911と311

#911

誕生日だからといって特別な予定もない僕は、その夜もダラダラと仕事とさえないチークダンスを続けてた。
 いや、町内会のつきあいに断りきれなかった盆踊り大会に、気の乗らないまま参加してたというべきか。
 なりだしたケータイ電話の発信人は、普段あまりかけてくることのない兄からだった。
 「いいからテレビをつけてみろ!」と一方的に言い放つ。
 映し出された光景は、すぐには理解し難いものだった。
 どこかの高層ビルから、重たい煙がたなびいている。
 それはニューヨークで、旅客機が激突したんだと兄は解説してくれたが、その言葉を鵜呑みにしたところで、その光景を消化することはできなかった。
 そんな事故も起きうるのかと惚けて画面を眺めていると、どこからか旅客機らしきものが現れて、またそのビルに激突した。
 事故とは思えない、意図を持ったその航跡が、理解不能な状況に輪をかけた。
 「誰かが、明確な意図を持ってぶつけている…」
 その事実が消化できない僕を置き去りにしたまま、セカイはどんどんギアチェンジを深めていった。
 実行犯は特定され、背後で糸を引くものも特定され、クエスチョンマークつきの選挙結果で大統領になった男は、こちらにつくのか、あちらにつくのかと一方的に二者択一を迫った。
 いつの間にか、関わっていない国にまで進軍し始めた軍隊に異議を唱える人の姿は、星条旗で覆い隠された。
 直前の不自然な空売りを記録する証券取引委員会のサーバーが置かれたビルは、直接被害にあっていないのに倒壊し、サーバーはデータごとおしゃかになった。
 それを持って陰謀と騒ぎ立てる輩は、バカもの扱いされるようになった。
 旅客機の激突程度では、構造上、ビルが倒壊することがないという専門家の指摘に、今度は政府発表を鵜呑みにする輩がバカもの扱いされるようになった。
 こうして、セカイは、どちらかの色がついたバカものばかりになってしまった。
 僕はといえば、初めて画面でアノ光景を目にした日から1ミリも状況を消化することができずに誕生日を重ねている。
 たくさんの人が亡くなったという事実、それもニューヨークに限らずに中東にまで広がって、実に多くの人が命を落としたという事実以外は何もわからぬまま…
 そうして、誕生日が来るたびに、目の前にその「もや」が顔を出す。

#311

いつものように揺れ始めたオフィスビルに、動揺することはなかった。
 ああまたか…と。
 しかし、強くなっていく揺れといつまでたってもおさまらないことに、体も心も酔い始めていた。
 これは本物の震災なのかと疑念が湧き上がったピークに、分厚い窓ガラスが悲鳴をあげ始め、そこでようやくおさまった。
 それでも、その時は、それほどの大ごとが起きているとは思っていなかった。
 何かあったらTwitterを検索して、ニュースになっていない情報を拾い上げようとするハックは、間違いなくこれ以後に身につけたことであって、その時には目の前の雑事が優先されていた。
 いやあ、長かったねと口々に言い合いながら、点検と確認に従事する。
 そうそう惨事は起きないさという思い込みが、そうさせていたことは否定できない。
 電車が復旧することはないという知らせに、せっかくだから飲んじゃうかと、普段は同席しない人たちとも、その機会を楽しんだ。
 だから、津波があったという事実を知ったのも、ずいぶん時間が経ってからだ。
 それにしたって、ディスプレイに映し出された光景は、とても現実とは思えないものだった。
 湯を張りすぎた湯船からお湯が溢れるように、静かに堤防を乗り越えた海水は、あっという間に街を覆い、引いた後には何も残さなかった。
 そうして僕は、またも理解不能な消化することのできない光景を目にすることになった。
 事態は、またも呑み込めていない僕を置き去りにして、次のフェーズに進んでいた。
 そう、すっかり聞かん坊になってしまった原子炉を、誰があやしつけるかというフェーズに …
 フィクションの中でしかお目にかかったことのないメルトダウンという事態が、今そこで現実に起きようとしていた。
 一向に事態の把握はできないまま、経験したことのない臨場感が高まっていった。
 テレビでは、聞いたことのない専門用語と単位のわからない数値が並べられ、それらを丸投げで言い直すキャスターが、とにかく大変だと騒ぎ立てていた。
 政権を持ってはいけない政党に据えられた、首相になってはいけない男が、カイワレ大根を平らげるような気分で首相を演じていた。
 その三文芝居が、あらゆることを阻害し、とどめを刺したという指摘もある。
 情弱な僕にはよくわからない。
 しかし、その三文芝居が幕を引いた後では、福島は「フクシマ」と呼ばれるようになっていった。
 調査委員会は、時間をかけて分厚い報告書をまとめあげた。
 しかし、副業の不動産で飯を食っている新聞社が腰掛けにやっている有料ブログのような記事は、それらを適正に扱うことはなかった。
 どうやら、そのブロガーの興味は違うことにあるらしい。
 報道機関ではないのだから、好きなことを好きなように書き、責任を取る必要もないのだろう。
 沖縄に住んでいない人間が「オキナワ」を二次利用するように、福島に住んでいない人間が「フクシマ」を二次利用するようになり、いずれにしても当事者は置き去りに、自分たちと自分たちのスポンサーのために、その事柄は消費されていく。
 そうして、またもセカイは、なにがしかの色がついたバカものばかりになってしまった。
 何も消化することのないまま、時間は重ねられていく。
 はっきりしているのは、多くの人が命を落としたこと。
 いや、何年経っても死亡確認の取れない行方不明者が、膨大な数で存在するという事実だけだ。

平成24年7月23日 東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会 最終報告書提出式 | 平成24年 | 総理の一日 | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ

#PrayFor

いつからか、このような悲劇に遭遇するたびに#Prayforのハッシュタグが、インターネットを駆け巡るようになっていった。
 Prayfor、Prayfor、Prayfor…そのあとも、実にたくさんのこのハッシュタグが投げつけられた。
 人災、天災、あるいはそのどちらか見分けがつかないものに見舞われ、セカイは祈りに満たされていく。
 そうしてその祈りは、いつまでたっても叶わない。
 人間の業の深さを殺菌するには、まだまだ祈りがひ弱すぎるということなのか…

追悼のドキュメンタリーが繰り返されるたびに、死ぬべきではなかった人々の物語が語られる。
 たいした目的もないまま、たいして社会に役に立っていないまま、こうしてのほほんと生きながらえている人間に積み上がるのは罪悪感だけだ。
 もしそうしたイベントが神様によって事前告知されていたなら、志願して交代してあげられただろうに…
 善人は死んだ人間にしかいないと言われるが、神様は僕が善人になることを、まだまだお許しにならないということなのだろう。

絶対に忘れてはいけないと声高に叫ばれ、一刻も早く忘れて日常を取り戻すべきだとつぶやかれ、きっとそれはどちらも正しいのだろう。
 その人の人生において、あるいはその局面において、お好きな方を選択すればいい。
 人生を続けていく方法は、限定的ではないはずだ。

そうして、我らがボギーだったなら、どうしていただろうと考える。
 とても二杯ぐらいの酒じゃあ世の中を取り戻しようもないときに、彼ならばどうしていたのだろうと…


Originally published at COCOLO CHRONICLE.

Show your support

Clapping shows how much you appreciated avatarou’s story.