Post-truthとは何のことか

まるで『批評空間』の特集タイトルみたいだねえ、と書きながら思うが、昨年末あたりから喧伝されるこの単語への違和感というか座りの悪さがどうにも拭えず、そうは言いながら見慣れ・聞き慣れて流してしまう日もあっさり訪れる危惧も覚えるので書き留めておく。

post- は「〜以降」を示す接頭語だから、時間の経過を前提している。一方、truthは「真実」と訳され、まあこれ自体が哲学(的、も含む)議論の根幹を成しているため既に意見の分かれるところでもあろうが、少なくとも経時あるいは継時という要素からは自由な、というかむしろ折り合えない概念(またはその範疇)に属する事象、だと私は措定している。

post-modernは「脱モダン」とも(一部で?)扱われたことだし、じゃあ「脱-」という訳語接頭辞はどうよ?と論駁してみる。この場合、modernがそもそも経時あるいは継時概念どっぷりの語なのでtruthと等位に置くことは妥当ではない。

さらに言うと「脱真実」という訳語の見た目(というか構造も)は、むしろ「脱糞」に相似ではないか。と私の主観が今訴え始めた。糞という物体、実体の疑いようのなさとメタファーとして駆使される対象の広範さ、唾棄すべき、と同義に扱われる一方で食するほど有り難がる人らもいる、という意味の重層性は、「真実」と重なるところ少なからず、ではないか?

「脱糞」は、行為主体がある。誰かが「脱糞する」のである。では「脱真実する」という物言いは可能か?うーん。またしても収まりが悪いねえ。「脱モダンする」とも言わないからねえ。そもそも、post-を「脱-」と等置で訳語にしたところに無理があったんじゃないかねえ。

「脱税」「脱稿」「脱会」とか他にも連想して良かったであろう数々の語句をすっ飛ばして「脱糞」に行った私の主観もおもろいやっちゃのー、とは思うものの、こっちを追いかけると冒頭の問いへの答え(を探す作業自体も)から遠ざかるばかりなので棚上げる。

Post-truthとは何か、という問いではなかった、というところに、既に回答(というか見解)の一部が含まれているかも知れない。私の問いは、「post-truthとは何のことか」である。

つまり「現在進行中の現状を切り取る形で命名されたpost-truthとやらがカバーしていると見做されるのは、いったいどのような、あるいはどの辺りの、領域であると考えられるか」であって、欲張って加えるならば「どの文脈で登場し、淵源はいつでどうやって巷間流布されるに至ったか」まで、出来るもんなら知りたいなあ、という態度表明であったのだね。

ぐるっと回って出発点に戻っただけだー。でも楽しかったので継続審議にしよう。折に触れだろうけど。