度(Pfandsystem)などが動画で紹介された。回収したボトルがどのように洗浄され再利用されるのか、などの説明はドイツに来たばかりの著者にとってためになった記憶がある。

工場ツアーの締めには醸造所敷地内のバーでベックスビールを無料で2〜3杯テイスティングすることができる。10ユーロの入場料(当時の価格)に2杯分のビールが含まれているのだからお得だろう。


ドイツ人画家ゲルハルト・リヒターの前半生をもとにしたドイツ映画『Werk ohne Autor』(邦題:作家なき作品、英題:Never Look Away)を昨年末に観た。

観てからだいぶ間が空いてしまったが、興味のある作品だったので批評を最後まで書き上げることにした。

映画のポスター (画像ソース:FBW、Fair Use)

監督はドイツ映画の名作『Das Leben der Anderen(邦題:善き人のためのソナタ)』でも知られるフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクだ。

本映画は2018年のベネチア映画祭で封切られ、ドイツでは2018年10月より公開されている。

先日催された第91回アカデミー賞では、是枝裕和監督の『万引き家族』に並んで外国語映画部門にノミネートされた。

3時間以上もある長編映画なのだが、おもしろいことに上映中に途中で休憩が入るという初めての経験をした。なんの前触れもなく映画の途中で「Pause(休憩)」という文字が表れるのだ。オペラやコンサート鑑賞でいうところのインターミッションのような感覚だ。

ゲルハルト・リヒターは生存中のアーティストとしては最も高額なアーティストの一人である。個人最高額となる1986年の作品『Abstraktes Bild』で、2015年に3,039万ポンド(4,630万ドル)で落札された。

さて前置きはこれほどにして、本映画に話を移そう。

作品はリヒターの前半生を描きつつも、登場する人物の名前などは変えられている。

主人公でリヒター役はクルト・バーナートに改名されており、ドイツ人俳優のトム・シリングが演じる。クルトの妻でヒロイン役のエリザベス(エリー)・ゼーバンドを演じるのはパウラ・ベーア

エリザベスの父で医学教授のカール・ゼーバンドを演じるのは『善き人のためのソナタ』でもお馴染みのセバスチャン・コッホだ。

本作品はリヒターがナチス帝国東ドイツ西ドイツという3つの時代を生き抜く姿が描かれる。ドイツの時代背景に応じてリヒターの芸術がどのように変貌していったかが映画の醍醐味である。

1932年にドイツ東部のドレスデンに生まれたリヒター(クルト・バーナート)は、幼少期をナチス体制下で過ごす。冒頭ではナチス時代にアバンギャルドな芸術運動に対する弾圧が行われていたかが描かれている。

和やかなメロディーが流れる中、ドレスデンが淡々と空爆で焼き払われるシーンは訴えかけてくるものがある。

第二次世界大戦後に東ドイツの一部となったドレスデンでリヒターは芸術大学に入学する。

そこでは社会主義圏で広まっていた芸術運動「社会主義リアリズム」が叩き込まれる。労働者の勤勉で質素なありさまが美徳とされていた東ドイツ。そんな労働者を称えるかのように、労働者をより力強く、より誇り高く表現した絵画が評価される時代であった。

リヒターは芸術大学で教授から高い評価を得つつも、自分の求める芸術は社会主義リアリズムではないと感じ始める。

エリザベス・ゼーバンドと出会うのも芸大時代である。エリザベスは同じ芸大でファッションを専攻していた。

二人は芸大を卒業したのち西ドイツのデュッセルドルフに逃亡する。リヒターはそこで新たに名門のデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学し、あらゆるモダンアートと遭遇することになる。

それまでずっと古典的な油絵をやってきたリヒターだが、そこでは油絵をやっている人は誰もいなかった。時代は明らかにパフォーマンスやオブジェを取り入れたモダンアートに進化していた。

そんな刺激を受ける中、リヒターはさまざまな試行錯誤を試みるが、納得のいく作品がいっこうに作れない。あげくの果てには芸大の教授に、作品から「あなたが誰なのか」まったく伝わってこないと露骨に指摘される。

そこでリヒターは自分に一番馴染みのある絵画に回帰する。自分の培ってきた技術や経験を活かして新たな芸術の可能性を絵画に見出そうとしたのだ。

社会主義リアリズム」にちなんでデュッセルドルフを中心に西ドイツでは1960年代に「資本主義リアリズムKapitalistischer Realismus)」が立ち上がったが、その第一人者がリヒターであった。

肖像写真やパスポート写真をあえて油絵に模写し、ブラシでぼやかす手法などを用いて新たな表現方法を編み出した。

写真は現実を静画として切り取る技術だ。それをあえて絵画に写し加工することで被写体の客観的な描写から作品としての主観的な視点が際立つようになる。


ぼくのブログは自己体験にもとづいた内容や記述が少ない。ほかのMediumの日本語の投稿と比べると端的にそう感じる。

マルティン・ルターが新約聖書をドイツ語に翻訳した部屋。ドイツ、アイゼナッハのヴァルトブルク城にて。 (2016年9月3日撮影)

もちろん、これまで自分の撮ってきた写真や、自分ならではの体験談を織り交ぜるように工夫はしているが、ほかの投稿者と比べた場合、どちらかというとガチで書いているほうだと思う。しかもなかなかの長文で。(英語ではむしろそれが普通で、多くのライターが日々Mediumに質の高い記事を載せているため、そこは正直不思議に感じていたりもする。)

Mediumで去年書き始めてからすでに半年以上が経つが、日本語コミュニティはそれほど大きいわけではなく、大きな関心が得られているわけではないというのが実感だ。もちろん、それにはMedium Japanが2年前に運営中止したことも影響しているのだろう。

せっかくMediumというメジャーなブログ・プラットフォームで書いているのだからもっとブロガー同士の交流が生まれないのは残念ではある。(自分もほかのブロガーの記事に積極的に反応しているわけではなかったが。)

もしかしたら、非定期的に英語で記事を書くようにしたほうがもっと幅広い読者層に読んでもらえていいのかな、などと考えていたりする日々だ。

そんな様々な思いもあり、新年をきっかけにあらためて自分の書く目標や方針を定めるためにも、書くことの意義についてもう一度考え直してみようと思う。(メディアでいうところの「報道理念」みたいなものだろうか。)

ちなみに本記事のインスピレーションは下記のKENJI HOSOYAさんの記事からいただきました。

自分の志すポイントを4つにわけてみた。

1.文章力を身につける

これは多くのブロガーにあてはまるのではないだろうか。やはり書かないと文章力は身につかないし、書くことで自分の考えや発想を整理できる。

あえて自分ならではの理由を付け加えるならば、ぼくは日本に10歳までしかいなかったため、すでに日本語力で一般の日本人よりも劣っているわけだが、そこから日本語の文章力を向上させるには定期的に書くことが人一倍重要になるということだろうか。

毎日書く」のが大切。これはプロのジャーナリストたちから繰り返しもらったアドバイスだ。

2.ほかにない情報を発信する

これはジャーナリズムの基本だろう。

自分で心がけているのは日本語で伝えられていない海外の文化系トピックスを発信することだ。

マスメディアやネットメディア、ブログなどで取り上げられていない話題を探るとなるとその性格上、どうしてもニッチなものになりがちだが、そこに自分が伝えることの意義があるのではと考えていたりする。

それは情報のみにかぎらず批評などにもあてはまる。もし偏った意見しかみられないと感じれば、自分の意見として違う角度から論じてみるのも十分に意味のある作業だと思う。

3.色あせない記事を

目指すのはニュース(速報)ではなくディスコース(論考)だ。

一時の騒動や流行に反応して数日後には読む価値を失っている文章は書きたくないし、書く気もない。

もちろん、ニュースは日本だけでなくヨーロッパやアメリカなどのメディアを常にチェックしているし、自分なりの意見はもっている。が、基本的に自分のブログをそのような意見を述べる場にしたくない。

ネット上にはすでにそのような死んだ文字であふれかえっている。そこにあえて自分の文章を葬り去るようなことはしたくないのだ。

時事問題や文化系の話題を学問的な見識を交えながら掘り下げていく。そんな長い期間にわたって読む価値のあるブログを目指すところである。

4.オリジナリティを追求した自己表現の場として

報道記事でも学術論文でもないブログだからこそできる文章表現を追求してみたい。

これはたんに事実や意見を述べるだけでなく、オリジナリティに富んだ考察や文章を作ることである。

前回投稿した記事などはその一例である:

これは本当にあった話なわけだが、それをストーリー形式で自分なりに描いてみたのだ。

ぼくのブログであつかう話題におどろくほど一貫性がないのはそのようにオリジナリティを求めているせいあるのかもしれない。

自分にとって創造性を見出だせる内容であればとりあえずなんでも書いてみる。そんなふうにここ半年間続けてきたわけが、それはこれからも大切にしていきたい。

さいごに

ぼくは過去にも2、3度ブログを営んでいたことがある。最後にやっていたのはドイツに来る前だったのでもう7年以上も前の話だ。どれだけ続いたかはいまとなっては謎だが、そのつど1年ももたずにやめていたと思う。

いまは書くことを楽しんでいるし、なにより書きたいアイデアであふれているのでぜひ継続していきたい。

特に社会人になってからは知的な刺激が極端に減ったので、そこを補うためにもブログを活用していきたいと思う。

Ben T. Yagi

Originally published at phi.web-republic.de on January 2, 2019.


アインシュタインとシュレーディンガーのお話

言わずと知れた物理学の巨人、アルベルト・アインシュタインエルヴィン・シュレーディンガー。そんなふたりにまつわる逸話をご存知だろうか?

それはまだティーバッグが発明される前のことだ。当時のヨーロッパではお茶っ葉をティーポットにそのまま入れてかき混ぜていたという。

そんな時代の話である。

Photo by Calum Lewis on Unsplash

ある日、シュレーディンガーの妻は台所で紅茶を作っていた。

するとあることに気づいた。

お茶っ葉の入ったティーポットをスプーンでかき混ぜると、ポットの真ん中にお茶っ葉が集まり底に沈んでいくのだ。

不思議に思った彼女は物理学者の夫にたずねてみた。

「ねぇ、あなた。どうしてお茶っ葉の入ったティーポットをかき混ぜるとお茶っ葉が真ん中によってくるの?」

妻からの不意の質問にシュレーディンガーは戸惑う。

一見、遠心力がはたらきポットの中でお茶っ葉は外側に引っ張られると思うが、実際に見てみるとポットの真ん中に集まり沈んでいくことがわかる。

うまく回答することができないシュレーディンガー。

「・・・本当だ、なんでだろうね。ちょっとわかんないや。」

そう返事するしかなかった。

数日後、シュレーディンガーはアインシュタインに会った。

ずっと妻の素朴な疑問に悩まされていたシュレーディンガーはアインシュタインに聞いてみた。

「アインシュタイン先生、ティーポットにルースティーを入れてかき混ぜると、真ん中に集まりポットの底に沈んでいくのはどうしてでしょう?」

アインシュタインは目を大きく見開いた。答えがないようだ。が、同時に彼の好奇心がくすぐられる。

どうやら遠心力だけでは説明がつかないようだ。なにがこの現象を起こしているのだろうか?

アインシュタインはすぐさまこの謎を解明すべくティーポットの研究にのめり込んだ。


予測不可能性を求めて

いや、カフカの小説に出てくるバグ(虫)のことではない。

ここでいっているのはコンピューターの方のバグである。

昔はビデオゲームがプレイ中におかしくなることを「バグる」なんていったが、そんなアナログ時代の古い言い回しである。

『Bug Day!』 by Rumiko Matsumoto (画像ソース:Behance

数ヶ月にわたってハラリの最新刊『21 Lessons for the 21st Century』の書評を書いてきたが、その【後編】で脳科学や認知科学、人工知能の研究による「自己の解読」について言及した。

これは著者が批評のために独自に用いった概念なので、それをあらためて掘り下げてみたい。

【書評については下記リンクを参照】

1. アルゴリズムとしての自己

ハラリの理論は、人間の脳や遺伝子がすべてアルゴリズムによって成り立っているという前提にもとづく。逆にいえば、もしその前提が正しいとすれば、時間と処理能力さえあればいずれコンピューターで自己の思考や感情が解読できるということである。

自己の解読が可能となれば、自然と難易度の低いものから解読されていくこととなる。

錠やパスワードのようなものである。開けやすいものから開けられていく。これはデジタルの世界において純粋な確率論である。

そんな中、どのような自己のあり方がいまだ可能なのだろうか?

2. ふたつの選択肢

ひとつ目は、人間を捨ててアップグレードすることである。

アップグレードの度合いは遺伝子操作や義体に始まり、ハラリのいうところの新たなる人種「ホモ・デウス」にいたるまで広範囲におよぶが、その真髄は肉体や知能における自然界の制約を超越することにある。学問の世界では「トランスヒューマニズム」などと呼ばれる。

科学の進化をそのつど取り入れて、人間の存在そのものを改造していく。その先は人間が人間を超える末路がまっているかもしれない。だが、現段階ではその展望は未知数だ。

ふたつ目は、アルゴリズムに解読されきらない予測不可能な自己を形成し維持することである。

本記事ではこのふたつ目の選択肢について論じてみたい。それにはまずアルゴリズムで問題となるデータとの関係性を検証しなければならない。

3. 自己とデータ

書評【後編】でも述べたように、諸科学の研究によりいま「自己」へのアクセス権が「自分」以外に開かれようとしている。「自分」が自己への特権を失うかもしれないのだ。自分よりも自己を理解する存在が現れるかもしれないと。

その自己という存在を解読するには膨大なデータバンクが必要となるわけだが、ディープ・ラーニングが現れた今日において、自らが自分のデータを自主的に提供しなければ不特定多数の他者のデータをもとにその解読が行われることになる。

他者のデータからでも十二分のデータ量がGoogleやFacebookなどには集結しているわけだが、そこに特定の個人を解読するピッタリの鍵があるかは不明である。

一方、自ら自分のデータを提供している場合は事態が異なる。それは自己へのアクセス権、すなわち「鍵」を他人に手渡すことを意味するにほかならないからだ。自分の脳内を裸体としてさらけ出しているようなものである。

そして、自分が不特定多数の他者のデータによって解読されるかは、自分がどれほどその「規範」や「標準値」に近い存在かが問われる。言いかえれば、「普通」であれば普通であるほど解読されやすいし、「異常」であればあるほど解読は難しくなる。

統計学の確率分布を見ればわかりやすいかもしれない。真ん中の平均値(0)に近づくにつれデータ量も多くなるということである。


働き方を国際競争力の指標に

【2018年12月31日追記:同日付の朝日新聞の朝刊一面で、まさにここで指摘する現実が報じられているので、有料記事ではあるが下記に電子版へのリンクを追加した。】

2018年の国会は、入管法改正や働き方改革といった労働法および労働者にまつわる重要法案が成立した年となった。

国会議事堂 (2012年4月18日撮影)

入管法改正(2018年12月8日成立)についてはアジア諸国をはじめとする海外からの外国人労働者に焦点が当てられた。

既存の技能実習制度を改正し、技能実習生の受け入れ枠の拡大および滞在期間の延長などを行う。なお、永住権の取得などについてはいっさい盛り込まれていない。

最新のOECD(経済協力開発機構)の国際移民データベース(2018年6月公開)によると、2016年に日本の受け入れた移民の数は韓国を抜いてOECD加盟国で第4位になっている。

ちなみにドイツは2013年にアメリカを抜いて第1位に上り詰めて以来、その座を保ち続けている。これはシリア難民の大量流入に先立っていることは注目に値するべき点だろう …


2018年も終わりに近づいてきたが、今年中にどうしても書いておきたい内容があった。

ヨーロッパ滞在が今年で満10年になったことだ。

うち、大学院で過ごした年数が最も長いが、あらためて振り返ってみて本当に色々な場所で暮らしてきたきたなぁと自分でもつくづく思う。もちろん、これほど長くいることになるとは当初、思ってもいなかった。

その間、たくさんの人との出会いがあったし、楽しかったことや辛かったことも含めて本当に色々なことがあった。

おそらく暮らしてきた場所もどちらかというと異色だと思うので、せっかくなので記事にしてみようと思いました。

アイルランドに来て最初の日に撮った首都ダブリンのリフィー川 (2008年9月1日撮影)

ヨーロッパに来たそもそものきっかけは留学だ。

ことの発端はヨーロッパの現代哲学(いわゆる大陸哲学と呼ばれる専門分野)を本場ヨーロッパの大学院で学ぼうと決断したことにさかのぼる。それまでアメリカ、カリフォルニア州で暮らしていた著者は、2008年の初夏に大学を卒業したのちヨーロッパに渡った。

また、ドイツ語を学び始めたのもその頃である。特に現代ドイツ哲学に惹かれた著者は、原文が読めないと一人前の学者になれないと実感し、ドイツ語の学習を始めた。途中でブランクが空きつつも、それから何年にもわたってドイツ語を勉強していたことを考えると、いまでは日常で自然に話しているのが不思議にさえ感じられる。

人生に必然性はない。偶然の連鎖だけである。

海外生活を営む人は特によく感じることではないだろうか。

その生活基盤自体が自明ではない海外生活は、毎日がまさに予期せぬ出来事との格闘である。非日常を日常に抱えている状態ともいえるかもしれない。

そんな偶然性に必然性を見出そうとするのは人間の傲慢であり、知的怠慢(intellectual laziness)でしかない気がする。

下記の10年にわたるヨーロッパ滞在歴はそんなことを思わせるものではないだろうか。

アイルランド

ダブリン(レンスター県)

  • 2008年9月〜2010年8月
  • 修士課程と日本語の大学非常勤講師
  • 市内の引っ越し:1回

ハンガリー

ブダペスト

  • 2010年9月〜2011年7月
  • 修士課程

ドイツ

ブレーメン(ブレーメン州)

  • 2011年7月〜2012年6月
  • ワーホリで語学とバイト

フライブルク(バーデン=ビュルテンベルク州)

  • 2012年6月〜2013年9月
  • 博士課程
  • 市内の引っ越し:1回

アイヒシュテット(バイエルン州)

  • 2013年9月〜2016年6月
  • 博士課程(継続)と哲学の大学非常勤講師
  • フリーランスの経済ライター

ゴータ(チューリンゲン州)

  • 2016年6月〜2017年7月
  • 現地採用の会社員と日本語の大学非常勤講師
  • 市内の引っ越し:1回

ミュンヘン(バイエルン州)

  • 2017年7月〜現在
  • 現地採用の会社員
  • 市内の引っ越し:1回

これまで住んだ都市の数は7ヶ所、引っ越し回数は計10回に上る。一年に1度は引っ越しをしている頻度だ。

その間に訪れた国はこれらの国も含めて18ヶ国。それほど積極的に国外旅行をする方ではないが、やはり知人を訪ねたり学会に出席したりしていると年数を重ねるうちに増えてくる。

一方、いまだにパリとロンドンは訪れたことがなく(空港を除いて)、旅行のたしなみも一風変わっているのかもしれない。


【本記事は書評の3部目です。最初から読まれたい方は書評(序文)よりお願いします。】

さて、またしても更新にだいぶ間が空いてしまったが、いよいよ書評の後編に移ろう。

われわれを取り巻くニヒリズム、すなわちイデオロギーの空白を埋めるには次の条件を満たす必要がある:

  1. すでにグローバル化した現代社会を包括的に把握すること
  2. 技術進化や環境問題など、地球規模の問題への合理的な対応
Photo by raffaele brivio on Unsplash

前編でも述べたが、現時点でこの空白を埋められるイデオロギーや思想は生まれていない。

しかし、技術の進歩は止まらず人々の雇用や福利厚生が揺らいでおり(経済問題)、環境問題も人間がより快適な生活を求める中で深刻化する一方である …


【2018年12月19日追記:書評【後編】のリンクを追加】
【本記事は書評の続きです。最初から読まれたい方は書評【序文】よりお願いします。】

日本に一時帰国などしていて更新をするのが当初の予定よりも大幅に遅れてしまった。本記事は書評の2部目に当たる。

ハラリは言わずと知れた世界的に注目される知識人である。今年1月にスイスのダボスで催された世界経済フォーラム年次総会(通称:ダボス会議)では、メルケル首相やマクロン大統領に並んで講演を行っている。

そこで司会者が次のような逸話を語っている:

世界経済フォーラムのメインステージに歴史学者が呼ばれるのは稀なことです。しかもアンゲラ・メルケルとエマニ …

Ben T. Yagi

異文化ライター 🇩🇪 🇺🇸 🇯🇵 博士課程中退、現在はミュンヘン在住。文化系を中心に幅広い話題について執筆してます。マストドン: https://chaos.social/@areteichi

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