人間は自然の一部である

hiroki
4 min readJan 20, 2016

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この言葉をみて、小学生の時に、”ちきゅうにやさしい”という言葉がどれだけ人間視点で語られているか、ということを学んだのを思い出した。昨今も騒がれている、地球温暖化やなどは”人間が住みやすい環境”という観点からの話であり、地球の観点からしてみれば、46億年のほんの一瞬の出来事に過ぎず痛くも痒くもないのであろう。そして、これらの議論は人間を自然から切り離して考えているところからスタートしていると思う。

そもそも人間は自然の一部である。

そして、自然を含めた大きな循環の中の一部である。

種から芽が出て、大地に根を張り、栄養を吸収しながら、太陽に向かってみずみずしい葉を輝かせて木は育つ。そして、時とともに葉は枯れ、落ち葉となり大地に肥やしを与える。肥やされた土が新たな種に栄養を与え、新たな木を育てる。すべては調和しており、朽ちていくことも含めた循環の上に成り立っている。

自然は常に移り変わる。気候や時間とともに循環しながら調和を保っている。人間が変わることをやめるということは、自然の摂理にとって、極めて不自然なことなのかもしれない。

この循環のなかで、どのようにして調和し、自立していこうかと考えているときにある1冊の本と出会った。誰かに無理やりにでも読ませたい本を循環させる、わたり文庫を通して。(わたり文庫についてはこちらから:https://mobile.twitter.com/KeigoSakatsume/status/679126383281369088

「田舎のパン屋が見つけた腐る経済」

以下気に入ったところを引用させてもらう。

「菌」の小ささは、たとえていうなら、宇宙における人間のようなものなのかもしれない。人間からすればいるかいないかもわからない、目に見えないちっぽけな存在。でも、この小さな小さな「菌」は、ひとつひとつたしかに生きているし、自然界の中で実に重要な働きをしている。

最近SNSで宇宙の果てなさを伝える写真がバズってたけれど、まさにそれで、私たち人間も宇宙から見たら「菌」のように、いやそれ以上にちっぽけな存在だと思う。けれども、ちっぽけな私たちはその全体の一部として、”生きているだけ”で大きな役割を果たしていると信じたい。

「天然菌」は、作物の生命力の強さを見極めている。リトマス試験紙のように、生命の営みに沿った食べ物を選り分けて、自分の力でたくましく生きているものだけを「発酵」させ、生きる力のないものを「腐敗」させる。ある意味で「腐敗」とは、生命にとって不必要なもの、あるいは不順なものを浄化するプロセスではないかと思うのだ。

本書はマルクス経済に軸足を置いて展開されるが、この文章に関して言えば、資本主義の構造を”菌”の世界にも反映させているように捉えられる。社会という生命体から、必要なものはさらに肥やし、不必要なものは腐らせる。朽ちていくことも含めた大きな循環である自然界の構造と資本主義社会のそれは重なる部分があるのかもしれない。

手っ取り早く何者かになろうとしたってなれっこない。何かに必死で打ち込み、何かを求めようと熱中していると、ひとりひとりが持つ能力や個性が、「内なる力」が、大きく花開くことになるのだ。

「個性」というのは、つくろうとしてつくれるものではない。つくり手が本物を追究する過程で、もともとの人間性の違いが、技術や感性の違い、発想力の違いになって現れて、他とどうしようもなく違う部分が滲み出て、その必然の結果から生み出されくるものだ。

画一化している印象を受ける就活の中で、個性の主張のために自分のそれを認識し、言語化しようともがいている人も多いと思う。僕もその1人である。けれども、この文章から学んだことは、個性は、見つけるというプロセスの中から生まれるものではなく、何かに熱中していく中で滲み出てきてしまうものなんだということ。つまりは好奇心に素直に生きることが、個性の発生を促すのだ。

この文章を書いているうちに、循環と調和に魅力を感じていることに気づいた。

生き方として、全体の循環と調和の中で、好奇心に自然体でありたいと思った。

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hiroki

1993年生まれ。循環する美しさに興味があります。#CercilarEconomy