きざ・キザ・気障

はて、見かけぬ錆猫だ。きみは新顔か?

私は自分の書いた文章を一歩ひいて眺める癖がある。ついさっきもツイッターで「忍耐力に欠ける」よりも「堪え性のない」の方が良かったかな、と言い訳めいた訂正を投稿したばかりである。

自分でもキザだなと感じるときがある。先日、私のブログ記事を「カッコいい」とほめてくださった方がいた。皮肉ではないと思いたい。私は現実の冴えないイワシさんよりも数等カッコよさげに繕って書いている(ように思えてしまう)。

文章に過度な修辞は禁物だが、それでも私の文には余計な修飾が目立つ。きざは「気に障る」という漢字を当てるが、修飾過多に自分でも気に触ることがある。

Mediumを始めたころ、私は「私」という主語に統一すると決めた。目的は「よりソリッドにするため」だった。喋り口調で書くと、どうしても内容がバラけてしまい、焦点の絞りきれない感じがするのだ。が、最近ではずいぶんくだけた文体になった。肩の力が抜けたのかもしれない。幾つか決めた縛(いましめ)は、とうに解いてしまったが、一つだけ、今なお遵守していることがある。それは政治性を詳らかにしないことだ。リベラルな傾向は隠しようがないにせよ、党派性は伏せている。それは自分と違う考えに触れたいがゆえにである。似た考えのアカウントの意見で埋めつくされたツイッターで、それはもはや不可能に近いので。

さて、ここまで書いた文を再読してみると、やはり気障としかいいようがない。スタイリッシュを目指しているのではなく、むしろ内心を忠実に掬いあげて表現しようと努めた結果なのだが。喋るような書き方では思考を十全に反映できないような気がする。私の書く文章はキザだけど、断じてカッコつけではないことをご承知おき願いたい。

私の癖のある文体は、おそらく昭和の小説(戦前と戦後まもなく)と平成に乱読したノンフィクションに影響を受けた故だと自己分析している。(11月15日)

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