思惑

は、自分以外の誰かの頭の中や、その行動背景などに見え隠れするものとして存在する。自分側からはコントロールが出来ないことが前提されており、実際その通りだろう。

その意味では先日の「あなた任せ」に通底するところもある。とは言え、自分が発した何気ない一言が契機でありながら、他人の「思惑」が載ることで制御不能な事象に転化していってしまう、というのは「あなた任せ」とは異なっている。

昨日から今日にかけてはその「思惑」が思惑たる所以、ある事象がめりめりと音を立てて「思惑化」していく有り様を、図らずもねっちりと賞翫することに相成ったのである。

そんなつもりで発した言説ではなかったんだが、聞いた誰かからすればこちらの「つもり」なんてのは途中から、というかかなり早い段階でどうでも良くなる。そしてまさにそのタイミングから事象は「思惑」化し、発話者である私のコントロールの埒外へ行ってしまう。ただ発端は私の言い出したことに起因するので、言い出しっぺ責任というか、早々に撤回するのは若干憚られるような機運も醸成されている、ようにも見える。

そんなのは自意識過剰でしかないので、うわ違う!と思ったら直ちに「ストーップ!!」と躊躇なく言明せねば、自分とその誰かとの関係性は齟齬を来す。しかし恐らく、アドラー指摘するところの「人生の問題はあらかた人間関係に起因する」というのはここいらの、どこで気がつくか、気がついたとして(なるべくなら)穏当に言明出来るか、出来ないとして躊躇させるものは何か、躊躇している自分も織り込んだ現状をどう打開するか、などなどの状況を包含するからこそなんだろうな、という気がして来た。

不用意に「良かれと思って」発した言葉が「思惑」によって拡大解釈され、こちら側としては驚くべきことに、そこを起点としての更なる権利要求がやって来たんである。しかもそれは「我々双方にとって有益となるに違いないから」という、思惑全肯定に基づいているにしても、もしかしたらちょーっと飛ばし過ぎなんじゃね?と、少なくとも当方からは見えるスタンスである。起点が既にこちらの善意に強力に由来する譲歩的なものだったことに、この時点で気づく(遅い^^;)が「思惑」の保持主体はこの辺りどこまで自覚的なのかどうか。「Win-Win」とか言ってる時点で望み薄ではあろう。

別の言い方をすると、その「思惑」保持主体の人と現時点までにどういう関係性を持っていて、今以降はどうして行きたいと思っているのか、つまり、信頼関係ありやなしや、そいつのことをオレは好きなん嫌いなん??というところこそがキモになって来るわけではある。

正直、現時点「なのに」そういう思惑をそういう風に展開出来てしまう、というところに、相手方の底知れなさというか、これは下手な言質を取られてはイケナイ、というスタンスを当方に感知させたことになり、それはそもそもの善意をリトリートするに十分なのであった。撤収です。無かったことにいたしやしょう!いやー、くわばらくわばら。

その人を、嫌いになったというナイーブなスタンスではない。当方はあくまでもニュートラル、である「つもり」である。

しかし、「つもり」がみるみるうちに無力化するのを、このプロセスで見てしまった。知っていた筈だがなかなか怖いもんである。

だから次は、相手方がどう出るか、それを見る、ということになった。

他者との距離の取り方について、私は慎重であるし距離があるのは良いことであるとさえ思っている。

それを「冷たい」というのは容易だし止める気もない。

別にオレは、痛くも痒くもない。