見えない日々の手触りとイメージ ――木村紅美(2009)『月食の日』文藝春秋

表題作は木村紅美の芥川賞候補であり、たぶんそれがきっかけで最初に手に取った木村作品がこの本だった。候補になった回の芥川賞は楊逸が受賞することになるが、木村と同じ受賞漏れの作家にはのちに芥川賞をとる作家が4人もいる(小野正嗣、津村記久子、磯崎憲一郎、羽田圭介)のはいまとなっては壮観にもうつる。それだけもまれた回だったと言えなくもないが、川上弘美からは推され、石原慎太郎も珍しく肯定的なコメントを残し、そして山田詠美からは微妙な評価をもらう「月食の日」の方法を、個人的には肯定する立場に立ちたい。(選評はこちらを参考にした)

つい最近人の紹介で盲聾の大学教員、福島智の著書を読む機会があった。その本は彼の半生をインタビュー形式で語り下ろしたエッセイだったが、見えない上に聞こえないという福島にとって、最も恐れるべきことは孤立なのだろうと感じた。主に手のいろいろなところを通じてコミュニケーションを試みるが、複数人との同時並行のコミュニケーションは容易ではない。だがコミュニケーションをあきらめてしまれば、生身の人間から得られる情報や情動の質も量も著しく減少してしまう。この困難さを戦場だと福島は語っていたが、それは確かに孤独な闘いだったのだろう。

本作の主人公である有山隆は盲人ではあるが福島のように耳が聞こえないわけではない。だから彼の耳には数々の情報が入ってくる。それを選別しながら生活を楽しむところから、彼の一日は始まっていく。そして福島と同じように指先での感覚、たとえば音声付きの腕時計であったり、自室だとわかるサインをとりつけたドアノブであったり。感触というものは、これほど多くの情報をもらたしてくれるのだろいうことを隆は静かに教えてくれる。個人的には、物語後半に友人である幸正の妻、津田詩織と地球儀を通じてやりとりするところが好きだ。

さてこの小説のとった方法についてたが、渡部直己のいう移人称に近いところもあるが、基本的には隆の些細な言動をきっかけにして、それを目撃する第三者の視点が頻繁に挿入されるといったところだ。その視点の切り替わり方はかなり速いほうで、まあ山田詠美が微妙な評価を下すのはわからないでもないが、個人的には読者がどのように読むかということ以上に作家が試みた方法に対しての評価をもう少ししたほうがよいのでは、と思った。他ならない作家が作家を評する賞であるからこそ、だ。(その点川上弘美の評価には好感が持てる)

この方法がうまく言っていると思う理由の一つに、隆が女友達は多いんですよ、と語りかけるシーンがあるからだ。過去の交際相手である路子とのエピソードは頻繁に語られるし、路子以外にも実際に彼から語られる女性の名前は多い。また、彼を目撃する第三者としても(もちろん津田詩織もその一人だ)同じ階の住人など、女性は頻繁に登場する。長い間見えないくらしを送ってきている隆にとって、見えない生き方自体が不便なようには思えない。だからきっと、健常者と同じように女性たちとの交友を楽しんでいるし、そのコミュニケーションの手触りを覚えていようとする。

これ、バリの写真なんだ、あとで見ようよ。ホラ、自分じゃ見られないからさ、おれ、だれかに説明してもらえると思い出がよみがえるから、よく友だちのうちに遊びに行くとき、持って行くんだ。(p.58)

詩織と幸正とのエピソードでいえば、路子の映した写真をいろいろなところに持ち歩いているという話も好きだ。目の見えない彼は、写真を他人から解説されることによってイメージを膨らませる。光も暗闇も実際もよくわかったものではないが、それでも誰かからの語りは想像力を多分に喚起させる。目は見えないが美術館にはよく言ったというくだりも、同様なものとして理解すればよいのだろう。手触りと想像力を駆使して詩織は月食を説明しようとする。それがうまくいったかいかなかったかはさておき、このときの二人はまるで仲の良い恋人のようにも見える。


もうひとつ、「たそがれ刻はにぎやかに」という短編も収められている。こちらは世代と時代を超えた別れの小話といったところで、ある音楽が重要な意味を持って人の記憶に入り込んでいくアプローチは「月食の日」でも少し試みていた方法だ。

木村紅美は人間関係の機微、というありふれた言い方ではおさまらないほどに、人と人が共に生きること、そしてその困難さや複雑さについても、丹念に描写していく作家だと思っているが、その木村の持ち味がどちらの短編にも入っている。まだまだこの本はいまの彼女の筆致に比べると粗削りかもしれないが、川上弘美の言う「逃げないで書いている」という言葉を肯定的に確かめておきたい。

[2017.10.27]