野良

昨年、五輪エンブレム問題が世を賑わせていたころ、或るデザイナーの書いた記事に、こんな箇所を見つけた。

世界に登録済みの商標はヘタをすると億単位です。(略)未登録の野良ロゴは、この数十倍存在すると考えられます。

この「野良ロゴ」という言葉、野良ゴロっぽい響きが印象に残ったが、おそらくデザインの業界で通用する符丁なのだろうなと理解した。それにしても嫌らしい含みがある語感だとは思ったけれど。

さて、新しい五輪のエンブレムが決定し、デザイン騒動の記憶が風化しつつある昨今、こんどは新しい野良に出くわすこととなった。

野良ボラ。

詳しい説明は省く。要するに、被災地に迷惑をかけるボランティアのことである。社協等の公的機関と連携をとらないで、手前勝手に活動する個人なり団体を指す。

被災地に混乱を招くようなボランティアはむろん迷惑な存在だが、この「野良ボラ」という言葉が多く使われだしてから、何だろう善意に基づいて自発的に行動することまでを揶揄する傾向に、ちょっと疑問を感じてしまう。

「自己満足なんだよね、誰かのためにというより、助けたい自分の気持ちを優先して。野良ボラの連中は大概そうだよ。

だから被災地に迷惑をかけても平気。自分らの食事はないですかってシレッと聞いてくる。ボラとして現場に入るんなら自給自足が原則でしょ。なに甘ったれてるんだって話。」

「」内に示したような言説がSNSを飛び交っている風景に、私は憂うつな気持ちに陥ってしまう。そしてこうも思う。

「要するにキミたちは、誰かを叩きたいだけだろう?止むに止まれぬ気持ちで被災地に駆けつけるような、向こう見ずな行動自体が気に食わないだけだろう?」

ボランティア活動に通暁している方は、決して野良ボラを苛烈に批判はしない。初めは誰だって初心者で、右も左も分からないまま志だけを携えて被災地に飛びこむものだから。現場にマニュアルはない。被災地それぞれに地域ルールが発生することも知っている。それらの事情はやはり、経験によって培われるものなのだ。

だからこそ、地域の自治体や社会福祉協議会との連携を密にすべきであり、人員が替わっても引き継ぎが為されるよう腐心すべきなのである。ところが「野良ボラの連中ときたら」という者の大半は、被災地の現状を知らないまま、気に食わない気分だけで野良ボラを叩いている。避難生活を送る人たちは、仮に野良ボラが不埒な振る舞いをすれば怒るだろうが、懸命に自分たちを助けようとする人に対して、感謝こそすれ迷惑だとは思わない。自分たちの目に入らないところでメシを食え、自分たちの食べる分は自分らで賄えなどとは口が裂けても言えない。言えるものか、そんな情けないこと。

もちろん、怪しげな団体や胡散臭い勧誘などは糾弾されて然るべきであろう。ただ、ボランティアに不慣れな者を十把一からげに「野良」だと蔑称することには、どうしても納得いかない。被災地には秩序も(ある種の)統制も必要であろう。しかし、制度づくりに雁字搦めになってしまうと、それこそ柔軟な対応が疎かになるのではないか。被災地に必要なのは排除の論理ではなく、むしろ包含や許容の姿勢であろう。「被災者は心の余裕がないものである」を前提にしてしまっては、この国にせっかく芽ぶいたボランティア精神が開花しないまま潰えてしまうおそれがある。

今の私はボランティアに駆けつけたくても自分の事で手一杯だから現場に駆けつけられない。それがディレンマでもあり、また後ろめたさでもある。けれども自分が身軽でない限り、激甚被災地に赴く資格はないと心得る。だから、自分に出来ることは何かないだろうかと取るものも取りあえず現場に向かうボラの人たちに、私は素直に拍手を送りたい。例えかれ彼女らの行動に至った理由が自己実現であったにせよ、利己だけではなく利他の発露であることは間違いないのだから。被災地の一市民としては、野良どもを暖かく迎え入れてあげたいと思うのである。

おそらく私は「野良」に含まれたランク分けの意識に反発しているのだろう。野良とラベリングすることにより、何となく自分が優位に立っていると錯覚する者たちに憤りを覚えるのだ。

なぜなら私は野良だから。基礎的な教養もなく、体系的な技能もなく、経験則でしか物申せない、何処の馬の骨だか分からないひとりである。

けれども野良には野良の意地がある。飼われているヤツには絶対に負けないぞという。何処にも帰属しない、私はノラ、違った野良。(5月6日)