匿名ブロガーの死

先日、いつもの床屋で、いつものように長く間が空いた事を丹念に責められていると、ふと彼が真顔でつぶやいた。
 「死んじゃったのかもと思って…」
 聞けば、こまめに顔を出すおなじみのお客さんがぱったりと顔を出さなくなり、長い付き合いなのに鞍替えしちゃったのかと寂しい思いに駆られていたそうだ。
 そこに共通の知り合いであるお客さんが現れて、「あいつさ、癌でいっちゃったんだよな…」とぽそっとつぶやいたらしい。
 誰かさんと会えなくなることの理由のひとつに死が存在するという当たり前のことを、唐突に見せつけられて、彼は黙りこむしかなかったようだ。
 だから僕にも、その可能性を考え、ふと心配になったようなのだ。
 生きているということは、死に向かっているということと同意義であるくせに、僕らはソレをいつも爪弾きにして物事を考える。
 ふと、匿名ブロガーである僕が死んだとしてどうなるだろう?という思いがよぎった。

静かに消えていく

家族も知人も知らないこのブログは、有料のレンタルサーバーと更新費用が必要な独自ドメインで運営されている。
 だから、年払いのその費用が払われない限り、いずれ表示されなくなる。
 もっとも家族が存在を知っていいたとしても、僕の死後も存続させるほどの文化的価値はない。
 そうして、ネット上に存在しなくなる。
 表示されている間は、そのブロガーがもう生きてはいないなんてことを考える人はいないだろう。
 たまたまの検索の終着駅として流れ着き、欲しい情報をヒットアンドウェイで離脱するような人たちには、そこに表示されていることが全てだ。
 そもそも目を惹くプロフィールを持たないブロガー本人には、興味はわかないだろう。

Feedlyなどで定期購読している人たちは、気づくだろうか?
 そういえば、しばらく更新されなくなったなぁと。
 それにしたって、忙しくなったか、書くネタがなくなったか、いずれにせよ、もう書かないんだなぁと登録を解除するくらいで、よもやブロガー自体が存在していないとは考えないだろう。
 僕らが目にするブログの中にも、そうしたものが混在しているのかもしれない。
 次の払い込み期限までかろうじて生き残っているブログ、あるいは無料ブログサービスで、そのサービス自体が終了してしまうまで未来永劫表示され続けるブログ。
 こちら側からは、そのブロガーの死を認知することなく、表示され続けるもの。
 ネットとリアルというけれど、実際はネットの先にはリアルな人が存在する。
 だから正確には、この区分けは存在しない。
 しかし、その先につながっている人がもう死んでしまっているとしたら話は違う。
 ある種の明確のボーダーを飛び越えてしまうことになる。
 もっともそこにボーダーが存在するというのも、まだ死んだことのない僕の思い込みかもしれないが…

Tumblr

Tumblrでは、あえて申し立てをしない限り、そのTumblrブログは存在し続ける。
 もっとも、それはTumblr自体が生きながらえればの話だが…
 メッセージのやりとりはなくても、お互い熱心にリブログしあう幾人かのフォロワーたちは、ある日、そういえば投稿を見かけなくなったと気づくだろう。
 それにしたって、いよいよTumblrから足を洗ったかと寂しがるだけで、誰もその死には気づかないだろう。
 そうして別の誰かさんが、たまたま拾ってリブログされるのかもしれない。
 投稿者の存在にかかわらず、Tumblrセカイでは回り続ける。

いつかさよならの場面が来るのなら、どうするべきなのか?
 「もう更新されることはありません。お世話になりました。」
 とさよならを言うべきなのか?
 それとも、そんな報告で他人様の心を傷めるなんて不調法はよして、そのまま放置しておけばいいのか…

影響力の大きい有名ブログなら、それなりのことを考えなければならないのだろうが、この零細ブログなら、その選択は自由だ。
 それにそもそも、この匿名ブロガーが本当に生きているものだという実感も、読んでいる人には湧いていないのかもしれない。

書けばどこかのゴールたどり着けるかと思ったが、あいにくマイルストーンさえ見えなかった。
 たいていのことは、書いていくうちに、どこかに導いてくれるのだけれど…
 もっとも、さよならをうまく言う方法を見つけた男はいないのだから、僕ごときがたどり着けるものでもないのだろうが…


Originally published at COCOLO CHRONICLE.

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