【印象派と構築性に関する雑記 1】

19c初頭のフランス美術アカデミーにおいて、絵画面の色価に対し、キアロスクーロによって基本的な構造を与えることになっていた。

オブジェクト上の陰線を境に、支配的な明部と暗部にそれぞれ純白と純黒を表す絵具を配置し、それによって先ず構成を為すことと明暗を定義するところからはじまり、色価は実際に見出された明暗階梯数と正確な対件をもつ格好となるよう、絵画面に圧縮された。

実際の相対関係を絵画面に持ち込む為に、それ自らが発光もせず虚無でもないマテリアル表面においては明部はより暗くなる他なかったし、暗部はより明るくならざるを得なかった。その上で、客観的に各々の色を均等な仕方で布置していくことで、全体の効果は適切に生じることとなる。

のち、バルビゾンの森で描いていた画家たちなど独立派の画家たち、あるいは印象派の画家たちは、画面全体に伝統的な仕方と異なる明るさを獲得した。従来の歴史風景画で為されてきたような色価基準ではなく、徐々に、画家自らがどう光景を視覚したかこそが問題となっていった。明るい日差し下での強い印象を的確に表すために、微妙で説明的な中間色よりも、支配的なコントラストの方が重要視された。

通常、キアロスクーロでは明暗の2元的な布置が為された後、対立するこれらを接続するように丁寧に肉付けが施されていたが、このときに中間色が駆使された。しかしのちの画家たちは、キアロスクーロの構築性に一定の拠り所を求めつつも、次第に、明暗の布置と構成、肉付けの構造的な区別を用いなくなっていき、そのかわりに、直截的な把握を好むようになっていった。

紙に鉛筆/Ayame Kinjo/2011?/個人蔵

後期の印象主義の画家たちが好んで用いた点描法では顕著となるが、網膜的にどう色彩が生じているかこそが写実的な絵画面の効果を獲得する鍵となっていた。彼らにしてみれば、明るさや暗さと同じように中間色は初めからそこにあり、そうである以上は、分け隔てなくこれらの色彩のあり方を一挙に把握するように努めた。タッシュによって形成された色価は、ひとつひとつが一定のボリュームを持ち、近視的にはゲシュタルトを形成しない。離れて見ることで、色価が色価として意味を持ち、全体のヴァルールを定義するようになる。こうしたやり方は伝統的な絵画の仕方ではない。

acrylic on canvas / Ayame Kinjo / 2014

ただ、忘れてはならないのが、古典的様式に対して前衛があるのではなく、互いは相補的であった事実だ。そもそも印象主義の手法は、その多くを従来の油彩スケッチなどの制作準備段階の手法によって支えられていた。また一方では、保守的姿勢を重視するアカデミーの態度もやはり、数十年の歳月の中で徐々に印象主義的になっていったし、「印象日の出」がサロンに出品されたときには、歴史的風景画やキアロスクーロによる制約がほぼ廃れてしまっていた背景があった。その頃にはむしろ直裁的な霊感に裏打ちされた色価や効果こそが独立派やアカデミー会員を問わず、芸術家の関心となっていた。

ところで、当時の画家たちはどのようにキアロスクーロや絵画の構造を考えていたのだろう?「印象日の出」がスキャンダルとなったというが、博識さのみならず堅牢さもないまったくの視覚印象そのものの絵画だった為だろうか?

おそらくモネは建設的な描画プロセスを採用していなかった。キアロスクーロは時代遅れのアプローチだったし、短時間で戸外で描き上げる彼らは冗長で安定的な仕事よりも、一瞬の印象を重視し、それに応じて手順が調整されていた。

けれど、アカデミー会員の私設アトリエで絵画の手ほどきを受けていた当時の画家たちは、仮に独立派といえど、政府主催(≠アカデミー)の公的な風景画コンクールには応募もしていた。基本的な学習環境として、従来の考え方や技術は学んでいたのである。

モネも例外なくアカデミー会員のアトリエで学んだのであれば、彼とてアウトサイダーであったわけではなく、安定した技能を直截的に扱っていたとしてもおかしくはなく、一度身についた構造を完全に棄て去ることのほうが難しい。そこにこだわりを持つということ以上に、ほとんど無意識的な処理を経て絵画面が構築されるという技能者固有の事情に由来する。ただ、見えるがままの視覚効果にこだわる当時の画家たちは、光景を見た瞬間の視覚的印象に重きを置いており、いかに絵画面を構築するかといったプロセスはさほど重要ではなかったと考えるべきではないか。

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