目に見えにくい被害

「熊本地震」が始まってから早くも6日が経ちました。

全国各地から運ばれた支援物資が届き始め、避難所には災害派遣の車両が給水を確保し、空っぽになったコンビニの棚にも僅かながら食料品が並び、営業を再開する店舗も少しずつ増え、熊本市街は少しずつ活気をとり戻しつつあります。

私も今日は買い物に出かけ、近所のスーパーでバナナや豆腐や納豆を、小さなパン屋さんでパンを買いました。食べものがあるだけで気持ちにも余裕が出てきます。

だけど、あ、もう大丈夫なわけねと思われるのは心外です。熊本の人は我慢強い。泣き言を口にするのはみっともないとする気風がある。文句ばっかり言うけれど、弱音は滅多に吐きません。

だけど、それでいいのかな?我慢は美徳じゃないんじゃないかなと思うのです。私たちが平然と「熊本は大丈夫だから」と明るくふるまっていることが、却って仇になっているのではないかと。

今回の震災は、「熊本地震」という名称で固定化されつつありますが、そのことに私は違和感を覚えます。何故、「九州大震災」ではないのか。大分を始めとし、地震の被害は各県から報告されているはずだのに、熊本に地域を限定するのは不自然で、地震の名称一つをとっても、ずいぶん冷淡な決定だと感じます。

これは私たち熊本県民が、耐えしのび過ぎるのも一因なのではないか、被災者として、もっと積極的に窮状を訴えるべきではないかとも思うのです。でないと政府は、「大したことはないな、東日本に比べると死者数も少ないし、激甚災害を認定する必要もなかろう」と判断してしまいそうな気がします。

いや、それでは困るんだ。

私たちは、目に見えない被害に苛まれています。夜が怖くて眠れぬ人がどれだけ多くいることか。地震の数を時間で割れば、15分に1回の間隔で体感の揺れが発生している計算になる。ついさっきも震度5弱の地震がありました。その度に私たちは、またあの激震と、暗闇の恐怖がよみがえるのです。

崖崩れや倒壊家屋、火災や津波といった、目に見える(絵になりやすい)被害とは違って、そういった心的な外傷は、気づかれにくいものです。証明できる手立てがありませんから、弱音を吐いているだけだと判断されて終わりです。でも、それでいいのだろうか?

イヤ言を押しつけられると、人はうんざりするものです。被害者面という蔑みの言葉が示すように、日本社会において被害を訴えるのは見苦しいこととされてます。だけど沈黙していては、いつまで経っても相手に伝わらない。疎まれてもかまわないから、苦しい、辛いと訴え続けるべきではないか。

先ほど7時のNHKニュースを観ていたら「避難者の数は85.000人余にのぼる」と報じられていました。だとすると、自宅で避難生活を送る私たち家族は、避難者に勘定されていないのか、被災者数に含められていないのか、と不安に駆られます。平気だよと明るくふるまっていると、では支援する必要もないねと思われやしないか、そう案じてしまうのです。

私の住む地区では、水道が復旧しつつあります。喜ばしいことだけれども、わが家は依然、断水しています。生活用の水がないことの不便さといったら。炊事、洗濯、トイレの排水、そして入浴と、水の流れない生活は、本当に辛い。市長は懸命に采配を振るい、水道局と現業は連日連夜で復旧に努めている。その労に頭の下がる思いがします。復旧のためにみんなが励ましあい、協力し合う被災地の現状。でもそれは、明るく振るまわないと、「やっちゃおれん」からです。

飼い猫がカリカリを食べてます。食欲は戻ってきたけれど、口の端を怪我していました。かれのためにも、早く部屋を元どおりに片付けなきゃなと思います。けれどもそう決心すると、嘲笑うかのように強い揺れに見舞われ、その度に私は、復旧する気持ちが萎えてしまうのです。(4月19日)

One clap, two clap, three clap, forty?

By clapping more or less, you can signal to us which stories really stand out.