苦しみながら自分を探す ――村田沙耶香(2011)『ハコブネ』集英社

芥川賞をとって以来テレビや新聞雑誌ウェブメディアなど様々な場所での露出に恵まれている(?)村田だが、今年に入って既刊の文庫化が相次いでいるのも芥川賞受賞の効果の一つだろう。

文芸界隈ではたびたび話題になった『殺人出産』や、『タダイマトビラ』などに続き2011年に発表した本作『ハコブネ』も文庫化された。2011年と言えばもちろん3.11のあった年で、人と人とのつながりが改めて叫ばれた年でもあったが(とはいえ『すばる』に発表したのは2010年であるが)その時といまとでもう一つ大きく違うのはLGBTをめぐる現状だ。

LGBTをめぐる現状の変化と言えば、相互承認を社会化することの可能性といくつかの帰結と言ったところだ。特定の性的少数者のカップルに対する相互承認を社会が受け止める際の課題として、一方では価値観が存在し、他方では制度が存在する。

日本の結婚制度は往々にして制度(婚姻制度の場合、明治時代に作られた民法がそれに当たる)が人々の価値観を先行しているようにも思う。LGBTに対しても、渋谷区などがパートナーシップ条例を導入して話題になったように制度から先行させていく動きがあるのは偶然ではないのではないか。

もちろんレインボーパレードや、筆者が住んでいる高松市で毎年秋に開催されているレインボー映画祭のように、市井の人々が市民に対して新しい価値観を訴えていく動きも存在する。人と人とのつながりが叫ばれたことと、LBGTに対する承認の社会化がパラレルなものなのかどうかはわからないが、つながりの形は一つであるよりも多様であるほうがいい、というのがリベラルな見方だとすれば何らかの関連性はあるように見える。

前置きが長くなったしパレードのような場面は出てこないが、本作のテーマはつながりや連帯を訴えることとパラレルにある。解説の中で市川真人は、村田沙耶香が試みてきたことは性的マイノリティの問題それ自体ではなく、慣習であり認識そのものなのだ、と指摘する。

市川の指摘を参考にキャラクターを見てみると、認識にまつわる混乱を最初に抱くのは19歳のフリーターである里帆だ。レストランのアルバイトをしている彼女は男勝りの性格を自認するだけでなく自分自身の性(女であること)に対する自信を失った存在だ。男友達と宅飲みするときに女扱いされないことに居心地のよさと違和感を覚え、バイトの同僚である芽衣に対する欲情を持っていることに気づく。では、里帆は体は女で心は男の性同一性障害なのかというと話はそう単純でもない。

里帆は「自習室」と呼ばれる有料の閲覧室で椿という女性(椿はまた、里帆はバイト先の客でもある)に出会い、彼女を通して知佳子という女性を紹介される。知佳子もまた性に対する特殊な自認を10代のころから抱いており、通常のセックスでは満たされないことをよく知っている。

この中で性的にストレートと呼べるのは椿だけで、里帆の悩みを受け止めようと椿は里帆とセックスを試みたりもするが、それで里帆の内面を深く傷つけることまでは自覚できていない。椿の認識の中では里帆はまぎれもなく女であって、それ以上でも、あるいはそれ以外の存在でもないからだ。市川の言う認識そのものが壁となり、里帆はさらに「女であること」に苦しむ。

里帆が19歳の危うさを持っているとすれば、知佳子の場合は31歳の落ち着きを持っている。会社で働くことが好きで、休みの日の行動に興味はなく、自習室にも最後までいたいという、まあそれなりに変わった体質ではあるものの里帆よりも経験豊富なせいか、自分自身に対する落ち着きがあるのだ。

もっとも彼女の場合も男性とのセックスに対する違和感があって(里帆のようにジェンダー的な違和とは少し異なる)彼女が満足するのは彼女が「アース」と呼ぶ大地と交わるときのみだ。これが比喩なのかどうかは明示されずに、知佳子とアースとの性交シーンが描写される。もちろん、比喩かどうか明示しないのは市川が「認識そのもの」と呼ぶ知佳子の主観そのままだからだろう。

主観のままに生きることができる知佳子と比べると、里帆の場合はまだ自分の主観を構築する段階なのだと言える。だから男性のウィッグを手に入れて男装したり、女性とのキスやセックスを試みたりする。

性別を脱ぎたい、性別のないセックスをしたいと願う里帆(それはすなわち慣習からの離脱を意味する)だが、現実に芽衣に欲情したり椿とセックスしたところで、女性である自分から逃れることはできないし、さらに男性になれるわけでもない。そのことにショックを隠せない現実もまた里帆の前に存在する。

物語の後半、知佳子と里帆の逃避行はハイスミスの書いた『キャロル』のような(『キャロル』ほど長い距離でも期間でもないが)女二人の逃避行のようだ。知佳子の認識では里帆を誘拐した(これは一種の比喩だと思う)ということになっているし、里帆もそれに悪い気はしない。

二人の旅は互いの性に対する問答の繰り返しになる。里帆にとっての結論はまだ見えない。それでも知佳子という存在と出会ったことは、里帆に対してまったく変化がなかったとは言わないだろう。二人きりのユートピアは存在しないから短い旅はあっさりと終わってしまうが、ユートピアは存在しないからこそ里帆が知佳子と出会い、彼女を深く知っていくことには意味がある。現実世界で生き抜くための、ヒントになるかもしれないからだ。

里帆も知佳子も別にパレードに仮装して歩くわけではない。自分自身のやり方で、親しい相手に自分自身を開示していくこと、ぶつかっていくこと。それがすぐに実るかどうかは別として、つながりを求める行為の先にもしかしたら自分自身を知れる可能性の萌芽が見つかるのかもしれない。

あくまでかもしれない、という程度かもしれないが、里帆にとっては知佳子や椿のような、いずれも自分と異なるタイプの他者と出会うことで自分の殻に閉じ籠らずにいることができる、という希望が生まれた。

少なくとも里帆にとって、自分より長く生きる知佳子の存在は従来の、世間一般の慣習や認識そのものからの離脱を試みる有用な参照点になりえただろうから。そして、19歳の里帆と31歳の知佳子の先にはもちろん、『コンビニ人間』の主人公、古倉恵子(36歳)が存在することもいまなら指摘することができる。

古倉恵子は知佳子とはまた別の次元で普通とは違う存在だがそれはネガティブなものではなく、普通の人たちとは違う私を受け入れて生き延びてきた存在として「コンビニ人間」としての自分を定義している。ここには一般的な慣習に流されたり染まったりしない固有の強さが存在する。

里帆も知佳子も、自分自身を探す旅は終わっていない。数々の苦しみの中で、時には語り合い、言葉や体で慰め合いながら新しい自分を構築していく。それはまるで「コンビニ人間」になるまでの古倉恵子を観察しているようでもあるのだ。

(2016/12/24)

初出:『すばる』2010年10月号
初版:2011年11月(集英社)、2016年11圧(集英社文庫)
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