Heritage 受け継がれるもの

いつか南の島でマンタをみたいと言っていた父は、その雄姿をみることなくこの世を静かに去りました。でも、ぼくはいつか、マンタに出会うと思います。

東北チャリティー着うた「鱗」弾き語りバージョン。ぼくの中でずっと流れ続けています。

生きていれば今年67歳を迎えるはずの父の影響で、ぼくは20歳のときにギターを始めました。

17歳で阪神大震災を経験したことで、いままでぼんやりと進学校に行き、偏差値の高い関西の大学に行くことが当たり前と思っていた概念がそこで一度ぜんぶ崩れたぼくは、琉球大学に行ったものの、そこでもやはりこのままでよいのか、という焦りにも似た気持ちがありました。

そこで、大学を3年生になるまえに休学し、とにかくもう一度、いろんな新しいことを吸収しにいこうと決意したあたりに、ギターもはじめたことになります。たしか岡山の東洋医学の先生のところに1か月住み込みでお世話になっていたころです。

(ぼくは本で読んで興味をもった技術をもった人のところに直接コンタクトして、実際に訪問させてもらうということをこの頃からごく自然に行っていました。)

沖縄で安いエレアコを買ってちょっと練習していたものの、岡山にもってきてなかったので、ぼくは父に電話して、神戸からギターを送ってくれないか、と頼みました。父は何本もギターを持っていたのをぼくは知っていたから。

父は「ええで」と言って、すぐに送ってくれました。神戸から岡山なので、翌日には届きました。


届いたギターは、とても古いがしっかりとした黒いケースに入ったものでした。開けてみると、古臭いにおいと、木の少し甘い匂いがしました。

ケースのポケットには、父が買ったときの領収書がはいっており、1975年 75000円と書かれていました。

ぼくよりも3年早く生まれたこのギターは、S.YAIRIという日本の手作りブランドのもので、まだギターを始めたばかりのぼくには、それがどういう価値をもつものなのかは、まったくわかりませんでした。

とにかくギターが届いたので、ひまさえあれば、ぼくは練習しました。

山崎まさよしが好きだったので、いろんなストロークやカッティングを練習したのですが、へたなときは色んな変なところに力が入ってしまい、カッティングガードのない木のボディをがんがん削ってしまうことになりました。

また、当時ですでに25年目を迎えていたギターは、ネックが沿っており、初心者にはとても弾きづらかったので、父に文句を言ったのを覚えています。自分の技術のなさは、棚にあげてしまうのは若さの特権ですね。


40歳まであと数年となったいまになって、ぼくはこのギターの持ち味がようやく活かせるようになってきた、とおもっています。

父がこのギターをかきならして、染み込ませてきた音というものがあり、そこにぼくが荒々しいところからだんだんとまた新しい音を染み込ませる、まるで100年もののウイスキーをつくるような長い年月をかけ、ギターは成熟してきた気がします。

もしかしたら、それはぼくの単なる勘違いで、ぼくのギターがすこしはうまくなっただけかもしれません。

それでも、すてきな勘違いではありますよね。

声楽家の息子に生まれたわりには、ちっとも唄うことにおいて人を幸せにできるタイプのぼくですが、ギターでなら、なんとか外国の友達と仲良くなるくらいには使えるかもな、と思っています。

いまは、ミャンマーにもっていって、どこかで演奏できたらなという夢が今回ヤンゴンを訪れたおかげで、ふとでてきました。もしくは、お友達になったヤンゴンの歌手、Mayさんとセッションなんて面白いかもな、と思っています。

プロの歌手とセッションできるほどのギターの腕前を持っているか、という点については全く考えないのが、ぼくの良いところです。この楽観主義は、まぎれもなく母から譲り受けたものだと確信をもっています。

舞台に出たときの勝負強さ、人前で話すことが苦にならないどころか楽しめる性格は、ぼくが小さいころからコンサートに出たり、ピアノ教師として人前で話すことの多かった母を見て育ったおかげです。

おかげでコンサルタントになってセミナーを開いたりしても、準備が少々足りなくてもぜんぜん気おくれしないし、話し始めればなんとでもなるや、といつも動じない心を持つことができ、母には感謝しています。

Mayさんにはもう言いましたが、いつか母を連れて、ヤンゴンでMayさんとセッションができたら楽しいなと思っています。

ちなみにプロの歌手のはずのMayさんの返事は、いいね面白そうね、というものでした。このあたりの気質、ヤンゴンは沖縄にそっくりです。


自分が何か特殊な技能や才能がなくても、だれかとだれかをつなぐ橋の役目をすることも悪くないな、と最近つよく思うようになってきました。

熊本地震を体験してから、その思いはますます強まってきています。いつ死ぬかわからないし、あのひとだって今後はもう会えないかもしれない。

それなら、いまやりたいと思っていることを全部トライしてみたって、わるくないと思いませんか。

そんなことを考えていたら、Youkuの中に6年まえの懐かしい動画が残っていました。上海のライブハウスで、当時の中国人同僚といっしょに出演したときの演奏でした。

相変わらず練習もきっちり行わずに舞台に出て、それを気にしないのは今も変わっていませんし、プロ意識という意味ではまったく欠けているのは母親に5歳のころから指摘されてきた通りで反論の余地がありません。

それでも、ふつうに仕事をして、結婚して、子供ができてという流れのなかでは生まれてこないようなことができたりするのは、やはり親の影響に感謝しないとな、と思っています。

KingKang花Hana岸部真明Kishibe MasaakiFanfare上海09.08.01_标清
Guitar: S.YAIRI (made in Japan, 1975 delivered from Course-K’s father ) with Fishman pickup

動画の中でやたらパパー!パパー!と聴こえ、隣の同僚も声のほうを見上げたりしていますが、この声の主は、おそらく当時4歳の、長女のものだと思います。

今では中学1年生になってExile TribeだのGENERATIONS以外は聴かないなんていう娘が、客席の上から熱心にパパー!と呼びかけてくれているこの動画を、ぼくはきっと彼女の嫁入り前にまた見たりするんだろうな。