遠くで出会う ――宮内悠介(2017)『カブールの園』文藝春秋

2016年に発売された『文学界』2月号に宮内の「半地下」が掲載されたと聞いて、ミステリー、SFときた次は純文学にまで幅を広げるのか、と素直な驚きを持った。とはいえ『ヨハネスブルグの天使たち』に代表されるように、元々宮内はギミックとしてSFやミステリーを用いはするが、その本質はヒューマニティ、つまり人間そのもを、それも現代を生きる人々の物語を多様に書くことにあると思っていた。だから驚きでありつつ、元々あるべきだった方向へと流れ着いたのだろうと解釈したし、その「半地下」が22歳の時に書いた処女作に手に入れたもの、と今回の帯で知った。まぎれもなく読者は宮内悠介という作家の原点に出会うのだ、と考えてよいのだと思う。

世界中が舞台になっていた『ヨハネスブルグの天使たち』に比べると、本作に収められている二つの短編はいずれもアメリカを舞台にしている、という点で共通している。描かれている時代は異なるものの、アメリカにおける日本的なもの、が宮内の問題意識として表出されていると言っていいだろう。もう一つ、とりわけ表題作においては精神医療も重要な要素として描かれる。過去には『エクソダス症候群』や『彼女がエスパーだったころ』で用いてきた題材を再び利用しながら、人の内面を深いところまで書いていこうという表れなのだろう。

「カブールの園」はまさしく今回のタイトルに表したとおり、「遠くで出会う」物語だ。ITベンチャーに勤務するレイが、休暇を利用としてヨセミテにある日系人の強制収容所跡を訪れる物語。戦時中のアメリカには各地に日系人収容所があったことは知られており、ドウス昌代の書いた『イサムノグチ』ではイサムの父であるヨネ・ノグチが収容所に自ら収容された日々でのことを鮮明に書いているが、記憶としてはかなり薄れている舞台でもある。メモリアルの残る収容所跡でレイが出会うものとは。

ここではレイの置かれた状況と、レイが出会う日本的なものとの接点が重要になる。レイ自身がVRエレメンタリーというVRを用いた精神療法とカウンセリングを受けていること、そして母親と何らかの確執があることが語られるが、彼女の名前の由来であったり日本との関係性は深く語られない。レイがヨセミテを訪れ、あったはずの過去を知っていくのは初めての体験であるということ、つまりレイの体験を追体験するように読者はレイの感情を追っていくことになる。祖父母がいたはずの場所にはもう、当たり前だが祖父母は存在しない。しかし残されたものはある。残されたものを、いまを生きるレイがどのように受け止めていくのか。何を知っていくのか。


一種のノスタルジーかもしれない。けれども、残るものがあるということを、それを後世の人がどう受け止めるかによって希望を与えたりもする。レイの場合は救いだったかもしれない。それと比べると「半地下」で描かれるミヤコとユーヤの人生はなかなかに厳しい。おそらく、この二人にとっては二人だけの世界が一種のユートピアであるだろうが、逆に言えば二人以外の人間が絡んでくる世界は一気に地獄へと転じていく。

親のいない二人にとっては、しかも途中で不法就労の疑いをかけられるミヤコにとって、生きていくこと自体が難しい。ユーヤは学校に通い、絵を描くことに才を発揮したり、同じく絵を描くのが上手いクラスメイトのナオミと親しくなったりはするが、弟のためにも自分のためにも生きていくしかないミヤコの人生は壮絶である。見世物としてショーに出るレスラーになったミヤコの奮闘を、ユーヤは不安そうに見守るしかない。一方で、ユーヤの日常も次第に揺らいでいく。時は80年代で、ドラッグがいま以上に若者の間を席巻していた時代。

芥川賞には惜しくも届かなかったが構造的によくできた物語になっていた「カブールの園」に比べると、「半地下」はそれこそ一種のノスタルジーでもあり(青春小説というのは概してそういうものでもある)アメリカ的なものと日本的なものの接合があまりうまくは表現できていない。設定だけを書くのならば、日本的なものを追加する必要がどこまであったのかも分からない。終盤に出てくる2ちゃんねる的な掲示板を表に出す時に日本人の女レスラーがいた、という事実を書きたかったのだとするならば、それはそれで残酷な現実ではあるかもしれないが。

とはいえ、いずれも宮内という作家の問題意識が分かりやすく表れたパターンの小説である。いままで繰り返されてきたモチーフを応用しながら、日本的なものとアメリカ的なものにどこか遠くで出会うということ。生き抜くことが容易ではない時代だからこそ、引き裂かれたネーションを統合する試みは少なくとも「カブールの園」のレイにとっては救いになった。他方で 「半地下」のように、もはや出会わなくてもよかったのに、大使館の職員に引き戻されてしまうという現実も含めて、二つのネーションを抱えながら生きることの複雑さをよく表している。

この次に何を書くかで、また新しい宮内悠介という作家の持ち味を示すことができるだろう。すぐれた構成力は、やがて大きく評価されることになる。すでに多くの著作を持ってはいるが、まだまだ作家としてのキャリアは浅い、これからの作家なのである。

[2017.10.26]