得手不得手

餅は餅屋、紺屋の白袴、医者の不養生、下手の横好き、割れ鍋に綴じ蓋、雉も鳴かずば撃たれまい、…だんだん離れていくなあ。得意不得意があり、出来んこと無理してやらん方がええ、やるとしでかす、という連想が列挙中に去来したな。

出来ること出来ないこと、を、予めきっちりと仕分けてしまわない方がよろしい。出来ない「と思っている」だけで、それは「出来る」の設定ハードルが高すぎることもあるから。もっともなことだがこの対偶もある。本人は出来ると思ってるが、周囲にすると「それで出来てるつもりだったのか!ハードル低すぎね??」という。自己満足とも言うか。慢心慎むべし。変数として能力の自己評価がキモになってくるからこその陥穽であるなあ。こっぴどく痛い目に遭ったら目を覚ますんじゃ?とは周囲だからこそ思うわけで、当人は「不運。順当に評価されてない。オレのせいじゃねえ」とタグ付けしてたりな。

やるやらない、というのはどうだろう。やりたいからやる。やりたいけどやれない。やりたいけどやらない。やりたくないけどやれる。やりたくなくてやれない。やりたくなくてやらない。最後二つはほぼ一緒に見えるが実際の動きにすると結構遠いかも。「やらなくちゃいけない」のが前提されているわけで、「のにやれない」のは辛そうな後ろめたさが含意されているが、「のにやらない」のはどうも中二病めいてくる。

昨日一昨日と、音楽家の集団と行き会って予想外に長い時間を過ごし、あれこれ話したりパフォーマンスそのものも鑑賞させてもらったり、という中で上記の自問自答というか、が湧出して来たのだった。

音楽に限らず、パフォーマーというか肉体派は、アスリートも含むことになるけど、具体的にここにある自分の身体を使い熟せてなんぼ、という個としての鍛錬なり充填なり習熟なりがそもそもの最初にある。その、鍛錬その他が自分の身体とそれを引き摺って行く人生の流れに組み込めなければ、身体の使い熟しは表現に必須の領域に至らない。

別に練習が好きとかじゃないけど、どっちかというとキライだけど、練習しない人生ってのも有り得ないんで、という発言に接したこと複数回。圧倒的に練習が足りない自分はどうかというと、まさにこれの対偶なんじゃないかと。別に練習がキライなわけじゃないんだが、練習し出すと没入しちゃって生活に支障を来すんで、とか何とか。そんな程度で支障を来す生活ってのはどれだけのもんなんだよ。と文章化すると思うなあ。

肉体的物理的条件がいつになくハード(だろう)ながら、その場で作り上げて見せた音楽は、その前提条件があればこそ、打たれ強いというか負けるもんかというか、の境地に行っていたと思う。昨日観せてもらったのはそういう作品だった。

問題は、という言挙げをしたいのではないものの、そのパフォーマーが終演後、着替えもそこそこに物販もやり、その時ほぼ全員が金銭勘定に於いて混乱を呈していたことだった。そりゃそうだろうと思う。通訳をしている時に暗算は、たとえ1+3=というのであっても正直言葉に詰まるし、400万の35%、1億2000万の倍、等は位取りの違いも入るので最初から投げている。それと通ずるところがあるんじゃないかと思われるほどの、あれさっき幾らって言ったっけ?あれお釣りって幾らになるの?幾らもらったんだっけ?合計で幾らになる?…たぶんね、使う脳みその部分と機能が明後日ほども違うのだと思う。あるいはバッティングしているのか、あるいはキャッシュメモリーオーバーというか。

音楽家にそんなもんやらすんじゃねえ、と言いたいのとは違う。ただ役割分担というか、しかも今これやんなくちゃなのかうわー大変じゃん?みんなの幸せのためにはもうちょい別のマンパワーの投下があっても良いんじゃない?と思ったんである。

出来ること、やれること、したいこと、は、その「こと」が現象なりイベントなりとして結実すると大差がないように見えるので往々にして混濁したままに置かれる。が、この見極めを時として厳密にしておいた方が、自分だけに留まらずより多くの関係者を苦しめない、つまり幸せに近い方に持って行ける、のではないかなあ。見極めは見限りじゃないから、不得手が得手に変わらない、とも言ってないわけだし。